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『素粒子で地球を視る 高エネルギー地球科学入門』(田中宏幸、竹内薫) [読書(サイエンス)]

 「振動ニュートリノグラフィがいよいよ現実のものとなってきた.地球内部の化学組成を直接観測できるようになる時代もそう遠くはないだろう.世界各国で成果が上がりつつあるミュオグラフィは、静止画から動画、2次元から3次元へと進化するだろう.素粒子測定技術の発達により,地球惑星を素粒子で研究する時代が到来しつつある」(単行本p.170)

 宇宙から降り注ぐ高エネルギー素粒子を利用して、巨大建造物、火山、さらには地球や火星の内部構造までを「透視する」技術。ミュオグラフィを中心に高エネルギー地球科学の最新状況を解説した一冊。単行本(東京大学出版会)出版は、2014年5月です。

 「ミュオンは.空のあらゆる方向からピラミッドに降り注いでいる(中略)2つの「フィルム」(放電箱)を離して設置すれば,ミュオンの方向と密度の両方を測定することができる.アルバレは,数カ月にわたる測定の結果,カフラー王のピラミッドの内部に2m以上の大きさの空間が存在しないことを突き止めた」(単行本p.12)

 宇宙からやってくる高エネルギー素粒子のシャワー、宇宙線。それが生み出すミュオン(私が若い頃は「ミュー中間子」と呼ばれていた)を測定することで、ちょうどX線で身体を透視するように、巨大構造物を透視することが出来る。ミュオグラフィと呼ばれるこの魔法のようなテクノロジーを、その基礎から応用まで解説してくれます。

 全体は5つの章から構成されます。

 まず最初の「1 ミュオンとピラミッド」では、ミュオグラフィによって、カフラー王のピラミッド内部に未知の玄室が「存在しない」ことを証明した調査研究が紹介されます。何かが存在しないことを証明するのは一般に困難なのですが、ミュオグラフィによるピラミッド透視により、それが可能となったのです。

 同じ原理を使って、火山の内部構造を透視するなど、ミュオグラフィの有用性が語られます。

 「ミュオグラフィは,これまでの地震学やその他の手法では得られなかった,密度の高低を直接的に描き出す.そしてその解像度はこれまでになく高い.重力,浮力で駆動される地球内部のダイナミクスの基本は密度差であるから,他の手法から得られないこの情報は非常に大きい」(単行本p.21)

 続く「2 素粒子の生い立ちとその性質」では基礎となる素粒子物理学の概要、「3 地球圏の超高エネルギー現象」では宇宙線について、詳しく解説されます。

 「太陽からの光子がせいぜい数eVから数十eVであるのに対して、銀河宇宙線のほとんどは数十億eVで,中には数十京eVのさらに1万倍のものまである.宇宙線は,これまで人類が眼にしてきたものの中で,単位質量当たり最も高いエネルギーを持つ物質なのである」(単行本p.79)

 「宇宙線のエネルギーは銀河全体で見ると莫大であることがわかる.地球全体が受ける太陽放射の総量(17京4000兆ワット)の3京(3×10の16乗)倍である」(単行本p.82)

 「宇宙線は地球に到達するまでの間,銀河円盤の厚さの5000倍以上の距離を旅していることになる.宇宙線の速度を光速,銀河円盤の周縁部の厚さを1000光年とすると,宇宙線の銀河系内での旅行時間は500万-1000万年と計算される」(単行本p.83)

 「地球大気の原子核と宇宙線が衝突すると,パイオンやケイオンなどのメソンやそれらの崩壊生成物として,ミュオン,ニュートリノ,電子などが発生することがわかった.(中略)ミュオン,ニュートリノは相対論効果によって地表まで届く」(単行本p.87)

 科学博物館などで「宇宙線検出器」が、ぱちっ、ぱちっ、と火花を発するのを見て、遠い宇宙の果てから真っ直ぐに飛んでくる孤独な虚空の旅人よ今ここに、などとロマンにしびれていた幼い頃の思い出。

