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『ケレヴェルム』(関かおり振付) [ダンス]

 2014年3月16日は、夫婦でシアタートラムに行って、関かおりさんの新作公演を鑑賞しました。男女8名のダンサーが踊る80分の公演です。

 舞台上に敷かれているシートは光を部分的に反射するようで、また観客は舞台を見下ろすような位置にいるため、床にぼんやりとダンサーの鏡像が見える仕掛けになっています。

 公演中に匂いが流れてくる演出がありますが、残念なことに、花粉症で鼻がつまっていたせいか、あまり明瞭には嗅ぎ取れませんでした。おそらく、無意識レベルで情動を刺激されていたとは思います。(なお、公演終了後、使用した香りのサンプルが配布されました。「ひんやりと湿った場所を思い浮かべるような香り」と「過去の記憶のどこかに繋がっていそうな香り」の二種類です)

 他に舞台装置はなく、照明効果だけで勝負します。音楽もありません。ごくたまに、呼吸音、金属が鳴る音、電子音など、環境音がかすかに流されるだけ。

 薄暗い照明がともると、舞台上には数名のダンサー。ゆっくりゆっくり動き、組み合わさります。乗っかったり、ぶら下がったり、しがみついたり。そしてそのまま塊として動き続けている様は、まるで何やら奇怪な植物、あるいは棘皮動物を連想させます。

 けっこう無茶な体勢からのリフト。リフトというより、身体をよじのぼるような動作。接触によって理解不能な人外のコミュニケーションがとられているようでもあるし、群生生物に見える瞬間もあります。いずれにせよ、人間の動きや姿勢や意図から大きく逸脱したような奇怪な動作とポーズに、観客も意識が吸い込まれてゆくようで、舞台から目が離せなくなります。

 床に倒れたままじっとしているダンサー。よく見るとゆっくり手足がうごめいていたり。少しずつ身体を起こしてゆき、またそれが床の鏡像と合わさって奇怪なオブジェに見えたり。カレイドスコープのよう。

 すべては静寂のなかで進行し、自分が観ている光景が現実なのかどうかだんだん分からなくなってきます。時間の感覚も変な具合で、もしかしたら意識下で香りの演出が効果を発揮していたのかも。

 と、いきなり舞台は暗転。しばらく闇の中に取り残される観客。やがてまた、薄暗い照明がともると、舞台上には人数も開始ポーズも異なるダンサーがいて。

 この繰り返しで進んでゆきます。ソロで動くシーンもあるし、二名、三名、群舞、様々な人数で構成される場面も次々と登場して、床面の鏡像とも相まって、これまで見たことがなかったと感じさせるカタチや動きが次々と立ち現れる。観客を飽きさせません。

 この「飽きさせない」というのが冷静になって考えてみると凄いことで、80分もずっとこれをやっていて、動きのアイデアが尽きない。ときどき同じか類似した動きの繰り返しやフラッシュバックもありますが、それも含めて尋常ではない構成力で新鮮な驚きをもたらし続ける舞台です。

 特に印象的だったのは、舞台上の照明を落として、暗闇の中、胸部に照明を仕込んだダンサーたちが群れなしうごめくシーン。全体像がつかめないせいもあって、夢の中にいる感覚が強く感じられます。ダンサーたちが、円を描くように、互いに背を向けて立ち、同期して動くシーンも、思わずはっとするインパクトがありました。

 というわけで、人体の組み合わせによって「これまで見たことがない」と感じさせる、奇怪で異様なのに不思議な感動に包まれる光景、を創り出した舞台で、その独創性には目を見張るものがあります。これからも作品を観たい、というか体験したいと思います。

[キャスト]

