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『未闘病記 ----膠原病、「混合性結合組織病」の 〈前編〉』(笙野頼子)(「群像」2014年4月号掲載) [読書(小説・詩)]

 「本当の難病を、リアル、真性難病患者が書く。でもね、私は作家だよ、難病とは知らず、人と同じと思って放った言葉を人に通じさせて、三十年以上来てさ、それを語りなおす。今までの笙野頼子の全作品の裏にあったものを。何かミステリー解決編のように」(群像2014年4月号p.26)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第84回。

 希少難病、混合性結合組織病MCTDと診断された著者が、これまでの全作品の再構成に挑む壮絶な膠原病文学。その前編が「群像」2014年4月号に掲載されました。

 「あの時、これでもう死ぬのって思ったのに、今、不健康に、エゴを生きている。入院でないと駄目って言われたけど通院で済むようだ。猫は投薬出来なきゃ猫心臓腫れて死ぬ」(『日日漠弾トンコトン子』より、新潮2013年5月号p.157)

 「三十二年経過……か。わー、へっへーい! 生きているよ? この作者め! それが一番奇跡!」(『三十二年後生きている!』より、江古田文学84 p.151)

 「だって今難病治療中なんですよ私、まあ病気自体は割りと早く寛解に持ち込めたんだけど、なんたって劇薬服用と血液検査はずーっと付いて回る。(中略)人間が先に死んではいけない。それをモットーに今は生きているそれにしても」(『幽界森娘異聞(講談社文芸文庫版)』後書きより。文庫版p.307、311)』

 「ふいに群像のための長編も書く事になったり、ちょっと集中力散ってるけどゆっくりでも喜んで準備しています」(『幽界森娘異聞(講談社文芸文庫版)』後書きより。文庫版p.307)』

 ここ一年くらいに発表された笙野頼子さんの作品にはどれも、難病で死にかけた今も治療中というような記述があり、とても心配していたのです。おそらく「ふいに書く事になった群像のための長編」でその事情が語られるだろう、大したことがないといいんだけど、などと思っていたら、それが、今、ついに、明らかに。

 混合性結合組織病MCTD。

 本気の希少難病。原因不明、根治不可、症状激烈、合併症があると予後不良。やばい。

 「膠原病の中でも特有の厄介さに溢れているらしくて。判らない、判らない、判らないのがこの病気の困難のひとつであって」(群像2014年4月号p.22)

 「私は三種類とこのシェーグレンを持ち、その上にSLEの抗スミス抗体をほんの少し持っている。でも一番出ている症状は多発性筋炎でなおかつその抗体はまったく持っていない。症状は四種類、抗体は三種類。さて、ああもう数えるのも面倒だわい」(群像2014年4月号p.24)

 「でも手指は腫れてSSc、関節痛みSLE。喉も痛くてシェーグレン」(群像2014年4月号p.25)

 いきなり大発作に襲われた体験が詳細に書かれていますが、これが読んでいるだけで顔から血の気がすーっと失せてゆくような、痛さ、辛さ、苦しさ、その地獄。救急車呼んでーっ、心不全おこす前に、すぐに、今すぐっ。

 「どっちにしろ痛くて動くどころではなかった。救急車を呼ばなかったのが正しいのかどうか今もよく判らない」(群像2014年4月号p.43)

 「たった数日とはいえ、一番困ったのは猫トイレの掃除と二月とて灯油の補給である。(中略)それでも三日目にはもう風呂に入れるようになっていたのだった」(群像2014年4月号p.46)

 「医者に行けない、の気持ちの中には無論、行って何か変な事言われたら不快、怖い、というのがある」(群像2014年4月号p.46)

 む、無茶です。すぐ医者に行くべきです。我慢しすぎ。危険です。

 思いつつも、そういえばこの人、手が腫れ上がっているのに医者に行けずに自室でじっと我慢している小説『なにもしてない』の著者なのでした。変わってないんだ、そういうところ。

 というか、デビュー単行本『なにもしてない』に書かれていた、あの症状って……。

 「一冊目の本がもうこの病の事だったの。二十二年前にも手の指が腫れたのだ。皮膚科に行ってみた。でもその時点で既に肋は痛み、思えば、移動性多発性の関節、筋肉痛があった」(群像2014年4月号p.16)

 「これに限らず、その後は病や不具合をそのまま小説に出す事が多くなっていた。本は何十冊も出しているけれど、今思えば、それらは一種関節痛や歩行困難の長記録になっている」(群像2014年4月号p.16)

 「そしてこれは、希少難病MCTDを文学的に長記録した、かつてない膠原病文学かも」(群像2014年4月号p.26)

