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『スキャッタード』(モーションハウス、ケヴィン・フィナン振付) [ダンス]

 2014年6月15日は、夫婦で六本木ブルーシアターに行って『スキャッタード』を、その後、彩の国さいたま芸術劇場で『パノラマ』を鑑賞しました。

 『スキャッタード』は「水」をテーマとしたダンス作品で、振付はケヴィン・フィナン。英国のダンスカンパニー「モーションハウス」の男女7名のダンサーによって踊られる70分の舞台です。

 舞台上には大きな白い「壁」が設置してあります。この壁、裾がスロープ状に広がっており、ダンサー達が飛びついたり、よじ登ったり、滑り降りたり出来るようになっています。ときにワイヤーアクション(吊り)によって壁に対して垂直に立ったり、壁の上からジャンプして頭を下にした体勢で壁面を滑り降りたりと、まあ様々なライブアクションが行われます。

 壁には映像が投影され、前述したようなライブアクションと映像がぴったり同期することで視覚的な驚きが生じます。ダンサーが壁に投影された「水面」に飛びつく度に波紋が広がるとか、滝のシーンで壁からぶら下がったダンサーの頭に水が「当たって」左右に飛沫を飛ばすとか、壁面に「直立」したダンサーと画面の水面に映った「鏡像」がちゃんとシンクロして動いたり。

 映像はすべてCGIで、最初は北極の雪と氷のシーンから始まり、都市部、砂漠、海、そして南極の氷雪へと到達するという、地球半周の旅が抽象的に描かれます。ほとんどのシーンは、流れる水、落下する水滴、生成消滅する雲、水中、雪、といった水の様々な様態で構成されています。前述した通り、ダンサーたちはこの「水」と見かけ上インターラクトするわけです。

 ダンスそのものは、意外にも硬派なコンテンポラリーダンス。特にアクロバティックでもなく、手堅い動きできっちり踊ります。個人的な好みとしては、爬虫類や昆虫を思わせる「ヘンな生き物」を模した動きが取り入れられているシーンがお気に入り。

 コンテンポラリーダンス作品としては映像の使い方にもの足りなさを感じますし、アートサーカスとして見るとあっと驚くような見せ場が少なくて地味、という微妙な中途半端さで損をしている印象もありますが、両方の要素をうまく取り入れて多くの観客に受け入れられるよう窓口を広げた工夫はさすがだと思います。


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『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』(チャールズ・ユウ:著、円城塔:翻訳) [読書(SF)]

 「こうやって僕は自分の本を書いていく。未来において既に存在している本をまた書いていく。結局僕が書くことになるのと寸分違わずおんなじ本を。僕は、ある意味ではまだ書いておらず、別の意味ではいつでも書き終えられている本を書いている。また別の意味では今書いており、別の意味ではいつも書かれている途中で、また別の意味では、決して書かれることのない本を。(中略)テキストにはこの説明用の(そして自己言及的でもある)傍注も含まれているし、既に一つ目の文で説明された内容についての二階のメタ説明である、この二つ目の文自身も含まれている」(単行本p.139、146)

 「こんなことには意味がないという確信があるという感覚がある。僕はこのお話がどう続くのかわからない。この物語がどう終わるかわからない」(単行本p.150)

 しがないタイムマシン修理工のチャールズ・ユウ、つまり「僕」は、未来の自分を撃ち殺すことで時間ループにとらわれてしまう。だから僕は未来の僕から託されたこの本『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』を書かなければならない。チャールズ・ユウの第一長編を円城塔が翻訳したタイムパラドックス家族小説。単行本(早川書房)出版は、2014年6月です。

 「TM-31の標準モデルは、最先端の継時上物語技術によって駆動する。クアッドコアの物理エンジンに載せられた六気筒の文法ドライブは、応用時間言語学的なアーキテクチャを提供し、そいつはレンダリングされた環境、つまりたとえば、物語空間なんかにおける自由航行を可能とする。特にSF的な宇宙とは相性がいい」(新書版p.16)