振付・演出: 関かおり

出演: 梶本はるか、黒須育海、後藤ゆう、鈴木清貴、髙橋和誠、薬師寺綾、矢吹唯、関かおり


タグ:関かおり
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『アレグリアとは仕事はできない』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「ミノベは怒っていた。いつも怒っているではないかというのならば、ミノベは激怒していた。それは個人的な怒りという以上に、義憤だった。誠実さを欠くものと関わる、関わるのでなくても、そういうものが存在する、のうのうと目の前にある、ということに対する怒りだった」(文庫版p.25)

 職場に置いてあるコピー機の不調を訴えても誰からも相手にされないミノベ。理解されない悔しさと怒りを機械にぶつけるしかない彼女だったが……。会社における理不尽と孤立をえがいた表題作ほか一篇を含む作品集。単行本(筑摩書房)出版は2008年12月、文庫版出版は2013年6月です。

 「アレグリアはどうしようもない性悪だった。快調なスキャン機能で、それを主に使う男性社員の歓心を買い、そのじつ怠惰そのものの態度をミノベには示し、まるで媚を売る相手を選んでいるようにも見える。メンテナンスの人間がやってくると、ぐずっていたそれまでの様子を覆し、突然ちゃんと動き始めたりもする」(文庫版p.16)

 「道具をうまく使うことを愛し、ときどきは道具そのものを愛することもあるミノベだったが、アレグリアとだけは一生和解できないだろうと思いつめていた」(文庫版p.16)

 職場に導入された複合機アレグリアは、なぜかコピー機として使うときにだけ不調を起こす。コピー機能を使う女性社員であるミノベはイライラしているが、プリンタ機能やスキャン機能を主に使う男性社員たちはミノベの苦境を全く理解しようとしない。

 同じ女性社員であり、アレグリアをコピー機として使っているはずの先輩も、なぜかミノベとは距離を置いて男性社員側に立っている。そのことが辛い。

 職場で孤立する、というか、孤立していることさえ誰にも気付かれないミノベ。相変わらずアレグレアは男性社員とメンテナンス担当者の前では愛想よくいそいそと働き、ミノベが使うときには不調を起こす。

 「自分が最も受け入れがたいことはいったいなんなのだろうかと。それは結局、たった一人でこの機械はおかしい、と主張し続けることで、それに一切の共感を得られないことだった」(文庫版p.46)

 サポセンの女性オペレーターも、残業時間になってからやってくる(それまでミノベは待たなければならない)メンテナンス担当者も、誰もがミノベを、やっかい者、うるさいクレーマー、としか思ってないらしい。みんな敵。スキャン機能が不調になるとミノベに文句をつけてくる男性社員たちも、導入責任者のくせに被害者づらしているあいつも、みんな敵。

 「ミノベは、アレグリアの内部を覗き込みながら、自分がいったい何に怒ったらよいのかよくわからなくなってきていた。アレグリアに対してか、アレグリアを直しに来ても直しに来ても着実な結果を出さないアダシノに対してか、それともこんな機械を会社にねじこんできたコピー屋だかその子会社だかの営業の男に対してか、そいつと取引したシナダに対してか。すべてをどうしようもないとミノベは思った。けれどその連中のうちで、ノミベが今どうにかできるのは、目の前のアレグリアだけなのだ」(文庫版p.70)

 最初は「職場あるある」で笑っていた読者も、次第にノミベの怒りと孤独感に共感を覚えるようになってゆきます。

 そして、ついにミノベの我慢が限界に達するときが。

 「アレグリア。おまえは人を弄ぶんだな、そうなんだな?」(文庫版p.67)

 ミノベは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の機械を除かなければならぬと決意した。ミノベには技術がわからぬ。ミノベは、女性社員である。コピーをとり、資料を整える仕事をしてきた。けれども不実に対しては、人一倍に敏感であった。

 「三十分で事足りるはずだった。あいつをやるのは。あいつを」(文庫版p.68)

 自分一人でアレグリア殺害計画を実行しようとするミノベ。だが、彼女は誰かに先を越されたことを知る。いったい誰が、どうして。状況を把握したメンテナンス担当者アダシノが静かに言う。

