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『量子的世界像101の新知識 現代物理学の本質がわかる』(ケネス・フォード:著、青木薫:監訳、塩原通緒:翻訳) [読書(サイエンス)]

 「本書は、量子の世界に初めて触れるという人から、物理学の専門家にまで、自信を持ってお勧めできるという、まずめったにない本なのである。(中略)101の項目が並ぶ構成でありながら、本書はバラバラな個々の項目の寄せ集めにはなっていない(中略)いったん通読すれば、量子世界の全体像がつかめる仕組みになっているのだ」(監訳者である青木薫さんの解説より。新書版p.403、406)

 101個のQAにより、量子物理学を理解するための「世界観」を分かりやすく伝えてくれる量子世界地図のようなガイドブック。新書版(講談社)出版は、2014年3月です。

 「世界観が量子の世界----非常に小さいものと非常に速いものの世界----でもそのまま有効だった、ということになればよかったのだが、そうではなかった。だからわたしたちは、奇妙でもあり、すばらしくもある新しい視点に直面する」(新書版p.3)

 素粒子理論、量子物理学の本質を教えてくれる入門書です。専門用語と数式の束で圧倒してくる教科書でもなく、二重スリットや猫虐待の例え話で何となく誤魔化してしまう通俗書でもなく、本質をきちんと伝えて理解させるという困難な道を選び、それに成功した希有な一冊。

 全体は15の章に分かれています。大雑把にいうと、前半の8つの章では原子から始まって、次第にスケールを小さくしてゆき、原子核、そして素粒子へと至る、量子世界の全体像を紹介します。

 さらに中間にある4つの章で相互作用、保存則、波と粒子など、量子物理学の基本法則を紹介。

 後半の3つの章では、レーザーやダイオードなどの応用、超流動や超伝導などマクロスケールで現れる量子効果、さらにエンタングルメント、観測問題、量子ドット、ヒッグス場、といった話題を扱います。

 各章は、「陽子と中性子の内部はどうなっているのですか」「物理量が量子化されるとはどういうことですか」「核分裂するとなぜエネルギーが放出されるのですか」「ヒッグス粒子はなぜ重要なのですか」といった101個の質問と回答、という形式で書かれています。

 質問を読んだだけで思わず「はっ」とするような、それ自体に驚きがある鋭い問いかけも散見されます。例えば、「励起した原子は同じ原子が別の状態にあるだけですか、それとも別の原子になったのですか」「法則を破らなければ、どんなことでも起こりうるのですか」「量子世界を理解するのに波は絶対に必要ですか」など。

 「周期表にはなぜ終わりがあるのですか」「なぜ中性子は原子核のなかだと安定しているのに、単独だと不安定なのですか」「電子はどれも同じだとどうしてわかるのですか」といった質問も見事。

 数式や例え話は最小限にとどめ、より本質的な、いわば「量子世界観」というべきものをすっきりと解説してくれます。例えば、古典物理と量子物理の違いは、次のようにシンプルにまとめられています。

 「一般に物理学の古典的法則は、「強制法則」と呼ぶことができる。初期条件が決まれば、起こるべきことも決まってしまうのだ。(中略)それに対して、量子法則は一般に、何が「起こらなくてはならない」かではなく、何が「起こりえない」かを教えている。その意味で、これらの法則は「禁止法則」であると言える」(新書版p.260、261)

 「古典的な法則のもとでは、ある一連の初期条件から、たったひとつの結果が実現される。量子力学的な法則のもとでは、ある一連の初期条件から、可能となる結果がいくつか出てきてもかまわない」(新書版p.263)

 「保存則に矛盾しない可能な結果はすべて実際に起こるのだろうか? 物理学者はその答を「イエス」と考えている」(新書版p.262)

 禁止されてない結果はすべて「実際に」起こる。ならば、ある相互作用が生じたときには、起こりうる(禁止されない)すべての結果が実際に起きることになり、すなわち複数の結果がある確率分布のもとで“重ね合わされた”状態になる、というかそれしかない、というのが、実にすんなりと納得できるわけです。そうなれば、そもそもすべての粒子は重ね合わせの状態にある、というのも自然と頷けます。

