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『神の水』(パオロ・バチガルピ、中原尚哉:翻訳) [読書(SF)]

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 かつてそれは神の水と呼ばれた。中西部の平原に徐々に広がり、ロッキー山脈を越えて乾燥した土地に進出したアメリカの入植者たちは、そう呼んだ。
 神の水。
 空からひとりでに落ちてくる水。
 ルーシーの夢のなかでそれは口づけのようにやさしかった。天国から流れ落ちる祝福であり赦罪だった。
 しかしそれが消えた。いま唇は乾いてひび割れている。
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Kindle版No.357


 水資源の枯渇に直面している近未来の米国南西部。厳しい給水制限のために崩壊してゆく都市、あふれる水難民たち、そして熾烈を極める水利権争い。謀略と裏切りが渦巻く暗闘に巻き込まれた三人は、生き延びるために命懸けで戦うことになる。環境危機に瀕した世界を描く名手、パオロ・バチガルピの長編。単行本(早川書房)出版は2015年10月、Kindle版配信は2015年10月です。


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 気象学者は記録的とか、新記録とかいつも言う。まるでパターンがわかっているかのように。天気予報のキャスターは干魃と表現するが、それはいずれ終わるという前提がある。固定した状態ではなく、一時的な出来事のはずだと。
 しかしこの状態が連続し、砂嵐がとぎれなくなったらどうか。砂塵と森林火災の煙と干魃が永久に続き、太陽が顔を出さない連続日数だけが記録を更新しつづけるとしたら。
(中略)
人々はまだ暮らしをいとなむふりをしている。未来を求めてもがいている。しかし手を伸ばす先に未来はもうないのだ。
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Kindle版No.466、2648


 気象変動による旱魃、地下帯水層の枯渇、慢性的な水不足。米国南西部の諸州は、今や砂漠に飲みこまれようとしています。巨大な都市も、繁栄する経済も、水の供給をストップされれば、まさに砂上の楼閣。消え失せた後に残されるのは、わずかな富裕層と外国人が居住する資源循環型の閉鎖環境都市を除けば、スラム、難民、暴力、そして死体、数知れぬ死体だけ。

 高等裁判所の弁護士から、州兵、難民、路上のギャングに至るまで、水を、水利権を、手に入れるために、他人の血でわずかな飲み水を手に入れるために、誰もが凄惨な争いとサバイバルを強制されています。


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全米はすでにテキサス州の崩壊を見ている。今回なにが起きるかはだいたいわかっている。フェニックスはオースティンになる。より大規模に、より醜悪に、より広範囲に。
 崩壊第二幕だ。否認、崩壊、受容、 難民発生となる。
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Kindle版No.452


 短篇集『第六ポンプ』に収録されていた『タマリスク・ハンター』の設定を大きく拡大し、あるアイテムをめぐって多くの組織や人々が殺し合う物語です。世界中で深刻化しつつある水危機を念頭に、そのモデルケースとして、崩壊しつつある近未来の米国南西部を舞台として取り上げています。

 物語の背後にいるのは、ラスベガスの水利権を死守しようとする冷酷な「コロラド川の女王」ことキャサリン・ケース。


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デスクに身を乗り出したコロラド川の女王。まわりの壁は天井から床までネバダ州とコロラド川流域の地図が表示されている。その彼女の領土には、リアルタイムのデータが流しこまれている。
(中略)
それらの上端では、他の河川流からの緊急購入価格やナスダックでの先物価格が流れている。ミード湖の貯水量を増やす必要に迫られたときは公開市場で買い付けなくてはならないのだ。これらの非情な数字に彼女の世界は支配され、そんな彼女にアンヘルやブラクストンの世界は支配されている。
(中略)
コロラド川の女王はこの地域で大量虐殺をおこなった。給水管のバルブを閉めることで、最初の広大な墓地をつくりだした。「水道本管を自力で警備できない者は砂を飲め」とケースは言い放った。
(中略)
 人はキャサリン・ケースを殺し屋という。その手先たるウォーターナイフがコロラド川の違法取水に過酷な取り締まりをおこなうからだ。
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Kindle版No.82、87、166、934


