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『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』(鈴木光太郎) [読書(サイエンス)]

 「心理学のなかのそうした神話のいくつかを叩き割ってみる。もしあなたがそれらの神話をこれまで疑いもせずに真実だと信じてきたとしたら、あなたのなかの常識は音を立てて崩れるかもしれない(私としてはそうなってほしいが)」(単行本「まえがき」より)

 狼に育てられた少女が発見された、サブリミナル効果でコーラの売上が激増した、ホピ族の人々は時間の概念を持たない、プラナリアは食べた仲間の記憶を引き継ぐ……。明確な根拠がない、さらには既に否定された説が、何度もよみがえり、ときには教科書にさえ載ってしまうのはなぜか。心理学における「神話」を取り上げて批判する一冊。単行本(新曜社)出版は、2008年09月です。

 インドの僻地で発見された二人の少女、アマラとカマラの物語については、様々な本で言及されています。オオカミに育てられた少女。その詳細な記録と写真。この話が持つインパクトには、人の心を強く惹きつける何かがあることは間違いありません。

 しかし、冷静に考えれば、これはあり得ない話だと著者は指摘します。「オオカミが人間の子どもを育てるわけがない。オオカミの乳の成分は、人間の赤ん坊が消化できるようなものではない」(単行本p.1)というわけです。

 さらに、残された記録や写真を詳しく検証してみると、おかしな点、疑問点、矛盾点が次々と見つかるのです。学問的には、信憑性なしと判断されても仕方ありません。

 個人的には、これほどずさんな報告がなぜ熱心に受け入れられてしまったのか、という点にこそ興味があるのですが、これについては時代背景や場所といった条件に加えて、次のような指摘が。

 「シングの記録の特徴は、記述に微に入り細に入った箇所があり、しかもその記述が想像を越えたものであるがゆえに、逆にオオカミ少女の異常さのリアリティが際立っているという点である。ここでは、これを私流に「ハイパーリアリティ」と呼んでおこう。常識を超えたことであるために、読む者には、そのことが強く印象づけられてしまうのだ」(単行本p.17)

 「先に述べた例では、暗いなかで目が光ったとか、5日間飲まず食わずの状態においても生きていたとか、四つ足で走ると2本足で走る人間より速かったとかいった記述が該当する。(中略)アマラとカマラの話は、このように、ありえるかありえないかのぎりぎりのエピソードで占められていて、それが、逆に驚きをともなったリアリティを生んでいる」(単行本p.17)

 このような「ハイパーリアリティ」は、次に取り上げられている「サブリミナル効果」にも共通します。映画館でポップコーンやコーラを飲むよう指示するメッセージを知覚できないほど短時間投影するだけで、売上が激増したという、誰もが知っている例のエピソードです。

 「このあまりにも有名な実験には、もとになるはずの論文や報告書が存在しない。学会で発表すらされていない。ヴィカリーが言ったことが新聞や雑誌の記事として、あるいは噂としてそのまま伝えられているだけなのだ」(単行本p.41)

 「伝えられている実験の状況は、具体的で詳細をきわめる(たとえば入場者数が4万5699人、ポップコーンとコーラの売上げの伸び率がそれぞれ57.5パーセント、18.1パーセントというように)。けれど、方法や結果の処理のしかたなど、ほんとうに知りたい肝心の点については、なにも伝えられていない」(単行本p.41)

 ありえるかありえないかのぎりぎりのエピソード、妙に具体的で詳細な箇所がある記述、全体として想像を超えた驚きをもたらす。ハイパーリアリティが生ずる条件にぴったり当てはまることが分かります。

 次に取り上げられる話題は、言語が違えば認識や知覚も決定的に異なってくるという、言語相対仮説、いわゆる「サピア-ウォーフ仮説」です。

 ホピ族の言葉には時制がなく、彼らは時間の概念を持っていない。イヌイット(エスキモー)の言語には雪を示す語彙が数百もあり、彼らはそれだけの雪を区別して知覚している。アフリカ原住民は遠近法を理解できない。こういった、何となく信じられている、ハイパーリアリティに支えられた「神話」の嘘が暴かれています。

 やっかいな問題は、これらの神話が、それなりに根拠がある「穏当な仮説」を極端に拡大解釈した形になっていること。議論のなかで、両者が容易に混同されてしまうのです。

 「言語の違いが思考や認識にある程度影響するという、穏当な仮説は「弱い」言語相対仮説と呼ばれる。問題は、「弱い」言語相対仮説は残して、極端な形の言語相対仮説だけを切り捨てることがなかなか難しいという点である。これは、オオカミ少女やサブリミナル広告の話を切り捨てると、野性児や閾下知覚もついてきてしまうのと同じである」(単行本p.72)

 このあたりの困難さについは、それだけで『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー)という解説書が書かれているほどです。単行本読了時の紹介はこちら。

  2013年04月26日の日記:
  『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-04-26

 このようにして、本書では他にも次のような「神話」が取り上げられます。

 ・双生児の比較研究により知能遺伝について調べた著名論文のデータ捏造事件

 ・母親が赤ん坊を左胸に抱くことが多いのは、心音を聴かせて安心させるためだという説

 ・馬や猿といった動物が驚くべき知能を示したケース

 ・プラナリアの記憶は物質として保存されており、他の個体が食べることで記憶の伝播が生ずるという実験結果

 ・アルバート坊やの実験(赤ん坊に対する恐怖条件づけ実験)

 「心理学には、この本で紹介した以外にも神話がいくつもある。たとえば、モーツァルトを聞くと頭の回転がよくなる、ロールシャッハテストでその人の性格が診断できる、男らしさ・女らしさは生まれついてのものではなく、文化によって決まる、などなど」(単行本p.212)

 「もともとはいい加減な(場合によっては誤った)話がどのように生じ、どのように神話の位置を占めるようになり、どのように受け継がれてゆくのか。これを説明する役目を担っているのも、これまた心理学である」(単行本p.212)

 というわけで、本書を読むまで素直に信じていた話もあれば、嘘だということは聞いていたものの詳しいことは本書で始めて知った話もあり、最初から最後まで楽しめました。「ハイパーリアリティ」というものが、どのような条件で生じ、それがいかに私たちの心をとらえ「神話」を支えることになるか、という観点からも興味深い一冊です。

 また、例えばオオカミ少女の話が「教育的効用」という観点から肯定されることの問題点指摘なども、日本の教育界における同様のケースのいくつかを連想させ、参考になると思います。

 「これらの寛大な意見は、アマラとカマラの話が人間的な教育を語る際になくてはならぬ土台(あるいは小道具)になってしまっているため、この話がなくなると、なにも語れなくなることを危惧しての意見かもしれない。しかし、こういう話を土台にすること自体がそもそも問題なのではないか。この話を抜きにしても、人間的な教育というものを語れなければいけない。そう思うが」(単行本p.35)

 なお、巻末には詳細な注が付けられており、大半は出典元を示しているのですが、いくつかの項目については本文で触れられなかった興味深いエピソードが載ってたりするので、じっくり目を通してみることをお勧めします。

 個人的には、「言語相対仮説」の注にある、イヌイットの雪に関する語彙と知覚の件をからかった下品なジョークがお気に入り。「アメリカ人の言語には「ペニス」を指す語彙が50以上もある。彼らは50種類ものペニスを区別して知覚しているのだ」。


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