 あとは、その禁止法則(保存則)を知ればいいわけですが、実はそれほど難しくはなさそう。何しろ、半分くらいは既にお馴染みの古典法則なのですから。

 「古典的な世界での「四大」保存量----エネルギー、運動量、角運動量、電荷----は、空間と時間の最も微小な領域でも、その他どんなスケールでも、絶対的に成り立っているとわたしたちは確信しているのである」(新書版P.240)

 「原子以下の世界でしか確認されていないが、やはり絶対的と見られている別の保存則が3つと、対称性の原理が1つある」(新書版P.242)

 エネルギー、運動量、角運動量、電荷の保存則については高校の物理で習うわけですから、後は量子世界特有の保存則(レプトンフレーバー、クォーク数、カラー、TCP対称性)を理解すれば、禁止法則だけから成り立っているという量子物理の全体像をおおむね把握したことになる、と思いたい。

 ここまで理解すれば、どの保存則がどう適用されるか(されないか)という視点で考えるだけで、ほとんどすべてが「分かる」ようになります。少なくともそんな気になります。こうして、数式も例え話もほとんど使わずに、量子物理の本質を少しずつ理解させてゆく、というのが本書の優れた特徴なのです。

 「何かに妨害されないかぎり、粒子はすべて自分より軽い粒子に崩壊する(エネルギーの下り坂をくだる)のだ。現在わかっているかぎり、粒子の崩壊を妨害する唯一のものが、2つの保存法則である。クォーク数保存の法則と、電荷保存の法則だ」(新書版p.230)

 「ひとつの規則が見てとれるだろう。強い相互作用はすべての保存則の支配下にあるが、電磁相互作用を支配する保存則は少なくなり、弱い相互作用を支配する保存則はさらに少ないということだ。ここから、ある興味深い疑問が生じるが、それについては誰も答えを知らない。自然界の4つの相互作用のなかでも最も弱い重力相互作用は、さらに多くの保存則を破るのだろうか?」(新書版p.250)

 こんな感じで、個々の知識の寄せ集めだけでなく、全体をすっきりとまとめる、未知エリアの境界も示す、いわば「地図」を提供してくれます。他にも「地図」に相当する記述は豊富に出てきます。

 「ここには驚くべき普遍性がある。この宇宙におけるクォークとレプトンの相互作用はすべて、つきつめれば、2個のフェルミ粒子と1個のボース粒子の世界線が出会う三叉交点から生じているのである。今日では、現実はたしかにそうなっていると考えられている」(新書版p.220)

 「理論はもうひとつ、驚くべき普遍性を教えてくれる。この宇宙におけるすべての相互作用は、粒子の生成と消滅をともなっているということだ(これには実験での裏づけもある)」(新書版p.221)

 「原則として、閉じ込められた性質は(中略)どんなものでも量子化されて塊になっている(中略)。そして閉じ込められていない性質は(中略)どんなものでも量子化されずに連続的になっている」(新書版p.85)

 「量子飛躍の細部----いつ、どこに----は不確定だが、ひとつだけ確定していることがある。それは、ある同一の励起状態にある原子はすべて、その状態にあるほかのあらゆる原子と同一の確率に支配されているということだ」(新書版p.105)

 「素粒子物理学の最も深いレベルには、本当に同じで、比較的少ない特性で完全に記述されるものがあるということだ。もしそうなら、それはわたしたちの探求の一番下の階層であることをほのめかしている。(中略)いずれにしても、階層はどこかで終わっているように見えるのである」(新書版p.184)

 こういった「地図」のおかげで見通しが劇的に良くなり、始めは「何が何やらさっぱり分からない奇怪な世界」だった量子物理の世界が、101個のQAを読んだ後は、それなりに「私たちのよく知っている古典物理の世界に、いくつか量子特有の保存則など追加して縛りつつも、それ以外は何でもアリということにしたフリーダム新世界」というイメージに変わります。これは大きい。

 というわけで、細部は理解できなくとも、量子世界の全体像がおぼろげに見えてくるような気がして、少なくとも親しみが持てるようになる一冊。素粒子理論や量子物理に興味はあるものの、これまで一般向け解説書を読んでも「たとえ話」と個別トピックの寄せ集めばかりで、どうも腑に落ちなかったという方に、ぜひご一読をお勧めしたい好著です。