 これまでの作品にもよく出てきた身体の不調、それが実はずっと膠原病の症状だったという衝撃的な事実が明らかに。いや、そういう体質なんだとばかり。

 「難病とは知らず、人と同じと思って放った言葉を人に通じさせて、三十年以上来てさ、それを語りなおす。今までの笙野頼子の全作品の裏にあったものを。何かミステリー解決編のように」(群像2014年4月号p.26)

 これまでも、(『金毘羅』以降の)作品群を荒神ベースに再構成したことがあるのですが、今度は『金毘羅』以前の作品も含めて膠原病の症状ベースに再構成する、というのです。すす、すごい。

 一方、ようやく病院に行ったところ、症状を聞いた医者が飛び上がって叫びます。

 「うう、わ、い、痛みが、あ、あっちこっち、あっ! だめーっ、駄目えええええ」(群像2014年4月号p.48)

 膠原病で大発作を起こして数日我慢していた独り暮らしの患者。そりゃ、医者としてはパニックを起こしても無理はありません。そのまま帰宅させちゃ責任問題、というか医療事故あつかい。

 「直接描写のまじものの私小説に突入」(群像2014年4月号p.82)した本作では、病院などのシーンでも「普段の読者には耐えがたいようなみっともない会話」(群像2014年4月号p.65)がストレートに。いや、別にみっともなくないです。いきなり、原因不明で治療法のない難病だと言われれば、おろおろするのは当然。人間なんだから。金毘羅じゃないんだから。

 医者との会話。

 「「死ぬの」?「死なない」。「でも死ぬの」?「死、な、な、い、か、ら」。「だったら保険きくの?」」(群像2014年4月号p.68)

 親切な師長さんとの会話。

 「「私、ずっとストレスとかネットで脅されたり仕事を干されたり、痛くなってそれから急になんか物凄い熱と」、「うんうん、うんうんうんうんうんうん」」(群像2014年4月号p.68)

 あまり読者を深刻にさせないようにとの配慮でしょうか。不謹慎ながら、思わず笑ってしまいます。いや、笑い事じゃないんですけど。

 こうして、治療が開始されたところで前編は終わり。笙野頼子さんの、もしかしたらはじめての「まじものの私小説」。早く後編が読みたい。

 「死ぬの? 死ぬの? ガンよりは死なない? でも突然死があるって? だったらもう猫飼えない」(群像2014年4月号p.61)

 「何も、言われ、なかった。死ぬ、の? 死な、ない。でも、死ぬの? 以外の答はとりあえず「判らない」が多い、病気。 それから今まで「死なない」の後は「判らない」ばっかりで」(群像2014年4月号p.70)

 「知ったとき、暫く飲み込めなくて、その後ふいに自分の人生はまるごと、あれだ、悔しいって、一瞬、電撃だよ。でもその次にはいつまで書ける? って、どれを書き残すかって」(群像2014年4月号p.66)

 「もし私が誰かのせいで悪化したのだとしても、私はけして、相手も、誰も、殺さない。ただ、殺す代わりにフィクションを書いて世界に残していくと思っていた。千人の敵に囲まれてでも私は書くと。電子の自費出版でもして置いてゆくと。でも、それまで肺は無事か? あと少しなのにと」(群像2014年4月号p.66)


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『ミュージック・ブレス・ユー!!』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「自分が持たざる者であることをあまり気にしていなかった。音楽があるだけましだと思うのだ。いや、「だけまし」なんて物言いは本当におこがましくて、要するに、音楽は恩寵だった」(文庫版p.173)

 音楽を聴くと、それが鳴っている何分かだけは、息を吹き返すことができる。自分はその何分かをおびただしく重ねることによって延命しているだけだと思う……。音楽好きの高校生アザミが送っている、どうもぱっとしない、でもかけがえのない青春を丁寧に描いた長篇小説。単行本(角川書店)出版は2008年6月、文庫版出版は2011年6月です。

 「短所はあれです、なんかこう行動が遅くて、でも余計なことは簡単にやってしまって、勉強ができんくて、だからまあ頭が悪くて、男子から嫌われてて、ときどき女の子からも変な目で見られて、ほかにいろいろ。長所は、ええと、どんだけ食べてもあんまり太らんとこです」(文庫版p.130)

 他人との付き合いは苦手、成績も最下層。いきたい大学も、なりたい職業も、そもそも自分のことも、よく分からないまま、もやもやした日々を送っている高校三年生のアザミ。でも、彼女は不幸でも打ちひしがれてもいない。音楽があるから。

 「音楽のことだけを考えている時、アザミの頭の中でアザミはアザミ自身ではなかった。(中略)日本の女子高校生であることを恥じるわけではないけど、それを謳歌できる同世代の女の子たちを遠く感じるのは事実だった」(文庫版p.8)

