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『居場所もなかった』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「どこかに消えてしまいたいと思っていた。どこに行っても自分の居場所がなかった」(Kindle版No.134)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第81回。

 90年代の東京で収入不安定な女性作家が住処を探すことの困難さ。自分の居場所と生活(文学)を確保するため、不器用ながら怒りをこめて世間の理不尽と戦う長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は1993年01月、文庫版出版は1998年11月、Kindle版配信は2013年11月です。

 出世作『なにもしてない』の続篇ともいうべき作品です。なにもしてない、居場所もなかった。こうして題名を並べてみるだけで溜め息が出てきます。

 『なにもしてない』のラスト近く、「マンションは学生専用になる事が決まり、契約切れの勤め人たちは出来れば出ていって欲しいと懇願を受けた」(『なにもしてない』Kindle版No.1310)という一節がある通り、語り手はそれまでひきこもっていた部屋を事実上追い出されることに。

 「経済上の理由を無論大家は、説明したりは、しなかったのだった。が、結局はそのために学生専用にすることを決断したのだ。だがそれならそういってくれれば良かったのに。何の理由もなく、ただ出来れば出ていって欲しいという態度に直面したから、私は疑心暗鬼に陥るしかなかったのだ」(Kindle版No.563)

 社会経験が豊富な人なら、「社会人は出ていってほしい」と言われれば、学生の方が回転がいいので敷金・礼金を繰り返し取れる上に家賃も柔軟に値上げできるから、といった「経済上の理由」にすぐ思い至るところですが、何しろ語り手は社会性が低いというか、深海生物みたいというか、たちまちネガティブ思考に走ることに。

 「私は悪く、汚く、それ故に住み慣れた清潔な場所を出される罪深い存在なのであった。その罪を引きずりながらさ迷い歩いて、安住の地を捜さなくてはならなかった」(Kindle版No.677)

 「いや、本来ならそんなに悲観的になるはずもなかったのだが。たかが“追い出される罪深い私”という観念ごときに追い詰められていった。(中略)部屋捜しが私には拷問のようになってしまった」(Kindle版No.805、814)

 そして分かったのは、90年代の東京には、収入が不安定で、社交的でもなく、他人に理解されにくい自営業の女性に、部屋を貸してくれる不動産屋はどこにもないらしい、ということ。不動産屋を回るたび、語り手は次から次へと冷たい扱いを受けるはめに。

 「夜中に大声で泣き、絶えず死にたくもないのに死にたいと言い、いきなりワープロのプリンターの音を立てる目付きの変な私が、疎まれずに住もうと思えば、防音は要った」(Kindle版No.835)

 「社会から孤立しがちで妙な破滅衝動を抱えた被害者性格の人間がひとりでずっと暮らす。その上、近眼で異様に肥って足の遅い私は、ストレスをぶちまけるのに適しているらしい」(Kindle版No.704)

 後に、猫という「弱み」を持ってしまった主人公がもっと過酷な目にあわされる作品がいくつも書かれることになりますが、この頃はとにかく一人で不動産屋を回って交渉するというのが、死ぬほどの難儀だったのです。しかも、語り手にとって強迫的に大切なオートロックという条件が、世間(特に男性)からは意味不明なわがままとしか見えない、という問題まで。

 「閉ざされた空間で時間を止め、ヌイグルミと暮らしてドッペルゲンガーを見る。抽象観念を核に置いて、皮膚と脳の剥き出しの感覚だけを推進力にして小説を書く。----現実の気配は作品ばかりではなく、思考実験に縋って生きている私の、生活をも、脅かした」(Kindle版No.1070)

 「八王子で、最初、たまたまオートロックの部屋に住んだだけだ。が、私はそれに完全に適応し、もう他の世界に住めなくなってしまっていた。(中略)どこにもない場所、誰も来ない場所、地元の住人から顔も名も住処も知られないで生きられる場所・・・・・・人が、ひとつの部屋を選ぶ時、そこを自分が住むにふさわしいと考える時、そこには大抵ひとつやふたつの幻想が紛れ込んではいるが、それがたまたま私の場合オートロックだった」(Kindle版No.1067、1083)

 「住むところがない----オートロックといううるさい条件を抱えているだけの私が、ホームレスめいて、というよりただ、あてのないという強迫観念や思い込みに支配される」(Kindle版No.1288)

 さて、世間を代表する視点として担当編集者が登場。本作自体に難癖をつけ始めます。後に大胆に駆使されることになるメタフィクショナルな技法が、すでに使われていますね。

 「あのね、判らないんですよ。なんでこんなにこの主人公の部屋が見つからないのか。読者はこの主人公に付き合ってると疲れるかもしれないな。部屋が見つかりそうになるとまた駄目だったってそればっかり。(中略)誰もこんなに困ったりしませんよ。どうしてたかが部屋ひとつで追い詰められるんでしょう」(Kindle版No.868、897)

 実は密かにそう思っていた読者も、真正面からこう言い放たれるとカチンときます。強烈な生きづらさ、他人からの理解されにくさ、異常なまでの誠実さ、そんなものを抱えて生きていくしかない者の苦労が、お前なんかに分かるもんか、みたいな。