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『海町』(岩佐なを) [読書(小説・詩)]

 「莚に座って/黒猫に/あまりの心地よさで/白猫になっちゃう素手の妙技を/ほどこしてやる/「にゃにゃにゃにゃむにい」/「そうだろう、そうだろう」」(『わざ』より)

 夢うつつの心地で見る幻のような光景、それがしれっと立ち現れてしまう不思議な詩集。単行本(思潮社)出版は、2013年5月です。

 奇妙な光景が次から次へと登場する詩集です。個人的に、とにかく動物が登場する作品が嬉しくて仕方ありません。冒頭に引用したのは猫ですが、亀や、魚も、出てきます。

 「大きな亀が居てはからずも/背中を流してやることになってしまう/甲羅の溝の泥や汚れも/鞄から出したカメノコタワシ(亀用)まで用いて丁寧に洗い流してやることになった/大亀は蜜次郎という名で/蜜次郎は思いがけないケアに/至福のまなざし/口ははんびらき/と/おおむね「あらすじ」はこれでよしとして/まず紙を決めなくてはならない/なるべくざらざらした表面の紙/そこへ墨汁を含ませた筆で/大きな亀を描いてみる/まっくろけっけの山(甲羅)の裾のかすれ/濃い墨うすい墨/蜜次郎動け。/のっしのっしと紙の外に出よ。/おおっ、蜜次郎発進。」(『仕事はじめ』より)

 「男は二本の脚と六本の腕を有ち、六本の手でせわしない昆虫体操をしている。脚の二本も合わせて体操に参加させれば蜘蛛体操と呼ぶことも可能だ。オイッツヌウタンスウ。そうそう赤鱏は右鰭を小粋にちょい揚げし「はいちゃ」と挨拶して沖に戻った。男をこの世に捧げる係だったのだっ。」(『ラヂオ』より)

 あまりの心地よさで黒猫が白猫になっちゃう素手の妙技とか、カメノコタワシ(亀用)でこすると至福のまなざし口はんびらきとか、右鰭を小粋にちょい揚げする赤鱏とか、すごくいい。

 犬も、カニも、爬虫類も出てきます。

 「雨あがりの黎明をこのんで/九段下へやつふさが現れる/暗夜の舌に濡らされた南堀留橋の/欄干をいともたやすく渡りくる折の/爪擦れるサ行の音」(『伝奇の朝』より)

 「狭いどぶ川には/あきれるほど多くの蟹が生を営み/カニ・ラッシュ/蟹は路上で/交通事故にあって死んだ/カニ・クラッシュ/そういう運の悪いヤツもいた時代だった//今では運の悪いヤツどころか/蟹がいない/カニ・バニッシュ」(『海町』より)

 「爬虫類は/どうも無口で/何を考えているのかわからない/考えていないのかもしれない/時々考えるかもしれない/しかし/口をきいても/けして「言い訳はしない」/爬虫類なら言い訳は無用」(『〈そうさなぁ』より)

 カメも爬虫類じゃないかとか、そんなことは言わないで。

 動物だけではありません。植物も、モノも、さらには図形だって、色々と悩んだり思いやったりしています。

 「くたびれた壁面をよぎるのは猫の影丸/あれ、影の猫丸//壁の前に/初老の仙人掌仮面を鉢ごと運んで/ひなたぼっこさせてやると/棘がきらきら光って/目に痛い/しかし仮面のおじさんは/(先端恐怖はかならず治るさ)/などとやさしい言の葉もちらすのだった」(『仙人掌仮面』より)

 「食卓のある部屋の窓から/家の外のモノの配列を覗く場合もあれば/窓の外からモノが覗いていることもあり/夕方の訪問者は竹箒だったり/青い如雨露だったりしたわけです……//という葉書をくれたあなたは「物欲論」を書き上げずに行方不明になってしまった/(三十年前のふしぎ)」(『モノシリブリ』より)

