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『定本 何かが空を飛んでいる』(稲生平太郎) [読書(オカルト)]

 「空飛ぶ円盤の世界は魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿である。訪れたひとは数多いが、無事に戻ってくることはめったにない。そこでは人間の紡ぎ出す幻想、妄想が現実と融け合い、精神と物質の境界は曖昧なものとなる」(単行本p.12)

 「混沌をきわめ非合理が支配する円盤の錯乱した世界----そこには僕たちが自分自身を、あるいは<現実>を理解するために必要なものが潜んでいるというのが、実は本書のテーゼのひとつである」(単行本p.12)

 円盤搭乗員と妖精の酷似、誘拐体験、コンタクティ、黒服の男たち、陰謀論。読者の円盤観を塗り替えてしまう「幻の名著」といわれた円盤本が、ついに復刊されました。単行本(国書刊行会)出版は、2013年11月です。

 長らく入手困難だった“何空”が、同著者によるオカルティズムや民俗学に関する様々なエッセイを追加した上で、「定本」として復刊されました。旧版に比べ、分量にして二倍以上に増強。その分、お値段も高めになっていますが、オカルトとしての「円盤体験」に少しでも興味がある方には、もう熱烈推薦させて頂きます。

 「今や、かつての円盤観は完全に瓦解、僕はまったく別個の円盤観を形成するにいたり、円盤は人生の大問題と深く関わっていると公言して憚らないまでになっているのだ」(単行本p.16)

 「本書を通読していただければ分かるように、わたしにとってオカルティズムと文学(そして、UFOや民俗学も)は通底しており、対象として何ら本質的な差異は存在しない」(単行本p.2)

 ある・ない論争から離れ、ヒトはなぜ円盤体験をするのか、その体験の背後には何が潜んでいるのか、それを主としてオカルティズム視点から考察してゆく本です。

 宇宙人が円盤に乗って他の星からやって来ている、などといった物語は忘れて、円盤体験そのものを冷静に眺めてみると、そこには間違いなく、妖精体験、心霊体験、神秘体験、魔術、などと通底するものがあるわけです。不気味で、割り切れない、底が知れない、マジで踏み込んだら戻ってこれなさそうな、そんな「何か」。もしかしたら、これらの体験は、その本質において、同一のものなのかも知れません。

 「円盤の小人型搭乗員と妖精はほとんどぴったり重なりあうのだ。小人型搭乗員と称される存在は、けっして今世紀になって僕たちの前に初めて登場したわけではない。彼らは太古から人間世界を侵犯してきたのであり、ただ少しばかり装いを変えたにすぎない」(単行本p.23)

 「ある意味では、誘拐事例の裡に、妖精というかつて強烈な影響力を備えていた民間伝承、現代では基本的に滅んだはずの神話が再び蘇生しつつあるのを僕たちは目撃しているのだ」(単行本p.49)

 まずは、円盤搭乗員との遭遇譚は、妖精にさらわれたという民間伝承と事実上同じものだということが説得力を持って示されます。なるほど、どちらも同じ種類の幻想やフォークロアなのか、と納得しかけた読者は、ここでぐいと手を引っ張られるようにして、いっきに核心に引きずり込まれます。その入り口となるのは、誘拐事例。

 「客観的証拠はほとんど存在していない。ただし、これは誘拐事例だけに限らず、円盤現象全般に共通しており、円盤現象の本質といっても過言ではない。そして、客観的証拠がまったく存在しないかといえば、そうじゃなくて、誘拐に先立つ円盤目撃、あるいは失われた時間について、第三者の証言があったり、円盤の着陸跡らしきものがあったりするんだ。これが厄介で不気味な点である」(単行本p.38)

 「それにしても、この電話のエピソードには、私たちの業ともいうべきものの深淵を照射する不気味というほかない何かが含まれている」(単行本p.45)
 
 「誘拐事例が幻想であるにせよ、物理的、物質的現象も付随して発生している可能性があるのはやはり認めねばならない。(中略)それにしても、僕たちはいったい何に直面しているのだろう? 幻想が物質的現実をも侵犯しているのか、それとも、物質的現実を侵犯する「何か」がトリガーとなって円盤幻想を惹き起こし、さらにそれが被誘拐幻想をも誘発しているのか、それとも・・・・・・?」(単行本p.54)

 幻想、幻覚としか考えられない体験が、奇怪なことに物理的現実をも変容させてゆく。あるいはもともと見せかけに過ぎなかった「現実」の化けの皮がはがれ、その下に隠されていたものがぬらりと這い出してくる。そんな体験。

 「事物が変容しうるという感覚、ありふれた事物がまったく別の意味を持ちうるという感覚」(単行本p.210)

 円盤体験がはらんでいるそんなものを見つめているうちに、「僕たち」(最初から読者を巻き込む気まんまんの一人称)は、いつの間にかオカルトの領域に足を踏み入れていることに気づきます。そのとき、背後からノックの音が。

 「円盤の世界では、ご存じのように、すっきりしたときが一番危ない。(中略)僕個人の感触を言うなら、円盤体験よりもっと微妙なかたちで、MIBはリアリティを突き崩しているような気がしてならない。円盤体験ではリアリティはもろにぶっとんで爽快(?)でさえあるのだが、これに対して、MIBたちの現実とのずれぐあいは妙に心地が悪い」(単行本p.101、102)