 「地下鉄では、隣の男がニュース・クラウドに頭を突っ込んでいる。「パラドックスは16パーセント増加しました」もう数インチ寄りかかれば、ニュースの中身を開けるだろう。「第四、四半期は前年度比で16パーセントの増加でした」みんなが自分の祖父を殺そうとするのをやめるだけでも、こういう事態を収拾することができるかも知れない」(単行本p.91)

 いきなり文章の癖というかスタイルというか既視感ハンパないので、もしかしたら「チャールズ・ユウ」というのはキルゴア・トラウトの一味で、表紙の作品紹介や奥付や解説もみんなフェイクで、本当は円城塔が書いた小説なんじゃないかと、一瞬マジでそう思いました。

 もちろん違います。

 かと言って、チャールズ・ユウが書いた作品かというと、設定上はそれも微妙に違うのです。つまり、テキストの自己組織化というか、時間ループによる存在の輪としての物語が自己言及的に生成されたということになります。もっときちんと説明するなら。

 「継時上物理学は、有限かつ有界である物語世界における時間の物理的、形而上学的性質を扱うSF的な科学の一分野だ。(中略)継時上物理学的な過去形-記憶等価原理によって、僕らは記憶を追体験することで、テキストのナレーションを生成してきたわけだ。(中略)僕は今までどおりの行動を保つ。前へ前へと叙述的重力に引かれるがまま、トーラス状のベクトル場上のループする経路を進むに任せる」(単行本p.53、256、)

 「僕がこの本を書かなきゃいけないのは、要するに、どこかの時点でこれを書き上げなきゃいけないからで、それから時間を遡って自分に撃たれ、本を自分に手渡すわけだ。だから僕はこの本を書く」(単行本p.137)

 そういうわけで自己言及的に生成されつつある本書の主人公は、もちろんチャールズ・ユウ。彼はタイムマシンが故障して困っている人のところに時空を超えて修理に出掛けるという仕事をしており、ほとんどの主観時間をタイムマシンTM-31の中に引きこもって暮らしています。彼が存在するマイナー宇宙31の構造はこんな感じ。

 「現実はマイナー宇宙31の表面積の13%、体積の17%を占める。残りは標準的な複合SF基材よりなる。トポロジカルには、31の現実部分は内核に集中しており、サイエンス・フィクションがその核を取り巻いている」(単行本p.47)

 もう31歳だというのに、大丈夫なのか。

 そんなユウは、失踪した父親を探しています。かつて父との関係をこじらせてしまった経緯を回想してゆきますが、何しろ「作中人物には過去へのタイムトラベルと、現在形で記述される過去回想パートを、区別することは出来ない」というのが継時上物理学の等価原理。

 こうして、SFファンの引きこもり青年が父親との思い出を切なく感傷的につづってゆく家族小説であると共に、タイムトラベルSFでもあり、両者は重なり合ったままいつまでも収束、今風に言うならデコヒーレント、しないで進んでゆきます。

 「好きな作家・影響を受けた作家にはドナルド・バーセルミ、カート・ヴォネガット、ジョージ・ソーンダースを挙げている」(単行本p.313)という作者だけあって、メタSFとして読んでも、SF用語をメタファーとして駆使しつつ家族とのこじれた関係に決着をつけて時間ループ(精神的自立が出来てない青年のモラトリアム)から脱出する決意を固めるまでの心境小説として読んでも、うっかり感動しかねないので要注意です。

 「僕が自分に対して自分の人生に対してやっているこの行為、記憶の中の同じ場所でのたうちまわり、何度も見直し、煩悶に煩悶を繰り返すこの行為は何と呼べばいいものだろう。なぜ僕は未だに学んでいないのか? どうして違った風にやれないのか?」(単行本p.263)

 「ここまでずっと、父さんがこのループからの脱出の鍵だと思ってた。彼が僕を助けてくれて、彼が答えになるんだってね。実際には、答えは全然答えなんてものじゃなくて、選択だったんだ。僕が彼を見つけたいなら、僕はこのループを脱出する必要がある。もしもう一度彼に会いたいなら、この箱から出なきゃいけない」(単行本p.277)


