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『眠れる旅人』(池井昌樹) [読書(小説・詩)]

 「カニはおいしい/カニはおいしいことを/カニはしらない/カニはよこばしり/カニはみをひそめ/カニはあぶくをふいている/カニだって/いのちはおしい/だれだって/おいしいもんか」
  (『蟹』より)

 短く刻む、長く波打つ。ことばのリズムが読者をこの世ならぬあたりまで連れてゆく詩集。単行本(思潮社)出版は、2008年9月です。

 「よる たかく たかく はなびが あがる ぽんと ひらく そして しだれる しだれて きえる また たかく たかく はなびが あがる それを みあげる つまと むすこと つまも むすこも おもわない わたしの よぞらに はなびが あがる ぽんと ひらく そして しだれる しだれて きえる まっしろな 骨灰(まぐねしうむ)に みずを かけ はき きよめ たまえ」
  (『まぐねしうむ』より)

 短く刻んでくるひらがなの連打、驚くべきことばのリズムにうかうかと乗せられ、はたと気がついてみれば、どこかこの世ならぬところに立っている自分に気づく。そんな作品が並びます。

 「このよのものともおもわれぬ/つきがでている/かぜもある/ものみなははやちりいそぎ/まだこぬバスをまっている/このよの/いつもの/あさなのに/このよのものともおもわれぬ/つきをみあげる」
  (『間』より)

 「ないものはない わかっていても かえりたいまち あいたいひとら いまもこんなに いきているから かえれないまち あえないぼくが なにもしらずに まっているから」
  (『亡』より)

 リズムは個々の作品だけでなく、詩集全体にも脈打っています。ひらがなを多用する作品が続いたかと思うと、ふいに漢字の多い随筆調の文章で思い出が語られたり、それがしみじみ共感されたり、でも嘘だったりして、その鮮やかな変調に翻弄されます。

 「「揺籃」はそれは巨きな純喫茶だった。目を凝らしても奥行は遥か霞んで見えなかった。磨き込まれた木造の楼閣はいつも周囲を優しい飴色に映していた。地下地上併せて何万何億階楼になるのか計りも知れないその何階かの窓辺の席で、上京したての私は昼の休みの束の間に覚えたばかりの煙草を吹かし、好きでもない珈琲の香りに噎せながら、見知らぬ異郷の人並みを、海とも山とも知れぬ自らの行方を、不安と憧れに張り裂けそうな心抱えて凝視めていた」
  (『揺籃』より)

 「絶えず柄杓で水打たれる魚介に混じって、極稀に、親指ほどな人形(ひとがた)の見え隠れすることもあった。薄髭生やし傷負うたその裸形の人形は観念したように手を組み合わせ仰向いて、信じられないことだが、私たちは魚介に夢中で訝しむものは誰もなかった。あれは何だったのだろう」
  (『故園黄昏』より)

 短く刻むリズム、長く波打つリズム。繰り返されるうちに全体が音楽のように感じられてきて、読者だって調子に乗ってくるわけですが、そこですかさず膝の裏。

 「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ(啄木)/その妻は居ず」
  (『花影参 妻不在四十二夜』より)

 「氏の御逝去は我が国現代詩歌文学界に於ける極めて重大な損失でありシャンプーであり洗面器である。氏は生前幾多の輝かしい詩的虚栄の陰で家族を苦しめ隣人を困らせ横暴非道の限りを尽し、にも拘らず自らは不撓不屈の精神で悦び極め楽しみ極め、まこと己のためにのみある比類なく美しい畜生道を渾身で全うされた。我が国現代詩歌文学史上稀に見る兇悪と異形の成就。氏の突然の御逝去を御遺族の方々共々衷心より御慶び申し上げ奉る」
  (『弔辞』より)

 という具合に、様々なリズムと変化に振り回される感覚が心地よい、出来るだけ声に出して読みたい詩集です。

 「ちかごろわたしのおもうこと/だんだんだれかのかおににてくる/だんだんだれかにもどってゆく/わたしをとらえ/みぐるみはがし/さんざんもてあそんだあげく/やみへほうむりさったやつ/やつのあわれなまつろなら/やみのうわさにきいていた/あさのしごとのつかのまを/ひとりかがみにむかうたび/ちかごろいつもおもうこと/だんだんだれかのかおににてくる/だれかのまつろのあわれさが/だんだんほねみにしみてくる」
  (『闇の噂』より)