 キャサリン・ケースのために、脅迫から暗殺、破壊活動まで何でもやる「ウォーターナイフ」と呼ばれる凄腕の水工作員たち。その一人であるアンヘルという男が、主人公の一人となります。

 いかにもハードボイルド調タフガイで虚無的な人間なのに、意外に感傷的というか人情に厚いアンヘル。彼が追いかけることになるのは、それを手に入れた者に強大な水利権をもたらすという謎めいたアイテム。典型的な、いわゆるマクガフィンです。


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「死ぬのは怖くない」
 アンヘルは思い出し笑いをした。たしかに当時から怖くなかった。ベガスのごみ収集車で死ぬことも、キャサリン・ケースのことも。自分の死と長くむきあいすぎて、もはや親友になっていた。人形めいた女など屁でもない。アンヘルの背中にはサンタ・ムエルテの刺青がある。命はこの骸骨のレディにあずけてある。いまでは死はガールフレンドだ。
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Kindle版No.971


 そのアンヘルと、敵対したり、味方になったり、助けたり、助けられたり、裏切ったり、裏切られたりしながら、共にマクガフィンを追うことになる、ジャーナリストのルーシー。


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「最初から危ないことをしたかったのよ」
 声に出すとすっきりした。安全など求めていない。求めるのは真実だ。いまだけは真実を追求したい。
 永遠に続くものなどない。(中略)すべては滅びる。砂に埋もれ、海に没し、焼け野原になる。どこまでも続く。世界の均衡が破れたのだ。あらゆる都市が存立の基盤を失い、崩壊してさまざまな悲劇を生む。
 それがいつまでも続くだろう。
 終わりはないだろう。
 ならば逃げても無駄だ。全世界が燃えるのなら、ビールを片手に、恐れることなく立ちむかってもいいだろう。
 いまだけは恐れることなく。
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Kindle版No.1321


 そして三人目の主人公は、社会の最下層を這いずりながら、生き延びて未来をつかもうと必死であがいている難民、マリア。たまたまマクガフィン争奪戦に巻き込まれ、幾度も死線をかいくぐりながら、決定的に重要な役割を果たすことになります。


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身につけた技術ですべてを切る。州境フェンスも、カリフォルニア州軍も。神の水がいまも天から降る土地への移住を禁じ、救援ゾーンにとどまって飢え死にしろというばかげた州境規制法も。
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Kindle版No.657


 アンヘルにマリア、天使に聖母。人物名には宗教的な響きがありますが、物語はスパイ小説、サスペンス小説、アクション小説とスピーディに展開してゆき、銃撃戦、追跡劇、大爆発、大規模火災、ミサイル攻撃、という具合にヒートアップ。徹底したエンターティメントになっています。

 特に後半、それぞれの主人公が次から次へと危機的状況に陥る展開には思わず手に汗握ることに。派手な映画的アクションシーンも豊富で、露骨なクリフハンガー的な引きも多用され、娯楽小説として文句なく面白い。

 陳腐なプロットも、環境危機に対する真摯な問題意識やよく練られたリアリティのある背景設定のおかげで、薄っぺらい活劇という感じはしません。また、暴力と死と裏切りが横溢する殺伐とした世界で、わずかに残っている希望を見せるシーンが感動的なのもそのためでしょう。


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おまえを外へ行かせてやる。こんなところで死なせない。もちろんこんなところで生きさせない。(中略)種を播き、芽が出るのを待ちたいんだ。おれに子どもがいたら、だれかが気にかけてくれることを願うだろう。自分のことしか考えず、悲劇を放置する人ばかりでないことを願う。悲劇に対して見て見ぬふりをする人ばかりでないことを
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Kindle版No.4621、4664