 「いっそのこと、あいつを葬りましょう。この機会に」(文庫版p.88)

 自分だけではなかった。アレグリアを憎んでいる人がここにもいた。すべての人が敵ではなかったのだ。

 「少しだけ、油田から延びたパイプに穴を開けて石油を吸い上げるように、らくをしようとしたり、自分にだけ有利なようにことを運ぼうとしたり、ちんけな自尊心を満足させたりしようとするやつがいる。けどわたしたちはわかってる。そういうやつらの顔も罪も。わたしたちにはわかっちゃいないとやつらは間抜け面を晒してケチなことをし続けるけども。 この人はその、「やつら」ではない、とミノベは思った」(文庫版p.91)

 それまでため込んできた鬱積と義憤が噴出するように、ミノベの思考はやたら大仰になってゆく。なんだか、切ないなあ。

 アレグリアは単なる機械ですが、それは世の中の、会社の、理不尽さ、弱い立場の者に面倒を全部しわ寄せしておいて知らぬ顔を決め込む人々、反撃できないよう周到につくられている組織の仕組み、同じく弱い立場のはずなのに強い側にすり寄る卑屈な態度、そういった私たちを取り巻く腹立たしい現実を象徴しているかのように思えてきます。

 併録されている『地下鉄の叙事詩』は、通勤電車を舞台にした中篇。

 電車が二駅ほど移動する間の出来事を、別々の四人の視点から描きます。多視点の技法が冴え渡り、満員電車における殺伐とした人間模様がぞっとするほど立体的に浮かび上がって。

 「電車は暴力を乗せて走っている、とミカミはときどき思う。自動車のような、ある種能動的な暴力ではなく、胃の中に釘を溜め込むように怒りを充満させ、乗客はそれぞれに憎み合いながら、死に向かうトンネルの中を走っている」(文庫版p.162)

 「会社でどれだけ理不尽な目に遭っても、子供がぐれるといいだとか、次の身体検査の結果が劇的に悪くなってうろたえるがいい、と呪ったりはするが、さすがに殺したいだとか死ぬがいいとは思わない。なのに通勤の間だけは、いとも簡単に相手の死が頭をよぎる」(文庫版p.159)

 「自分たちは何なのだろう。暑苦しい箱に詰め込まれ、その中でひどくいがみ合い、お互いへの無関心に乗じて薄汚い欲望を満たす連中が、閉まったドアの隙間から滲み出す膿のように入り込んでくる」(文庫版p.175)

 読んでいるだけで、あの、暑苦しくじっとり湿度の高いしかも臭い空気、イライラ感をあおる誰かの舌打ちの音、みんなの殺伐とした無関心と拒絶、充満するマイナス陰怨。満員電車のいやーな雰囲気が伝わってきて、気が滅入ります。

 こうして読者に嫌気分を満喫させたところで、被害者と目撃者の視点からある痴漢事件の顛末が語られることに。被害者の自尊心を一方的に踏みにじる卑劣な犯罪。男性が読んでも、生理的嫌悪感でぞっとします。

 というわけで、人を侮った理不尽な扱いに打ちのめされ、悔しさに身を震わせ、涙を堪えて、それでも卑屈にはなるまいと仕事に誠実に向きあおうとする人々に、共感をこめてお勧めする傑作会社員小説です。


タグ:津村記久子
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『腰痛探検家』(高野秀行) [読書(随筆)]

 「本書の著者は頭がおかしい----。 久しぶりに原稿を読み返して、素直にそう思った。(中略)当時自分としては冷静に振り返っていたつもりだったが、今読めば、文体が異常だ」(Kindle版No.2832)

 誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをする辺境作家を襲った謎の腰痛。民間療法、西洋医学、鍼灸、理学療法、心療内科、さらには超能力まで、あらゆる治療を次から次へと試みるうちに、腰痛治療という深い秘境に迷い込んでゆく著者。