 「アザミが頭の中で演じているような男の子は、すわりの悪い女子高校生の自分ではなく、現状をまるでそれが永遠だとでもいうように、確信的に生きている女の子たちを選ぶことも知っていた。それでもアザミは、音楽が鳴っている間は自分が自分でなくなることができるという空想を捨てることができなかった」(文庫版p.9)

 「音楽こそはその際に立ち続けていれば世界が吹き込んでくる窓だとアザミは信じていた。それはもう、信仰といってもいい具合に」(文庫版p.10)

 そんなアザミには、チユキという親友がいます。チユキは、何というか、冷静な激情家というか、周到なロックンロールというか、とにかく許せないと思ったら直接行動に出てしまうタイプ。

 痴漢を撃退したり、女の子を侮辱した男をトイレの掃除用具入れに閉じ込めて何日も放置したり、煙草のポイ捨てをした女を追跡して火のついたままの吸殻をブランド物のバッグに放り込んだり。さらには、友人であるアザミがちょっと気にしていた男と仲良くしている女子の髪の毛にガムをつけたり。

 まったくの犯罪なので、よいこは真似しないように。

 もちろん正義感からの行動ではないし、というかぜんぜん正義じゃないし、正当化もしないし、そもそも理由らしい理由もない。でもやってしまう。許せないと思ったら絶対引かない。行動する。理不尽でストレートで辛辣でかっこいいチユキ。

 「アザミは、チユキは何のためにああいうことをしたのだろうと今更ながらに考えた。キノシタさんに何らかの同情を感じたからだろうか。そうではないと思う。チユキはただ、ああいうことをせずにはいられなかったのだ。そういう人なのだ」(文庫版p.161)

 「アザミはどうしてもチユキを批判する気持ちにならなかった。自分がチユキの立場ならそうしたというのではなく、チユキはそういうことをする人で、それが問題であることもよくわかっているけれど、だからこそ自分はチユキと友達でいるのだということをアザミは改めて自覚した」(文庫版p.152)

 そして、自分と似たタイプの男の子、トノムラとの出会い。音楽という共通の趣味を通じて、二人の距離は次第に近づいてゆく、かというとそんなこともなく。ねーよ。

 「誰かを、ひどいだとか、卑劣だとか、くだらないだとか思うことはときどきある。けれど、あほやな、と思うことはそんなにない。それはいつも自分が他の人から思われていることだ」(文庫版p.116)

 「トノムラのことを考えた。あまり想像したことはなかったが、自分たちは似ているのかもしれない、とアザミは思った。自分に似ていると思う人間と出会ったのは初めてだった。それはとても面白いことだったし、ほんの少しだけ心強いことでもあったが、うちに帰って自転車を停めるころに残っていたのは、トノムラへの同情だった」(文庫版p.188)

 「「音楽について考えることは、自分の人生について考えることより大事やと思う」 トノムラは続けた。アザミは、息を吸い込んで神妙に耳を澄ました。話をするようになって初めて、トノムラの言葉にはそうやって耳を傾ける価値があるような気がした」(文庫版p.204)

 内面描写とはいえ、いちいち容赦ないというか、忌憚なさ過ぎというか、むしろトノムラがちょっと気の毒になります。結局、アザミの連絡先すら教えてもらえないし。

 どうにもさえないアザミですが、人として大切なこと、矜持や、敬意や、礼節や、誠意や、そこは決して違えない子です。どんなに欠点があろうとも、どんな理不尽な目にあおうとも、誇りを捨てない、道を間違わない。そういう彼女のきちんとしたところ、着実に成長してゆく姿がしっかり書かれていて、とてもまぶしく、嬉しい。

 「あんたはそうやって生きていったらええやん。 それは少しも価値のあることには思えなかった。そう感じる自分でいいのだ、とアザミは東京弁先生に背中を叩かれたような気がした」(文庫版p.80)

 「それは尊敬と言っても過言ではない感慨だった。先生はいくつなのだろうかとアザミはふと思った。あたしは先生ぐらいの年になったら、そんなふうにいくつも他人の事情を掛け持ちできる程度にはかしこくなれるのだろうかと」(文庫版p.208)

 「こんなことではいけないのに、と今年に入ってから、ともすればここ二年ぐらいで初めて思った。自分はできないということに逃げ込んでいる。それはもうできないことは厳然としてできないのだが、けれどこんなことでまでできないですませていいのだろうか。どうしたらちゃんと伝えられるのだろうか」(文庫版p.214)

 「もっとうまくものが言えるようにならなければいけないと思った。べつに全員にでなくてもいいけれど、とにかく自分が何かを言いたいと思った相手にはちゃんと言えるようにならなければいけない、と思った。本当に長いこと、アザミは座って考えていた」(文庫版p.215)