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大混乱の恐怖で多くの人は人間以下になる。隣人を切り裂き、フェンスに磔にする。
 しかしそれに立ちむかう人も少数ながらいるのだと理解できた。麻薬マフィアやギャングに立ちむかい、金や、ウォーターナイフや、民兵組織に抵抗する。安易な道を選ばず、正しい道を選ぶ。それが安全な道でなく、賢明な道ですらなくとも。
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Kindle版No.5728


 そして最後に判明する、マクガフィンが隠されていた場所。そこに込められている辛辣な皮肉。この作品が訴えようとしているメッセージを象徴するような、見事なシーンです。

 というわけで、優れた環境SFであり、同時に圧倒的な面白さをほこる娯楽小説でもあるという、刮目すべき傑作。ちなみに、訳者あとがきには、米国における水危機の現状、水利権の仕組み、南西部の地図(アリゾナ州、カリフォルニア州、ネバダ州、コロラド川の位置関係が一目瞭然)など、本書を理解する上で重要になる情報がコンパクトにまとめられていますので、先に目を通しておき、地図などはその都度参照するとよいかと思います。

 なお、主な舞台となるアリゾナ州フェニックスの崩壊が始まった瞬間をとらえた、本書の前日譚ともいうべき短篇がSFマガジンに掲載されていますので、合わせてお読みください。雑誌読了時の紹介はこちら。

  2015年10月27日の日記
  『SFマガジン2015年12月号 《SF Animation × Hayakawa JA》』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-10-27


タグ:バチガルピ
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『ビタースイートホーム』(川口晴美) [読書(小説・詩)]

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ただいま
わたしのいない家へ
ことばになって入っていく
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『まるい石』より


 生まれ育った家、今はもうない家。記憶のなかにしかないその家に、ことばとなって入ってゆく。幼少期の記憶を探検する連作詩集。Kindle版(マイナビ出版)配信は2015年10月です。


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生まれた日の朝のことは覚えていないけれど
記憶は脳ではなくこの身体のどこかに
仕舞いこまれているのだろうか
夜のあいだに降り積もった雪で隠された泥土のように
皮膚の下にうごめいているのは肉ではなく
輪郭を失って混ざりあった記憶なのだろうか
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『押入れのなか』より


 詩集『Tiger is here.』のあとがきに「自分のことを詩の言葉でとらえるところから、もう一度始めるしかないんじゃないか。何か言えるとしたら、たぶんそれから。そんなふうに考え、生まれ育った場所から連載詩をスタートさせました」とありますが、本作も同じく、生まれ育った場所から自分を見つめます。

 自分の記憶のなかにだけある、幼少期を過ごした家に戻って、家中あちこち探検する連作です。過去を思い出すというより、今の自分が、自分の記憶のなかに、潜ってゆく。ことばで再構築された家をことばとなって歩き回る。そんな詩が並んでいます。

 というわけで、まずは記憶のなかの家に向かってゆくところから。


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くせっ毛をもつれさせて
六歳のわたしは市営住宅の入口を背に立っていた
あのとき
田圃と畑と道の向こう
そこからは見えない海に夕日が落ちて
薔薇色に光る空が背後の山のほうから蒼暗く変わっていくのを
ぼんやり眺めながらとつぜん
今日というこの時間は決して繰り返さないってわかって
ものすごく不思議だった
六歳の身体は薔薇色の光を浴びていて
それからゆっくり蒼暗くなっていったのだった
同じ光を浴びることはない
決して

ことばのわたしはゼリーみたいに
いくつもの光を地層のように内部に溜めたまま
ところどころ溶けあったり滲ませたり
ゆらゆら揺らして零しながら
記憶の家へ遡る
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『夕暮れの水』より


