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『神の水』(パオロ・バチガルピ、中原尚哉:翻訳) [読書(SF)]

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 かつてそれは神の水と呼ばれた。中西部の平原に徐々に広がり、ロッキー山脈を越えて乾燥した土地に進出したアメリカの入植者たちは、そう呼んだ。
 神の水。
 空からひとりでに落ちてくる水。
 ルーシーの夢のなかでそれは口づけのようにやさしかった。天国から流れ落ちる祝福であり赦罪だった。
 しかしそれが消えた。いま唇は乾いてひび割れている。
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Kindle版No.357


 水資源の枯渇に直面している近未来の米国南西部。厳しい給水制限のために崩壊してゆく都市、あふれる水難民たち、そして熾烈を極める水利権争い。謀略と裏切りが渦巻く暗闘に巻き込まれた三人は、生き延びるために命懸けで戦うことになる。環境危機に瀕した世界を描く名手、パオロ・バチガルピの長編。単行本(早川書房)出版は2015年10月、Kindle版配信は2015年10月です。


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 気象学者は記録的とか、新記録とかいつも言う。まるでパターンがわかっているかのように。天気予報のキャスターは干魃と表現するが、それはいずれ終わるという前提がある。固定した状態ではなく、一時的な出来事のはずだと。
 しかしこの状態が連続し、砂嵐がとぎれなくなったらどうか。砂塵と森林火災の煙と干魃が永久に続き、太陽が顔を出さない連続日数だけが記録を更新しつづけるとしたら。
(中略)
人々はまだ暮らしをいとなむふりをしている。未来を求めてもがいている。しかし手を伸ばす先に未来はもうないのだ。
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Kindle版No.466、2648


 気象変動による旱魃、地下帯水層の枯渇、慢性的な水不足。米国南西部の諸州は、今や砂漠に飲みこまれようとしています。巨大な都市も、繁栄する経済も、水の供給をストップされれば、まさに砂上の楼閣。消え失せた後に残されるのは、わずかな富裕層と外国人が居住する資源循環型の閉鎖環境都市を除けば、スラム、難民、暴力、そして死体、数知れぬ死体だけ。

 高等裁判所の弁護士から、州兵、難民、路上のギャングに至るまで、水を、水利権を、手に入れるために、他人の血でわずかな飲み水を手に入れるために、誰もが凄惨な争いとサバイバルを強制されています。


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全米はすでにテキサス州の崩壊を見ている。今回なにが起きるかはだいたいわかっている。フェニックスはオースティンになる。より大規模に、より醜悪に、より広範囲に。
 崩壊第二幕だ。否認、崩壊、受容、 難民発生となる。
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Kindle版No.452


 短篇集『第六ポンプ』に収録されていた『タマリスク・ハンター』の設定を大きく拡大し、あるアイテムをめぐって多くの組織や人々が殺し合う物語です。世界中で深刻化しつつある水危機を念頭に、そのモデルケースとして、崩壊しつつある近未来の米国南西部を舞台として取り上げています。

 物語の背後にいるのは、ラスベガスの水利権を死守しようとする冷酷な「コロラド川の女王」ことキャサリン・ケース。


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デスクに身を乗り出したコロラド川の女王。まわりの壁は天井から床までネバダ州とコロラド川流域の地図が表示されている。その彼女の領土には、リアルタイムのデータが流しこまれている。
(中略)
それらの上端では、他の河川流からの緊急購入価格やナスダックでの先物価格が流れている。ミード湖の貯水量を増やす必要に迫られたときは公開市場で買い付けなくてはならないのだ。これらの非情な数字に彼女の世界は支配され、そんな彼女にアンヘルやブラクストンの世界は支配されている。
(中略)
コロラド川の女王はこの地域で大量虐殺をおこなった。給水管のバルブを閉めることで、最初の広大な墓地をつくりだした。「水道本管を自力で警備できない者は砂を飲め」とケースは言い放った。
(中略)
 人はキャサリン・ケースを殺し屋という。その手先たるウォーターナイフがコロラド川の違法取水に過酷な取り締まりをおこなうからだ。
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Kindle版No.82、87、166、934


 キャサリン・ケースのために、脅迫から暗殺、破壊活動まで何でもやる「ウォーターナイフ」と呼ばれる凄腕の水工作員たち。その一人であるアンヘルという男が、主人公の一人となります。

 いかにもハードボイルド調タフガイで虚無的な人間なのに、意外に感傷的というか人情に厚いアンヘル。彼が追いかけることになるのは、それを手に入れた者に強大な水利権をもたらすという謎めいたアイテム。典型的な、いわゆるマクガフィンです。