 「大抵の人が簡単に通り過ぎるところでどうしていちいちこんなに問題が起こったり考え込んでしまったりするんですか。大体ね、やり方次第で部屋を借りるのなんて非常に簡単なことなんです」(Kindle版No.1443)

 どう言っても分かってもらえない、絶望的な疎外感。

 「だからそれは一部上場企業の勤め人で、働き盛りの男性がうるさい条件なしに、部屋を、決める場合でしょう」(Kindle版No.1475)

 「相手が、既に、私とはまったく無縁の、理解しがたい私生活を持つ人間として視界に入っていた。簡単に部屋が借りられる存在。世の中をいちいち引っ掛からずに歩いて行ける生物」(Kindle版No.1511)

 「私は罪深く世間からつま弾きされ、どこもなかなか借りられないという考えに支配されている。同時に世間に対して凄い恐怖と怒りを覚える」(Kindle版No.1750)

 どうやら文学なんて必要としてないらしい編集者、個人の抱えている切実な事情など気にもかけようとしない不動産屋。そんな理不尽な世間に対して、恐怖と怒りを覚える語り手。「世間並み」でないことは、他の人と違っているのは、それほどまでに罪深いことなのでしょうか。

 恐怖と怒りから、いつしか小説は不条理な幻想世界へと突入してゆきます。

 「よく判る世界をわけの判らない理由で追い出される私は、もう一度よく判る世界にもぐり込むため、わけの判らない世界をさ迷うしかなかった。 不動産ワールドに行くしかなかった」(Kindle版No.1091)

 不動産屋のカウンターだけが無限に伸びており、ひたすらそこを放浪して理不尽なあしらいを受け続ける、そんな「不動産ワールド」。やがてオートロック物件が見つかったものの、あまりといえばあまりに仕事をしない担当者のせいで、契約から入居までひたすら翻弄される語り手。

 そして引っ越し先がどんな住処だったかというと。

 「新しい部屋に入ってから数日の間は、泣くことも出来ず、ひたすらただ叫んでいた。入ってしばらくして、隣がお墓だということを知った。そんなことはまったくどうでも良かった。それよりも騒音の中でどうやって暮らしていくのか。ただ長篇の校了で慌ただしかったことと、それで当分の生活のめどが立つということだけが、私を支えていた」(Kindle版No.141)

 「この騒音の前に密室などという錯覚は存在し得ない。ここは剥き出しの街路だ。自分の部屋からさえ私は常に追い立てられている。今ここに住んでいる。でも、ここは絶対に私の場所ではない」(Kindle版No.41)

 「沢山あったはずの書きたいことは消えてしまい、或いは書ける状態ではなくなっていた。頭の中では、ただ、東京の住宅事情、だとか、自分の居場所の無さ、というテーマだけが煮えくり返っていた。何もかもがそこにしか結び付かなかった」(Kindle版No.249)

 不動産ワールドを抜けたら、今度は騒音地獄。ひたすら不条理な世界を生きてゆくしかない主人公は、逃げるようにして次の引っ越し先を捜します。その先に待っているものは何でしょうか・・・・・・。いや、もちろんそれはストーカー被害であり、その先にあるのは猫地獄であることを、今の私たちは承知しているのですが。

 なお、作中では触れられなかった引っ越しのことを幻想味たっぷりに書いた短篇『背中の穴』が並録されています。

 「そうして気付いた。背中の穴はどこにも住みたくない私に繋がっていた。引っ越しの疲れ、引っ越し先がなかなか見付からなかった理由にまで関係があった。(中略)ただもうどこにも住みたくなくなるほど、どこに住んでも意味がなかったのだ」(Kindle版No.2518)

 ひたすら受難ばかりが続く作品ですが、この話で暗くならないところがすごい。実際に部屋捜しで嫌な目にあったことのある方、特に何らかの生きづらさや他人からの無理解に苦しんだことのある読者は、しみじみ共感するのではないでしょうか。そうでない方も、バブル景気で浮かれていた時代、その恩恵と無関係な人々に対して世間がどんなに冷たかったか、思い知るがいいかと。

 また、自分の居場所と生活(文学)を確保するため、不器用ながら怒りをこめて世間の理不尽と戦っていく様子からは、後の純文学論争が連想されます。その先にあるさらに巨大な国家規模の「理不尽」との戦いを先取りしているようにも感じられ、そういう意味では、前哨戦といえる作品かも知れません。


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『猫のよびごえ』(町田康) [読書(随筆)]

 「他人行儀なのはエルだけではなく、奈奈、シャンティー、パンク、ビーチ、すなわち二階のメンバー全員がなんとなく不機嫌だった。 なぜか。 それは私方に犬がやってきたからである。犬の名はスピンク。生後四箇月のスタンダードプードルであった。 二階のメンバーはそのことに根本の不満を抱いているのであった」(単行本p.108)

 シリーズ“町田康を読む!”第46回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、『猫にかまけて』、『猫のあしあと』、『猫とあほんだら』に続く猫エッセイ第四弾。単行本(講談社)出版は、2013年11月です。

 最近、『スピンク日記』や 『スピンク合財帖』で町田家の様子を大いに語ってくれた犬のスピンク。しかし、そのスピンクもなぜか猫のことは黙して語りません。最初の方で、二階には猫の人たちがいる、とか言ったきり。その後は、猫のことは見ないよう、考えないようにしている、という印象が強いのです。スピンク、猫きらいなの?