 実は、銀河系は磁場によって閉じ込められた高エネルギー素粒子のスープにどっぷり浸かっており、1000万年近く銀河系内を彷徨った挙げ句、たまたま地球にぶつかった高エネルギー素粒子こそが「宇宙線」の正体だったとは。しかも地表に降り注いでいるのはこの銀河宇宙線ではなくて、それが大気と衝突して出来た生成物であると。

 知らなかったことばかり。というか、知っていると思っていたことさえ間違いばかりであることに今さらながらに気づく日々です。

 「4 地球を透かす素粒子」では、いよいよミュオグラフィの技術が紹介されます。ミュオンをどのようにしてとらえるのか、データ収集(ミュオントラッキング)、ノイズ除去、統計解析。具体的な解説には大興奮です。

 「5 素粒子で地球を観測する」では、ミュオグラフィなどの技術が実際に観測に使われた例を示し、高エネルギー地球科学の現状が紹介されます。

 「2006年,東京大学,名古屋大学の学際共同チームが,原子核写真乾板を用いたミュオグラフィ観測によって浅間山浅部構造を透視した.(中略)同じころ,東京大学,名古屋大学,北海道大学の学際共同チームが,北海道にある有珠山の溶岩ドームの1つとして有名な昭和新山の密度構造を,ミュオグラフィを使って測定していた」(単行本p.129、132)

 「浅間山の観測と合わせて,この観測は原子核乾板がミュオグラフィ観測に初めて用いられた例であると同時に,火山内部の透視画像を初めて撮影したもので,ミュオグラフィによる地球観測が世界に広まる大きな原動力となった」(単行本p.132)

 他の方法では見ることの出来ない、火山内部の「透視像」が、本書にはカラー写真で掲載されており、その迫力に息を飲みます。噴火前後の透視像の比較。マグマ、ガス気泡を含んだマグマ、岩盤、火口底直下の空洞などを見ることができ、「塞がれたマグマ流路の上に溜まったマグマが,吹き飛んだ瞬間もとらえることができた」(単行本p.131)というから凄い。

 他の応用として、熱水系の地下構造、カリスト地形の下にあると推測される未発見の洞窟探査(その中には、外界から数万年に渡って遮断された独自生態系があるかも知れない)、断層破砕帯、古代遺跡。

 どれもわくわくしてくる話題ですが、何と言っても極めつけは宇宙探査への応用でしょう。火星、小惑星、彗星核。今や人類は、地球外天体の表面探査だけでなく、地中までも透視する技術を手にしているのです。

 「ミュオグラフィによる火星探査でひときわ興味を引くのが洞窟探査だ.それは火星に生物がいるとすれば,洞窟が最も可能性の高い場所だからだ」(単行本p.153)

 最後にニュートリノグラフィによる地球内部構造の透視というプロジェクトが紹介されます。

 「ニュートリノグラフィを実現できる初の検出器として,南極の巨大な氷をいわば「ニュートリノをとらえるフィルム」として利用するタイプのものが採用された.アイスキューブ(IceCube)と呼ばれるこの国際協力ニュートリノ観測所では,高エネルギーニュートリノを対象に,北半球側から地球内部を通過して南極点の氷床まで達したニュートリノをとらえる」(単行本p.167)

 南極の氷の中に光センサモジュールを数千個埋め込み、分厚い氷床全体をニュートリノ検出器にして、地球透過ニュートリノをとらえる。知らないうちにそんなSF的な巨大プロジェクトが始動している、この21世紀。いったいどんな成果があがるのか。つくづく長生きはしたいものだと思います。


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『食品偽装の歴史』(ビー・ウィルソン、高儀進:翻訳) [読書(教養)]

 「本書は、卑劣で貪欲な行為の話であり、金が儲かるなら他人の健康を損ねてもいっこうに構わないという陋劣な人間の話である。しかし、それはまた、政治の失敗の話でもある」(単行本p.10)