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『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人) [読書(オカルト)]

 「超常現象について、今現在、「実際に何がどこまで分かっているか」、「何がどのように謎なのか」を皆さんに紹介しながら、「いかに未解明の現象に取り組んでいくべきか」という「科学的思考」を身につけていただくことを第一にしたいと思っています。本書は、あくまで本気の科学の本です」(新書版p.4)

 幽霊、超能力などの超常現象は科学的に解明できるのか。超心理学の研究者が、決着のつかない「ある/ない」論争を越えて、社会的有用性に論点を移行させることを提唱する一冊。新書版(新潮社)出版は、2014年5月です。

 「これまで、超常現象に関する議論は不毛すぎました。私は、個人的な幽霊体験などと、既存の科学的世界観のあいだの溝が、これまで強調され過ぎていたのだと考えています」(新書版p.22)

 ESP、いわゆる超能力などを研究対象とする超心理学という研究分野があるのですが、著者は日本におけるこの分野の第一人者ということで、これまでも超心理学の現状を紹介する本を出してきました。

 個人的に読んだ範囲で二冊だけ紹介しておきますと、まず超心理学の状況に関しては、『超心理学 封印された超常現象の科学』にまとめられています。単行本読了時の紹介はこちら。

  2012年09月12日の日記:
  『超心理学 封印された超常現象の科学』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-09-12

 研究対象が心霊現象からESP現象へ移行していった経緯など、近代的な超心理学の歴史については、石川先生が監修している『超常現象を科学にした男 J.B.ラインの挑戦』(ステイシー・ホーン)が面白い。単行本読了時の紹介はこちら。

  2011年07月05日の日記:
  『超常現象を科学にした男 J.B.ラインの挑戦』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-07-05

 上記に比べると本書はもっと一般向けで、「超能力について真面目に研究している科学者がいるなんて、思ってもみなかった」というような人を読者として想定しているようです。

 というわけで本書ですが、全体は三つのパートに分かれています。

 最初の「「反」の部----幽霊をめぐる非科学的主張に反論する」(第一章から第三章)では、幽霊、お守り、金縛り、夢のお告げ、幽体離脱などの「超常現象」を取り上げて、そのメカニズムが既存の科学で説明できることを紹介し、「無闇にオカルトを信じたり、怖がったりするのは止めましょう」と訴えます。

 続く「「半」の部----超能力現象を半信半疑で検証する」(第四章から第六章)では、テレパシー、PK(念力)、予知、といったいわゆるESP現象に関して、超心理学がどのように研究してきたかを紹介します。

 最後の「「汎」の部----超常と日常を合わせて広汎に考える」(第七章から終章)では、不安定で再現性に欠けている(というより、むしろ確証が残ることを“避ける”)超常現象というものを、決着がつかない「ある/ない」論争から解放し、「それが役に立つか」(社会的に「ある」として認められるか)という観点から考えよう、と提唱します。

 「私自身は、「ESPが現実に存在するかどうか(現実基準)」を議論するよりも、「ESPがあるとすると、私たちにとってどんな意味があるのか(意味基準)」を議論するほうが、実入りがあると思っています」(新書版p.106)

 「科学的概念でも、「存在するかどうか」という現実基準はあまり問題にはならず、実際のところ「システムを構築するうえで必要な科学的議論に使えるか」という、意味基準が重視されているわけです」(新書版p.47)

 「これまでの幽霊や超能力の主張の背景には、個人にとっての有益性や意味はあったでしょうが、社会に対しては十分に明示されていません。むしろ、霊感商法やカルト宗教の蔓延につながるという、社会にとっての不利益の方がつねに問題となってきました。そこで、社会的な実用性を目指したテーマとして、創造性に着目します」(新書版p.187)