 「犬が戻ってきた瞬間、マジですか? と云われた。 どうやら猫たちは、犬はもう戻ってこない、犬をどこかに棄ててきた、と思いこんでいたらしい。(中略)みな、工事の騒音や振動や不穏な気配はともかくとして、少なくともあの巨大で意味不明で不愉快きわまりない白いもしゃもしゃはいなくなった、と思っていたのである。(中略)猫たちの不平は極点に達し、私は猫に謝り乍ら日を暮らしている」(単行本p.123、124、126)

 どうやら猫たちの徹底した犬敵視政策ゆえに、スピンクと会わせないようにしているようです。苦労がしのばれます。

 奈奈、エル、シャンティー、パンク、さらに、ビーチ、ネムリ、トナ、シゲゾー。二階にいる猫だけでも、知らないメンバーがどんどん増えています。これはもちろん、捨て猫を見つけると放置しておけず、保護し続けているため。今回のエッセイでも、猫の保護シーンが何度も登場します。うちなんか保護した四匹だけでもう手一杯、これ以上引き取るのは無理無理無理、なんて思っているというのに。まことに頭が下がります。

 書かれている猫たちの様子は微笑ましく(他人事だし)、猫飼いなら思わず「あるある」と膝を打ってしまう描写がいっぱい。

 「ぎゃっ、と叫んで後ろにのけぞった。そのとき私はショートパンツ姿であった。死闘を繰り広げる二頭の猫の鋭い鍵形の爪が太腿に食い込んだのである。 その私の大声に驚いたビーチとシャンティーは突然、死闘を中断し、「急にそんな大声を出すなんて信じられない」「はっきりいってひどい」と、私を批判しながら、ビーチは西にシャンティーは東に被害者的な感じで逃げていった」(単行本p.24)

 「エルは怒って、「俺がママに甘えているときは俺が甘えているときっ」と、怒鳴り、エル特有のヘナヘナパンチを繰り出す。(中略)エルを甘やかす場合は、家の者がエルを連れて和室に入り、専心に甘やかすのであり、この方式以外の甘やかしをエルは認めない」(単行本p.28、150)
 
 「腹を撫でると、前肢で私の手を抱え込んでおいて、後肢でこれをげむげむ蹴ってくる。或いは腹筋運動のような格好で頭をもたげ、これを嚙んでくる。しかし、飽くまでも遊びと心得、本気で蹴ったり嚙んだりしている訳ではないので、たいして痛くない。たいして痛くはないが、けっこう痛い」(単行本p.164)

 「例のマーキングをね、やめてほしいとね、まあ、こう思うわけです」
 「ああ、マーキングですか。別にあんなもの、やめたっていいですよ」
 「ほんとですか」
 「うん。僕以外のすべての猫を捨ててきてくれればすぐにやめますよ」(単行本p.200)

 「ネムリやトナが視界に入っただけで、「あああ、うざい。うざさのあまり死ぬ。ああああああっ、うざああああああ、いやあああああああああっ」と、絶叫しながら姿勢を低くして押し入れに逃げ去る。 その時点では別になにをした訳でもないのだから、そこまで嫌がらなくてもよいのではないか、と思うが、それだけで嫌がる。ときには嫌さのあまり嘔吐するなどもしている」(単行本p.225)

 「あまり優しく言うと、「はは、弱そうなおじいさんがなんか言ってる。無視しよう」と言って、言うことを聞いてくれない。かといって、あまりにも厳しく言うと、かえって心を閉ざし、「権力者が抑圧的に振る舞っている。だが俺は弾圧には負けん。戦い続ける」と言って、私の目の届かぬところで奈奈を殴ったりするに違いない」(単行本p.228)

 「そんなことは知りませんよ。とにかく近寄らないでください」
 「なぜですか」
 「むかつくからに決まってるでしょう。嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇」(単行本p.230)

 「被害者的な感じで逃げていった」、「この方式以外の甘やかしを認めない」、「たいして痛くはないが、けっこう痛い」、「僕以外のすべての猫を捨ててきて下さい」、「嫌さのあまり嘔吐」、「権力者が抑圧的に振る舞っている」、「とにかく近寄らないでください」など、猫飼いなら大きく頷くに違いない、絶妙な猫語録が次々と。

 また、町田夫妻による飼猫たちのカラー写真が多数収録されており、見ているだけで心が和みます。猫はいい。

 猫たちによる住環境破壊活動、乱暴狼藉の数々、人間側の必死の対策、捨て猫保護などなど様々なことが書かれていますが、基本的に明るい感じです。『猫にかまけて』、『猫のあしあと』で猫好き読者の涙腺を直撃した猫死シーンはありません。いや、ないとは言いませんが、さらりと流してくれます。しかし、そのわずかな感傷的シーンが、その無常観がまた、しみじみと心を打つのです。

 「私はいままでトラのことを言おうとして言えなかった。その前に言っておくべきことがたくさんあったからだ。 死は大きな出来事である。 と、同時に大小様々のいろんなことが起こり、一切が過ぎていく。その過ぎていく一切が、大きなできごとにつながっていく。私は深い混乱のなかで、なにを話したらよいのかわからない」(単行本p.48)

