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『コンタクトホーフ KONTAKTHOF』(ピナ・バウシュ振付、ヴッパタール舞踊団) [ダンス]

 2014年3月23日(日)は、夫婦で彩の国さいたま芸術劇場に行って、ピナ・バウシュの代表作の一つ『コンタクトホーフ』を鑑賞しました。

 ヴッパタール舞踊団のメンバー23名(男性11名、女性12名)によって踊られる大作です。上演時間は、第一部が100分、第二部が50分。

 古ぼけたダンスホールか、公民館を連想させる場所で、色とりどりのドレスを着用したダンサーたちが様々な関係性を踊ります。人と人の間でもつれる感情のほとんどすべてを凝縮したような舞台。その関係性は移ろいやすく、例えば男女の愛撫がそのままスムーズに性暴力に移行したり。(だいたい男女の接触時間が長く続くと必然的に性暴力が始まるようです)

 フィジカルには同じ動作なのに、状況によってがらりと意味づけを変えてみせたり。無意味な動作が繰り返されるうちに、周囲の状況がそれに“追いついて”それが突然意味を持った動作になったり。かと思うと、その意味のある動作が、何度も機械的に繰り返されるうちに意味を失ったり。その綿密な振付から、驚きと衝撃が途絶えることがありません。

 求愛、友情、喧嘩、意地の張り合い、嫌がらせ、しごき、自虐、悲嘆、情愛、語り、暴力。しばしば様々なことが同時多発的に起きるため、すべてを把握することは困難。

 それぞれのダンサーが、それぞれに自分のダンスを踊っています。まるで、舞台が、コンタクトホーフが、私たちが生きているこの世界の縮図のように感じられるのです。

 ドキュメンタリー映画にもなった有名な作品なので、部分的には何度も観たことがあるのですが、全体を観るのは始めて。お馴染みのシーンになると既視感を覚えますが、しかし、前後のシーケンスの中に置かれるとこれがまた、断片的に観たときと印象がまるで異なっているのが興味深い。

 見終わった後に、人間や人生に対する温かい受容の気持ちがわき上がってくる作品です。ジューシィ! ジューシィ!


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『ARCHITANZ 2014 3月公演』(ナチョ・ドゥアト振付作品、他) [ダンス]

 2014年3月21日は、夫婦で新国立劇場に行って、スタジオ・アーキタンツ企画による四本立てダンス公演を鑑賞しました。


『Boy Story』

 香港バレエ団の男性ダンサーたち六名が踊る、上演時間30分ほどの作品。

 舞台上に据えられたレッスンバーや二畳ほどの「住居」を中心に、若い頃から現在に至るまでの思い出を、香港の時代の流れと重ね合わせるように表現してゆきます。基本的に若さだだ漏れ青春まみれ。どこか滑稽で物悲しい動きが多く、また京劇衣装からビジネススーツまで、多彩な衣装も見どころ。けっこう気に入りました。

振付: ユーリ・ン
出演: 香港バレエ団


『The Second Symphony』

 シューマンの交響曲第2番(緩徐楽章、たしか第3楽章)のゆったりした曲調をバックに、男女ペア二組が踊る、上演時間20分ほどの作品。日本初演。

 音楽の流れをそのまま振付にしたようで、たいへん美しい作品。多用される様々なリフトが印象的です。リフトされている二人が空中で手をつなぎそのまま両組が旋回するなど意外に無茶をやったりして楽しい。ただ、個人的には、まるで古典バレエを観ているようで今ひとつわくわく感に乏しく感じられ、そこが残念でした。

振付: ウヴェ・ショルツ
出演: 酒井はな、西田佑子、アレクサンダー・ザイツェフ、ヤロスラフ・サレンコ


『CASTRATI』

 香港バレエ団の男性ダンサーたち九名が踊る、上演時間30分ほどの作品。日本初演。

 個人的にナチョ・ドゥアト作品はどれも大好きで、今回は日本初演だという本作がお目当てだったのですが、これが、期待を裏切らない素晴らしい作品でした。激しいリズムにのって繰り広げられる群舞はものすごくかっこいいし、苦痛と苦悩を表現するソロはドラマチック。両者が合流する悲劇的ラストに向けて緊迫感が加速してゆくダンスの凄みには圧倒されます。

 ダンスそのものがあますところなくドラマになっているナチョ作品は観ていてものすごく気持ちよく、いつもすげーすげーと感激してばかり。

振付: ナチョ・ドゥアト
出演: 香港バレエ団


『Mopey』

 上演時間わずか5分ほどのソロ。滑稽で力強い印象的な動きにすべてを賭けたような、高密度で切れ味するどい作品です。特に両手を含めた上半身の動きが強烈で、突風を吹きつけてくるような激しさで、しかしクールに踊ってみせた酒井はなさんが喝采を浴びていました。

