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『空の水没』(渡辺みえこ) [読書(小説・詩)]

  「母は父が掘った井戸に 身を投げて死んだ/私たち家族はその後/ずっとその水を飲んで暮らした/姉と私は母の井戸の水で育った」
  (『母の井戸』より)

 死ぬこと、生きること、その境目を見つめるような詩集。単行本(思潮社)出版は、2013年11月です。

 読んでゆくと、あちこち死のイメージが横溢していることに驚かされます。同時に、死と生の境界は曖昧で、ときどき行き来しているというか、どちらともつかない領域が広いというか、そんな感じが生々しいのです。

  「黒い森が優しく私に近づいてきた/透き通った香りがひりひりとしみ込んできた/幾筋もの細い月光が刺さっていたのかもしれない/それはあの世界なら痛み と言ったのかもしれない/あるいは眠り と言ったのかもしれない/言葉が必要のない世界で/私は月の光のようなもの 木の香りのようなものになって/溶けていくのを感じていた」
   (『森の吊り橋』より)

  「晩冬の星空を見上げると/水没した村に幽かに立っている/一本の杉の木のように/寂しい空の中に埋もれる//水面を渡ってくる風は/遠くからやってくるひとたちの/なつかしい呼び声がする」
  (『空の水没』より)

 特に、祈るように、繰り返し語られるのは、母親の死です。歳月によって純化され澄みきった青空のようになったその透明な喪失感が、読者の心を強く動かします。

  「どくだみの花が終わる頃/厠の梁に優曇華の花が咲いた/悪いことが起こる 悪いことが起こる/祖母は北の厠には行かなくなった//優曇華の花は すぐに天井一面に広がった/お迎えが来る/母は 晴れやかだった/夏が過ぎる頃/小さな羽のある虫が窓から出ていった」
  (『優曇華の花』より)

  「天空が青く透明なのは/死んでいくいきものの瞳の/静かな諦めのようなもの/そんなものを吸い込んで/あんなに透明なのだ/と母は言ったような気がする//若く死んでいった母が/言ったような気がする」
  (『草原の青空』より)

 母親の死が象徴的、観念的に書かれるのに対して、動物の死はもっと感傷的というか物語的に書かれており、その対比も鮮やかです。

  「雪の朝だった/羽ばたきの音と銃声/鋭い眼と嘴/母鷹だったかもしれない/父の銃口のほうが勝っていた//今も鷹の首には/弾丸が埋め込まれているのだろう/鷹は羽根を拡げ/目を開き続け/力いっぱいの野生の姿を/奥座敷に拡げている」
  (『剥製』より)

  「父の会社の倒産 一家離散のとき/ハナコがいるとアパートが借りられなかった/大型犬のハナコはたくさん食べた/もらってくれる人はいなかった/ハナコを保健所に連れていった//「処分」される そのドアが閉まる時/ハナコは私に振り向いた/いつも涙をためているような/暗い黒い瞳/ハナコはさようならとは言わなかった/ありがとう とだけ言った/ような気がする」
  (『相模大野 八時四三分』より)

 でも、個人的には、鷹や犬より、貝が主役となる詩の方が好き。

  「海の底を這いながら/真珠母貝が/貝自身を守るために作った/内側の密かな朝焼けに/はいり込んできた異物を/胞衣のようなもので包み/暗い光の傷を抱き続ける」
  (『痕跡』より)

  「静かに明るみ始めた浜辺で/砂の中の貝が/その中に溜めた暗い月光を/一気に吐き出している/かすかな音を/聞いたことのあるひとは」
  (『どんな明け方』より)

  「月明かりの静かな夜には/かつて海で暮らしていた/オカヤドカリが 鳴きます/小さく呻くように/夜じゅう鳴くのです//死んだ巻貝の殻に入って/入った殻に体を変形させて/体の中の小さな海を揺らせて/波音のする砂浜で/鳴きます」
  (『陸宿借の鳴く夜には』より)

 まるで貝やヤドカリと人魂が一体化してしまっているような、そんな感触もあります。死んだ人のことを想うとき、いずれやってくる自らの死を思うとき、なぜかそこに貝のイメージというのは、確かにあると思う。


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