 「クランはそんな猫だった。 そのクランが2009年1月15日に死んだ。 いろんなことが変わっていく。時間が過ぎていく。 やがて私も死ぬ。 そのときまで、こうして、みんなが生きていたこと、生きた時間を書いていきたい。そうおもっている」(単行本p.50)


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『宇宙が始まる前には何があったのか?』(ローレンス・クラウス、翻訳:青木薫) [読書(サイエンス)]

 「『種の起源』を、生物学が超自然主義に与えた致命的な一撃だったとすれば、本書『宇宙が始まる前には何があったのか?』は、宇宙論の分野でそれに相当する仕事とみなされるだろう。本書には、宇宙は無から生じるということが示されている。そしてそれは、超自然主義への痛烈な一撃なのである」
  (リチャード・ドーキンスによる「あとがき」より。単行本p.268)

 現代科学が明らかにした宇宙の始まり、それは「無からの創成」だった。最先端の宇宙論を平易に紹介した一般向けサイエンス本。単行本(文藝春秋)出版は、2013年11月です。

 宇宙は「無」から生じた。現代宇宙論が到達したこの驚くべき結論について、第一線で活躍する宇宙物理学者が詳しく解説してくれます。

 本書の前半、第一章から第六章までは、ビッグバン、インフレーション、宇宙の加速膨張、ダークマター、ダークエネルギー、宇宙定数、宇宙の曲率、といったおなじみの話題がざっと解説されます。

 ここまでは他の宇宙論の解説書と同じような内容ですが、本書が俄然面白くなるのは「第七章 二兆年後には銀河系以外は見えなくなる」からです。現在科学が明らかにした宇宙の終わり、というか「天文学の終わり」についての解説です。

 「わたしが宇宙論をやることになったのは、宇宙がどんな終末を迎えるのかを知る、最初の人間になりたかったからなのだ。 当時はそれが良い考えに思われたのである」(単行本p.64)

 「星や銀河など、目に見える構造のすべてが、量子ゆらぎのために無(真空)から生じ、宇宙の中の個々の天体のニュートン的な全エネルギーは(重力場の運動エネルギーとポテンシャル・エネルギー)、平均すれば無(ゼロ)だというのだから。こういったことを考えるのが好きな人は、考えられるうちに考えておくとよい。なぜなら、もしもそれが事実なら、少なくとも生命の未来に関する限り、おそらくわれわれは最悪の宇宙に住んでいるからだ」(単行本p.162)

 「これから二兆年ほどで、局部銀河団に含まれる銀河を別にすれば、すべての天体が、文字通り姿を消すことになるのである。(中略)天文学者たちが宇宙に望遠鏡を向けたとしても、見えるものはほとんど何もないだろう。(中略)この宇宙はビッグバンで始まった膨張する宇宙であることを教えてくれる証拠の大半も、何もかもが消えていく原因である暗黒エネルギー----空っぽの空間に含まれるエネルギー----の存在に気づくための手がかりも、すべて失われているだろう」(単行本p.164、165)

 空間の膨張により銀河同士はどんどん離れてゆき、やがて互いの相対速度が光速に達して観測不能に陥る。観測可能な事象地平面の内部に、天文学者が観測できるものは(自銀河しか)存在しなくなる。宇宙論を検証する機会も永遠に失われてしまう、というのです。

 この話題については、つい先日、SFマガジンに掲載された『パリンプセスト〈後篇〉』(チャールズ・ストロス)にもネタとして登場しました。こんな感じです。

 「宇宙自体の温度は、もう絶対零度より千分の一度高いだけだ。背景の波紋はもう検出不能だし、彼方のクエーサーは赤方偏移して見えなくなっている。ぎりぎりで観測できていた銀河星団は宇宙の事象地平面の向こうへ去ってしまっている。(中略)空虚の果ては見えない。いまでは、あらゆる方向が虚空(ボイド)だ。<ステイシス>と彼らのクライアントは天文学の実践をあきらめている」(SFマガジン2013年12月号p.245、246)

  2013年10月29日の日記:
  『SFマガジン2013年12月号 ジャック・ヴァンス追悼特集』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-10-29

 宇宙は終わらないが、天文学には原理的な終末がある。ちょっぴり感傷的な気持ちになった読者の前に、ここで別の視点が提示されます。

 「なんとも不思議な巡り合わせにより、われわれが生きているこの時代は、空っぽの空間に満ちている暗黒エネルギーを検出することのできる、宇宙の歴史の中で唯一の時代なのである。時代といっても、数千億年という長い期間ではあるが、永遠に膨張を続ける宇宙の観点からすれば、それぐらいはほんの一瞬にすぎない」(単行本p.166)

 「真空エネルギーは、それ自身が本来的に持つ性質のために、ある限られた時期にしか観測できないのである。驚くべきは、宇宙にとって特別な意味をもつまさにその時期に、われわれが生きているということだ」(単行本p.167)