振付: マルコ・ゲッケ
出演: 酒井はな


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『ポトスライムの舟』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「もしわたしが工場の年収を全部それに突っ込んだとしたら、その一年間はクルージング用の一年間であって、わたしの一年間ではないと言える、ってこと?」(文庫版p.26)

 薄給で働く工場労働者ナガセは、人生を取り戻すために「自分のこの一年間の労賃をすべて世界一周の旅にあてる」と決めて、無理やりの倹約生活に突入するが……。働く女性の誇り高き生き様をえがいた表題作ほか一篇を収録した作品集。単行本(講談社)出版は2009年2月、文庫版出版は2011年4月です。

 「忙しくしないと生きていけないのだ、とすぐに心のどこかが答える。(中略)生活を維持するために。 維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して」(文庫版p.81)

 以前の職場で凄絶なパワハラを受け精神的に深く傷ついているナガセ。今は工場勤務のかたわら喫茶店や商工会館でアルバイトをして暮らしています。働く以外に何もする余裕もない、苦しい生活。いわゆるワーキングプアです。

 「『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、体が動かなくなった。働く自分自身にではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに、それを続けなければいけないということに」(文庫版p.14)

 そんなナガセが人生を取り戻すために決めたこと。それは、今後一年間、工場労賃をすべて貯金して、それで世界一周クルージングの旅に出る、という「設定」だった。自分はただ生きるためだけに働いているのではなく、世界一周のために働いているのだと。自分の仕事は、世界一周の旅と等価なのだと。

 「結婚より、わたしは家を改修したい。それか、世界一周の船に乗って、パプアニューギニアでアウトリガーカヌーに乗りたい」(文庫版p.83)

 アルバイトの収入だけで一年を乗り切るという悲惨なまでに厳しい倹約生活。実際にはおそらくかなわない夢。だが、目標を得たことで、ナガセの心は次第に解放されてゆく。

 「玄関にも、ナガセの部屋にも、そして工場のロッカールームにもポトスは置いてある。どれもこれもが、安いコップに差して水を替えているだけだが、まったく萎れる様子がない。改めて、ポトスはすごい、と思う。好きではないが、すごい、と」(文庫版p.64)

 お金が尽きたらポトスを食べたら生きていけるのではないか、などと考えるナガセ。養分なしで繁茂するポトス、そして「波に逆らうんではなく、波に乗る力に長けてて、ひっくり返りにくい」(文庫版p.12)アウトリガーカヌー。それらのイメージがナガセの困窮生活を支え、彼女の心をゆっくりと癒してゆく。

 「休んでいることが体に馴染んでいて、これから大丈夫なのだろうかと不安だったが、辛いと感じればうまく手を抜けばいいと気軽に思った。今までそんなふうに考えたことは一度もなかった」(文庫版p.102)

 パワハラで精神を病み、苦しみを避けるために無理やり仕事をいくつも掛け持ちしてわざと忙殺されていたナガセ。彼女が「自分の仕事は世界一周の旅と等価なのだ」という「設定」によって、次第に回復してゆく様子が書かれた小説です。

 津村さんが書く主人公の多くがそうですが、ナガセも誇り高い人です。どんなに理不尽でひどい状況に追いやられても、決して卑屈にならない、恥ずべきこと卑怯なことをしない。自分も苦しい生活をしているのに、離婚調停中の友人を居候させ、返してもらえないだろうと予感しながらもお金を貸す。どんなに苦しくても、それを言い訳にズルはしない、くさらないのです。

 そして、その友人も、子どもを抱えながら頑張って働き、やがて借りたお金をナガセに返します。彼女もまた矜持を持った人として書かれます。

 ワーキングプアの生活を書いた悲惨で辛い話ではあるのですが、暗くならない、むしろ困難に立ち向かう冒険譚のようにさえ読めるところは、こうした人物造形によるものが大きいと感じます。最後に、頑張ったナガセにささやかな「恵み」が訪れる場面では、けっこう涙腺にきました。

 薄給で長時間労働に耐え、生活に必要なお金を稼ぐために生活の大半を犠牲にしていることの虚しさに打ちのめされ震えているすべての人に、ポトスの生命力とアウトリガーカヌーのしぶとさを。仕事小説の傑作です。