 そして、きちんと玄関からお邪魔します。ことばは、記憶とはまた違って、変に律儀なところがあります。


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玄関で靴を脱いで
家へ上がる
もうこの世のどこにもない家へ
上がり口の高さは足を曲げる角度で覚えている
脱いだ靴をそろえておかないと怒られるから
お行儀のわるい子どものわたしはたいてい後ろ向きで上がった
内股で歩くクセを微妙にしるして三和土に並んだ靴の
ぽっかりあいたふたつの穴
失われた子どもの身体
体温の名残りのようにそこにたゆたう記憶が
夕暮れの光を孕んだことばを
立ち上がらせる
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『ヒミツの話』より


 こうして記憶のなかの家のあちこちを探検してゆきます。廊下、窓、押入れ、トイレ、台所、浴室、居間。それぞれの場所に、それぞれの記憶が、立ち現れます。


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身体をあらうときは
小さいほうの洗面器で浴槽のお湯を汲んでもうひとつの洗面器に移し
タオルを濡らして首から
右手で左腕を三回、左手で右腕を三回
順番も擦る回数もお湯のかけ方もぜんぶ決まっていて
うっかりまちがえると最初からやり直したくなる
あの窮屈な儀式めいた入浴で
わたしはわたし自身の子どもの身体をなにかから守っていたのだ
それはいつのまにか終わった
大人のわたしはもっと雑にあらってもぜんぜん平気だよ、と
浴槽にならんでしゃがんだ幻の子どもに告げると
あたたかく曇った鏡は
大人の言うことなんかひとことも信じていない意固地な顔のわたしを映す
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『かたい儀式』より


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四畳半と六畳の市営住宅は収納も限られている
うずだかくなっていく少女漫画雑誌に
領土を脅かされながら母親は
お話がどうなるかわかっているのになぜまた読むのかわからない、と言った
あのね、おかあさん
お話は変わらないけれどそれを読むわたしがそのたびに変わるんだ、と
今なら説明できるかもしれない
こんなふうに繰りかえしことばになって
記憶のなかの家を訪れるたびに
箪笥の奥行きや電灯をつけるときに引っぱる紐の長さや窓までの歩数が
少しずつ変わっていくのと同じこと
だから今
押入れを開け一九七四年十一月号の『りぼん』を探し出したくなるけれど
きっと座り込んで読みふけってしまうにちがいないから
やめておこう
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『押入れのなか』より


 ちなみに、『りぼん』1974年11月号の目次はこう。ネット検索はこういうとき便利。
 http://yotsuba.saiin.net/~eiko/ribon/history/r197411.html

 個人的に、一条ゆかり先生くらいしか読んだことがないのですが、それでも似たような記憶(押入れの下段に積み上げた漫画雑誌)を共有しています。痛みをともなう懐かしさを覚えます。

 いや、昭和の市営住宅というのは、日本全国どこでもみな似たような構造になっていたのでしょうか。間取りなど細かい部分、家具の配置、窓の具合など、私自身の記憶とかなり似ているように感じられ、読んでいるとまるで自分の過去を探索しているような気持ちに。

 もしかしたら、失われてから長い時間がたった家は、個々人の記憶を越えて溶け合い、混じり合い、ひとつのものになってしまうのかも知れません。私たちはみんな、互いに出会うことのないまま、そこをくりかえし訪れているのでしょうか。そんなことをふと考えてしまう連作詩集です。


タグ:川口晴美
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『なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集』(シャーリイ・ジャクスン、市田泉:翻訳) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

『序文 思い出せること』
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いら立ちが高じるあまり、わたしはある晩こう決意した。世の中には読むにふさわしい本が一冊もないのだから、自分がそれを書いてやろう、と。
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Kindle版No.53


 人間心理の不可解さを描くホラー短篇から、子育てなど家庭生活のどたばたをユーモラスに描く掌篇まで、シャーリィ・ジャクスンの未発表・未単行本化作品から厳選した30篇を収録した短篇集。文庫版(東京創元社)出版は2015年10月、Kindle版配信は2015年10月です。

 シャーリィ・ジャクスンの短編といえば、アンソロジー『厭な物語』に代表作として知られる『くじ』が、また『街角の書店』にはユーモア作品『お告げ』が、それぞれ収録されています。どちらも傑作で、しかも本書とは重複していないので、ぜひお読みください。ちなみに文庫版読了時の紹介はこちら。