 「それは、食品の抑制のない市場経済が、誤った政治と結びついた時に横行する欺瞞行為である。それは、1820年代の工業国英国の自由放任主義政策のもとで起こった。また、1860年代のニューヨークでも起こった。(中略)それは現在、21世紀の中国で起こっているのである」(単行本p.396)

 食品に対する混ぜ物工作。消費者に対する悪逆な欺瞞行為。生産者、商人、消費者、政府、科学者、消費者運動家が、ときに闘い、ときに共謀しながら作り上げてきた、その長い歴史を紹介した一冊。単行本(白水社)出版は、2009年7月です。

 英国の著名フードライターが情熱を傾けて書き上げた、食品偽装の歴史です。記述は英米中心となっていますが、他の国でも、どの時代でも、本質的なところは同じだろうと思わせる迫力と説得力に満ちています。例えば1820年代の英国を評した次の記述は、現代の多くの社会でもそのまま通じるのではないでしょうか。

 「自分の買うパンがなぜこんなに安いのか、こんなに白いのか、自分たちの子供が食べる菓子が、なぜ自然界には存在しない色に染まっているのか疑問に思わなかった。それは、狡猾さと無知が合わさり、危険な食べ物を作り出している国だった」(単行本p.35)

 全体は六つの章から構成されています。

 最初の「第一章 ドイツのハムと英国のピクルス」の舞台は、19世紀前半の英国。そこで横行していた食品偽装の実態と、それに対して敢然と闘いを挑んだフレデリック・アークムの栄光と挫折を生き生きと描き出します。

 「アークムは、子供のカスタードが月桂樹の葉で有毒なものになっていること、紅茶がリンボクの葉で誤魔化されていること、菱形飴がパイプ白色粘土から作られていること、胡椒には掃き寄せた床の屑が混ざっていること、ピクルスは銅で緑色になっていること、菓子は鉛で赤く染まっていることを書いている」(単行本p.15)

 「アークムが書いている食品偽装の世界は、多くの面で、いまだにわれわれの世界である。当時と同じように、政府は業界を動揺させるのに乗り気ではなく、科学は欺瞞を暴く手段を提供すると同時に欺瞞を作り出す能力を持ち、消費者と生産者のあいだの鎖は長くて曲がりくねっていて、最悪の欺瞞者は、手っ取り早く儲けるためなら、なりふり構わず他人の健康を犠牲にする。それゆえに、本書はアークムの話から始まるのである」(単行本p.65)

 「第二章 一壺のワイン、一塊のパン」では、ワインとパンの偽装とその成り行きを取り上げ、その顕著な違いを生んだ要因は何か、を追求します。ある意味で、食品偽装をはびこらせているのは、消費者の食に対する無知、無関心だということが、ここではっきりと示されます。

 「「混ぜ物のワインを見破る最上の方法は、上質のワインにすっかり馴染むことである」。上質のワインに馴染んだ者は、いまや過去のどんな時代よりも多い。(中略)総じて現在のワインは、過去のいかなる時代よりも純正で、(たぶん)表示通りで、旨い」(単行本p.86、87)

 「パン造りの水準が低下した主な要因は、しっかり造られたパンを要求しなかった英国の消費者だった。(中略)真のスキャンダルは、彼らがもはや良いパンとは何かがわからなくなっていたということである。(中略)混ぜ物をした白パンは、徐々にパン屋の通常のパンになった。ちょうど、工場製パンが現代の通常のものであるように」(単行本p.112、113)

 「第三章 政府製マスタード」では、貧困、市場経済、法制度、その他の社会状況が、どのようにして食品偽装を支えているかを解説します。

 「おやつをわが子に買ってやった両親は、死と一か八かの賭けをしているのが判明した。集めたサンプルのうち、赤いものはしばしば鉛か水銀で着色されていた。緑の菓子は銅をベースにした染料で色付けされていた。黄色のものは雌黄で色付けされていた。(中略)さらに、もっと危険なのだが、黄色クロム酸鉛や黄鉛が使われていた。(中略)そんなグロテスクなほどに食用に適さない食べ物をわざわざ作る食文化には、どこかおかしいところがあったのは言うまでもない」(単行本p.147、150)