 併録されている『十二月の窓辺』は、職場のパワハラ、いじめを正面から扱った作品。これが、何というか、凄絶な話で。

 職場で怒鳴られ、罵倒され、ねちねち嫌味を言われ、仕事できないのなら退職しろと罵られ、退職して仲間に迷惑をかけるのは人非人だと脅迫され、どうせ世界中どこでも同じあんたの居場所なんてない無能なんだから迷惑なんだから生きてる意味ないんだからと否定され、それなのに仕事はどんどん回され、身に覚えのないことで誹謗中傷され、罰せられ、他人のミスの尻拭いを押しつけられ、尊厳を叩き潰される毎日を送っているツガワ。何を言われてもひたすら「すいません」を繰り返すしかないツガワ。

 「朝礼であの人に吊るし上げを食らう。人格を否定される。こんな間違いをする人間は次も失敗する。そんなのと一緒に仕事などできない。これから気をつけますといったところで限度は知れている。口先だけの謝罪など聞きたくない」(文庫版p.120)

 同僚たちは見て見ぬふり。自分に災いが降りかからぬよう息をひそめて。そのくせぼろくそに陰口をたたいて、あざけ笑って。そして口先だけで慰める。

 「ツガワのことを思ってああ言ってるんだよ。ある意味目をかけられてて幸せだよ。がんばってね」(文庫版p.126)

 「あらかじめ、ツガワが所感を述べることを封じる方向へ話題を持っていかれるようにプログラムされているかのような状況は、ツガワの意欲を痩せ衰えさせるには充分だった。同僚達はそれを、あの親愛を込めた手つきや、元気出して、という言葉つきで行うのだった」(文庫版p.152)

 次第に精神が衰弱して正常な判断が出来なくなり、自分は本当に他人に迷惑をかけるだけの能無しではないかと感じるようになってゆくツガワ。枯渇して、麻痺して、病んでゆく。

 「通り魔がわたしを殴ってくれたら、会社に来なくていいのかななんてこと考える」(文庫版p.137)

 「「いっそのこと殺したいです」ツガワは、組んだ腕のあいだに頭を突っ込んで、震える声でそう言った。「でもこんなことで刑務所には入りたくない」」(文庫版p.152)

 正直いって、読むのが辛い小説です。特に、職場でパワハラやイジメにあったことのある方は読んでいて自身の体験がフラッシュバックして「うわあーっ」と頭を抱えることになるかも。特にそれで鬱病を患ったことがある(または今も全快していない)方は、避けた方がいいかも知れません。

 しかし、暗く絶望的なままで終わる作品ではありません。職場の「窓辺」から見たある光景が、ツガワを救います。

 「ここではないどこかは、当然こことは違い、そこには千差万別の痛みや、そのほかのことがあるとツガワは知ったのだった。Vが自分に信じ込ませようとしたほど、世界は狭く画一的なわけではないと思ったのだった。自分がここから離れて、その感触に手を差し伸べに行くのは自由だと思ったのだった」(文庫版p.181)

 どこにいっても同じ、どこにもあんたの居場所なんてない、という呪いの言葉から解き放され、世界に触れる自由を手にしたツガワ。『ポトスライムの舟』において、「世界一周の旅」がどれほど切実な希望だったのかが解る瞬間です。

 「いつの間にか息を切らしながら全力で駆け出していた。そんなことでのしかかる後悔が振り払えるとは思わなかったが、次は自分以外の誰かのこともわかることができるようにとツガワは強く願った」(文庫版p.187)

 あの極限状況のなかで、自分のことで精一杯で他人を思いやることが出来なかった、ということを後悔するツガワ。彼女もまた誇り高き人です。『ポトスライムの舟』で、困窮生活のなかでも懸命に友人を助けようと頑張る姿が思い浮かんで、胸に、じん、と来ます。


タグ:津村記久子
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『右翼と左翼はどうちがう?』(雨宮処凛) [読書(教養)]

 「世界はやっぱり矛盾にあふれている。 それを身をもって知った時、それについての怒りが湧いてきた時、あきらめないで、声をあげてほしいと思う。たぶん、その瞬間、あなたはこの世界のまぎれもない当事者だ。(中略)そして覚えておいてほしいのは、世界は、絶対に変えられないものではなく、きっと少しは変えられるものだということだ」(文庫版p.201、226)

 「ミニスカ右翼」としての街宣活動から、「ゴスロリ作家」としての貧困問題への取り組みまで、右も左も中の人、雨宮処凛さんが若者のために右翼と左翼の活動家について語った「14歳の世渡り術」シリーズの一冊。単行本(河出書房新社)出版は2007年5月、文庫版出版は2014年3月です。