 「本当に、もう少しだけ考えれば、何かが自分の中で決まりそうだったのだが、それが何々大学の何々学科に行きたいという具体性のあるものでもないことも、なんとなくわかりかけていた。もっともやもやした円のようなものが頭や心の中にあって、アザミはそれがゆっくりと閉じてはっきりとした図形を描くのを待っている状態だった」(文庫版p.222)

 というわけで、ちょっと風変わりで頼りない高校生を主人公に、印象的な友人知人を多数登場させ、様々なことを経験しながら成長してゆく姿を描いたストレートな青春小説です。

 庇護されたときが終わり、仲のよい友人たちとも離ればなれになり、ただ一人で世界に立ち向かう覚悟を固める、あの瞬間。誰もが大切な思い出として心の中に刻み込んでいるであろう、あの感触がひしひしと蘇ってきます。切ないほどに。

 「車窓の向こうに世界が見えた。畏れが胸を通り過ぎて息をのんだが、やがて頭の中で鳴っている音楽がそれをさらっていった」(文庫版p.234)


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『退屈 息もつかせぬその歴史』(ピーター・トゥーヒー) [読書(教養)]

 「わたしは人生のかなりの時間を、退屈しながら生きてきた。慢性的退屈だ。そして、そうではないかと思いつつも証明できずにいるのだが、退屈はわたしに何の害もなしていない。(中略)この本で描き出せればと望んでいる点のひとつは、退屈というのが、ダーウィン的意味での適応感情だということだ」(単行本p.14)

 退屈、誰もが経験するこの感情はなぜ生じるのか、ただの退屈と「実存の退屈」に違いはあるのか、そして絵画や文学は退屈をどのように表現してきたのか。退屈をめぐる様々な知見を盛り込んだ、退屈しない一冊。単行本(青土社)出版は、2011年9月です。

 「一時的退屈は誰もがしばしば感じるものだ。列に並んでいたり、たとえばわたしの講義を聴いていたりするときに、この種の退屈をわずらうことは当然だし、またこの退屈はじきに終わるものである。だが、慢性的退屈はまったく別のものだ。(中略)人よりたやすく、しかも頻繁に退屈してしまう人々というのがいるのだ」(単行本p.58、62)

 退屈に関する様々な知見をまとめた本です。例えば、慢性的退屈が引き起こす問題について。

 「刑務所生活は、慢性的退屈が強制されることへの危険を示している。退屈が癒されなければ、人は怒りや暴力へ、または麻薬などの危険な逸脱行為へ、はたまたこの章の主題であった鬱状態へと駆り立てられるのだ」(単行本p.116)

 あるいは、動物は退屈するかという問題。

 「「人間は退屈を感じうる唯一の動物である」と述べていることに対しても、懐疑的にならずにいるのは難しい。退屈を、人間であることを定義する特徴のひとつとして理解する必要はない」(単行本p.97)

 動物の退屈を軽減するのに音楽が役に立つという研究には興味深いものがあります。

 「音楽が、退屈に対する反応をやわらげるのだとすれば、退屈自体をも軽減するのではないかと推測するのは妥当だろう。(中略)イヌはヘビーメタルを好まないらしいが、ウィスコンシン大学マディソン校のチャールズ・スノウドンと、メリーランド大学のジョージ・ティーの共同研究によると、チンパンジーはメタリカを気に入ったという」(単行本p.203)

 哲学的な退屈、いわゆる「実存の退屈」については多くのページ数が割かれています。そもそも「実存の退屈」とは何ぞや。

 「この種の退屈は、先にわたしが説明したとおり、「実存的」ないし「スピリチュアル」なものと呼ばれることもある。その人の存在そのものに影響しているかのように見えるからだ。作家や識者は通常、実存の退屈は単純な退屈よりも重要だと考えており、また、実際にこの退屈に苦しむことも多い」(単行本p.30)

 「フランス人は、実存の退屈という概念を排除し、これをメランコリーと呼ぶ傾向にある。それどころか、メランコリーと見なしうるものを見つけると、ひどく熱狂しさえする。(中略)メランコリー、または実存の退屈は、フランス人にとってのオブセッションだ。(中略)ロシア人もまたこの状態に特徴づけられる人々だ」(単行本p.34、35)

 「実存の退屈は----根本的に、神や宇宙の恩恵への絶望と結びついているのだから----その人間の実存そのものを脅かすものだという考えは、広く受け入れられている」(単行本p.156)

 聖書、絵画、文学、哲学(特にハイデッガーとサルトル)など様々な事例を取り上げて、著者は「実存の退屈」がいかに(西欧文明において)重視されてきたかを語るのですが、個人的には、正直いって、ピンと来ません。