 高野秀行さんの腰痛探検記、その電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。文庫版(集英社)出版は2010年11月、Kindle版配信は2014年3月です。

 「腰痛持ちの感性と思考回路は独特である。腰痛持ちを取り巻く環境も独特だ。少なくとも腰痛世界を“探検”してきた私はそう思う。しかし、それが普遍的なものなのか私個人の特殊な体験なのか、他に事例がないから判断もできない。そこで私自身の腰痛探検を私小説ばりにセキララに語り、世の腰痛人間に問いかけたい」(Kindle版No.57)

 「いつの間にか「腰痛世界」という得体の知れない秘境に迷い込んでいる。わざわざ好奇心に駆られて目の見えない人の世界を探検している場合ではない。未知なる世界はここにあった。(中略)私はこうして腰痛世界の探検に乗り出して行ったのである」(Kindle版No.172)

 普通に考えれば闘病記なんですが、なぜか探検記になってしまうところがこの著者らしさ。治療を受ける場所を選ぼうとしてあれこれ調べだしたとたん、いきなり道に迷って「遭難」してしまうのです。

 「腰痛世界(民間療法業界)は、誰一人、その全体像すら把握できない「情報密林地帯」となっている。日本で腰痛治療を行っている人がいったい何万人いるのかそれとも何百万人いるのか、政府機関も大学の研究者も誰も知らない」(Kindle版No.624)

 「ようするに、高度情報社会の現代において、民間療法業界は文字通り、「秘境」状態にあるのだ」(Kindle版No.607)

 秘境、となるとずんずん踏み込んでしまうところがそもそも間違いだと思いますが、とにかく候補を二つまで絞るのに成功した著者。評判を聞いてみると。

 「どちらも微妙だ。かなり効くけど悪霊の話を聞かねばならない治療院と、効き目のほどは不確かだが安い治療院。「迷ったときは面白そうな方」を選ぶ習癖から一度ふらっと悪霊系に傾きそうになったが、今は遭難中の身の上である。面白がっている場合ではない」(Kindle版No.201)

 いきなり初手から、「悪霊が取り憑いている」と言い出す治療院を選びそうに。しかも、考え直してもう一方の治療院に行ってみると。

 「いかにも、「癒し系整体」という空気がみなぎっている。悪霊系ではないが、スピリチュアル系に来てしまったのかもしれない」(Kindle版No.227)

 で、読者の予想通り、何度治療を受けても症状が改善しない。しまいには高額の講習会に誘われたり、「うちの療法を広めるためにベストセラーを出したい。出版社に紹介してくれないか」と言われたり。それでも律儀に通って、治療費を払い続ける著者。

 「これではまるで悪い男と別れられないダメな女子みたいじゃないか」(Kindle版No.412)

 深く反省した著者は、次は宣伝チラシが「若い女性が書いたとおぼしきかわいい手書きの字で」(Kindle版No.639)書かれていた、という理由で別の治療院に移る。やっぱりそこも駄目で、次は指で触るだけでガンをも治すというカリスマ先生のところに。そこでも匙を投げられた著者は絶望して。

 「その絶望感の中に、ほんのわずかだが満足感がある。 私の腰痛は並みじゃないとやっと認められたということだ。ガンをも治したことがあるカリスマ先生も私の腰痛は治せない。 ある意味で、「ガンに勝った」ともいえる」(Kindle版No.1135)

 いえません。

 結局、西洋医学こそが王道、といって病院で検査を受けたところ、現代の医療では治療できない難病だとされた著者。

 「やっぱり難病だったのか。衝撃だったが、少し嬉しい。「あんたの腰痛は半端じゃない」と厚生労働省に認定されたような気分になる。 少し嬉しいがほとんど絶望的という、片思いの相手が自分のことを好きだと書き残して死んでしまったような異常に複雑な気持ちにとらわれた」(Kindle版No.1416)