 政治思想としての右翼と左翼について、フランス革命からロシア革命、冷戦、といった世界史上の位置づけ、日本における戦前戦後の位置づけ、など広い視点から書かれた一般向け解説書としては、例えば『右翼と左翼』(浅羽通明)といった好著があります。本書が気に入った方には、併読をお勧めします。

 本書が一味違うのは、政治思想の解説よりも、実際に闘争の現場にいる右や左の活動家にスポットライトを当てているところ。実際の活動家たちへのインタビューを通して、なぜ闘うのか、何を目指しているのか、今の日本をどう見ているのか、などを明らかにしてゆきます。

 もう一つの特徴は、著者自身の体験について詳しく語ってくれるところ。右も左もよく知っている、実際に活動に参加してきた、当事者ならではの迫力が、「世の中の矛盾を正すために闘う」といった言葉に対してともすれば斜に構えがちな若い読者の心をも強くとらえるに違いありません。

 全体は六つの章に分かれています。

 「第1章 右翼と左翼と私」では、著者の体験が簡単にまとめられます。

 「右翼時代に自分が望んでいたことが、実現しつつあった。居心地が悪かった。なぜなら、絶対にそんなことが起こるはずがないという前提で言っていたことだからだ。今の世の中を認めていないぞ、というアンチテーゼとして言っていたことが実現しつつあるのだ。それが私には気持ち悪かった」(文庫版p.21)

 社会が右傾化するに従って、だんだんと息苦しくなってゆく元右翼活動家。世の中がそれで良くなっているという実感がない。むしろ労働問題、格差問題など、若者をとりまく状況はひどくなってゆく一方。こんな、若者を使い捨てにするシステムが許せない。支援団体に参加する。デモで声をあげる。一般的にいうと、これは左翼活動ということになります。

 「どちらも見てきた中、お互いの言い分は、どっちもよくわかる。そしてどっちも真剣に日本のこと、世界のことを考えていることも知っている」(文庫版p.24)

 「第2章 右翼って何?」では日本における右翼の歴史を簡単におさらいします。といっても、どうしても著者自身の体験談が面白くてそちらばかりが印象に残ってしまうのですが。

 「私自身、あの時期、右翼団体に入っていなかったら、そして愛国的な思想がなければ、ただの漂うフリーターとして死んだように生き、自殺でもしていたのではないかと思う」(文庫版p.55)

 「街宣だけではあきたらず、私は愛国パンクバンド「維新赤誠塾」を結成した。バンドという形でライブをすれば若者たちが聞いてくれるのではないかと思ったのだ。(中略)途中でギターが抜け、代わりに入ったのは左翼だった」(文庫版p.38)

 「どうして右翼と左翼が一緒に愛国バンドを? と思うだろう。が、私たちのバンドのお客さんには右翼も左翼もいて、そんな人たちの社交の場のようになっていたのだ。左翼のメンバーの存在は私にいろいろなことを教えてくれた」(文庫版p.38)

 「私たちのライブはイラクのテレビで全国放送された。数日後には大統領宮殿に招待され、サダム・フセインの息子、ウダイ・フセイン氏と会見してきた。 そんなイラクでの経験から、03年には、イラク戦争開戦を阻止するため、空爆などの攻撃をさせないよう、“人間の盾”としてその場に身を置いて抵抗するためにイラク入りした」(文庫版p.40)

 「第3章 左翼って何?」では、日本における左翼の歴史を簡単におさらいします。といっても、前章と同じく、やはり著者自身の体験談が面白い。

 「こんなに世界は腐敗しているのに、私ひとりの力では何もできないのだ。(中略)私も社会の矛盾について怒りたかった。火炎瓶を投げたかった。(中略)一番悲しかったのは、そんなふうにこの社会に怒っているのは現代では私くらいで、どうやら仲間などいないらしい、ということだった」(文庫版p.60)

 「私は24歳の時、はじめての海外旅行で北朝鮮に行った。 北朝鮮で会った元赤軍学生たち(「よど号グループ」と呼ばれている)は、50代、60代で、私の父親と同世代だった。私と彼らの子どもたちは仲良くなり、以来、私は北朝鮮に通うようになる」(文庫版p.64)

 「フリーターや、正社員ではない若者たちの間でも次々と労働組合が結成されている。不安定な者同士、連帯しないと生きていけないからだ。本気で「生きていけない」「食べていけない」「マトモな職場がない」という現場の声から運動が盛り上がるということは、社会運動の原点であり、今、日本でそれが起っている」(文庫版p.88)

 「振り返って思うのは、自分の視点はほとんど変わっていないということだ。結局、モノとお金だけの価値観、人の命や生活よりも利益が優先される社会が嫌だ、ということなのだ。(中略)これは、左右の問題を超えている。「生存権」という最低限のものを賭けた闘いだからだ」(文庫版p.91)