  2013年07月26日の日記
  『厭な物語』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-07-26

  2015年06月05日の日記
  『街角の書店 18の奇妙な物語』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-06-05

 もっと読みたい、シャーリィ・ジャクスンの短篇を読みたい、と思っていた読者待望の個人短篇集が本書です。未発表、未単行本化だった短篇から選ばれた30篇(序文とエピローグのエッセイ含む)も収録されています。しかも、これが、傑作揃い。すごいです。必読です。


[収録作品]

『序文 思い出せること』
『スミス夫人の蜜月(バージョン1)』
『スミス夫人の蜜月(バージョン2)』
『よき妻』
『ネズミ』
『逢瀬』
『お決まりの話題』
『なんでもない日にピーナツを持って』
『悪の可能性』
『行方不明の少女』
『偉大な声も静まりぬ』
『夏の日の午後』
『おつらいときには』
『アンダースン夫人』
『城の主』
『店からのサービス』
『貧しいおばあさん』
『メルヴィル夫人の買い物』
『レディとの旅』
『「はい」と一言』
『家』
『喫煙室』
『インディアンはテントで暮らす』
『うちのおばあちゃんと猫たち』
『男の子たちのパーティ』
『不良少年』
『車のせいかも』
『S・B・フェアチャイルドの思い出』
『カブスカウトのデンで一人きり』
『エピローグ 名声』


『スミス夫人の蜜月(バージョン1)』
『スミス夫人の蜜月(バージョン2)』
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この恐ろしい推測が正しかったら(みんなそうだといいと思っている)、大家も、店主も、店員も、薬屋も、充実した時間を分かち合ったことになる――耐え難い状況のすぐそばにいて、しかも安全だという途方もない興奮を味わったことになる。
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Kindle版No.350

 町に引っ越してきた新婚のスミス夫人。その夫は、これまで新妻に多額の保険金をかけては殺してきたシリアルキラーではないかという噂で町はもちきりになる。誰もが夫人の身を案じながら、しかし同時に、何か刺激的な事件が起きることも秘かに期待していた。

 野次馬心理の恐ろしさを描いたバージョン1だけでも素晴らしいのですが、同じプロットで、スミス夫人の不可解な心理をおぼろげに見せるバージョン2をさらに重ねることで、ぞっとするような印象を残します。


『よき妻』
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「ファーガスンという名前の人は知りません。だれ一人愛したことはありません。浮気などしたことはありません。白状することもありません。二度ときれいな服など着たくありません」
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Kindle版No.655

 浮気を疑って妻を寝室に監禁した夫。圧倒的に優位に立っていたはずなのに、夫人から徹底的な否認と拒絶にあって、いつしか泥沼の心理戦に敗北しつつある。そんな彼が事態を打開すべく打った手とは。あえて結末を書かないことで、ある種のリドルストーリーのような不安と憶測を残す作品。


『なんでもない日にピーナツを持って』
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こんな輝かしい日には、世界じゅうに悪いことなど何もないような気がする。陽射しは暖かで気持ちいいし、底を張り替えた靴は申し分ない履き心地だし、今朝選んだネクタイは間違いなく、今日という日と、陽射しと、快適な足にぴったり合っている。結局のところ、世界とはすばらしい場所ではないだろうか?
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Kindle版No.1024

 街を散歩しながら、あちこちで善行を施すジョンスン氏。出会った人々を助け、勇気づけ、世の中を明るくすることに専念している彼には、ある小さな秘密があった。予想外の結末にあっと驚き、それから善行の意味について考えさせられる「奇妙な味」の傑作。


『悪の可能性』
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 ミス・ストレンジワースはため息をついて背中を向けた。人々のあいだには邪悪なものが大量にはびこっている。こんなにも小さく魅力的な町でさえ、人々のあいだには邪悪なものがおびただしく潜んでいるのだ。
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Kindle版No.1438