 ところが、別の病院で再検査してみたところ。

 「愕然とはこのことだ。難病でもなければヘルニアでさえないなんて……。 ささやかな“特権意識”もブチ壊れ、あとは「ただの腰痛」という平凡で重い現実だけが残った」(Kindle版No.1475)

 いったいお前は何がしたいんだ。あまりの迷走っぷりに読者も頭を抱えそうになりますが、ここまでは序の口。まだまだ探検は続きます。お次は理学療法、その次は鍼灸、心因性ではないかと疑って心療内科に。さらには秋山眞人さんに超能力で何とかならないかと頼み込んで……。

 「道をまちがえていると気づきながら、その道を驀進してしまう癖が私にはある。引き返すのが嫌いなのだ。ドツボにハマりだすととことんハマらなければ気がすまない」(Kindle版No.2010)

 「暗黒の腰痛大陸をただただ彷徨って一年たってしまったという事実にあらためて愕然とする。新しい治療院に行くたびに期待し、効果がなくて失望し、でもずるずると未練がましくつづけ、結局諦めて次の治療院に移るという繰り返しだ」(Kindle版No.2141)

 「どうすればいいのか。どれを、どこまでやればいいのか。 すべて判断は私に委ねられている。西洋医学も民間療法もド素人の私に。「誰か決めてくれ!」と叫びたくなった。 独裁国家が民主化されても国民は幸せになるとはかぎらないとつくづく思う」(Kindle版No.2315)

 最初はシャレというか、自分の遭難っぷりを面白おかしく書いているのですが、やがて余裕が失われて、心理的に追い詰められて、だんだんとおかしくなってゆく様子に、読者もちょっと引いてしまいます。

 「情けない。心底情けない。プライドを傷つけられ、自己嫌悪に陥り、それでも腰痛を治すためだと思って頑張ったのだ。(中略)なぜこんな目にあわなければいけないのか。考えれば考えるほど怒りがこみあげて、悔し涙が出そうになった」(Kindle版No.2619)

 「「俺はね、もうやめたんだ」私は犬に笑いながら話しかけた。「もう何もかもやめたんだ」」(Kindle版No.2626)

 というわけで、最初は腰痛記だったのが、途中から腰痛依存症とでもいうべき病理の憎悪過程記録という感じに。腰痛だけでなく、民間療法院を次から次へと移り渡るような患者は、多かれ少なかれ似たような心理に陥っているのではないかと想像されます。思い当たる人に、一読をお勧めします。

 「今、腰痛時代の日記を読み返すと、その執拗さ、細かさに、狂気じみた執着心を感じて驚く。この頃、私は確実にどうかしていた。「腰が痛い」と「早く治さなきゃ」の二つしか考えていない。 まさに腰痛にとり憑かれていた」(Kindle版No.2773)


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『ホーム』(トニ・モリスン、大社淑子:訳) [読書(小説・詩)]

 「さあ、兄さん、帰りましょう」(単行本P.177)

 深く傷ついた兄と妹、二人が帰ってゆく場所。静かで深い怒りと悲嘆、そして希望と尊厳をえがいたトニ・モリスンの長編小説。単行本(早川書房)出版は、2014年1月です。

 強制的に故郷を追い出された黒人一家が、親戚を頼って住み着いた小さな田舎町、ロータス。だが、そこでの生活は辛いものだった。幼い娘シーは祖母からひどい扱いを受け、自尊心の芽をつまれてしまう。そんなシーをいつもかばっていたのは、兄のフランクだった。

 「彼女は彼の愛情の源、金儲けや情緒的利得などはいっさい考えない、無私の愛情の対象だったからだ。彼女が歩くことができるようになる前から、彼は妹の世話をした」(単行本p.43)

 「彼女には身を守るものが何もなかった。それは、利口でたくましい兄が近くにいて、面倒をみてくれて、守ってくれるという良いことのもう一つの面だ、と彼女は考えた----脳の筋肉の発達が遅くなるのだ」(単行本p.56)

