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『ポースケ』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「そういう一喜一憂を延々と繰り返すことこそが、十喜子にとっては日々を暮らすということだった。 むしろ人生には一喜一憂しかない、と十喜子は感じていた。(中略)一つ一つ通過して、傷付いて、片付けていくしかないのだ。そうする以外できないのだ」(単行本p.195)

 奈良にある小さな喫茶店で、ささやかな催しが行われる。それぞれに悩みや苦しみを抱えながらも日々を生きてゆく普通の人々を祝福する連作形式の長編。単行本(中央公論新社)出版は、2013年12月です。

 「津村:またもう1回ナガセっていうキャラクターが出てきそうな感じはします」(『ダメをみがく “女子”の呪いを解く方法』単行本p.232)

 さりげなく予告されていた通り、『ポトスライムの舟』の主人公、ナガセが本書で再登場します。あれから五年たっており、彼女は正社員として働いているらしい。シンディ・ローパーの弾き語りをするなど、元気そうで何より。

 といってもナガセは主人公ではありません。今作は、彼女の友人のヨシカが店主をやっている喫茶店が舞台となり、そこに出入りする人々が交替で視点人物をつとめる群像劇となっています。

『ポースケ?』

 「「あっちの復活祭のことらしいんやけど……、詳しいことはわからんす。でも、私ポースケ行くから有休とるねん! って言いたいっすよね」(中略)『店主のポースケ研修のためお休みとさせていただきます』という貼り紙を貼ったら、何か、やってやった、という気持ちになりそうだとヨシカは一瞬思ったのだが、うけ狙いで店を休むなどはもってのほかなので頭を振る」(単行本p.31)

 ノルウェーの復活祭「ポースケ」のことを聞いた店主ヨシカは、それにちなんだささやかな催しを自分の店で行うことを決める。軽食・喫茶「ハタナカ」で働いているパート、常連客など、主要登場人物たちが紹介される導入です。

『ハンガリーの女王』

 「報われない、という気持ちがこみ上げてきて、のぞみは下唇の内側を噛む。毬絵さんのことも、手のことも、明らかに、そこまで思うようなことではないのだけれども、それでもなぜか、言葉にするとそんな感じになってしまう」(単行本p.44)

 相手の懐にずけずけと踏み込んで勝手に振り回すことで、支配欲を満たそうとする困った人。職場にいるそういうタイプとの関係に苦しむのぞみは、喫茶店でふと見かけた「ポースケ」の貼り紙のことが気にかかる。

『苺の逃避行』

 「あの人に見つかったら、表向きは叱られるということになるのだろうけれども、そこにどれだけの毒を含まれるかわからないだろう、ということが、恵奈には本能的にわかった。きっと、たぶん、バカとかアホとか死ねとかいうようなわかりやすい物言いではなく、自分たちが他の大人に嫌悪感を説明できる範囲からは外れた、平易な言葉を細かく連ねて呪いを吐くだろう」(単行本p.63)

 『ポトスライムの舟』でナガセの家に居候していた恵奈も、もう小学五年生。あるとき彼女は、学校にいる嫌な感じの男の先生が、電話で自分の奥さんに暴言を吐いて精神的に痛めつけている現場を盗み聞きしてしまう。しかも恵奈には、その先生からは隠さなければならない秘密があったのだ……。

『歩いて二分』

 「あの人がまた新しいターゲットを見つけて、キイキイ鳴きながら誰かの心の一部を剥ぎ取り、背中を曲げてしゃぶっているのかどうかはわからない。 他人を変えられるという勝手な思い上がりが、あなた自身を内側から傷つけている。それはわたしの知ったことではないし、誰もそんな自分で作り出した痛みに責任は負わない」(単行本p.133)

 喫茶「ハタナカ」で早朝から午前中に働いている佳枝は、前の職場でひどいパワハラにあって心を病み、退職した過去を持つ。今も睡眠障害に苦しみ、電車に乗ることも出来ない彼女。だが、今の職場で働くうちに、彼女は次第に自分を取り戻してゆく。

『コップと意思力』

 「友人の前では、こいつ根本的に人として成ってないんだよ、と小突かれたり、ゆきえの友人の前では、なんで他の女の人と比べていつも化粧とか髪の詰めが甘いかなあ、などと笑って頭をさわってきたりした。(中略)この人は正直に思ったことを話す人なんだな、というふうに考えてきたけれども、ある日限界が来た」(単行本p.152)