 誰よりも昔からこの街に住んでいた老婦人。あちこち歩き回ってはゴシップを集め、帰宅してから、町の人々のためにせっせと行っていることとは。今では多くの人がSNSでやっている行為の心理を鮮やかに描いた作品。


『行方不明の少女』
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 彼女は地元の墓地に静かに埋葬された。その夏は上級狩人だったがルームメイトのいなかったベッツィは、墓穴のそばにしばらく立っていた。けれども、服にも遺体にもまったく見覚えがなかった。
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Kindle版No.1714

 ある夜、サマーキャンプから失踪した少女。街は大騒ぎになり、徹底的な捜索が行われたが、依然として彼女は行方不明のまま。やがて判明したのは、そもそも誰も彼女のことを知らず、遺留品も、記録も、彼女が実在していたことを示す証拠は何一つ残されていないという恐るべき事実だった。これをどう解釈すればいいのか。

 幽霊譚なのか、怪奇現象なのか、それとも何らかの陰謀なのか。理解できない事件に直面したときの人間の心理と行動を鋭く描き、割り切れない不可解な印象を残す異様な傑作。個人的には、本書収録作品のうち最も感銘を受けた作品です。


『アンダースン夫人』
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「なあ、ジョー」アンダースン氏はふいに言った。「自分がしょっちゅう同じことを言ってると気がつくことはないか?」
「あるよ」ジョーは面食らった顔で答えた。「それどころか、毎日同じことをやってる」
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Kindle版No.2210

 毎日、毎日、同じことをして、同じセリフを口にしているアンダースン氏。妻からそれを指摘された彼は、たまには型にはまった言動から外れてみようと試みるが……。あまりにも不条理な話なのに、どういうわけか不思議なリアリティを感じさせる衝撃的な作品。


『メルヴィル夫人の買い物』
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テーブルの下でくたびれた脚を休めながら、椅子にもたれてしばらく目を閉じる。買い物って疲れるわ。とりわけ、何もかもあんなに見つけにくくて、売り子があんなに失礼で、苦情係がこんなに遠くにあるとなると。
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Kindle版No.2746

 デパートで買い物をしているメルヴィル夫人は、そっけない店員の態度にも、他の客の行動にも、何もかもイライラしている。苦情窓口に言いつけてやろう、と決意するのだが、苦情係ははるか上階。そこまで行くのも一苦労なのだった。最初は嫌な奴だと思える夫人に次第に共感を覚えるようになってゆく奇妙なユーモア作品。


『家』
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橋を渡る途中、エセルは屋敷のほうへ目をやった。わたしだけの家、と考え、いえ、わたしたちだけの家、と考え直したとき、雨の中、路傍にひっそりと立つふたつの人影が目に入った。
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Kindle版No.3511

 丘の上にある大きな屋敷に引っ越してきた夫婦。夫人は街に買い物に出掛けるが、誰もが「雨の降る日にあの屋敷に向かう道は通らない方がいい」と忠告めいた物言いをする。気にせずその道を自動車で走っているとき、彼女は雨の中に立っている人影に気づく。

 典型的な「消えるヒッチハイカー」ものですが、その後の展開がすごく怖い作品。意外にもそれほど暗くない結末が心に残ります。


『うちのおばあちゃんと猫たち』
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 おばあちゃんは魅力的な優しい女性だが、猫を相手にするときは話が別だ。それでもおばあちゃんは猫が大好きで、自分が猫たちの天敵として生まれたという残酷な運命を常に嘆いている。
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Kindle版No.3970

 いつも猫と戦っている老婦人、実は大の猫好きだった。猫飼いの言動をユーモラスに描いた楽しい作品。


『車のせいかも』
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「母さんがまたおかしくなった」長男がリビングで父親にそう言っている。「今度は何をやらかすのかな」
「すべては真実か、偽りか、母さんの妄想なんだ」夫の声がぼそぼそと聞こえてくる。
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Kindle版No.4478