 神話、民間伝承、都市伝説のなかにしかいないはずのMIB(メン・イン・ブラック、黒服の男たち)。それが、「友達の友達」の話ではなく、本人が実際にMIBの訪問を受けた、と語る証言者が数多くいるということの不可解さ。

 「問題はそこから先なのだ。フォークロア、都市伝説としてのMIBが存在するいっぽうで、その像に部分的に合致するMIBが現実世界を徘徊しているらしいこと----これはいったい何を意味するのか? フォークロアを媒介とする妄想の発生にすぎないのか、それとも逆に、MIBフォークロアとは現実のMIB体験を変形、抽象化することによって産出されたものなのか? あるいは、いわゆるフォークロアと現実とは、僕たちの予想もつかないかたちで相互に関係しあっているのだろうか? そして、この問いはMIB現象のみならずUFO体験全体に対しても発せられねばならないだろう」(単行本p.103)

 軽妙な文章に導かれ、ユーモラスな表現に吹き出しながら、楽しく円盤世界を散策しているうちに、「現実」に対する素朴な信頼が致命的に損なわれ、何だかもう元に戻れなくなっている、まともじゃなくなっている自分を発見する。そんな、そう、これは、何空体験。

 「円盤の世界に真剣に向かいあえばあうほど、「まとも」ではなくなってしまうというのは事実なんだ----ある意味で、絶望的なパラドックス。円盤の世界には僕たちの認識体系、論理体系にあてはまる整合性なんて存在しないらしく、したがって、その世界を既存の世界観の枠内で真摯に記述しようとすると、逆に歪んだまともでないものしかでてこない」(単行本p.59)

 「事実と虚構、現実と非現実の境界に絶対的なものがあると思っちゃいけない。少なくとも僕はそうは思わない」(単行本p.113)

 「現実を引き裂くような何か、境界線を侵犯するような何かはやっぱりあるんだよね。こういった認識のゆらぎを痛撃するかのように裂け目から噴出するものが、百年前には死者の霊というかたちをとり、現代では円盤というかたちをとるのだと、僕は思う。あるいは霊や円盤と認識されると言うほうがいいのかもしれない」(単行本p.120)

 「精神と物質の裂け目を円盤は飛んでいるのであって、おそらく解答はどちらの側にも属さないのだろう。(中略)世界はおそらく僕たちの思っているようなものじゃない。そして、世界に裂け目があるかぎり、僕たちは見るのをやめない----何かが空を飛んでいるのを」(単行本p.121、123)

 付録として『泥の海』と題した円盤文献紹介が掲載されており、その映画版である『「純」円盤映画を求めて」』、さらに映画談義として『不思議なセルロイド----怪奇幻想映画オールナイト全五夜』も載っています。

 また、補遺として、地球空洞説をテーマとした『地底への旅----カフトン=ミンケル『地下世界』』、およびそれと関連するシェイヴァー・ミステリーを扱った『ログフォゴあるいは「岩の書」----リチャード・シェイヴァーについてのノート』が収録されており、これらが何空と同じく、あの軽妙で親しみやすい文体で書かれたパートです。

 なお、内容的には『夢と光り物----アナ・キングズフォード、佐々木喜善、泉鏡花』からも何空に近いものが感じられるのですが、こちらは文体が異なります。

 個人的な好みもありますが、「シェイヴァーの神髄、真価は日本ではいっこうに知られる気配がなく、この特異な幻視者について粗略なりとも一文を草しておく責務を感じ」(単行本p.230)て書かれたという『岩の書』は、これがもう、小躍りしたくなるほど面白い。

 「シェイヴァーは徹底した唯物論者であって、霊的存在のごとき蒙昧な迷信は信じない。デロは器械を操って光線を放っているし、「岩の書」も太古のテクノロジーの産物である」(単行本p.236)

 「幻視者としてのシェイヴァーが安物、チープのきわみであることは否定すべくもない。でも、彼は同時に偽物ではなかった。(中略)内面のヴィジョンの表現に一生を賭した点で本物だったとわたしは思う」(単行本p.238)

 すでに旧版をお持ちの方でも、この書き下ろしエッセイのためだけに新版(定本)を読む価値がありますよ。お疑いの方は、ちらりと単行本p.239をご覧くださいませ。

 他のエッセイはもっと重々しい、学術的風格のある文体で書かれています。テーマは西洋近代オカルティズムの歴史、文学と想像力、ナチスとオカルト、妄想偽史、過激な民族至上主義思想、民俗学、柳田國男、先住異民族、そして『稲生物怪録』。オカルトと民俗学にまたがる幅広い話題が、驚くべき博学多識な筆で縦横無尽に語られます。

 「わたしはそこから一歩も進まなかったようにも思える。ひとつのことに取り憑かれて、それを倦まずに語ってきたというのが、おそらく本当のところなのだろう」(単行本p.425)

 というわけで、この「領域」に惹かれるものがある方は、とりあえず読んでみることをお勧めします。文章は読みやすく、きわめて理知的な筆致で書かれているので、オカルト関連の話題に対して抵抗感がある読者でも問題なく楽しめると思います。あまりに楽しみすぎると、それはそれで危険かも知れませんが。


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