 「気づいたことは三角のこと/相似形の三角の/小さいほうが大きいほうを/思いやる姿を意外に思いながら/ある鋭角の先に触れる補助線の/したごころを疎ましく感じてもいた」(『さんかく』より)

 何だかよくわからないものだって。

 「古今の灰を積もらせた庭に/なにか小さいものがいる/ねずみでもすずめでもむしでもない/もっと小さくて見えにくいもの/そほかもしれない/透明のようでも/ある角度の光を受けたときに/姿をちらり見せる//ながしの桶にわたらせた俎板の上で/れんこんを輪切りにした折/とある穴から逃げ去る気配/それにそほは似ている」(『そほ』より)

 「サカヨヌハリトム/その性質/サカヨヌハリトム/わるくない/スキを衝きスキマを通ってやってくるといわれている/実体がないともいわれている/夢の中には棲まない/もちろん現実に馴れ親しまない」(『御案内』より)

 こんな感じで、奇妙でおかしい、寓話のような、それでいて不思議と懐かしさも感じさせる、ときどきリアルな感触にぞっとしたりもする、日常生活のなかにある喜怒哀楽が純粋な形でこぼれ落ちてくるような、そんな光景が次から次へと登場する詩集です。

 「手を振る手を振る/誰かに向かってではなく/自ら生きてきた「時」に手を振る/(よくやる仕草)/やがて掌はひかりをともし/ついには五本の細い炎をはなつ/手を振れ手を振れ/燃える掌でさよならさようなら/(よくやる仕草)」(『飛行』より)


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『PLEIADES プレイアデス』(加藤訓子:パーカッション、中村恩恵:ダンス) [ダンス]

 2014年4月20日は、夫婦でKAAT神奈川芸術劇場に行って中村恩恵さんの舞台を鑑賞しました。ヤニス・クセナキス作曲『プレイアデス』を、演奏+ダンスの形で劇場完全版として再構成した公演です。演出はルカ・ベゲッティ。打楽器演奏は加藤訓子さん。

 舞台上には様々な打楽器が並べてあり、天井からは横長の映像投影用スクリーンが吊り下がっています。

 スクリーンに映し出されるのは加藤訓子さんの演奏風景。ただし、『プレイアデス』は打楽器六重奏曲ですから、映像のなかでも六人の加藤訓子さんが横にずらりと並んで「合奏」します。つまり六回それぞれのパートを演奏して録音・録画し、それを並べて投影しているわけです。

 強烈なパーカッションのリズムと音打撃。そこにメロディを乗せるかのように、中村恩恵さんのしなやかで力強いダンスが加わります。細かくも厳格に制御された腕のひねり、屈曲。オフバランスの体勢移動。身体で音楽を演奏しているかのようなダンスが続きます。

 ときに加藤訓子さんも踊るというか「エア打楽器演奏」で中村恩恵さんと共演したり。打楽器の演奏って激しいダンスなんだと、観客に納得させるパワーに満ちています。すごくかっこいい。

 最後は映像ではなく加藤訓子さんによるライブ演奏。たくさんの打楽器や鍵盤打楽器を一人で演奏するのですが、やはり録音と違って、身体に直接響いてくる打楽器の生演奏はもの凄い迫力。

 ルカ・ベゲッティさんの振付によるものか、それとも音楽の演奏行為というコンセプトなのか、中村恩恵さんのダンスはいつもより薄味であっさり目に感じられました。

 しかし、それが加藤訓子さんによるライブ演奏と合わさると、身震いが走るほどのインパクト。打楽器演奏とダンスが融合するとこういう風になるのかー、というか、事前の想像を超えた感銘を受ける公演でした。

[キャスト]

作曲: ヤニス・クセナキス
演出: ルカ・ベゲッティ
音楽構成・演奏・ライブパフォーマンス: 加藤訓子
ダンス: 中村恩恵


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『ポースケ』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「そういう一喜一憂を延々と繰り返すことこそが、十喜子にとっては日々を暮らすということだった。 むしろ人生には一喜一憂しかない、と十喜子は感じていた。(中略)一つ一つ通過して、傷付いて、片付けていくしかないのだ。そうする以外できないのだ」(単行本p.195)