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『瑞兆』(粕谷栄市) [読書(小説・詩)]

 「満ち足りて、女も眠りにおちる。女の一生のある一日は、そうして終わる。本当は何だったろう、あれは。夕べの天の瑞兆のようなものを、女は、もう覚えていない。/ つまり、この世のことは、一切が、やがて、何ものかの遠い夢になって終わるということなのである」
  (『瑞兆』より)

 思い起こせば、自分の一生は誰かの儚い夢のようなもの、それで一向に構わない。人生のあらゆる悲嘆を突き抜けた先にある静かな諦念を独特の言葉でとらえ、昔話風に書いた詩集。単行本(思潮社)出版は、2013年10月です。

 「この世は地獄ではないから、そんな夜があっても悪くないのだ。つまり、その夜は、何がめでたいかわからないほど、一切が、ぐるぐる廻る、めでたい夜だった。/ 本当にめでたいことは、人によっては腹を立てるほど、でたらめで、馬鹿馬鹿しいものだ。だから、その日が、どこかの浜辺で、何かに躓いたおれが、頭を打って、そのまま、死んだ日だとしても、一向、差支えはない」
  (『吉運』より)

 「何れにせよ、月並みに、一生を永い旅路と思えれば、道中で、何があってもおかしくない。そう考えれば、この世は、べつに捨てたものではない。たとえ、自分の女房が、芒の野原で出会った、正体の分からない女だったとしても、生涯を睦み合って暮らせれば、一向、構わないのだ」
  (『白狐』より)

 自分の一生が、たとえ誰かの夢だったとしても、それでいい、一向に構わない。下手すると、ただの「無責任な男の甘えた言いっぱなし」になってしまいかねない陳腐な無常観を、昔話風の独特な表現で、切々と胸に響かせてみせる。どうしてそんなことが出来るのか、何度読んでもよく分からない不思議な作品集です。

 「苦労ばかり多くて、夜毎、泣きながら眠る、運の悪い男が、一度だけ、その桶屋の夢を見たことがある。/ 彼は、青い浴衣の女房に背負われていて、鉢巻をしたまま、赤ん坊のように笑っていた。満月の夜の墓場のことで、あたりに、やたらに大小の桶が転がっていた。そのどの桶にも、墨で、大吉と書かれていたというのだ。」
  (『大吉』より)

 夜の墓場、あたりに転がっている桶。それだけなら怪談にしかならないところを、女房に背負われて、鉢巻、笑顔、そして大吉、という言葉がひとつひとつ降り積もって、控えめな喜ばしさが生まれてくる、それが、何だかよく分からないけれど、人生のすべての悲嘆をいい具合に相殺して、ちょうど、ゼロにしてくれる。そんなバランスが、どうにもこう、ぐっと来るんですよ。

 昔話風なので、動物が出てくる作品が多く、どれもお気に入りです。

 「ここまでで、分かる人には分かるだろう。これら一切は、おれの見た夢のなかのことなのだ。今夜は、満月で、町はずれの古びた狸の看板の店は閉まっている。/ 襤褸にくるまって、おれも狸たちも眠っている。考えれば、おれはその狸の一匹かも知れない。他ならぬこの夢も、本当は、その狸が見ているのかも知れないのだ。」

 「ほたるを、三匹、下さい。そういう客がくれば、彼女は、立ち上がって、桶の一つから、長い箸で、ほたるを挟んで、紙の袋に入れてくれるだろう。/ そして、言うのだ。うちのほたるは本物のほたるですよ。見て下さい。みんな、尻に小さい灯を持っていますが、昨夜まで、この町で生きていた人間の娘ですよ。/ それを、どんなやり方でほたるにしたかは、訊いてもいけないし、答えてもよくないらしい」
  (『ほたる』より)

 「さまざまの事情で、私も仕事がうまくゆかず、鬱屈して、家に閉じこもっていたのだ。医師は、私に、何やらむずかしい病名の診断をくだしていた。/ たぶん、そんなことから、あの気の毒な猪が、あやしい血の時間に、私を頼ってくることがあったのだろう。/ その後、眠れない夜明け、何度も、私は、あの猪の夢を見た。彼は、廃れた工場の空き地で、汚れた紙幣を数えていた。そのときも、彼の細い目は、哀れに思えるほど真剣だったのだ」
  (『来訪』より)