 人生の無意味さとか、神の計画からの疎外とか、そんな当然のことに絶望したり苦悩したりすること自体が煩悩なので、修行でも何でもして捨て去ればいいじゃん。などと思う私は、もしかしたらキリスト教徒でないせいで「実存の退屈」の本質が理解できないのかも知れません。

 もっとも、本書の著者も「実存の退屈」についてはシニカルな態度をとっています。そんなの、ただの鬱であって、高尚なものでも哲学的なものでもないよ、と。

 「学者の生活が非常に退屈なものとなりうることは、わたしも経験から保証できる。(中略)だが学者たちはこれを認めたがらないものだ。自分たちが単純な退屈におちいりやすいことについて、何か仰々しく知的な言葉をそれに与え、立派なことに見せようとしたがる」(単行本p.139)

 「実生活において退屈と自殺とのつながりは、文学テクストのそれほど強くないようなのだ。(中略)実存の退屈----単純な退屈ではなく----をわずらう者は、自殺について多くを語るかもしれない。しかし、実際に何か自殺めいたことをするとすれば、それはたいてい紙の上でのことだ」(単行本p.158)

 「退屈と自殺とのあいだに明確な関連性はない。自殺はとりわけ、頭でっかちな実存の退屈とは必ずしも関係していない。人生に意味はないとする知性的な考えは、それが苦痛に満ちた鬱の産物でないかぎり、死につながるような苦しみをともないはしないのである」(単行本p.161)

 そして話題は、退屈の医学的な研究に移ります。

 「ダニエル・ワイスマンのチームは、被験者の集中が途切れる間隔に注目することにした。集中力が弱まって退屈がまさったとき、脳内で何が起こるのかを、MRIデータから探ろうと思ったのだ。(中略)この実験でとりわけ興味深い点は、頭蓋内での対話が途絶えると、大脳皮質の特定の部分に「灯りがともる」ことだ。ダニエル・ワイスマンの実験は、退屈の(いわば)本部を発見したのかもしれず、退屈の発生を特定してくれるすぐれた手段を提示しているのかもしれない」(単行本p.9、10)

 私たちの脳のなかに「退屈中枢」が存在しており、自分が退屈していることを知らせてくれる。これは奇妙な感じがしますが、退屈という感情が誰にでも、動物にさえ備わっていることを考えれば、そういう器官が存在し、進化してきたと考えるのは理に適っているような気もします。

 「退屈は、心の健康にとって危険であるかもしれない状況、つまり興奮や怒り、鬱を促進するかもしれない状況から人を守ってくれる、初期警告システムとして働いているのかもしれない」(単行本p.121)

 「嫌悪と同じで、これは適応の結果獲得された感情だと思われる。それは種の繁栄を助けてくれるのだ。(中略)つまり、退屈のいとこである嫌悪が、生物学的に言って、実際の物理的毒物から自分を守るよう行動を変えてくれるのと同じことを、退屈は社会的毒物に関して行ってくれるのである」(単行本p.199、200)

 「たぶん退屈は、痛風や狭心症と同じようなものとして見るべきだろう----生活習慣を変えないと、もっとひどいことが起こりますよというサインとして。(中略)したがって退屈の最良の「治療法」は、この感情のアドヴァイスに従い、退屈を引き起こしている状況から立ち去ることである」(単行本p.200)

 というわけで、同じ話が何度も繰り返されたりして、全体的に記述がまどろっこしくて読みにくいのが残念。また、話題が西欧キリスト教文化圏に閉じていて、あまりにも文化的多様性に乏しいことも不満です。

 しかし、「退屈」の歴史から医学、文学や絵画における退屈の表現など、個々の話題はとても面白く、退屈というあまり積極的に注目されることのない感情が私たちの生活や文化に大きな影響を与えている、という指摘には新鮮な驚きがありました。


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『世界でもっとも強力な9のアルゴリズム』(ジョン・マコーミック) [読書(サイエンス)]

 「この本の著者として私がとても驚いたのは、これら大きなアイデアは、どれもコンピュータプログラミングやコンピュータ科学の予備知識を一切必要とせずに説明できることだ。(中略)どの場合でも、全体を機能させるための鍵を握っているメカニズムは、普通の人の概念だけを使って説明することができた」(Kindle版No.4132)

 ネットで通販するとき、私たちは人類が生み出した最も偉大なアイデアのいくつかを知らないうちに使っている。検索エンジン、データベース、誤り訂正符号、公開鍵暗号、デジタル署名。これら傑出した「アルゴリズム」の仕組みを、コンピュータサイエンスの知識がない読者にも理解できるように解説してくれる一冊。その電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(日経BP社)出版は2012年7月、Kindle版配信は2013年10月です。