 「第4章 両方の活動家に話を聞こう」は、本書の白眉というべきパートで、右翼左翼あわせて六名のガチ活動家へのインタビューが載っています。何しろ聞き手が雨宮処凛さんなので、皆さん、それはそれはもう、率直にあれこれ語っています。

 右翼の活動家、左翼の活動家、というと何だか恐いイメージがあるでしょうか。実際に話を聞いてみると、弱者に対する思いやり、強い正義感、熱い魂をたぎらせた情熱家ばかりで、14歳の皆さんのハートに火をつけてくれそうです。

 この不正がまかり通る世の中を「仕方がない」と消極的に肯定して、その中で自分だけがこすっからく得をしようと卑屈に行動することが「大人の対応」だと思い込まされている若者は、ちょっと火傷してみるのもよいでしょう。

 「第5章 矛盾だらけの世の中で」では、それまでの話を踏まえて、世の中にどう立ち向かえばいいのかを考えます。

 「右翼の人、左翼の人の話に、私は何度もうなずき、共感した。どちらの言い分もよくわかるからだ。(中略)世の中には、考えなくてはいけないことがたくさんある。今の日本では、考えなくても生きていこうと思えば生きていけるけれど、それはただ単に思考停止だ。現実から意図的に目をそらして逃げているだけだ」(文庫版p.194)

 「話を聞かせてくれた人たちは、みんな魅力的だった。信念を持って何かに取り組んでいる人はカッコいい。自分のポリシーがある人は素敵だ。(中略)時々、おとななのに、まったく政治などについて無関心な人がいる。そんな人と会うと、驚くと同時に、不安じゃないのかとつくづく思う。自分が生きているこの社会について知らないことは、私にとってはとてつもなく怖いことだからだ」(文庫版p.194、197)

 「終章 その後の右翼と左翼」は、文庫版で追加されたパート。年越し派遣村、脱原発デモ、ヘイトスピーチなど、単行本出版後の主なトピックを取り上げて、著者が、今、どんな問題意識で活動しているのかを語ります。

 右翼、左翼、政治思想。そんなものは自分には関係ないと思っている若者も、その闘争や活動の原動力となっている問題意識には共感できると思います。

 「学校では「頑張れば報われるのだ。だから歯をくいしばってどんなことでも耐えろ」と言われ続けていじめにも耐え、不毛な受験戦争を戦ってきたのに、自分が社会に出るころには「バブルが崩壊したので今までのことは全部嘘になりました」と梯子を外されるし、進学をあきらめてフリーターになれば、いつの間にかそこからの出口どころか社会への入口もがっちりガードされてる」(文庫版p.220)

 「いつの間にか、私は国内にいながら国際的な最低賃金競争の最底辺にいた。その意識は、確実にあった。それなのに、みんな「甘えている」「怠けている」と罵倒するのだ。どこにも居場所がないし、誰も必要としてくれないし、どこにも帰属する先がない」(文庫版p.221)

 これは他人事だとは思えないでしょう。その閉塞感、苦しみ、やり場のない怒りを、どうすればいいでしょうか。

 何らかの形で「社会を変える」ために行動する人々の歴史や言葉を知ることで、自分なりに考え、そして出来れば何らかの形で実践してほしいと思います。私がそう言ってもまったく説得力がないでしょうから、雨宮処凛さんの言葉を受け止めて下されば幸いに存じます。

 というわけで、政治思想としての右翼左翼そのものというより、自分が抱えている心の苦しみを社会運動という形に昇華させ行動してきた先輩達のことを教えてくれる、若者のための一冊。


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『駒木野青年クラブ直撃インタビュー』(超常同人誌『Spファイル』3号掲載作品)を公開 [その他]

 馬場秀和アーカイブに、超常同人誌『Spファイル』3号掲載作品『駒木野青年クラブ直撃インタビュー』を追加しました。

馬場秀和アーカイブ
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~babahide/bbarchive/

 「Spファイル3号」(2006年8月13日発行)における【特集 日本の四次元地帯 駒木野の真実】のために行われたインタビューを再構成したものです。掲載後、鏑木氏の失踪をはじめとして関係者の方々にご不幸が相次ぎ、正直いって少々薄気味悪かったので、ネット上での公開はこれまで見合わせていました。

 しかし、掲載からすでに8年近くの歳月が流れ、また「Spファイル」も現在では休刊していることから、今回ここに全文を公開することにしました。一部、差し障りのある箇所に修正を入れましたが、おおむね掲載時のままです。


タグ:同人誌
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