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『退屈 息もつかせぬその歴史』(ピーター・トゥーヒー) [読書(教養)]

 「わたしは人生のかなりの時間を、退屈しながら生きてきた。慢性的退屈だ。そして、そうではないかと思いつつも証明できずにいるのだが、退屈はわたしに何の害もなしていない。(中略)この本で描き出せればと望んでいる点のひとつは、退屈というのが、ダーウィン的意味での適応感情だということだ」(単行本p.14)

 退屈、誰もが経験するこの感情はなぜ生じるのか、ただの退屈と「実存の退屈」に違いはあるのか、そして絵画や文学は退屈をどのように表現してきたのか。退屈をめぐる様々な知見を盛り込んだ、退屈しない一冊。単行本(青土社)出版は、2011年9月です。

 「一時的退屈は誰もがしばしば感じるものだ。列に並んでいたり、たとえばわたしの講義を聴いていたりするときに、この種の退屈をわずらうことは当然だし、またこの退屈はじきに終わるものである。だが、慢性的退屈はまったく別のものだ。(中略)人よりたやすく、しかも頻繁に退屈してしまう人々というのがいるのだ」(単行本p.58、62)

 退屈に関する様々な知見をまとめた本です。例えば、慢性的退屈が引き起こす問題について。

 「刑務所生活は、慢性的退屈が強制されることへの危険を示している。退屈が癒されなければ、人は怒りや暴力へ、または麻薬などの危険な逸脱行為へ、はたまたこの章の主題であった鬱状態へと駆り立てられるのだ」(単行本p.116)

 あるいは、動物は退屈するかという問題。

 「「人間は退屈を感じうる唯一の動物である」と述べていることに対しても、懐疑的にならずにいるのは難しい。退屈を、人間であることを定義する特徴のひとつとして理解する必要はない」(単行本p.97)

 動物の退屈を軽減するのに音楽が役に立つという研究には興味深いものがあります。

 「音楽が、退屈に対する反応をやわらげるのだとすれば、退屈自体をも軽減するのではないかと推測するのは妥当だろう。(中略)イヌはヘビーメタルを好まないらしいが、ウィスコンシン大学マディソン校のチャールズ・スノウドンと、メリーランド大学のジョージ・ティーの共同研究によると、チンパンジーはメタリカを気に入ったという」(単行本p.203)

 哲学的な退屈、いわゆる「実存の退屈」については多くのページ数が割かれています。そもそも「実存の退屈」とは何ぞや。

 「この種の退屈は、先にわたしが説明したとおり、「実存的」ないし「スピリチュアル」なものと呼ばれることもある。その人の存在そのものに影響しているかのように見えるからだ。作家や識者は通常、実存の退屈は単純な退屈よりも重要だと考えており、また、実際にこの退屈に苦しむことも多い」(単行本p.30)

 「フランス人は、実存の退屈という概念を排除し、これをメランコリーと呼ぶ傾向にある。それどころか、メランコリーと見なしうるものを見つけると、ひどく熱狂しさえする。(中略)メランコリー、または実存の退屈は、フランス人にとってのオブセッションだ。(中略)ロシア人もまたこの状態に特徴づけられる人々だ」(単行本p.34、35)

 「実存の退屈は----根本的に、神や宇宙の恩恵への絶望と結びついているのだから----その人間の実存そのものを脅かすものだという考えは、広く受け入れられている」(単行本p.156)

 聖書、絵画、文学、哲学(特にハイデッガーとサルトル)など様々な事例を取り上げて、著者は「実存の退屈」がいかに(西欧文明において)重視されてきたかを語るのですが、個人的には、正直いって、ピンと来ません。

 人生の無意味さとか、神の計画からの疎外とか、そんな当然のことに絶望したり苦悩したりすること自体が煩悩なので、修行でも何でもして捨て去ればいいじゃん。などと思う私は、もしかしたらキリスト教徒でないせいで「実存の退屈」の本質が理解できないのかも知れません。

 もっとも、本書の著者も「実存の退屈」についてはシニカルな態度をとっています。そんなの、ただの鬱であって、高尚なものでも哲学的なものでもないよ、と。

 「学者の生活が非常に退屈なものとなりうることは、わたしも経験から保証できる。(中略)だが学者たちはこれを認めたがらないものだ。自分たちが単純な退屈におちいりやすいことについて、何か仰々しく知的な言葉をそれに与え、立派なことに見せようとしたがる」(単行本p.139)

 「実生活において退屈と自殺とのつながりは、文学テクストのそれほど強くないようなのだ。(中略)実存の退屈----単純な退屈ではなく----をわずらう者は、自殺について多くを語るかもしれない。しかし、実際に何か自殺めいたことをするとすれば、それはたいてい紙の上でのことだ」(単行本p.158)

 「退屈と自殺とのあいだに明確な関連性はない。自殺はとりわけ、頭でっかちな実存の退屈とは必ずしも関係していない。人生に意味はないとする知性的な考えは、それが苦痛に満ちた鬱の産物でないかぎり、死につながるような苦しみをともないはしないのである」(単行本p.161)

 そして話題は、退屈の医学的な研究に移ります。

 「ダニエル・ワイスマンのチームは、被験者の集中が途切れる間隔に注目することにした。集中力が弱まって退屈がまさったとき、脳内で何が起こるのかを、MRIデータから探ろうと思ったのだ。(中略)この実験でとりわけ興味深い点は、頭蓋内での対話が途絶えると、大脳皮質の特定の部分に「灯りがともる」ことだ。ダニエル・ワイスマンの実験は、退屈の(いわば)本部を発見したのかもしれず、退屈の発生を特定してくれるすぐれた手段を提示しているのかもしれない」(単行本p.9、10)

 私たちの脳のなかに「退屈中枢」が存在しており、自分が退屈していることを知らせてくれる。これは奇妙な感じがしますが、退屈という感情が誰にでも、動物にさえ備わっていることを考えれば、そういう器官が存在し、進化してきたと考えるのは理に適っているような気もします。

 「退屈は、心の健康にとって危険であるかもしれない状況、つまり興奮や怒り、鬱を促進するかもしれない状況から人を守ってくれる、初期警告システムとして働いているのかもしれない」(単行本p.121)

 「嫌悪と同じで、これは適応の結果獲得された感情だと思われる。それは種の繁栄を助けてくれるのだ。(中略)つまり、退屈のいとこである嫌悪が、生物学的に言って、実際の物理的毒物から自分を守るよう行動を変えてくれるのと同じことを、退屈は社会的毒物に関して行ってくれるのである」(単行本p.199、200)

 「たぶん退屈は、痛風や狭心症と同じようなものとして見るべきだろう----生活習慣を変えないと、もっとひどいことが起こりますよというサインとして。(中略)したがって退屈の最良の「治療法」は、この感情のアドヴァイスに従い、退屈を引き起こしている状況から立ち去ることである」(単行本p.200)

 というわけで、同じ話が何度も繰り返されたりして、全体的に記述がまどろっこしくて読みにくいのが残念。また、話題が西欧キリスト教文化圏に閉じていて、あまりにも文化的多様性に乏しいことも不満です。

 しかし、「退屈」の歴史から医学、文学や絵画における退屈の表現など、個々の話題はとても面白く、退屈というあまり積極的に注目されることのない感情が私たちの生活や文化に大きな影響を与えている、という指摘には新鮮な驚きがありました。


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