 「買い手も売り手も、自分たちでは左右できない市場の犠牲者だった。貧しい者に食品を売る者も、たいてい自分自身が貧しかった。(中略)売り手から見ると、こうした貧しい暮らしにおいては、少しばかりの欺瞞は個人的正義----自分の暮らしのために金を少々くすね、客に復讐をする手段----のように思えた。(中略)買い手を見つけることのできるくらいの値段で売れるパンを造るには、成分の質をできるだけ落とさねばならなかった。そんな条件のもとでは、正直は自殺行為だった」(単行本p.138、139、142)

 「英国が「商業面で一段と優れて自由な国」だという事実と、英国の菓子製造業者が飴を銅と緑青で色付けしてもなんの非難もされない事実とは直接に関係していると考えた。その考えに異を唱えるのは難しいだろう。(中略)自由放任主義経済の支持者たちは(英国にはその支持者の数は多かった)、何もしないのが最善だと思い込んでいた」(単行本p.141)

 「英国人の多くは飲食物の実態に「目をつぶって」いると、イライザ・アクトンは考えた。「彼らはなんの不都合もないという信念を揺るがせられたくないのだ」。多くの場合、問題に対して目をつぶるというのが、英国の消費者にできるすべてだった。(中略)食品偽装について騒ぎ立てた結果、最善のことは何もしないことだ、という自由放任主義の教条主義者の立場が強まっただけだった。そして、その態度が支配的であったあいだ、混ぜ物工作はいっそう蔓延した」(単行本p.145、152)

 「ハッサルのケースは、食品偽装に対する闘いが、いかに純正に対する無益な探求になりうるかを示している。そんな探求は結局のところ、個々の消費者の要求を満たすことは、ほとんどできないのだ。混ぜ物工作は、人々がもはや自分の感覚を信じない時に最も盛んになることを歴史は証明している。何が良い食べ物なのかについて、人々がじかの知識を欠いている時に」(単行本p.191)

 「第四章 ピンクのマーガリンと純正ケチャップ」では、舞台は新大陸に移ります。英国と基本的な状況は同じですが、闘いのヒートアップと極端に走る姿勢が、いかにも米国。

 「混ぜ物工作に対する闘いは、必然的に罪と贖罪の言葉に結びついていった。(中略)混ぜ物論争のいずれの側も、相手に過激な言葉を使わせるだけのことになり、ついには膠着状態に陥り、なんの真の意思疎通も行われなかった。(中略)十九世紀の最後の十年まで、アメリカにおける食品政策は、狂信的な人間と党派の利害に相変わらずどうしようもなく分かれていて、連邦政府はその真ん中でなす術もないように見えた」(単行本p.210、221)

 そして「第五章 紛い鵞鳥の仔とペアナナ」と「第六章 バスマティ米と乳児用ミルク」は、二十世紀から今日までの状況を描きます。

 もはや混ぜ物食品どころか、人工フレーバーで味付けした合成食品、インスタント食品、ジャンクフードだけが流通する世界。広告業界が押し付ける空虚なイメージによって、食に関する無知と無関心が積極的に押し進められている世界。極端な純正食品運動と法外な値段の「自然食品」の世界。そして、中国やバングラディッシュで横行している身の毛のよだつような食品偽装の世界。

 「食品偽装は、昔よりもっと多様なものになっている。もっと多くの違った形をとっている。言ってみれば、恐怖心が絶え間のない背後の騒音のように食品を取り巻いて脈打っているのである。その恐怖心は、今度は食品についての過剰な恐怖(パラノイア)を生み、その結果、人々の不安に付け込む市場が出現する」(単行本p.342)

 「食品に対する不信感がこのように広範囲に蔓延している雰囲気においては、自分たちの商品を売らんがために、ある食品に対する不安を掻き立てて世間を騒がす者に騙されやすくなる。食品呪い師(シャーマン)----そのうちの何人かは「栄養学者」と自称している----には不足しない」(単行本p.373)