 いずれ売られるのに何も言わずに眠る狸、蛍にされた娘、金策に駆け回る猪。どれも鮮やかなイメージです。深い哀しみをたたえながらも、どこかひょうきんな雰囲気も感じられ、生きてゆくってそういうもんかも知れないよなあ、たぬき。

 というわけで、夢のように過ぎ去って終わりが近づいた人生の、あれやこれやを静かに受け止める境地が昔話となってぽろぽろこぼれ落ちたような詩集です。自分の一生は失敗だった、無意味だった、という苦しみにもうどうしていいか分からないようなとき、そっと開いて読みたい一冊。

 「私は、もう、そこにいられなかった。乏しい家財を処分し、彼女の亡きがらを寺に葬った。私は、その家を離れた。再び、戻ったことはない。/ それから、永い年月が過ぎている。今となっては、一切が、遠い暗い夢である。だが、その暗い夢のどこかに、あの烏瓜の実るところがある。/ 不思議に、そこだけが明るい青い湖の舟の上から、指さして、彼女が、それを私に教えている。岸の松の木に絡んで、灯のように、烏瓜が連なっている。/ それは、私の願いである。若し、あの世があるとしたら、死んで、私の行くところは、その彼女のいる舟の上なのである」
  (『烏瓜』より) 


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『ダメをみがく “女子”の呪いを解く方法』(津村記久子、深澤真紀) [読書(随筆)]

 「ただ、女の人が、社会や、個人的な関係や、同性間の相互監視において求められる山ほどのことのうち、自分に合わない側面は、無理やり達成しなくてもいいのではないか、と言いたいだけである。すべての人にとって、世の中が少しでも働きやすく生きやすい場所になることを、いつも願っている」(単行本p.250)

 仕事も私生活も充実させ、キャリアアップを目指しつつ普通に結婚してきちんと子育てし、他の女性を見ては値踏みして自分と比べ、向上心を忘れず、身ぎれいで、センスがよくて、しなやかな感性で会社を元気にしたり、人材活用で日本経済を復活させたり、しまいにゃ自然の豊かさを守ったり原発止めたり、なんで女やからってそんなことまで期待されなあかんの? もうダメでええやん。ダメ女子を自認する編集者と作家がぬるーく、でも真面目に語り合った対談集。単行本(紀伊國屋書店)出版は、2013年4月です。

「深澤:団塊世代から私たちバブル世代は、無駄にやる気が空回りしている人が多くて、働いてきてずっと違和感があったんです。でも、10年くらい前から少しずつラクになった感じがしていて。それは、私が名付けた草食男子もそうですけど、年下の世代に淡々と生きてる人たちが現れたことで、「私、この人たちと生きていけば大丈夫」と思えるようになったから。津村さんもその大きな存在です」(単行本p.31)

「津村:女子力のなさを商品価値にできてありがたいです」(単行本p.12)

「深澤:私は津村さんのファンだし、すごく尊敬しているけれど、対談したかった理由は「尊敬してるから」というより、「この人のダメさをもっとみなさんに知ってほしい」っていう」(単行本p.11)

「津村:降り方、要するに、ダメになり方がわからないっていうのはちょっと疲れるかもしれませんね」(単行本p.95)

「深澤:私たちには、いいところはほんとにちょっとしかない!」と自信を持ってお伝えしたい」(単行本p.109)

「津村:伝えましょう」(単行本p.109)

 全体の雰囲気を伝えるために、お二人の発言を適当に抜き出してリミックスしてみましたが、おおむねこんな感じで進んでゆく対談集です。

 色々と「向上心を持たなきゃダメ」と思い込まされ、焦って疲弊している女性に、ダメからの脱却を目指すのではなく自分のダメなところを受け入れてうまく生きてゆこう、むしろダメに磨きをかけよう、だってその方がラクやし、と語りかけます。

 津村記久子さんの読者にとっては、自分のことをエッセイよりも詳しく語ってくれるのが興味深いところ。最初の職場を辞めることになったパワハラ被害のこと、文学賞のこと、おかんのこと、ついに会社勤めを辞めて専業作家になった後の生活のこと、趣味の話、友達の話、職場にいる困った人の話、フォントの「メイリオ」がいかに素敵かという話、などなど。

 個人的には、散見される津村さんの「反応しづらい変な発言」の数々がお気に入り。

「津村:私は、あるスポーツ選手の尻がでかいってことをずーっと頭の中で唄ってたんですが、その選手、実は尻でかくなかったんです」(単行本P.98)