 家事や育児に疲れ果てた女性。私は作家なのに、作家なのに。かんしゃくを起こして何もかも放り出して家出してみるが……。作者を思わせる女性を主人公としたユーモラスな作品。暴風のような男の子たちを育てる母親の尋常でない苦労を描いた『男の子たちのパーティ』や『不良少年』と合わせて読むと、こう、感慨深いものがあります。


『S・B・フェアチャイルドの思い出』
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その電報は、支払い期限を大幅に過ぎた商品代金を支払わないなら、フェアチャイルド・デパートは法的な手続きに入る、という内容で、差出人はS・B・フェアチャイルドだった。
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Kindle版No.4696

 デパートで購入した電化製品が不良品だった。苦情の手紙を書いて商品を突っ返したのに、向こうからはお詫びどころか、購入代金の催促状がやってくる。事情を説明する手紙を書いて送ったが、まったく無視。さらに催促状がやってくる。手紙を書いても書いても、悪いのはこちらで、デパートは被害者、という態度に何の変化もない。すべての催促状にはS・B・フェアチャイルドの署名が。あまりのお役所仕事にぶち切れる主人公。ふ・ざ・け・ん・な!

 買い物トラブルあるあるですが、怒りのあまり誰も読んでない手紙を書きまくる主人公の姿に思わず笑ってしまう素晴らしいユーモア作品。個人的に、ユーモア系では本作が最も気に入りました。



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『ベル(Belle)』(デボラ・コルカー・カンパニー) [ダンス]

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私がチャレンジしたいのは、心の中に宿る残忍性と二つの顔を併せ持つ女性の物語を身体言語を通して表現していくことです。私が『昼顔』の中で最も大切にしたかったのは、二人のセヴリーヌが舞台上に存在していることです。原作とブルニュエの映画では、セヴリーヌとベルは同一人物ですが、私はあえて二人のダンサーを使い彼女の感情を表現することにしました。
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デボラ・コルカー

 2015年11月1日は、夫婦と知人の三人でKAAT神奈川芸術劇場に行って、デボラ・コルカー・カンパニーの公演を鑑賞しました。15名のダンサーが踊る1時間の公演です。

 2008年に『ルート』を観て感激してから早7年、ようやくデボラ・コルカーの作品を観ることが出来ました。ちなみに『ルート』鑑賞時の紹介はこちら。

  2008年06月21日の日記
  『ルート(ROTA)』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2008-06-21

 今回の『ベル』は、ジョゼフ・ケッセルの『昼顔』(カトリーヌ・ドヌーヴ主演で映画化されたことで有名)に基づいた作品。性的妄想シーンが大半を占めており、レイティングは「14歳未満禁止」となっています。

 何しろこれが、とてつもないパワーあふれる舞台。すべてのシーンが見せ場、また見せ場。まさか、このままずっと最後まで全力疾走か、というおののき。

 上品なバレエのステップから始まって、欲望みなぎる男性群舞へ。エロティックなデュエットあり、垂れ幕を巧みに使った妄想リフトあり。後半になると、悩殺意こめられたダンスが、これでもかこれでもかという勢いで惜しみなく投入され、これがまた最後まで勢いが止まりません。色っぽいポールダンスもお見事。

 どんだけ筋力、どんだけ体力。

 高所からいきなり仰向けに落下、座った体勢から唐突に大ジャンプ。180度以上両足開脚したままリフトされ、しかもそのまま回転したり、男から男へとトラヴァースしたり。片手でパートナーを持ち上げた姿勢でそのまま大旋回。

 というような、びっくりするような動きも多く、まあ妄想だから何でもアリですが、それは設定であって、実際に現実にフィジカルに踊ったりしないでプリーズ、というか、どれだけ鍛えてるのかと。

 観ているだけで疲れるような激しさで最後まで突っ走り、人の性的妄想というものがどれほど強烈で破滅的か、まざまざと見せつけてくれる舞台です。圧巻です。


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