 今日のコンピューティングで用いられている重要なアルゴリズムについて解説した本は数多く出版されていますが、いずれも「理解するためには、ある程度プログラミングの知識と経験を必要とする技術書」であるか、「まったく比喩だけで説明し、表面的に分かったような気にさせる雑学本」であるか、そのいずれかに偏っているように思えます。

 本書の特徴は、この中間、つまり「ごく日常的な概念と算数の知識だけを使ってアルゴリズムの核心を説明し、実際にそのアルゴリズムがどう機能するか手計算で確かめさせる」というところにあります。

 特に後半の特徴は素晴らしく、簡略化されたバージョンとはいえ、読者は実際にデータを圧縮復元してみたり、二つの小さな数字をキーにして暗号復号を試してみたり、シンプルなニューラルネットを書いてみたり、素朴なデータベースを修復してみたり、そんな体験を得ることが出来るのです。それも、プログラミングの知識なしに。

 もちろん面倒なら読みとばしてもいいのですが、自分でやってみることで、アルゴリズムの背後にある驚くほどクールなアイデアを深く理解できるようになります。そして、「気分が乗ってくる」のです。

 「この本で説明するすべてのアルゴリズには、核心の部分の巧妙なトリックによって全体が支えられているという特徴がある。そのトリックを解き明かしたときに「アハ体験」が得られる分、私からすると、この種のアルゴリズムは説明していて気分が乗ってくるアルゴリズムだ。願わくば、読者にとってもそうであってほしい」(Kindle版No.236)

 さて、本書でまず最初に取り上げられるのは、今日のインターネット検索エンジンを支えている重要なアルゴリズムである、インデックスとページランクです。

 インデックスに位置情報を組み込む、ページはハイパーリンクを介して他のページにその「評価」の一部を分け与える、といった中核的なアイデアが、どのようにしてあのグーグルが成し遂げた驚くべき成果を生むのか、詳しく解説されています。

 信頼性の低い(エラーが発生する)通信回線上で、信頼性の高いデータ通信を実現する誤り訂正符号。回線容量やディスク容量を大きく節約するデータ圧縮。

 流れるデータを誰でも見ることが出来るインターネットを介して、一度もオフラインで会ったことのない二人(例えば通販会社と利用者)が秘匿通信を行うという、不可能とも思える難事を解決してのけた公開鍵暗号。

 そして、手書き文字入力から大規模画像解析まで広く用いられているパターン認識のアルゴリズムとして、最近傍法、決定木、ニューラルネットワークが解説されます。

 「最先端の計測方法を備えた最近傍識別器は、手書きの数字では99.5パーセントを超える精度を誇る。(中略)エレガントに感じられるシンプルさとめざましい処理性能を兼ね備えており、コンピュータ科学の驚異と言ってよいだろう」(Kindle版No.1904)

 「重要ポイントは、決定木自体の細部ではなく、決定木全体が、約1万7000のウェブページから得た訓練データをもとに、コンピュータプログラムによって生成されたものだということである」(Kindle版No.1957)

 「自分の脳のなかに入り込んで、ニューロンを結ぶ接続の強さを分析できたら、大多数はでたらめに見えるだろう。しかし、アンサンブルとして働くと、これらのでたらめな強さの寄せ集めが、知的なふるまいを生み出しているのである」(Kindle版No.2161)

 データベースを支えるアルゴリズムとしては、ログ先行書き込み、二段階コミット、リレーショナルデータベースが解説されています。

 「どんな処理の途中でもエラーを起こす可能性のあるハードウェアを使って作られていながら、データベースは効率がよく頑丈で頼りがいがある。オンラインバンキングなどを通じて、私たちはデータベースのそういった性質を当然のものと感じるようにさえなっている」(Kindle版No.3050)

 データベースの驚異的な信頼性と一貫性を支えているアルゴリズムの巧妙さは舌を巻きほど。こういうことを分かりやすく解説してくれる本は少ないので、本当に助かります。

 「初心者向けのデータベース入門書はあふれかえるほどあるが、それらは一般にデータベースがどのような仕組みで動作するのかを説明するのではなく、データベースの使い方を説明するものである。大学レベルの教科書ですら、データベースの使い方に傾斜しがちだ」(Kindle版No.4262)

 そして、デジタル署名の解説を経て、アルゴリズムの「決定不能性」とは何かを読者に自分で確かめさせる、という途方もない難事に挑みます。

 「コンピュータプログラムによって書き出すことが本当にできない単純で正確な英文が存在する」(Kindle版No.3712)

 「ほかのプログラムを分析し、そのなかに含まれていてプログラムをクラッシュさせる原因になるようなバグをすべて見つけ出すプログラムは書けない」(Kindle版No.3956)