 それは偶然なのか、それとも必然なのでしょうか。

 この問題は「第八章 その偶然は人間が存在するから?」でさらに深く検討されることになります。すなわち人間原理とマルチバースの話題です。

 「測定されている宇宙定数の値が、われわれ人間が現に存在しているという事実と矛盾しないようになっているなら、偶然の一致と見えたものに説明がつくということだ。(中略)とはいえ、この論法が数学的に意味を持つのは、宇宙がたくさん生じる可能性がある場合だけだ」(単行本p.184、185)

 「いくつかの領域----じっさいには、ほとんどすべての領域----は、永遠にインフレーションを続ける。そしてインフレーションを終えた領域は、互いに切り離された多数の宇宙になるのである。注目すべきは、もしもインフレーションが永遠に続くなら、必然的にたくさんの宇宙が生じるということだ。この永遠インフレーション・シナリオは、すべてとは言わないまでもほとんどすべてのインフレーション・シナリオの中で、もっとも信頼性が高いモデルなのである」(単行本p.189)

 「インフレーションを起こしている領域が、いずれはエネルギーの低い宇宙の量子状態に落ち着くとして、そんな状態が自然界に多数存在していても不思議はないということだ。むしろ、それらの場の量子状態は、互いに切り離された領域(つまり宇宙)ごとに異なるだろう。つまり、宇宙ごとに物理学の基本法則が違って見えてもかまわないということだ」(単行本p.190)

 「マルチバースの観点からすれば、科学者がこれまで明らかにしてきたような法則を持つ宇宙----つまり、われわれのこの宇宙----も、当然生じるはずだということになる。宇宙の法則を、今日見られるようなものにするためには、いかなるメカニズムも、いかなる存在者も不要になるのだ。自然法則は、ほとんどどんなものでもよかったのだろう」(単行本p.251)

 こうして、インフレーション宇宙論から導き出されたマルチバース(多宇宙)という考えは、「様々に異なる物理法則を持つ宇宙が無数に存在する」というビジョンに到達し、それと人間原理が結びつくことで、この宇宙の物理定数値を含む物理法則がすべて説明できてしまう、というか、説明不要であることが明らかになります。

 しかし、インフレーション理論の他に、マルチバースの実在を支持する議論はあるのでしょうか。

 「現在の素粒子論研究を牽引する重要な説はすべて、マルチバースを必要としているように見えるのである。(中略)小さいスケールで正しいことがわかっている物理法則を拡張して、より完全な理論を作るというアプローチで進められている研究について言えば、論理的に導かれた理論はどれもみな、大きなスケールで見れば、宇宙はわれわれの宇宙だけではないらしいことを示唆しているのである」(単行本p.186)

 「理論的に可能な四次元宇宙が多すぎることは、かつてひも理論家にとって困った事態だった。ところが今や、それはひも理論の長所となっている。というのは、ひとつの十次元「マルチバース(多宇宙)」の中に、さまざまな四次元宇宙を埋め込むことができて(四次元だけでなく、五次元、六次元、さらにもっと高い次元の宇宙さえ埋め込むことができる)、どの宇宙も異なる物理法則を持ち、真空のエネルギーも異なる値であるようなものを考えることができるからだ」(単行本p.196)

 こういうわけで、マルチバースと人間原理の組み合わせは、今や主流派といってよいでしょう。これはつまり、物理法則を(物理定数値も含めて)すべて説明する、という万物理論の夢にトドメが刺されたことになります。著者は、これが「不愉快」だという立場をとっています。

 「マルチバースの宇宙像から導き出されることの中で、もっとも不愉快な、しかしもしかすると真実かもしれないことのひとつは、何らかの基本的なレベルで、物理学は環境科学にすぎないのかもしれないということだ(中略)既知の物理法則は、われわれの存在と結びついた単なる偶然の結果だというなら、これまでの科学の目標は的外れだったことになる。だが、もしも宇宙がこのような宇宙なのは単なる偶然だという考えの正しさが示されたなら、わたしはこの根拠のない嫌悪感を克服するつもりである」(単行本p.250)

 この問題については、翻訳者である青木薫さんが、訳者解説のなかで「わたし自身についていえば、環境科学でもいいではないかという立場から、最近、本を一冊書いたばかり」(単行本p.284)とおっしゃっています。その本というのはおそらく『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』のことでしょう。これはマルチバースと人間原理について非常に分かりやすく解説している一冊で、お勧めです。

  2013年07月25日の日記:
  『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』(青木薫)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-07-25

 これだけの準備を積み重ねた上で、いよいよ「第九章 量子のゆらぎ」から先、「無」からの宇宙創成について語られます。

 「宇宙は平坦であり、局所的なニュートンの全エネルギーは今日ほぼゼロであるという観測結果は、われわれの宇宙はインフレーションのようなプロセスと同様、「何もない」空っぽの空間のエネルギーが、「何か」に転換されることによって生じ、その時期に、観測可能なあらゆるスケールでどんどん平坦になったということを強く示唆しているのである」(単行本p.217)

 「量子重力は、宇宙は無から生じてもよいということを教えてくれるだけでなく(この場合の「無」は、空間も時間もないという意味であることを強調しておこう)、むしろ宇宙が生じずにはすまないということを示しているように見えるのである。「何もない」(時間も空間もない)状態は、不安定なのだ」(単行本p.241)