 「極東と東南アジアの買い物客は、寸毫の疑いもなく偽造され、毒を入れられた食べ物を食べざるを得ない運命に、いまだに置かれている。(中略)多くの中国人は市場で売られているものは偽物だと予期するようになっている。食品偽装はあまりに日常化したので、いまや偽装者はいっそう大胆に人を騙そうとしている。例えば、上海で売られた「揚げ豆腐」である。それは石膏、絵具、澱粉を混ぜ、豚の流動飼料と内臓で出来た「オイル」で揚げたものだということがわかった。あるいは、2006年12月、再利用した汚水と工業用油で「食用ラード」を造った廉で、工場長が逮捕された事件である。(中略)2004年、中国の中央部で、偽の調合乳を飲んだ赤ん坊の少なくとも十三人が死に、数百人以上が重態になった」(単行本p.391)

 21世紀の世界にようこそ。

 19世紀の英国、20世紀の米国、21世紀の中国。繰り返される食品偽装問題と、その構造が、本質的に同じであることに衝撃を受けます。そしてもちろん、日本だけは例外などと考えるのは愚かなことでしょう。

 本書には、食品偽装を行った者、それと闘った者、法律を制定した者、そして被害を受けた者が多数登場します。しかし、優れた歴史書の常として、誰が悪玉で誰が善玉か、誰が加害者で誰が被害者か、誰が勝利者で誰が敗北者か、簡単には判断できません。

 大切なことは、社会状況こそが食品偽装を引き起こすこと、そして問題を解決する鍵は、生産者や商人や政府ではなく、主に一人一人の消費者が握っているということを忘れないことかも知れません。

 本書は、成分表示を義務づけ、偽装した者を厳しく罰すれば、食品偽装はなくなる、といった素朴な考えがなぜ成り立たないのか、それを(文字通り)苦い教訓とともに教えてくれます。この憤懣と絶望に彩られた本の中には、しかし大いなる希望と行動指針もまた、書かれているのです。

 というわけで、食の安全に興味があるすべての人に一読をお勧めします。ただし、食事の最中に読むのは、避けたほうがいいかも知れません。

 「動機は主として経済によって決定され、機会は政治と科学によって決定される。欺瞞行為は、「自由貿易」とか「グローバリゼーション」とかいった抽象的なものによって生まれるのではない。仲間の市民を欺こうという単なる衝動以外のほかの性質も持っている個々の人間に対して、もろもろの力が働いた結果である。正しい経済と正しい政治が、多かれ少なかれ食品偽装を一掃している社会を想像するのは荒唐無稽ではない」(単行本p.402)


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『1秒って誰が決めるの? 日時計から光格子時計まで』(安田正美) [読書(サイエンス)]

 「最先端の科学技術の成果であるこのイッテルビウム光格子時計の到達可能な精度は、0.000000000000000001(10の-18乗)。これは、宇宙の年齢と同じ137億年に1秒ずれるかずれないか、というぐらいの精度です。そしてこの時計は現在、将来の世の中における新たな「1秒」の基準となる可能性をもっています」(新書版p.10)

 「10の-15乗から-18乗もの精度が実現できた、と我々は喜んでいるわけですが、光格子時計の次の時代を担う「原子核時計」はさらにその上をターゲットにしています。(中略)原子核時計の場合、見込まれる精度は10の-18乗から-20乗レベル。また、ここから終わりのない戦いが始まると予感させられます」(新書版p.144、147)

 振り子、クォーツ、原子時計、そして最新の光格子時計まで。時間を正確に計測する、1秒を厳密に定義する、という究極目標に向けて突き進む最先端テクノロジーを専門家が平易に紹介する一冊。新書版(筑摩書房)出版は、2014年6月です。

 「人類の文明の発祥以来、現在まで、全く同じ目的をもち、しかも今なお進化させたいという欲求があり続ける道具というのは、武器を除いては、時計のほかにないのではないでしょうか」(新書版p.57)