「津村:大阪の西天満のあたりに、窓に「貸」とだけでっかく赤字で書いた貼り紙をしてる部屋があって、それが面白くて、友達と「貸ス、貸ス貸ス貸ス貸ス」って虫の鳴き声みたいに言い始めて、しまいに、「わぁ~、貸してくれるんですか~?(棒読み)」「貸貸貸貸」ってサンテレビでやってるようなコマーシャルみたいなのつくって、えんえんと1時間ぐらいやってた、最近。ちなみに、その友達は既婚者ですよ」(単行本p.122)

「津村:アフリカの鳥とかビーバーになって、土とか枝で立派な巣をつくりたいわーとか、しょっちゅう考えてます」(単行本p.240)

「津村:「あの選手は今山岳で苦しんでるんやから、私も苦しまなあかん」って、7月の夏場のわざわざ暑いときに自転車で20キロくらい走ったりしてました。私が観ると応援している選手が大変な目に遭うので、うっかり夜に中継を観てしまう前に疲れてしまおうという算段でしたが」(単行本P.124)

 深澤さんも、こういう発言にはちょっと戸惑うらしく、こんな会話が続いたり。

「深澤:誰かにその話しても、聞いてる人はぽかーんとするでしょ」

「津村:しますします」

「深澤:私もちょっとぽかーんとしたし」(単行本p.124)

 しかし、これだけ頑張って「自分たちはダメである」と主張してもなかなか納得してもらえないあたり、ダメ道の厳しさがよく分かります。

「深澤:前回の対談後、スタッフのひとりから「あれじゃまだダメじゃないです」「ダメの具体例が足りない」と言われて、「こんなにダメなのに?!」とショックを受けたんですけど、私たちダメですよね」

「津村:ダメですよ。昨日の夜、深澤さんと食事したけど、不安になるくらいのダメ話ばっかりで」

「深澤:今までほとんど話したことのないダメ話をしてましたね」

「津村:しかし「ダメが足りない」っていうダメ出しってすごいですよね」(単行本p.138)

 というわけで、自分たちこんなにダメだし、それでいいじゃないか、とひたすら語り合う二人。実際に死ぬほど働いてきたお二人の語る言葉だけに説得力があります。救われる人も多いんじゃないでしょうか。

 ちなみに、この対談のきっかけとなったメールの話も印象的です。

「深澤:津村さんとメールをやりとりしてるときに、津村さんが「最近いろいろトラブルが多くて……」とつらつら書かれた最後に「大人だから耐えてやってるんだよ、調子のんなよ!」と書かれていて」

「津村:そんなこと書いたんですね、ものすごく怒ってますね」

 津村さんが放つ言葉は素敵です。


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『やりたいことは二度寝だけ』(津村記久子) [読書(随筆)]

 「「わたしには、わたしが稼いだお金で、こうやって遊べてて、それが大事やと思う」と友人は、訥々と言った。何度も転職し、お金が足りないこともよくあった彼女の二十代だった。わたしは今でも、彼女のその言葉を思い出す。そして勇気を出す」(単行本p.252)

 津村記久子さん初のエッセイ集。単行本(講談社)出版は、2012年6月です。

 仕事をする人々を書いてきた作家、津村記久子さんが、日常のあれこれを、こう、脱力系というか、ゆるーい感じで、語ってくれるエッセイ集です。まあどうでもいいことなんだけど、みたいな前置きをつけて、地味な話題をぼそぼそ話しているというイメージなんですが、それが妙に可笑しい。

 「去年の晩秋だろうか、「予定の数だけ服がいる!」という女性誌のコピーを車内吊りで目にした時に、あまりの潔い断言っぷりに目を剥き、一緒にその社内吊りを目撃した友人も、それに対抗して、「予定がなければ全裸でいい!」とぶち上げたのだった」(単行本p.31)

 「築うん十年という家は、予想外のトラブルの宝庫である。このごろびっくりしたのは、一階に雨漏りがしていたことだ。(中略)子猫が落ちてきたこともある。おそらく、クリスマスツリーのライトを入れることによって、板を外せる部分が不安定になり、なにこれ、と見に来た猫が、誤って下の部屋に落下したのだろう。猫に落ちられた我々も我々だが、子猫は子猫で運が悪すぎる」(単行本p.97、98)

