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『ワーカーズ・ダイジェスト』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「なんか、結局は社蓄やねんけど、ときどきはうまいこと気遣われて、あーまあいいかって思ってまう。二十代やったらそれでも、この会社でええんかとか、ステップアップしたいとかいろいろ考えたんやけど、今はもう出勤するだけで精一杯やわ」(単行本p.46)

 いろんな意味で疲れている32歳の仕事と生活を描いた長編。単行本(集英社)出版は、2011年3月です。

 「後ろ暗いことはない。何も悪いことはしていない。白状することは何もない。それでどうしてこんなに立っているのがやっとなんだ」(単行本p.14)

 「やりたいことが常に一つだけあって、それは家に帰って寝ることだった」(単行本p.96)

 仕事を覚えて、生活リズムもつかんで、部下もついて、でも面倒を押し付けられることも増えて、何かと疲労がたまってゆく。そんな32歳の一年間の生活がリアルに書かれます。

 「夜中の三時まで起きて仕事をして、それから少し寝て起きてまた別の仕事に出かけるような生活をしていたら、顔が緑色になってくるのだろうか」(単行本p.10)

「電車を降り、乗り換えの駅のホームのベンチで、何とはなしに頭を抱えて、また電車に乗る。晩飯のことばかり考えている。作るか食って帰るかいっそ食わないか。鬱になりそうだ。この程度のことで」(単行本p.115)

 デザイン事務所に勤務するかたわら個人的にライター仕事も引き受けているため猛烈に忙しい奈加子。建築会社に勤めており、会社都合で何度も転勤させられる重信。たまたま仕事の打ち合わせで出会った二人は、共にもうすぐ32歳になろうとしています。互いに対する初対面の印象は。

 「疲れている様子だった。いよいよ、三十年以上細かく積もった業を洗い流すのが難しくなってきていることを知っているような。でもそのことに、必要以上に足掻いている様子もないような」(単行本p.109)

 「すぐに同い年だろうということがわかった。なんというか、自分と同じぐらい疲労が蓄積していて、同じぐらいに賢くはなっているだろうということが、一目見てわかったのだ」(単行本p.97)

 互いに好意、というより深いところに疲れが溜まってきている者同士の共感を覚えた二人。しかし、ありがちなロマンス小説のように劇的な再会をするといったこともなく、二人はそれぞれに自分の仕事に忙殺されることに。どちらも嫌な相手に絡まれて消耗戦。

 「十二歳年上の篠塚氏は、パンフレットを作る作業のみならず、あらゆる面で奈加子に相手をさせようとしていたということに、仕事の終盤の今になって気が付く。ただのセクハラなら、まだ対処のしようもあるのだが、篠塚氏がちらつかせるのは、敬意に対する欲望だった」(単行本p.103)

 「会社にも、東京の本社にもクレームを入れて重信を煩わせた、地元の同じ学年だったらしい男。しつこい男。「意味がわからない」と言う男。(中略)自分が理解しようとしていないことを逆手にとって相手を恫喝するような人間の性格が、クリアなものであるわけがない」(単行本p.131)

 どこにでもいるなあ。ああいう手合い。

 交互に語られる二人の事情。読者も、自らの体験と重ねて、それぞれに共感を覚えます。仕事はつらい。真剣につらい。そんな困憊の日々を何とか乗り切って、とりあえず33歳になった二人。それぞれに一年を振り返って、それでも自分の人生を受け入れようとします。

 「でももういいや、と奈加子は思う。もういいや、元に戻らなくても。何でもいいや。 去年と比べて、ますます体は重くなったように感じるけれども、少しだけ落ち着いたような感触もある。良くもないけど、悪くもない。特に幸せではないけど、不幸でもない」(単行本p.147)

 「苦情を言われたり、おとなしくしているとどんどん仕事を押し付けられたり、何より毎朝の出勤が辛いけれど、けどそんなに悪くもないと思う。好きなものが食えて、そこそこいい思い出もいくつかあって、三が日に会う予定の友達もいる。そんなもの子供の時とほとんど変わらないじゃないか、と言われたらそうなのだが、それの何が悪いのだろう」(単行本p.143)

 33歳になった二人は再会しますが、何らかの発展を予感させつつも、そこで小説は終わります。30代前半の働きぶりを淡々と描いた話ですが、細かい描写に、その切実さに、強く惹きつけられる作品です。

 併録されている短篇『オノウエさんの不在』は、オノウエさんという有能な先輩が会社から追い出されそうになっているらしい、という噂を聞きつけた後輩三人がやきもきする話。

 「新人が仕事を覚えて自分たちを脅かさないようにわざといいかげんに仕事を教えるというような醜態は晒さず、きわめて根気よく自分に付き合ってくれた。そういう在り方のせいか、学閥外でありながら支所の技術課長になるなど、まずまずの出世をしており、そのことを考えるだけで、今を堪える余力が湧いたような気がした」(単行本p.160)

 そんな仕事の出来るオノウエ先輩が、年休を取りすぎだから、みたいな言いがかりのような理由で、仕事を干されているというのです。辞職に追い込むために。

 そんな理不尽がまかり通るのか。ある者は憤慨を、ある者は希望を、またある者は諦念を持ちます。それぞれ切ないくらい真剣に。会社や仕事に対する、ぎりぎり最後の信頼を裏切らないでほしい、という気持ち。でも駄目だろうな、という諦めの気持ち。無力感。

 「「でもねおれは信じてるよ。オノウエさんの今までの働きがきちんと評価されて、会社のそういう不満が子供じみててばかみたいだって見直されること」 それはないだろう、とサカマキは言いかけてやめた。わざわざ口にすることはないと思ったのだ。こんなところで利口ぶってどうなる。シカタの希望はおそらく間違っている。けれどその希望の反対を行こうとする事実こそが、本当は間違っている」(単行本p.186)

 「なんていうか、お祈りをするような感じだった。そうしてれば、オノウエさんがそこにいてくれるんだと」(単行本p.192)

 真面目に誠実に仕事をしている者が、どうか報われてほしい。矜持とか情熱とかそういうものでさえなく、「敬虔さ」を強く感じさせる話です。思い起こせば、これまでの津村記久子さんの作品も、すべて「仕事に対する敬虔さ」のようなものを書いていたような気がしてきます。


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