 別れた恋人からのストーカー行為に悩むゆきえ。「「なんでもいい」と言って、ゆきえが決めると後でそれにケチを付ける」(単行本p.156)ようなモラハラ男への嫌悪感に苦しみ傷つく彼女。

 だが、その元カレが送ってきた上から目線の手紙を読んで激怒したとき、ゆきえは手元にあったコップを壁に投げつけるのではなく、意思力を振り絞ってそれを洗うことが出来たのだった。そのほんの小さな成果が、彼女を救ってゆく。小さなエピソード一つ一つが読者の共感を強く呼び起こす話。

『亜矢子を助けたい』

 「疲れ切っている。毎日歩き回って疲労し、しかし就活がうまくいかないせいでよく眠れず、そのまま起き出してまた次の説明会やら面接に向かう。終わりはあるのだろうか、と亜矢子は追い詰められているんじゃないかと十喜子は思う」(単行本p.180)

 喫茶「ハタナカ」で午後から夕方まで働いている「海外ドラマ好きのおばさん」十喜子は、就活に疲弊している娘の亜矢子のために、彼女のSNSのページ更新を担当する。果てしなく人格を否定され続ける拷問のような就活に困憊し、泣き崩れる娘。その代わりに、人事担当が見るかも知れない彼女のページに、毎日、元気いっぱいで頑張っている知的な女性、という虚像を作り上げようとするが……。

『我が家の危機管理』

 「悲しいのでもなく、情けないのでもなく、疲れているのでもなく、けれどもその全部、とでもいうような混乱に胸をかき回されて、冬美は次々と涙を落とした。声を上げたかったけれども、喉が狭まって、かすれた声しか出なかった」(単行本p.233)

 夫との夫婦仲は良いが、子供が出来ないことで微妙に悩んでいる冬美。ピアノ教室で先生として働いている彼女は、生徒の一人が母親から深刻なネグレクトを受けているらしいことに気づく。あるとき、雨の中、家から締め出されているその子を見たとき、決して口に出してはいけない一言が心にわき上がってきた。うちに一緒に帰る?

『ヨシカ』

 「それから七年が経った。ヨシカは今もなんとか店を続けている。これからも続ける。(中略)カップを洗った後、深く呼吸をして、それまで考えていたことに何の未練も残さず、厨房の電気を消した。明日のことだけを考えていた」(単行本p.249)

 ただ一人の女性社員として、抜群の成績を上げていたヨシカ。だが、そのために職場で孤立を深めていく。喫茶「ハタナカ」の店主、ヨシカの過去と前向きな生きざまが語られ、読者を最終章へと導きます。

『ポースケ』

 「どうしようもなく悪辣な罪を犯したテッド・バンディは、それを食べて死んだけれども、善良な小市民である自分たちは、それを食べて明日も生きるのだ。(中略)みんながつがつ、元気に食べていた。ヨシカが知る限りでは、いろいろな状況の人がいたけれども、食べているのは同じだった」(単行本p.272、273)

 喫茶「ハタナカ」版の復活祭、ポースケに参加するために、人々が集まってきた。それぞれに悩みや苦しみを抱え、ときに浴室に閉じこもって泣き崩れ、ときに激怒してコップを割るのを意思力でこらえ、激しい眠気のあまり路地のゴミ箱につかまって眠り込み、それでも明日もまた働くために食べる。そんな普通の人々を祝福するかのような、小さな復活祭。

 というわけで、ちっぽけな支配欲を満たすために他人にすり寄り、暴言を吐き、傷つけ、尊厳を剥ぎ取ろうとする連中。その被害と後遺症から少しずつ回復してゆき、次の一歩を踏み出そうとする人々が書かれた物語です。

 派手な事件が起きるわけではなく、大きなストーリー展開があるわけでもなく、出てくるのは登場人物の身の回りで起きるささいな出来事ばかりですが、読者は自らの体験も重ね合わせつつ、彼女たちのそれでも日常を生きぬくたくましさのようなものに、深い共感と感動を覚えることになります。職場の人間関係で悩み苦しんでいる方に、ささやかな勇気を与えてくれる一冊。


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