 「無」の状態が量子論的に不安定であり、否応もなくインフレーションが起きてしまう。インフレーションにより様々な物理法則を持つ無数の宇宙が創成される。それらのマルチバースのなかには観測者(例えば人間)を含むという(厳しい)条件を満たすものも含まれ、それが「観測可能な宇宙」である。だから観測可能な宇宙は、必ず観測者の存在を許容するような物理法則(物理定数値)を持っている。

 そして、われわれの宇宙は、厳密な平坦性(曲率ゼロ)を持っていること、ニュートン的なエネルギー総和がゼロになっていること、など観測によって明らかになった証拠から判断する限り、上で示された「観測可能な宇宙」であることが強く示唆され、よって「無」から創成されたマルチバースの一つだと考えるのが妥当である。

 これらは、とてつもなく驚異的な、しかし観測と理論に裏付けられた、強力なビジョンです。それは宇宙論や天文学にとってだけでなく、神学にとっても大きなインパクトがあるといいます。なぜなら、これら一連のプロセスは、外部からの超自然的な存在(つまり神)の介在を必要としないからです。

 「得られる限りの手がかりから判断して、われわれの宇宙は、より深い無(空間そのものが存在しないようなもの)から生じた可能性があること、むしろその可能性が高そうであることや、宇宙はいずれふたたび無に帰ること----それも、われわれに理解できる、外的なものの支配や指図のいらないプロセスによって無に帰ること----もわかってきた。その意味において、物理学者スティーヴン・ワインバーグが力説したように、科学は、神を信じることを不可能にするのではなく、神を信じないことを可能にするのである」(単行本p.258)

 翻訳者である青木薫さんも、訳者解説のなかで次のように書いておられます。

 「科学は神を信じないことを可能にするのである、と。このクラウスの言葉は、わたしの胸にストンと落ちるものがある」(単行本p.282)

 というわけで、最新の宇宙論の発見をひとつひとつ積み重ねてゆくことで、「宇宙の創成」や「万物の存在」を説明するために神の介在を前提とする必要はない、ということを、反証可能な形で明らかにしてのけた現代科学の成果を、分かりやすく紹介してくれる本です。最新の宇宙論に興味がある方はもちろんのこと、世界の存在理由という哲学/神学の問題を考える際にも必読となるであろう一冊です。

 「今日の科学は、「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」という問題に、さまざまな角度から取り組めるようになっているし、現に取り組みが進んでいるということを知ってほしいのである。そうして得られた答えはどれも(中略)何もないところから何かが生じてもかまわないということをほのめかしている。かまわないどころか、宇宙が誕生するためには、何もないところから何かが生まれる必要がありそうなのだ。さらには、得られている限りの証拠から考えて、この宇宙はまさしく、そうやって生じたらしいのである」(単行本p.22)


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『定本 何かが空を飛んでいる』(稲生平太郎) [読書(オカルト)]

 「空飛ぶ円盤の世界は魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿である。訪れたひとは数多いが、無事に戻ってくることはめったにない。そこでは人間の紡ぎ出す幻想、妄想が現実と融け合い、精神と物質の境界は曖昧なものとなる」(単行本p.12)

 「混沌をきわめ非合理が支配する円盤の錯乱した世界----そこには僕たちが自分自身を、あるいは<現実>を理解するために必要なものが潜んでいるというのが、実は本書のテーゼのひとつである」(単行本p.12)

 円盤搭乗員と妖精の酷似、誘拐体験、コンタクティ、黒服の男たち、陰謀論。読者の円盤観を塗り替えてしまう「幻の名著」といわれた円盤本が、ついに復刊されました。単行本(国書刊行会)出版は、2013年11月です。

 長らく入手困難だった“何空”が、同著者によるオカルティズムや民俗学に関する様々なエッセイを追加した上で、「定本」として復刊されました。旧版に比べ、分量にして二倍以上に増強。その分、お値段も高めになっていますが、オカルトとしての「円盤体験」に少しでも興味がある方には、もう熱烈推薦させて頂きます。

 「今や、かつての円盤観は完全に瓦解、僕はまったく別個の円盤観を形成するにいたり、円盤は人生の大問題と深く関わっていると公言して憚らないまでになっているのだ」(単行本p.16)

 「本書を通読していただければ分かるように、わたしにとってオカルティズムと文学(そして、UFOや民俗学も)は通底しており、対象として何ら本質的な差異は存在しない」(単行本p.2)

 ある・ない論争から離れ、ヒトはなぜ円盤体験をするのか、その体験の背後には何が潜んでいるのか、それを主としてオカルティズム視点から考察してゆく本です。

 宇宙人が円盤に乗って他の星からやって来ている、などといった物語は忘れて、円盤体験そのものを冷静に眺めてみると、そこには間違いなく、妖精体験、心霊体験、神秘体験、魔術、などと通底するものがあるわけです。不気味で、割り切れない、底が知れない、マジで踏み込んだら戻ってこれなさそうな、そんな「何か」。もしかしたら、これらの体験は、その本質において、同一のものなのかも知れません。

 「円盤の小人型搭乗員と妖精はほとんどぴったり重なりあうのだ。小人型搭乗員と称される存在は、けっして今世紀になって僕たちの前に初めて登場したわけではない。彼らは太古から人間世界を侵犯してきたのであり、ただ少しばかり装いを変えたにすぎない」(単行本p.23)