 ESPと創造性には何らかの関連があるのではないか。例えば、ESPが発揮される条件や環境についての超心理学の研究は、社会にとって有益な、個人の「創造性」を高めるという実用的成果を生む可能性があるのではないか。そういった論点を持ち出して、ある/ない論争の先に進もうと提唱するのです。

 これを「不毛な議論から脱却し、止揚を目指すための、前向きで建設的な提言」と考えるか、「決定的証拠をいつまでも出せない研究の、継続(予算獲得)のための悪あがき」と見なすか、それは読者それぞれでしょう。

 本書自体はバランス良く書かれていて、超常現象に関する考え方の違いに関わらず興味深く読むことが出来ると思います。個人的には、ESPの作用原理は因果律ではなくシンクロニシティ(共時性)なのではないか、というアイデアが印象に残りました。

 ほとんど余談ですが、第六章にSFファンを持ち上げる記述があり、超能力に大いに興味があるくせに頑なに否定しがちな彼らを、何とか懐柔しようとしているようで、思わず笑ってしまいました。

 「2011年の夏にあった日本SF大会の記念すべき第50回大会には、超心理学の成果を紹介しながら、聴衆を被験者にした模擬実験を実施してほしいと頼まれて参加しました」(新書版p.131)

 「大学で学生相手に行う模擬実験では、いつも「何も見えません」という反応がほとんどなのですが、それをはるかに上回るESPの手ごたえです。SFの愛好家は想像力が高く、クリエイティヴな人たちだからESPが発揮されやすかったとも考えられます」(新書版p.132)

 というわけで、SFファンは、超心理学に対してもう少し優しく接してあげてもいいのではないでしょうか。


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『短篇ベストコレクション 現代の小説2014』(日本文藝家協会、宮内悠介、月村了衛、万城目学) [読書(小説・詩)]

 2013年に小説誌に掲載された短篇から、日本文藝家協会が選んだ傑作を収録したアンソロジー。いわゆる中間小説を軸に、歴史小説からSFまで幅広く収録されています。文庫版(徳間書店)出版は、2014年06月です。


『線路の国のアリス』(有栖川有栖)

 「でたらめで薄っぺらなくせして、えらそうに何が裁判よ。あんたたち、みんなただの切符じゃないの!」(文庫版p.112)

 熱心に鉄道時刻表を読んでいる兄と一緒に川辺に座っていたアリスは、定刻発車、定刻発車、と焦りながら走って行く白ウサギ車掌を追って、深い穴に落ちてしまいます。気が付くと、そこはテツの国でした。

 鉄道マニアの世界におけるアリスの大冒険ですが、意外なほど原典に忠実に展開します。いつまでも開通しない「ふつう列車」、駅舎の屋根にいる「エキシャ猫」、それが乗車したら「キシャ猫」になったりと、日本語による鉄道まわりの言葉あそびが詰め込まれた楽しい作品。個人的なお気に入りは、急いではいけない「ゆーっくりと線」の列車を加速させたら、非ユークリッド空間になって線路が並行でなくなってしまった、という奴。


『御機送る、かなもり堂』(小川一水)

 「かなもり堂が呼ばれる場所に、誰もが不安なく従うことのできるルールはない。まだルールが作られる前の場所を、二人は渡り歩いている」(文庫版p.176)

 家族の一員として思い入れがあるロボットが壊れたとき、あるいは事情があって廃棄しなければならないとき、どうしてもきちんと「供養」したいと思う。それが人間の心理である。ロボット専門の葬儀社、かなもり堂に勤める二人は、今日も依頼主のためにロボット葬をしめやかに執り行うのだった。

 『お紺昇天』(筒井康隆)を連想させる短篇ですが、感傷的な話ではありません。いくつかの事例を提示しつつ、ロボットに対する人間の共感がどのように働くかを正面から扱った短篇です。


『機龍警察 沙弥』(月村了衛)

 「志朗の顔が透き通るように白さを増した。昂った感情が一線を越えようとするとき、血の気が引いて彼は氷のように白くなる。〈白鬼〉の所以である」(文庫版p.307)