 「この原稿の主旨は、「以前、『賢い動物』というキーワードで検索をかけたら、『もっとも愚かな動物=人間』という記事がたくさん出てきた。せっかく『賢い動物』の話をしようとしているのに、なんで自分の話ばっかりするんだ、歪んだ自己愛だ、そういうところが嫌いなんだ人間の」となる予定だった。が、念の為検索し直してみたところ、ほとんどそんな記事は出てこなかったのである。これは一体どういう事態か。夢でも見たのか。人間に冤罪をなすりつけてまで嫌がろうとする自らの暗部を見たような気がした」(単行本p.38)

 文学ともビジネスとも無関係だけど、思わず失笑したり、妙にしみじみと共感したり、そんな話題が数多く収録されていて、最後まで同じ調子で楽しめます。作家生活についての細かい情報も多く、愛読者にとっては興味深いところ。

 「もっとなんか、絵になっているものじゃないのか「作家」って。わたしが小さい頃に思い描いていたそういう職業の人たちは、とにかく、会社の裏紙とガッテン知識でどうにかこうにか、ではなかった」(単行本p.246)

 「わたしは、二十一時に床について一時半ごろに起き、二時間小説を書いてまた四時半ごろに寝る、という生活をしている。(中略)時間帯によって書く文の種類を分けている。昼間勤める会社を出てから帰宅までにエッセイなどを手書きで書き、小説は夜中にパソコンで書く」(単行本p.95、106)

 「タイトルをつけるのが苦手だ。それまでは、書き上がった小説の今後について楽しく打ち合わせていた編集者とも、タイトル出しの段になると無言になってしまう。最長で三ヶ月かかったことがある」(単行本p.76)

 「うちの母親は、まったく読書ということをしないのだが、未だペンネームとタイトルに対してしつこく注文をしてくる」(単行本p.15)

 「小説は常に好きなもののことについて書いている。内容があまり幸せなものでなくても、その舞台設定は基本的に好きな場所だ。ショッピングモールが好きなので、小説に書いた」(単行本p.222)

 「小説の中に登場する、なすびカレーになすびをトッピングしていた男性は実在するのだが、その人は梅田大丸の地下の店で見かけた。主人公と同じように、わたしもその注文を聞いたときには耳を疑ったものだが、自分と同じぐらいの年の頃の男性が、にこにこと微笑みながら、なすび、なすび、と口にする様子に、なんとはなしに幸福な気持ちになったものだった」(単行本p.214)

 あとがきで「間断のない、さざなみのようなどうでもよさが押し寄せてくる校正作業であった」(単行本p.258)と著者自身がつぶやくようなエッセイ集なのですが、しかし、仕事の話になると気合が入ってきます。

 「どういう理由かはうまく説明できないのだが、わたしの中では『仕事の邪魔をする』という行為は、すさまじい悪徳として分類されている。(中略)なんというか、ある種外道にも劣る行為というか、とにかく絶対にやってはいけないことだ」(単行本p.241)

 「あまりに観念的な言い方になるけれども、働く、働くことができる、ということは、自分の生活にぶしつけに干渉してくる世間や世界と渡り合うための、唯一の手段なのだった」(単行本p.251)

 「夢を失ったことはとうにわかっている。しかし、そのことをうだうだと悔やんでいては、週末に友達と食事に行く楽しみさえ達成できなくなってしまう。わたしたちは、自分たちの定めた分相応を維持するために、どうしたって働くのである。やがてやってくる親や家や自分自身の不調を覚悟しながら」(単行本p.251)

 誠実に仕事をすること、真面目に働くこと。津村さんの小説には、その覚悟や敬虔さが書かれていると、個人的にはそう感じています。上に引用したような文章を読むと、しみじみ思うのです。やっぱりなあ、と。

 他にも色々な話題が登場しますが、意外なことに「二度寝」については書かれていません。理由は「あとがき」で説明されています。

 「ちなみに、いったんこのあとがきは二度寝について書いてみたのだが、あまりにも「悲願」という感じで、自分で読み返してひいたので没とした。「二度寝について読みたかったのに!」という方がいらっしゃったらすみません」(単行本p.260)

 というわけで、あまりに切実な「悲願」は別にして、さざなみのようなどうでもよさが押し寄せてくる、でも意外なことに、読んでいて噴き出したり、あまりの共感にめまいがしたり、津村さんの小説の該当箇所を読み直したいという謎の衝動が湧き起こったりする、そんなエッセイ集です。