 「ある意味では、誘拐事例の裡に、妖精というかつて強烈な影響力を備えていた民間伝承、現代では基本的に滅んだはずの神話が再び蘇生しつつあるのを僕たちは目撃しているのだ」(単行本p.49)

 まずは、円盤搭乗員との遭遇譚は、妖精にさらわれたという民間伝承と事実上同じものだということが説得力を持って示されます。なるほど、どちらも同じ種類の幻想やフォークロアなのか、と納得しかけた読者は、ここでぐいと手を引っ張られるようにして、いっきに核心に引きずり込まれます。その入り口となるのは、誘拐事例。

 「客観的証拠はほとんど存在していない。ただし、これは誘拐事例だけに限らず、円盤現象全般に共通しており、円盤現象の本質といっても過言ではない。そして、客観的証拠がまったく存在しないかといえば、そうじゃなくて、誘拐に先立つ円盤目撃、あるいは失われた時間について、第三者の証言があったり、円盤の着陸跡らしきものがあったりするんだ。これが厄介で不気味な点である」(単行本p.38)

 「それにしても、この電話のエピソードには、私たちの業ともいうべきものの深淵を照射する不気味というほかない何かが含まれている」(単行本p.45)
 
 「誘拐事例が幻想であるにせよ、物理的、物質的現象も付随して発生している可能性があるのはやはり認めねばならない。(中略)それにしても、僕たちはいったい何に直面しているのだろう? 幻想が物質的現実をも侵犯しているのか、それとも、物質的現実を侵犯する「何か」がトリガーとなって円盤幻想を惹き起こし、さらにそれが被誘拐幻想をも誘発しているのか、それとも・・・・・・?」(単行本p.54)

 幻想、幻覚としか考えられない体験が、奇怪なことに物理的現実をも変容させてゆく。あるいはもともと見せかけに過ぎなかった「現実」の化けの皮がはがれ、その下に隠されていたものがぬらりと這い出してくる。そんな体験。

 「事物が変容しうるという感覚、ありふれた事物がまったく別の意味を持ちうるという感覚」(単行本p.210)

 円盤体験がはらんでいるそんなものを見つめているうちに、「僕たち」(最初から読者を巻き込む気まんまんの一人称)は、いつの間にかオカルトの領域に足を踏み入れていることに気づきます。そのとき、背後からノックの音が。

 「円盤の世界では、ご存じのように、すっきりしたときが一番危ない。(中略)僕個人の感触を言うなら、円盤体験よりもっと微妙なかたちで、MIBはリアリティを突き崩しているような気がしてならない。円盤体験ではリアリティはもろにぶっとんで爽快(?)でさえあるのだが、これに対して、MIBたちの現実とのずれぐあいは妙に心地が悪い」(単行本p.101、102)

 神話、民間伝承、都市伝説のなかにしかいないはずのMIB(メン・イン・ブラック、黒服の男たち)。それが、「友達の友達」の話ではなく、本人が実際にMIBの訪問を受けた、と語る証言者が数多くいるということの不可解さ。

 「問題はそこから先なのだ。フォークロア、都市伝説としてのMIBが存在するいっぽうで、その像に部分的に合致するMIBが現実世界を徘徊しているらしいこと----これはいったい何を意味するのか? フォークロアを媒介とする妄想の発生にすぎないのか、それとも逆に、MIBフォークロアとは現実のMIB体験を変形、抽象化することによって産出されたものなのか? あるいは、いわゆるフォークロアと現実とは、僕たちの予想もつかないかたちで相互に関係しあっているのだろうか? そして、この問いはMIB現象のみならずUFO体験全体に対しても発せられねばならないだろう」(単行本p.103)

 軽妙な文章に導かれ、ユーモラスな表現に吹き出しながら、楽しく円盤世界を散策しているうちに、「現実」に対する素朴な信頼が致命的に損なわれ、何だかもう元に戻れなくなっている、まともじゃなくなっている自分を発見する。そんな、そう、これは、何空体験。

 「円盤の世界に真剣に向かいあえばあうほど、「まとも」ではなくなってしまうというのは事実なんだ----ある意味で、絶望的なパラドックス。円盤の世界には僕たちの認識体系、論理体系にあてはまる整合性なんて存在しないらしく、したがって、その世界を既存の世界観の枠内で真摯に記述しようとすると、逆に歪んだまともでないものしかでてこない」(単行本p.59)

 「事実と虚構、現実と非現実の境界に絶対的なものがあると思っちゃいけない。少なくとも僕はそうは思わない」(単行本p.113)

 「現実を引き裂くような何か、境界線を侵犯するような何かはやっぱりあるんだよね。こういった認識のゆらぎを痛撃するかのように裂け目から噴出するものが、百年前には死者の霊というかたちをとり、現代では円盤というかたちをとるのだと、僕は思う。あるいは霊や円盤と認識されると言うほうがいいのかもしれない」(単行本p.120)

 「精神と物質の裂け目を円盤は飛んでいるのであって、おそらく解答はどちらの側にも属さないのだろう。(中略)世界はおそらく僕たちの思っているようなものじゃない。そして、世界に裂け目があるかぎり、僕たちは見るのをやめない----何かが空を飛んでいるのを」(単行本p.121、123)