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「死ぬのは怖くない」
 アンヘルは思い出し笑いをした。たしかに当時から怖くなかった。ベガスのごみ収集車で死ぬことも、キャサリン・ケースのことも。自分の死と長くむきあいすぎて、もはや親友になっていた。人形めいた女など屁でもない。アンヘルの背中にはサンタ・ムエルテの刺青がある。命はこの骸骨のレディにあずけてある。いまでは死はガールフレンドだ。
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Kindle版No.971


 そのアンヘルと、敵対したり、味方になったり、助けたり、助けられたり、裏切ったり、裏切られたりしながら、共にマクガフィンを追うことになる、ジャーナリストのルーシー。


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「最初から危ないことをしたかったのよ」
 声に出すとすっきりした。安全など求めていない。求めるのは真実だ。いまだけは真実を追求したい。
 永遠に続くものなどない。(中略)すべては滅びる。砂に埋もれ、海に没し、焼け野原になる。どこまでも続く。世界の均衡が破れたのだ。あらゆる都市が存立の基盤を失い、崩壊してさまざまな悲劇を生む。
 それがいつまでも続くだろう。
 終わりはないだろう。
 ならば逃げても無駄だ。全世界が燃えるのなら、ビールを片手に、恐れることなく立ちむかってもいいだろう。
 いまだけは恐れることなく。
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Kindle版No.1321


 そして三人目の主人公は、社会の最下層を這いずりながら、生き延びて未来をつかもうと必死であがいている難民、マリア。たまたまマクガフィン争奪戦に巻き込まれ、幾度も死線をかいくぐりながら、決定的に重要な役割を果たすことになります。


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身につけた技術ですべてを切る。州境フェンスも、カリフォルニア州軍も。神の水がいまも天から降る土地への移住を禁じ、救援ゾーンにとどまって飢え死にしろというばかげた州境規制法も。
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Kindle版No.657


 アンヘルにマリア、天使に聖母。人物名には宗教的な響きがありますが、物語はスパイ小説、サスペンス小説、アクション小説とスピーディに展開してゆき、銃撃戦、追跡劇、大爆発、大規模火災、ミサイル攻撃、という具合にヒートアップ。徹底したエンターティメントになっています。

 特に後半、それぞれの主人公が次から次へと危機的状況に陥る展開には思わず手に汗握ることに。派手な映画的アクションシーンも豊富で、露骨なクリフハンガー的な引きも多用され、娯楽小説として文句なく面白い。

 陳腐なプロットも、環境危機に対する真摯な問題意識やよく練られたリアリティのある背景設定のおかげで、薄っぺらい活劇という感じはしません。また、暴力と死と裏切りが横溢する殺伐とした世界で、わずかに残っている希望を見せるシーンが感動的なのもそのためでしょう。


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おまえを外へ行かせてやる。こんなところで死なせない。もちろんこんなところで生きさせない。(中略)種を播き、芽が出るのを待ちたいんだ。おれに子どもがいたら、だれかが気にかけてくれることを願うだろう。自分のことしか考えず、悲劇を放置する人ばかりでないことを願う。悲劇に対して見て見ぬふりをする人ばかりでないことを
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Kindle版No.4621、4664


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大混乱の恐怖で多くの人は人間以下になる。隣人を切り裂き、フェンスに磔にする。
 しかしそれに立ちむかう人も少数ながらいるのだと理解できた。麻薬マフィアやギャングに立ちむかい、金や、ウォーターナイフや、民兵組織に抵抗する。安易な道を選ばず、正しい道を選ぶ。それが安全な道でなく、賢明な道ですらなくとも。
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Kindle版No.5728


 そして最後に判明する、マクガフィンが隠されていた場所。そこに込められている辛辣な皮肉。この作品が訴えようとしているメッセージを象徴するような、見事なシーンです。

 というわけで、優れた環境SFであり、同時に圧倒的な面白さをほこる娯楽小説でもあるという、刮目すべき傑作。ちなみに、訳者あとがきには、米国における水危機の現状、水利権の仕組み、南西部の地図(アリゾナ州、カリフォルニア州、ネバダ州、コロラド川の位置関係が一目瞭然)など、本書を理解する上で重要になる情報がコンパクトにまとめられていますので、先に目を通しておき、地図などはその都度参照するとよいかと思います。

 なお、主な舞台となるアリゾナ州フェニックスの崩壊が始まった瞬間をとらえた、本書の前日譚ともいうべき短篇がSFマガジンに掲載されていますので、合わせてお読みください。雑誌読了時の紹介はこちら。

  2015年10月27日の日記
  『SFマガジン2015年12月号 《SF Animation × Hayakawa JA》』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-10-27


タグ:バチガルピ
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