 といった直観に反することを順を追って証明してゆきながら、「チャーチ=チューリングのテーゼ」が何を意味しているのかを解説するのです。

 最後に、これらの革命的なアルゴリズムがすべて前世紀に生まれたことを指摘し、今後このような偉大なアルゴリズムが生まれる余地はあるのか、という問題を論じます。著者の考えはこうです。

 「今後は2つの効果が競合し合うようになる。ときどき新しいテクノロジーが新しいニッチを作り出し、新しいアルゴリズムが生まれる余地を生む一方で、コンピュータ科学という分野が次第に成熟してチャンスが狭まっていく」(Kindle版No.4086)

 「私はバランスを取ってこれら2つの効果が互いに打ち消し合うだろうと考えることが多い。すると、今後、新しい偉大なアルゴリズムはゆっくりしたペースながら、着実に生まれてくるはずだ」(Kindle版No.4088)

 本書では、今後新しく生まれてくる偉大なアルゴリズムの候補として、人工知能、ゼロ知識プロトコル、分散ハッシュテーブル、ビザンチンフォールトトレランス、などを挙げています。

 ところで、「ビットコイン」って、偉大なアルゴリズムなんでしょうか?

 というわけで、プログラミングの知識なしに、アルゴリズムを理解させようという野心的な一冊です。個人的に感心したのは、例えば本書で使われている「絵の具の混合という形で一方向性関数を表現する」といった比喩が、単なる比喩やモデルにとどまらず、アルゴリズムを実現する手段として実際に有効だと自分で確かめられるように書かれていること。アルゴリズムはコンピュータの物理的性質に依存しない、という本質を見事に示してくれます。

 「プログラミング言語の知識はコンピュータ科学者にとって必要不可欠である。しかし、それは単なる前提条件に過ぎない。研究者の主要な課題は、アルゴリズムを発明、修正、理解することである。この本の優れたアルゴリズムを見たあとは、読者もこの区別を今までよりもしっかり理解していただけたことと思う」(Kindle版No.4161)


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『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』(鈴木光太郎) [読書(サイエンス)]

 「心理学のなかのそうした神話のいくつかを叩き割ってみる。もしあなたがそれらの神話をこれまで疑いもせずに真実だと信じてきたとしたら、あなたのなかの常識は音を立てて崩れるかもしれない(私としてはそうなってほしいが)」(単行本「まえがき」より)

 狼に育てられた少女が発見された、サブリミナル効果でコーラの売上が激増した、ホピ族の人々は時間の概念を持たない、プラナリアは食べた仲間の記憶を引き継ぐ……。明確な根拠がない、さらには既に否定された説が、何度もよみがえり、ときには教科書にさえ載ってしまうのはなぜか。心理学における「神話」を取り上げて批判する一冊。単行本(新曜社)出版は、2008年09月です。

 インドの僻地で発見された二人の少女、アマラとカマラの物語については、様々な本で言及されています。オオカミに育てられた少女。その詳細な記録と写真。この話が持つインパクトには、人の心を強く惹きつける何かがあることは間違いありません。

 しかし、冷静に考えれば、これはあり得ない話だと著者は指摘します。「オオカミが人間の子どもを育てるわけがない。オオカミの乳の成分は、人間の赤ん坊が消化できるようなものではない」(単行本p.1)というわけです。

 さらに、残された記録や写真を詳しく検証してみると、おかしな点、疑問点、矛盾点が次々と見つかるのです。学問的には、信憑性なしと判断されても仕方ありません。

 個人的には、これほどずさんな報告がなぜ熱心に受け入れられてしまったのか、という点にこそ興味があるのですが、これについては時代背景や場所といった条件に加えて、次のような指摘が。

 「シングの記録の特徴は、記述に微に入り細に入った箇所があり、しかもその記述が想像を越えたものであるがゆえに、逆にオオカミ少女の異常さのリアリティが際立っているという点である。ここでは、これを私流に「ハイパーリアリティ」と呼んでおこう。常識を超えたことであるために、読む者には、そのことが強く印象づけられてしまうのだ」(単行本p.17)

 「先に述べた例では、暗いなかで目が光ったとか、5日間飲まず食わずの状態においても生きていたとか、四つ足で走ると2本足で走る人間より速かったとかいった記述が該当する。(中略)アマラとカマラの話は、このように、ありえるかありえないかのぎりぎりのエピソードで占められていて、それが、逆に驚きをともなったリアリティを生んでいる」(単行本p.17)

 このような「ハイパーリアリティ」は、次に取り上げられている「サブリミナル効果」にも共通します。映画館でポップコーンやコーラを飲むよう指示するメッセージを知覚できないほど短時間投影するだけで、売上が激増したという、誰もが知っている例のエピソードです。