 付録として『泥の海』と題した円盤文献紹介が掲載されており、その映画版である『「純」円盤映画を求めて」』、さらに映画談義として『不思議なセルロイド----怪奇幻想映画オールナイト全五夜』も載っています。

 また、補遺として、地球空洞説をテーマとした『地底への旅----カフトン=ミンケル『地下世界』』、およびそれと関連するシェイヴァー・ミステリーを扱った『ログフォゴあるいは「岩の書」----リチャード・シェイヴァーについてのノート』が収録されており、これらが何空と同じく、あの軽妙で親しみやすい文体で書かれたパートです。

 なお、内容的には『夢と光り物----アナ・キングズフォード、佐々木喜善、泉鏡花』からも何空に近いものが感じられるのですが、こちらは文体が異なります。

 個人的な好みもありますが、「シェイヴァーの神髄、真価は日本ではいっこうに知られる気配がなく、この特異な幻視者について粗略なりとも一文を草しておく責務を感じ」(単行本p.230)て書かれたという『岩の書』は、これがもう、小躍りしたくなるほど面白い。

 「シェイヴァーは徹底した唯物論者であって、霊的存在のごとき蒙昧な迷信は信じない。デロは器械を操って光線を放っているし、「岩の書」も太古のテクノロジーの産物である」(単行本p.236)

 「幻視者としてのシェイヴァーが安物、チープのきわみであることは否定すべくもない。でも、彼は同時に偽物ではなかった。(中略)内面のヴィジョンの表現に一生を賭した点で本物だったとわたしは思う」(単行本p.238)

 すでに旧版をお持ちの方でも、この書き下ろしエッセイのためだけに新版(定本)を読む価値がありますよ。お疑いの方は、ちらりと単行本p.239をご覧くださいませ。

 他のエッセイはもっと重々しい、学術的風格のある文体で書かれています。テーマは西洋近代オカルティズムの歴史、文学と想像力、ナチスとオカルト、妄想偽史、過激な民族至上主義思想、民俗学、柳田國男、先住異民族、そして『稲生物怪録』。オカルトと民俗学にまたがる幅広い話題が、驚くべき博学多識な筆で縦横無尽に語られます。

 「わたしはそこから一歩も進まなかったようにも思える。ひとつのことに取り憑かれて、それを倦まずに語ってきたというのが、おそらく本当のところなのだろう」(単行本p.425)

 というわけで、この「領域」に惹かれるものがある方は、とりあえず読んでみることをお勧めします。文章は読みやすく、きわめて理知的な筆致で書かれているので、オカルト関連の話題に対して抵抗感がある読者でも問題なく楽しめると思います。あまりに楽しみすぎると、それはそれで危険かも知れませんが。


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『僕はもう 動いてないと ダメなんだ』(構成・振付:近藤良平、出演:ハンドルズ) [ダンス]

 2013年12月1日(日)は、夫婦で彩の国さいたま芸術劇場に行って、第4回埼玉県障害者アートフェスティバル・近藤良平と障害者によるダンス公演『僕はもう 動いてないと ダメなんだ』を鑑賞しました。

 人気コンテンポラリーダンスカンパニー「コンドルズ」を率いる近藤良平さんが、公募により集まった埼玉県内の障害者たちと共に、ワークショップを通じて制作した作品です。

 17名の障害者によるチーム名は「ハンドルズ」。共演は、女性二人(池田彩織、池田香織)、コンドルズメンバー(藤田善宏)。近藤良平さん自身も一緒に踊ります。

 今回は、第一回公演『突然の、何が起こるかわからない』(2009年)、第二回公演『適当に やっていこうと 思ったの』(2011年)に続く第三回公演。ちなみに、私たちは前回公演を鑑賞しています。

 少しずつ演出を手直ししたり、新メンバーのために出番を追加したり、新ネタ(『あまちゃん』とか)を取り込んだりしていますが、基本的には前回と同じ演目構成です。詳しくは前回公演鑑賞直後に書いた日記を参照して下さい。

  2011年11月15日の日記:『適当にやっていこうと思ったの』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-11-15

 前回公演時から抜けたメンバーはいないとのことで(出演者は4名増加)、見覚えのある出演者も多く、威風堂々マーチが流れるなかスポットライトを浴びながら順番に登場してはステージを一周する冒頭シーンで、すでに旧友に再会したような懐かしさがこみ上げてきます。

 出演者の身体的特徴を「個性」として際立たせることで、何とも云えない、とぼけた笑いや盛り上がりを作り出す。近藤さんの手際はやはり冴えています。音楽の使い方も巧み。

 前回も大きな感銘を受けた車椅子ダンス(車椅子の障害者と健常者、二組が踊るデュオ)のシーンはやはり素晴らしく、見事な照明効果も相まって、鳥肌もの。

 動かせる部位を動かす、声を出す、表出する、そして、踊る、ダンスする。すごくカッコいい。身体を動かすことの喜びと感動を力強くストレートに表現した公演です。客席にいる健常者も障害者も、共にその喜びと感動を分かち合う二時間。

 次回の公演も楽しみです。


タグ:近藤良平
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