 奈良にある小さな喫茶店で、ささやかな催しが行われる。それぞれに悩みや苦しみを抱えながらも日々を生きてゆく普通の人々を祝福する連作形式の長編。単行本(中央公論新社)出版は、2013年12月です。

 「津村:またもう1回ナガセっていうキャラクターが出てきそうな感じはします」(『ダメをみがく “女子”の呪いを解く方法』単行本p.232)

 さりげなく予告されていた通り、『ポトスライムの舟』の主人公、ナガセが本書で再登場します。あれから五年たっており、彼女は正社員として働いているらしい。シンディ・ローパーの弾き語りをするなど、元気そうで何より。

 といってもナガセは主人公ではありません。今作は、彼女の友人のヨシカが店主をやっている喫茶店が舞台となり、そこに出入りする人々が交替で視点人物をつとめる群像劇となっています。

『ポースケ?』

 「「あっちの復活祭のことらしいんやけど……、詳しいことはわからんす。でも、私ポースケ行くから有休とるねん! って言いたいっすよね」(中略)『店主のポースケ研修のためお休みとさせていただきます』という貼り紙を貼ったら、何か、やってやった、という気持ちになりそうだとヨシカは一瞬思ったのだが、うけ狙いで店を休むなどはもってのほかなので頭を振る」(単行本p.31)

 ノルウェーの復活祭「ポースケ」のことを聞いた店主ヨシカは、それにちなんだささやかな催しを自分の店で行うことを決める。軽食・喫茶「ハタナカ」で働いているパート、常連客など、主要登場人物たちが紹介される導入です。

『ハンガリーの女王』

 「報われない、という気持ちがこみ上げてきて、のぞみは下唇の内側を噛む。毬絵さんのことも、手のことも、明らかに、そこまで思うようなことではないのだけれども、それでもなぜか、言葉にするとそんな感じになってしまう」(単行本p.44)

 相手の懐にずけずけと踏み込んで勝手に振り回すことで、支配欲を満たそうとする困った人。職場にいるそういうタイプとの関係に苦しむのぞみは、喫茶店でふと見かけた「ポースケ」の貼り紙のことが気にかかる。

『苺の逃避行』

 「あの人に見つかったら、表向きは叱られるということになるのだろうけれども、そこにどれだけの毒を含まれるかわからないだろう、ということが、恵奈には本能的にわかった。きっと、たぶん、バカとかアホとか死ねとかいうようなわかりやすい物言いではなく、自分たちが他の大人に嫌悪感を説明できる範囲からは外れた、平易な言葉を細かく連ねて呪いを吐くだろう」(単行本p.63)

 『ポトスライムの舟』でナガセの家に居候していた恵奈も、もう小学五年生。あるとき彼女は、学校にいる嫌な感じの男の先生が、電話で自分の奥さんに暴言を吐いて精神的に痛めつけている現場を盗み聞きしてしまう。しかも恵奈には、その先生からは隠さなければならない秘密があったのだ……。

『歩いて二分』

 「あの人がまた新しいターゲットを見つけて、キイキイ鳴きながら誰かの心の一部を剥ぎ取り、背中を曲げてしゃぶっているのかどうかはわからない。 他人を変えられるという勝手な思い上がりが、あなた自身を内側から傷つけている。それはわたしの知ったことではないし、誰もそんな自分で作り出した痛みに責任は負わない」(単行本p.133)

 喫茶「ハタナカ」で早朝から午前中に働いている佳枝は、前の職場でひどいパワハラにあって心を病み、退職した過去を持つ。今も睡眠障害に苦しみ、電車に乗ることも出来ない彼女。だが、今の職場で働くうちに、彼女は次第に自分を取り戻してゆく。

『コップと意思力』

 「友人の前では、こいつ根本的に人として成ってないんだよ、と小突かれたり、ゆきえの友人の前では、なんで他の女の人と比べていつも化粧とか髪の詰めが甘いかなあ、などと笑って頭をさわってきたりした。(中略)この人は正直に思ったことを話す人なんだな、というふうに考えてきたけれども、ある日限界が来た」(単行本p.152)

 別れた恋人からのストーカー行為に悩むゆきえ。「「なんでもいい」と言って、ゆきえが決めると後でそれにケチを付ける」(単行本p.156)ようなモラハラ男への嫌悪感に苦しみ傷つく彼女。