 やがてロータスでの生活に飽き飽きしていたフランクは、友人たちと共に軍に入って町を出て行く。将来への希望を求めて。

 「彼はロータスが大嫌いだった。ロータスの不寛容な住民たち、彼らの孤立、とりわけ将来に対する無関心」(単行本p.19)

 「将来はなく、つぶす時間の長い連なりがあるだけだから。息をすることより他に目標はなく、勝ち取るものもなければ、誰かほかの人の静かな死以外、生き残るためのものも、生き残る価値のあるものもない」(単行本p.97)

「彼は軍隊が唯一の解決法なのだと説明しようとした。ロータスは彼と二人の親友を窒息させ、殺しかけていた。彼らはみんな賛成した。フランクは、シーは大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。 だが、大丈夫ではなかった」(単行本p.43)

 残されたシーは、すぐに悪い男に騙されて町から連れ出された後、あっさり捨てられてしまう。さらには、人種差別主義者の手にかかって非道な人体実験の対象にされ、瀕死の重傷をおうことに。

 一方、フランクたちは朝鮮戦争の最前線に送られ、そこで使い捨てにされる。友人たちは無残な肉塊となり果て、生き延びたのはフランクただ一人。だが、ある悲惨な出来事のせいで、彼の魂は深く深く傷つき、精神を病んでいた。

 劣悪な精神病院で拘束されていたフランクは、妹の窮地を知り、病院を脱走して困難な旅に出る。人が人として扱われない世界で、たったひとり死にかけている妹を救うために。

 それぞれに傷つき死にかけているシーとフランクを、しかし、ごく普通の人々のささやかな善意や思いやりが助けてくれます。人が他人に示す共感、思いやり。それは、これほどのむごい現実にも屈しない力となるのでしょうか。そして二人が帰るべきところ、人として誇りを持って生きられる場所、それはどこにあるのでしょうか。

 無駄のない引き締まった文章、詩的な優れた情景描写とともに、語りの技法にも感心させられる作品です。例えば、ほとんどのページで主人公フランクの言動は三人称で語られるのですが、ところどころにフランクの「モデル」らしき人物が、一人称で、「作者」らしき人にこの「物語」に対するコメントを語るメタパートが挿入され、これが劇的な効果をあげています。

 「あなたはぼくの物語を語ろうと心に決めているのだから、何を考えようが、何を書こうが自由だが、これだけは覚えておいてほしい」(単行本p.7)

 「あなたは愛について、あまりよく知ってはいないと思う。 あるいはぼくについても」(単行本p.83)

 「あなたは書き続けることができるけれど、真実を知らねばならないと、ぼくは思う」(単行本p.161)

 これによって、語りは重層的となり、物語には真実味と切実さが加えられ、さらにはいわゆる「信頼できない語り手」を使ったドラマチックな転換がもたらされ、最後には「物語」と一人称パートが合流して圧倒的な感動を生む。見事な構成だと思います。

 プロットだけ見たらベタな話なので、つい油断してしまいますが、これが読者の心を強くゆさぶる力を持っています。

 人種差別、黒人コミュニティ、傷ついた魂、救済、そしてもちろん愛。トニ・モリスンのこれまでの作品と共通するテーマを持ちながら、余計なものをぎりぎりまでそぎ落とし、比較的短いページ数にすべてをぎゅっと圧縮したような、高純度で切れ味鋭い小説。心も凍るような悲惨な出来事、静かで深い怒りと悲嘆を書きながら、しかし同じくらい強く人の希望と尊厳をかいま見せてくれる小説。お勧めです。 

 「あんたがどんな人間かを決めさせるんじゃないよ。そんなことをするのは奴隷制なんだ。あんたの心のなかのどこかに、わたしがいま話題にしている、自由な人間がいるんだよ。その人間を突き止めて、世の中で何かいいことをさせなさい」(単行本p.149)