 『機龍警察』シリーズに属する作品。やたらとアクが強いキャラクター群の中にあって、地に足ついた地道な警察小説を守り抜いている捜査班の由起谷主任の過去が明かされます。地元で〈白鬼〉と呼ばれ恐れられる粗暴な不良少年だった彼が、警官をめざすきっかけとなった事件の顛末とは。現時点での最新長編『機龍警察 未亡旅団』とリンクしているので、未読の方はそちらも合わせて読むことをお勧めします。


『廃園の昼餐』(西崎憲)

 「意識という大事なものがどこからきたか分からないのに全知だというのは妙な話ではあったが、自分は全知ということについては確信があり、確信があるからにはたしかにおれは全知だった」(文庫版p.343)

 母親の胎内にいる「おれ」は全知の存在であり、自分の人生も、両親の人生も、弟や飼い犬、いや世界中のすべての人々が何を考えどう生きていつ死ぬのかを熟知していた。時系列にとらわれない記述により、過去未来のすべてを知ることができる意識のありようを描いた短篇。和風『あなたの人生の物語』(テッド・チャン)という趣もあって、本書収録作品のなかで個人的に最もお気に入り。


『インタヴュー』(万城目学)

 「本当に、あともう少しだったんだ。けど、最後の最後でトチっちまった。どうも余計な一文があったらしく、獲物の二人がおかしいって気づいてしまったんだ。注文が多すぎるのも考えものってことさ」(文庫版p.408)

 西の親分が仕掛けた一世一代の大勝負。知恵で人間を負かして喰ってやろうと、山の中に西洋料理店を開いたものの……。名作を逆の立場から描いてみせたユーモラスな一編。


『かぎ括弧のようなもの』(宮内悠介)

 「それは、かぎ括弧のようなもの、ではなかった。正真正銘のかぎ括弧だ。思わず、落ちているのを見て拾ってしまったのだ。(中略)真犯人を見つけ出すことを心に誓い、おれはその場をあとにした。逃亡生活がはじまった」(文庫版p.419)

 「かぎ括弧のようなもの」で殴られ死んでいた男。いや、凶器は本物の「かぎ括弧」だった。嫌疑をかけられ逃亡した「おれ」は、かぎ括弧工場に潜伏しながら、かぎ括弧のプロとなってゆく。どうにもバカ設定な話に、ハードボイルド調のシリアスな文章。その内容と表現の乖離が素晴らしく効果的な短篇。


『ソラ』(結城充考)

 「別人になりたかったんだ。全くの別人に。全部をやり直すために、な。ソラは頷いた。その時、初めてサイボーグの名前を意識した。サイボーグはシマと名乗った」(文庫版p.449)

 親に捨てられ、修道院で育った少年、ソラ。辛いこともあるが、修道院の暮らしはそれほど悪いものではなかった。友達も出来たし、守衛のサイボーグとも仲良くなった。そんなあるとき、修道院を訪れた夫婦が、ソラを養子として引き取りたいと申し出る。一方、世間では、サイボーグを遠隔操作して暴走させるテロ事件が頻発していた。ソラは、次第に事件の真相に近づいてゆく。

 現実の事件をモデルにしたと思しき、サイボーグ遠隔操作事件を題材とした作品。SF的な設定が使われていますが、むしろ人生の岐路に立つ少年の心理を描いたミステリ風味の短篇として読ませます。


[収録作品]

『獅子吼』(浅田次郎)
『線路の国のアリス』(有栖川有栖)
『大金』(大沢在昌)
『太陽は気を失う』(乙川優三郎)
『御機送る、かなもり堂』(小川一水)
『水を飲まない捕虜』(古処誠二)
『影のない街』(桜木紫乃)
『機龍警察 沙弥』(月村了衛)
『廃園の昼餐』(西崎憲)
『無用の人』(原田マハ)
『インタヴュー』(万城目学)
『かぎ括弧のようなもの』(宮内悠介)
『ソラ』(結城充考)
『泣き虫の鈴』(柚月裕子)


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『薄い街』(佐藤弓生) [読書(小説・詩)]