 だが、その元カレが送ってきた上から目線の手紙を読んで激怒したとき、ゆきえは手元にあったコップを壁に投げつけるのではなく、意思力を振り絞ってそれを洗うことが出来たのだった。そのほんの小さな成果が、彼女を救ってゆく。小さなエピソード一つ一つが読者の共感を強く呼び起こす話。

『亜矢子を助けたい』

 「疲れ切っている。毎日歩き回って疲労し、しかし就活がうまくいかないせいでよく眠れず、そのまま起き出してまた次の説明会やら面接に向かう。終わりはあるのだろうか、と亜矢子は追い詰められているんじゃないかと十喜子は思う」(単行本p.180)

 喫茶「ハタナカ」で午後から夕方まで働いている「海外ドラマ好きのおばさん」十喜子は、就活に疲弊している娘の亜矢子のために、彼女のSNSのページ更新を担当する。果てしなく人格を否定され続ける拷問のような就活に困憊し、泣き崩れる娘。その代わりに、人事担当が見るかも知れない彼女のページに、毎日、元気いっぱいで頑張っている知的な女性、という虚像を作り上げようとするが……。

『我が家の危機管理』

 「悲しいのでもなく、情けないのでもなく、疲れているのでもなく、けれどもその全部、とでもいうような混乱に胸をかき回されて、冬美は次々と涙を落とした。声を上げたかったけれども、喉が狭まって、かすれた声しか出なかった」(単行本p.233)

 夫との夫婦仲は良いが、子供が出来ないことで微妙に悩んでいる冬美。ピアノ教室で先生として働いている彼女は、生徒の一人が母親から深刻なネグレクトを受けているらしいことに気づく。あるとき、雨の中、家から締め出されているその子を見たとき、決して口に出してはいけない一言が心にわき上がってきた。うちに一緒に帰る?

『ヨシカ』

 「それから七年が経った。ヨシカは今もなんとか店を続けている。これからも続ける。(中略)カップを洗った後、深く呼吸をして、それまで考えていたことに何の未練も残さず、厨房の電気を消した。明日のことだけを考えていた」(単行本p.249)

 ただ一人の女性社員として、抜群の成績を上げていたヨシカ。だが、そのために職場で孤立を深めていく。喫茶「ハタナカ」の店主、ヨシカの過去と前向きな生きざまが語られ、読者を最終章へと導きます。

『ポースケ』

 「どうしようもなく悪辣な罪を犯したテッド・バンディは、それを食べて死んだけれども、善良な小市民である自分たちは、それを食べて明日も生きるのだ。(中略)みんながつがつ、元気に食べていた。ヨシカが知る限りでは、いろいろな状況の人がいたけれども、食べているのは同じだった」(単行本p.272、273)

 喫茶「ハタナカ」版の復活祭、ポースケに参加するために、人々が集まってきた。それぞれに悩みや苦しみを抱え、ときに浴室に閉じこもって泣き崩れ、ときに激怒してコップを割るのを意思力でこらえ、激しい眠気のあまり路地のゴミ箱につかまって眠り込み、それでも明日もまた働くために食べる。そんな普通の人々を祝福するかのような、小さな復活祭。

 というわけで、ちっぽけな支配欲を満たすために他人にすり寄り、暴言を吐き、傷つけ、尊厳を剥ぎ取ろうとする連中。その被害と後遺症から少しずつ回復してゆき、次の一歩を踏み出そうとする人々が書かれた物語です。

 派手な事件が起きるわけではなく、大きなストーリー展開があるわけでもなく、出てくるのは登場人物の身の回りで起きるささいな出来事ばかりですが、読者は自らの体験も重ね合わせつつ、彼女たちのそれでも日常を生きぬくたくましさのようなものに、深い共感と感動を覚えることになります。職場の人間関係で悩み苦しんでいる方に、ささやかな勇気を与えてくれる一冊。


タグ:津村記久子
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『インフォメーション 情報技術の人類史』(ジェイムズ・グリック:著、楡井浩一:訳) [読書(サイエンス)]