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『見知らぬ国のスケッチ アライバルの世界』(ショーン・タン、小林美幸:訳) [読書(小説・詩)]

 「この本では『アライバル』の小さな世界がどのように築かれたかをご紹介している。製作初期段階のさまざまなアイディア、コンセプトの発展過程、完成図の製作----そういったものから、より深く『アライバル』を知っていただけるととても嬉しい。単なるスケッチ集としてご覧いただいても、楽しめるのではないだろうか」(単行本p.6)

 誰も見たことがない未知の国に移民してきた男が体験する驚異を不思議なイラストで表現した絵本『アライバル』。この名作はどのようにして創られたのか。多数の素材、メモ、下書き、途中経過、そしてエッセイを通じて、著者自身がその秘密の一端を明らかにしてくれる一冊。単行本(河出書房新社)出版は、2014年3月です。

 全世界で大きな話題となったショーン・タンの『アライバル』。私も魅了された一人です。原書読了時の紹介はこちら。

  2011年05月13日の日記:『アライバル』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-05-13

 なお、その後、日本版が出版されました。といっても言葉による説明が一切ない絵本なので、日本語化されているのはタイトルと奥付くらいのもの。

 「僕は『アライバル』を水面下の氷山の存在を感じさせない、もうひとつの世界で発見された古いアルバムのような作品にしたいと思っていた。そして、余計な説明がないほうが、いっそう興味深い作品になるのではないかと考えた。つまり、読者に提示されるのは、不思議なイラストの数々と、どこかわからない風景のなかの声を持たないキャラクターだけ、というわけだ」(単行本p.5)

 様々な人物、客船、新世界の風景、不思議な生き物、さらには小道具や文字、記号に至るまで、本書は『アライバル』に登場した様々なもののラフスケッチやメモ、素材などを見せてくれる資料集です。その膨大な量には驚きを禁じ得ません。

 しかも、一つ一つの素材やスケッチが独自の魅力を持っている、というか著者のいうように、『アライバル』と切り話してもスケッチ集、イラスト集として充分に楽しめます。

 挿入されているエッセイでは、製作過程を詳しく説明してくれたりします。

 「最も重要な中期段階には、全シーンをつなげて“ダミー”を三冊製作した。この段階で、各ページの内容が暫定的に決まった。さらには、人々がイラストだけで綴られた文章をどのように“読む”のか検証することもできた。余白に書き込んだメモは、あとで詳細なイラストを描くときに“追加の脚本”の役割を果たしてくれる、ト書きのようなものだ」(単行本p.26)

 「主人公の男性には、便宜上“アキ”という名前を使っていた。物語を最大限に伝えるため、どのページも非常にシンプルで整然としたコマ割り----ゆっくり読んでもらえるように----にし、人間にも動物にも明快でわかりやすい動作をさせた」(単行本P.26)

 「随所に使った筆記体風の文字はまったく意味を成さないが、本物の文字のように見えてほしいと思っている。はさみとテープを使い、ローマ字とアラビア数字に外科手術を施して再構築したものだ」(単行本p.31)

 「主人公が“新しい国”で知り合った家族と夕食を楽しむシーン。(中略)僕は三人の友人を招き、彼らに協力してもらって、これと似たようなシーンをビデオカメラで撮影した。それから静止画像をコンピューターに取り込んで、さまざまな要素を組み立て直して構図を試作し、その途中で動物やそのほかの細々としたものを書き加えていった」(単行本p.43)

 個人的には、あの「ネズミのようにも、犬のようにも、イルカのようにも、サメのようにすら見える」(単行本p.35)不思議なコンパニオン・アニマルのモデル、粘土模型の写真、そして様々なイラストがびっしり載っているページがお気に入り。

 というわけで、『アライバル』資料本としても良いし、単にショーン・タンのイラスト集としても大いに楽しめる一冊です。


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