 「このあまりにも有名な実験には、もとになるはずの論文や報告書が存在しない。学会で発表すらされていない。ヴィカリーが言ったことが新聞や雑誌の記事として、あるいは噂としてそのまま伝えられているだけなのだ」(単行本p.41)

 「伝えられている実験の状況は、具体的で詳細をきわめる(たとえば入場者数が4万5699人、ポップコーンとコーラの売上げの伸び率がそれぞれ57.5パーセント、18.1パーセントというように)。けれど、方法や結果の処理のしかたなど、ほんとうに知りたい肝心の点については、なにも伝えられていない」(単行本p.41)

 ありえるかありえないかのぎりぎりのエピソード、妙に具体的で詳細な箇所がある記述、全体として想像を超えた驚きをもたらす。ハイパーリアリティが生ずる条件にぴったり当てはまることが分かります。

 次に取り上げられる話題は、言語が違えば認識や知覚も決定的に異なってくるという、言語相対仮説、いわゆる「サピア-ウォーフ仮説」です。

 ホピ族の言葉には時制がなく、彼らは時間の概念を持っていない。イヌイット(エスキモー)の言語には雪を示す語彙が数百もあり、彼らはそれだけの雪を区別して知覚している。アフリカ原住民は遠近法を理解できない。こういった、何となく信じられている、ハイパーリアリティに支えられた「神話」の嘘が暴かれています。

 やっかいな問題は、これらの神話が、それなりに根拠がある「穏当な仮説」を極端に拡大解釈した形になっていること。議論のなかで、両者が容易に混同されてしまうのです。

 「言語の違いが思考や認識にある程度影響するという、穏当な仮説は「弱い」言語相対仮説と呼ばれる。問題は、「弱い」言語相対仮説は残して、極端な形の言語相対仮説だけを切り捨てることがなかなか難しいという点である。これは、オオカミ少女やサブリミナル広告の話を切り捨てると、野性児や閾下知覚もついてきてしまうのと同じである」(単行本p.72)

 このあたりの困難さについは、それだけで『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー)という解説書が書かれているほどです。単行本読了時の紹介はこちら。

  2013年04月26日の日記:
  『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-04-26

 このようにして、本書では他にも次のような「神話」が取り上げられます。

 ・双生児の比較研究により知能遺伝について調べた著名論文のデータ捏造事件

 ・母親が赤ん坊を左胸に抱くことが多いのは、心音を聴かせて安心させるためだという説

 ・馬や猿といった動物が驚くべき知能を示したケース

 ・プラナリアの記憶は物質として保存されており、他の個体が食べることで記憶の伝播が生ずるという実験結果

 ・アルバート坊やの実験(赤ん坊に対する恐怖条件づけ実験)

 「心理学には、この本で紹介した以外にも神話がいくつもある。たとえば、モーツァルトを聞くと頭の回転がよくなる、ロールシャッハテストでその人の性格が診断できる、男らしさ・女らしさは生まれついてのものではなく、文化によって決まる、などなど」(単行本p.212)

 「もともとはいい加減な(場合によっては誤った)話がどのように生じ、どのように神話の位置を占めるようになり、どのように受け継がれてゆくのか。これを説明する役目を担っているのも、これまた心理学である」(単行本p.212)

 というわけで、本書を読むまで素直に信じていた話もあれば、嘘だということは聞いていたものの詳しいことは本書で始めて知った話もあり、最初から最後まで楽しめました。「ハイパーリアリティ」というものが、どのような条件で生じ、それがいかに私たちの心をとらえ「神話」を支えることになるか、という観点からも興味深い一冊です。

 また、例えばオオカミ少女の話が「教育的効用」という観点から肯定されることの問題点指摘なども、日本の教育界における同様のケースのいくつかを連想させ、参考になると思います。

 「これらの寛大な意見は、アマラとカマラの話が人間的な教育を語る際になくてはならぬ土台(あるいは小道具)になってしまっているため、この話がなくなると、なにも語れなくなることを危惧しての意見かもしれない。しかし、こういう話を土台にすること自体がそもそも問題なのではないか。この話を抜きにしても、人間的な教育というものを語れなければいけない。そう思うが」(単行本p.35)

 なお、巻末には詳細な注が付けられており、大半は出典元を示しているのですが、いくつかの項目については本文で触れられなかった興味深いエピソードが載ってたりするので、じっくり目を通してみることをお勧めします。

 個人的には、「言語相対仮説」の注にある、イヌイットの雪に関する語彙と知覚の件をからかった下品なジョークがお気に入り。「アメリカ人の言語には「ペニス」を指す語彙が50以上もある。彼らは50種類ものペニスを区別して知覚しているのだ」。


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