 ちなみに、『ポテン生活』などで知られる木下晋也さんのイラストも、雰囲気ぴったりで素敵です。


タグ:津村記久子
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『空の水没』(渡辺みえこ) [読書(小説・詩)]

  「母は父が掘った井戸に 身を投げて死んだ/私たち家族はその後/ずっとその水を飲んで暮らした/姉と私は母の井戸の水で育った」
  (『母の井戸』より)

 死ぬこと、生きること、その境目を見つめるような詩集。単行本(思潮社)出版は、2013年11月です。

 読んでゆくと、あちこち死のイメージが横溢していることに驚かされます。同時に、死と生の境界は曖昧で、ときどき行き来しているというか、どちらともつかない領域が広いというか、そんな感じが生々しいのです。

  「黒い森が優しく私に近づいてきた/透き通った香りがひりひりとしみ込んできた/幾筋もの細い月光が刺さっていたのかもしれない/それはあの世界なら痛み と言ったのかもしれない/あるいは眠り と言ったのかもしれない/言葉が必要のない世界で/私は月の光のようなもの 木の香りのようなものになって/溶けていくのを感じていた」
   (『森の吊り橋』より)

  「晩冬の星空を見上げると/水没した村に幽かに立っている/一本の杉の木のように/寂しい空の中に埋もれる//水面を渡ってくる風は/遠くからやってくるひとたちの/なつかしい呼び声がする」
  (『空の水没』より)

 特に、祈るように、繰り返し語られるのは、母親の死です。歳月によって純化され澄みきった青空のようになったその透明な喪失感が、読者の心を強く動かします。

  「どくだみの花が終わる頃/厠の梁に優曇華の花が咲いた/悪いことが起こる 悪いことが起こる/祖母は北の厠には行かなくなった//優曇華の花は すぐに天井一面に広がった/お迎えが来る/母は 晴れやかだった/夏が過ぎる頃/小さな羽のある虫が窓から出ていった」
  (『優曇華の花』より)

  「天空が青く透明なのは/死んでいくいきものの瞳の/静かな諦めのようなもの/そんなものを吸い込んで/あんなに透明なのだ/と母は言ったような気がする//若く死んでいった母が/言ったような気がする」
  (『草原の青空』より)

 母親の死が象徴的、観念的に書かれるのに対して、動物の死はもっと感傷的というか物語的に書かれており、その対比も鮮やかです。

  「雪の朝だった/羽ばたきの音と銃声/鋭い眼と嘴/母鷹だったかもしれない/父の銃口のほうが勝っていた//今も鷹の首には/弾丸が埋め込まれているのだろう/鷹は羽根を拡げ/目を開き続け/力いっぱいの野生の姿を/奥座敷に拡げている」
  (『剥製』より)

  「父の会社の倒産 一家離散のとき/ハナコがいるとアパートが借りられなかった/大型犬のハナコはたくさん食べた/もらってくれる人はいなかった/ハナコを保健所に連れていった//「処分」される そのドアが閉まる時/ハナコは私に振り向いた/いつも涙をためているような/暗い黒い瞳/ハナコはさようならとは言わなかった/ありがとう とだけ言った/ような気がする」
  (『相模大野 八時四三分』より)

 でも、個人的には、鷹や犬より、貝が主役となる詩の方が好き。

  「海の底を這いながら/真珠母貝が/貝自身を守るために作った/内側の密かな朝焼けに/はいり込んできた異物を/胞衣のようなもので包み/暗い光の傷を抱き続ける」
  (『痕跡』より)

  「静かに明るみ始めた浜辺で/砂の中の貝が/その中に溜めた暗い月光を/一気に吐き出している/かすかな音を/聞いたことのあるひとは」
  (『どんな明け方』より)

  「月明かりの静かな夜には/かつて海で暮らしていた/オカヤドカリが 鳴きます/小さく呻くように/夜じゅう鳴くのです//死んだ巻貝の殻に入って/入った殻に体を変形させて/体の中の小さな海を揺らせて/波音のする砂浜で/鳴きます」
  (『陸宿借の鳴く夜には』より)

 まるで貝やヤドカリと人魂が一体化してしまっているような、そんな感触もあります。死んだ人のことを想うとき、いずれやってくる自らの死を思うとき、なぜかそこに貝のイメージというのは、確かにあると思う。


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