 「新しい媒体は必ず、人間の思考の質を変容させる。長い目で見れば、歴史とは、情報がみずからの本質に目覚めていく物語だと言える」(単行本p.18)

 「物理学と情報理論は、どんどん一体化しつつある。(中略)“情報”の本質が理解された今、ビットこそ原初のもの、物質それ自体より根本的なものなのではないかと考えられている」(単行本p.15)

 シャノンの情報理論は私たちの世界観をどのように変えたのか。人類の文明史を「情報がみずからの本質に目覚めていく物語」として再構成してみせる大作。単行本(新潮社)出版は、2013年1月です。

 「シャノン以前の人々の世界観を、当時のままに思い描くのはむずかしい。純真で、無知で、見識を欠いた状態に戻ることなど、なかなかできるものではない」(単行本p.17)

 物理学、数学、生物学、言語学、社会学。それらすべての分野に共通する根源的な概念。確率、エントロピー、複雑性、そして計算可能性をつなぐキーとなるもの。

 「情報」を明瞭に定義し、定量化し、その本質を明らかにした「シャノンの情報理論」がどのような意義を持っていたのかを、様々なトピックを通じて明らかにする一冊です。その話題の広さは、思わずたじろいでしまうほど。

 全体は15の章から構成されています。

 まず第1章から第6章では、一見してばらばらでとりとめのない様々な話題が扱われます。トーキング・ドラム、文字の発明、辞書の編纂、バベッジの階差機関、エイダのアルゴリズム、電信網の発展。

 「通信の量と速さと距離にかけては、世界じゅうの誰も、文字を持たないアフリカ人の叩く太鼓をしのぐことができなかった」(単行本p.26)

 「書くことの永続性が、世界についての知識に、のちには知識についての知識に、骨組みを与えることを可能にした」(単行本p.49)

 「アルファベット順という方式は自然なものではない。これを用いる者は、情報を意味から切り離すことを強いられる。単語を文字の連なりと割り切って扱うこと、文字の配列を抽象的に見据えることを求められる」(単行本p.77)

 「バベッジの興味は数学の本流から遠ざかり、拡散しすぎているように見えたが、その多岐にわたる対象には、本人も同時代の誰も感知できない共通項が備わっていた。(中略)バベッジのほんとうの主題は、情報だった。メッセージを送ること、符号化すること、処理することだ」(単行本p.156)

 「エイダは、ひとつの過程、ひとそろいの規則、一連の操作を考案した。別の世紀であれば、これはアルゴリズム、のちにはコンピューター・プログラムと呼ばれただろうが、当時は周到な説明を要する概念だった。エイダのアルゴリズムの最も巧妙な点は、再帰的だったことだ。(中略)エイダは、解析機関をプログラミングしていた。機械が存在していなかったので、頭の中でプログラムを作っていた」(単行本p.151、153)

 個々の話題はそれだけでも興味深く、かなり詳しく書かれています。特に19世紀のバベッジとエイダについては、翻訳者が「このくだりだけでも一編の評伝として読めるほど」(単行本p.531)という通り、独立して本に出来るだけの圧巻の内容となっています。

 しかし、本書のキモは、これら一見してばらばらにも思える話題が、深いところで結びついているということが次第に明らかになってゆくところ。

 やたらと詩的で冗漫な決まり文句を多用するトーキング・ドラムの「言葉」が、冗長符号の一種であることが後から分かったり、エイダが思い描いた解析機関が後にチューリングマシンとつながったり、文字の発明により意味と符号が切り離されたことが後に形式論理体系の不完全性に到達したり。

 読み進むにつれて、こういう驚きが次々に見出され、読者を魅了します。やがて、これらの結びつきの背後にあるものが浮上してきて、ついにシャノンが登場。第7章と第8章でその意義を含めて紹介されるのが、有名なシャノンの情報理論なのです。

 「シャノンはメッセージの構造を浮かび上がらせるために、ブラウン運動から恒星系力学に至るまでの、確率過程を伴う物理的現象の方法論や言語に目を向けた」(単行本p.280)