 「弥生尽帝都地下鉄促促と歩行植物乗り込んでくる」

 「どの人が夫でもよくなってくる地球の長い長い午後です」

 「まつり縫いいまだ終わらないこの宇宙ウール100パーセントスカート」

 怪談からSFまで、あらゆる手を尽くして世界をどこかにずらしてゆく第三歌集。単行本(沖積舎)出版は、2010年12月です。

 先日読んだ第一歌集が面白かったので、比較的新しい第三歌集も読んでみました。ちなみに、第一歌集読了時の紹介はこちら。

  2014年06月05日の日記:
  『世界が海におおわれるまで』(佐藤弓生)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-06-05

 第一歌集に見られた特徴は確実に受け継がれているようです。手短に紹介しますと、まずは怪談短歌。

 「霜月の宝飾売場さんざめくさなか鏡をよぎる首あり」

 「その中がそこはかとなくこわかったマッチの気配なきマッチ箱」

 「、と思えばみんなあやしい……このなかの誰かが死者である読書会」

 「触れちゃだめ正夢だもの 夏の夜こびとが嘗めにくる塩だもの」

 「人ひとり中央線にねむるたび花の店からあふれだす花」

 「しばらくはまだ鼠だったんだろう朝の車道に毛はそよぎつつ」

 「くるだろうゆめにわたしのぬけがらを挽きゆくための蟻五千匹」

 「----海ですよ。バスが停まってうたた寝のあいだ隣にいた人 いない」

 「大きなる顔がにわかに浮かびきてのちなにもないひろい海だよ」


 そして語句の繰り返しリズムが生み出す目眩感覚。

 「ひらいたらただただしずか そしてまたたたんかたたん各駅停車」

 「星ぼしのひくくくるしくひしめいて送電線は谷間にたわむ」

 「ガスタンクしずめてしずかしかすがにうすみずいろのくるしさ空は」

 「うつくしいうみうし増えて増えて増えて増えて人を憎んでいる暇なんか」


 これらに加えて、第三歌集ではSFが効果的に使われているところが新鮮なのです。どのくらいSFかと申しますと。

 「うごかない卵ひとつをのこす野に冷たい方程式を思えり」

 「どの人が夫でもよくなってくる地球の長い長い午後です」

 「流れよ血、流れよ涙、胸さきに懐中電灯(フラッシュライト)突きつけながら」

 という具合にSFなのですが、ごく日常的な抒情感がいきなり宇宙視点から詠まれてしまうところも、すごくSFはいってると思います。

 「まてんろう 海をわたってわたしたち殖えてゆくのよ胞子みたいに」

 「考える葦と呼ばれて遊星に六十億の性のそよげる」

 「とざされて仰ぐさくらのそとのそとVOYAGERの永遠の遠泳」

 「さくら打ち砕かれてよりあらわれぬ地上に小惑星帯(アステロイドベルト)は」

 「水鳥がきざむ水面を曳かれゆく遠き宇宙飛行士の悲鳴」

 「ざっくりと西瓜を切れば立ちのぼる夜のしじまのはての廃星」

 「だしぬけに孤独のことを言う だって 銀河は銀河の顔を知らない」

 「骨くらいは残るだろうか秋がきて銀河と銀河食いあいしのち」

 宇宙まで行かなくとも、そこここから漂ってくる気配も見逃せません。さてはきさまSFだな。

 「弥生尽帝都地下鉄促促と歩行植物乗り込んでくる」

 「革靴を露に濡らしてやってくるあれはわたしの若い父さん」

 「ぜったいに来ない未来のなつかしさバナナフィッシュの群れのまにまに」

 「まつり縫いいまだ終わらないこの宇宙ウール100パーセントスカート」


 並べてみると、怪談も、語句反復も、SFも、すべては世界を微妙にずらしてみせるための手段のようにも思えてきます。この感じが素敵だと思う、宇宙ウール100パーセントスカート(すそホツレあり)翻して闊歩する第三歌集です。


タグ:佐藤弓生
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