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『ホーム』(トニ・モリスン、大社淑子:訳) [読書(小説・詩)]

 「さあ、兄さん、帰りましょう」(単行本P.177)

 深く傷ついた兄と妹、二人が帰ってゆく場所。静かで深い怒りと悲嘆、そして希望と尊厳をえがいたトニ・モリスンの長編小説。単行本(早川書房)出版は、2014年1月です。

 強制的に故郷を追い出された黒人一家が、親戚を頼って住み着いた小さな田舎町、ロータス。だが、そこでの生活は辛いものだった。幼い娘シーは祖母からひどい扱いを受け、自尊心の芽をつまれてしまう。そんなシーをいつもかばっていたのは、兄のフランクだった。

 「彼女は彼の愛情の源、金儲けや情緒的利得などはいっさい考えない、無私の愛情の対象だったからだ。彼女が歩くことができるようになる前から、彼は妹の世話をした」(単行本p.43)

 「彼女には身を守るものが何もなかった。それは、利口でたくましい兄が近くにいて、面倒をみてくれて、守ってくれるという良いことのもう一つの面だ、と彼女は考えた----脳の筋肉の発達が遅くなるのだ」(単行本p.56)

 やがてロータスでの生活に飽き飽きしていたフランクは、友人たちと共に軍に入って町を出て行く。将来への希望を求めて。

 「彼はロータスが大嫌いだった。ロータスの不寛容な住民たち、彼らの孤立、とりわけ将来に対する無関心」(単行本p.19)

 「将来はなく、つぶす時間の長い連なりがあるだけだから。息をすることより他に目標はなく、勝ち取るものもなければ、誰かほかの人の静かな死以外、生き残るためのものも、生き残る価値のあるものもない」(単行本p.97)

「彼は軍隊が唯一の解決法なのだと説明しようとした。ロータスは彼と二人の親友を窒息させ、殺しかけていた。彼らはみんな賛成した。フランクは、シーは大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。 だが、大丈夫ではなかった」(単行本p.43)

 残されたシーは、すぐに悪い男に騙されて町から連れ出された後、あっさり捨てられてしまう。さらには、人種差別主義者の手にかかって非道な人体実験の対象にされ、瀕死の重傷をおうことに。

 一方、フランクたちは朝鮮戦争の最前線に送られ、そこで使い捨てにされる。友人たちは無残な肉塊となり果て、生き延びたのはフランクただ一人。だが、ある悲惨な出来事のせいで、彼の魂は深く深く傷つき、精神を病んでいた。

 劣悪な精神病院で拘束されていたフランクは、妹の窮地を知り、病院を脱走して困難な旅に出る。人が人として扱われない世界で、たったひとり死にかけている妹を救うために。

 それぞれに傷つき死にかけているシーとフランクを、しかし、ごく普通の人々のささやかな善意や思いやりが助けてくれます。人が他人に示す共感、思いやり。それは、これほどのむごい現実にも屈しない力となるのでしょうか。そして二人が帰るべきところ、人として誇りを持って生きられる場所、それはどこにあるのでしょうか。

 無駄のない引き締まった文章、詩的な優れた情景描写とともに、語りの技法にも感心させられる作品です。例えば、ほとんどのページで主人公フランクの言動は三人称で語られるのですが、ところどころにフランクの「モデル」らしき人物が、一人称で、「作者」らしき人にこの「物語」に対するコメントを語るメタパートが挿入され、これが劇的な効果をあげています。

 「あなたはぼくの物語を語ろうと心に決めているのだから、何を考えようが、何を書こうが自由だが、これだけは覚えておいてほしい」(単行本p.7)

 「あなたは愛について、あまりよく知ってはいないと思う。 あるいはぼくについても」(単行本p.83)

 「あなたは書き続けることができるけれど、真実を知らねばならないと、ぼくは思う」(単行本p.161)

 これによって、語りは重層的となり、物語には真実味と切実さが加えられ、さらにはいわゆる「信頼できない語り手」を使ったドラマチックな転換がもたらされ、最後には「物語」と一人称パートが合流して圧倒的な感動を生む。見事な構成だと思います。

 プロットだけ見たらベタな話なので、つい油断してしまいますが、これが読者の心を強くゆさぶる力を持っています。

 人種差別、黒人コミュニティ、傷ついた魂、救済、そしてもちろん愛。トニ・モリスンのこれまでの作品と共通するテーマを持ちながら、余計なものをぎりぎりまでそぎ落とし、比較的短いページ数にすべてをぎゅっと圧縮したような、高純度で切れ味鋭い小説。心も凍るような悲惨な出来事、静かで深い怒りと悲嘆を書きながら、しかし同じくらい強く人の希望と尊厳をかいま見せてくれる小説。お勧めです。 

 「あんたがどんな人間かを決めさせるんじゃないよ。そんなことをするのは奴隷制なんだ。あんたの心のなかのどこかに、わたしがいま話題にしている、自由な人間がいるんだよ。その人間を突き止めて、世の中で何かいいことをさせなさい」(単行本p.149)