 「シャノンは、わたしたちがこの等式をくり返し目にするだろうと言い切った。すなわち、この形式の量が「情報、選択、不確かさの物差しとして、情報理論において中心的な役割を果たす」と。確かにHは至るところにあり、メッセージのエントロピー、またはシャノンのエントロピー、または単純に情報という名で、慣例的に呼ばれている」(単行本p.284)

 「大半の数学的理論がゆっくりと形になっていったのに対し、シャノンの情報理論はギリシャ神話の女神アテーナーのごとく、いきなり完成形で登場した」(単行本p.290)

 「シャノンがどうやってそんな洞察を得たのか、どうやってそんなことを確信するようになったのかは知らない。だが、現代の通信理論のほぼすべてがあの研究成果を土台にしている」(単行本p.287)

 私事で恐縮ですが、私は大学で電子工学、特に通信工学を専攻した者です。情報工学の学生たちがチューリングやノイマンを崇めるように、私たちはマクスウェルやシャノンを崇めていました。

 だからもちろんシャノンの情報理論は真面目に勉強したわけですが、しかし、それは、例えば通信容量の上限を定めたり、符号化の効率を論じたりするための「実用的なツール」という印象が強く、シャノンがやった仕事がどれほど深い意義と影響力を持っていたのかは、本書を読むまで充分に理解していなかったというのが、正直なところ。先生、ごめん。今は反省してる。

 第9章から第14章では、様々な分野において情報理論が引き起こした変革が語られます。熱力学、心理学、生物学、数学、そして物理学や天文学まで。

 「これが心理学における“認知革命”と呼ばれる動きの始まりであり、この動きによって、心理学とコンピューター科学と哲学を合体させた“認知科学”という学問分野の基礎が固められた。この瞬間を振り返って、“情報的転回”と呼ぶ哲学者もいる」(単行本p.324)

 「シャノンの情報理論を生物学全体に移植することは不可能だった。しかし、それはたいした問題ではなかった。世間を揺るがすような転換、すなわちエネルギーについて考えることから情報について考えることへの転換が、すでに進行中だった。(中略)「従って、塩基の連鎖こそが、遺伝子情報を運搬する暗号であるように思われる」。もはやワトソンとクリックは、“暗号”や“情報”という用語を比喩的に使ってはいなかった」(単行本p.357、360)

 「今やわたしたちはドーキンスのおかげで、こう付け加えてもいい。生き残り、類縁のものを永続させ、有機体を選択的に利用する情報それ自体によって移行が成し遂げられた、と」(単行本p.399)

 文化的自己複製情報ミーム、統計熱力学、確率論、形式論理学、チューリングマシン、計算可能性、ゲーデルの不完全性定理、ランダム性、複雑系。「情報」の本質をさらに深く探求してゆく作業は、多くの研究分野に革命を起こしてゆきます。

 それから、蒸発するブラックホール、量子テレポーテーション、量子暗号、量子コンピューター、など量子情報理論から生まれた話題へと進み、ついには物質やエネルギーよりも本質的な実在としての情報、情報処理機関としての宇宙、という壮大なビジョンに到達するのです。

 「宇宙は誕生以来およそ十の百二十乗回の演算を実行してきたのではないか(中略)宇宙は現在、十の九十乗ビットほどの情報をかかえている。そして、計算を続けている」(単行本p.493、494)

 15章とエピローグでは、今日の情報革命が引き起こした様々な社会問題をあつかいます。情報過多、ウィキペディアの編集合戦、スパムメールの氾濫、などなど。

 というわけで、シャノンの情報理論を切り口に「時間軸、地理軸の極点から極点まで、さらには学術領域や次元の境界をも楽々と越えて、縦横無尽に展開する」(単行本p.530)めまいがするようなサイエンス本。

 ふだん何気なく使っている「情報」という概念が、どのようにして見出され、厳密に定義されたのか。それがなぜ多くの学問分野に多大なる影響を与えたのか。少し踏み込んで理解したい方にお勧めします。また、シャノンの業績の再評価、という観点からも読みごたえがあります。

 「二十世紀を生き抜いたシャノンの生涯は、時代の意味を明らかにする力となった。シャノンはほかの誰にも劣らぬ、情報時代の創始者だった」(単行本p.459)


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