 日時計、振り子時計、ぜんまい時計、クォーツ時計、原子時計。時を計る、その目的に向けて開発されてきた様々なテクノロジーの解説から本書は始まります。

 次に、時計の劇的な精度向上に伴って、「1秒」の定義を変える作業が進んでいることが紹介されます。質量、長さ、時間といった基準を厳密に定義する(そして維持する)ことの困難さと、それをめぐる国際間の綱引きの様子はたいそう印象的。

 「2年ほど前には、国際キログラム原器の重さを他の世界の原器と比べたところ、少し軽くなっていたことが判明して話題になりました(逆に世界の原器が重くなったのかもしれません。そのどちらかは分かりません)。(中略)現在、原子1個の質量を基準とする新しい「1Kg」の定義を決めるために、日本、イタリア、アメリカ、ドイツ、オーストラリア、ロシアなどが共同プロジェクトを進めています」(新書版p.61、62)

 「再定義が検討されている単位は、他にもいろいろあります。例えば、電流(アンペア)、温度(ケルビン)、物理量(モル)の単位も再定義が予定されています。「秒」についても、新たな「1秒」を定義するためのプロジェクトが進んでおり、私の研究するイッテルビウム光格子時計は、将来、新しい秒を定義する時計の候補の一つに挙がっています」(新書版p.77)

 どこかの地下に保管されているという「原器」、といった人為的なモノサシに依存するのではなく、宇宙のどこでも同じである物理量の測定値から、測定基準を厳密に定義する。その定義は、時代や文化から独立した、大げさに言うなら異星文明に対しても厳密に伝えることが出来るものとなります。ようやく人類はこの段階まで到達したか。

 というわけで、それまで地球の運動を元に定義されていた「秒」が、原子時計による定義に変わったのは1967年。意外と最近のことです。

 「55年にはイギリス国立物理学研究所(NPL)のルイ・エッセンらがセシウム原子時計を開発し、67年、1秒の定義がそれまでの地球の公転から、セシウム原子時計に変更されます」(新書版p.92)

 「セシウムが採用された理由は、おそらくですが、セシウム原子は天然の状態では100パーセント「セシウム133」しか存在しないからではないかと思います。(中略)セシウムは放射性ではないものとしては、最も重い原子なのです」(新書版p.93)

 原子時計としてセシウムが採用されたのは、重元素でありながら放射性でない、放射性同位体が(天然には)存在しない、という理由だったというのは、今となってはなぜか皮肉に感じられますね。

 「セシウム原子時計が初めてできた1955年当時、それは研究者の誰もが驚くほど正確なものでした。しかし、精度はその後、10年で1桁のペースで高まっていき、発明から50年経った今、当時に比べて5桁も上がり、10の-15乗にまで達しています。これは、数千万年に1秒しか狂わないという精度です」(新書版p.113)

 それだけ正確ならもういいじゃん、と思うのは大間違い。

 「その時点では、将来どのように実用化れるか必ずしも明確になっていなくてもよいから、究極の科学技術を一つ持っておくと、そこから無限の広がりが生まれていきます。「究極の1秒」を追い求める科学は、そのような無限の可能性をもっているのです」(新書版p.11)

 究極の1秒、至高の1秒。それを求める人類は、ついに最新テクノロジーに到達します。

 「2001年、つい最近のことですが、当時、東京大学大学院工学系研究科の助教授だった香取秀俊さんが光格子時計の手法を提案しました。(中略)つまり、ある波長のレーザー光線を重ね合わせて格子状の干渉縞をつくり、ぽこぽこできた一個一個の部屋のようなところに原子を捕まえて入れてやる、という仕組みです」(新書版p.121)

 レーザー冷却によって原子の動きを止め、さらにレーザー干渉縞によって作り出された小空間に一つ一つ分離した状態で原子を保持し、その振動数(周波数)を計る。簡単なようですが、実際には大変な作業です。

 「光格子が原子を支えていられる時間は1秒ほどなので、光信号の計測はその1秒を目掛けて、チーム全員(冷却レーザー&光格子用レーザー担当の私と、原子打ち上げ用のレーザー担当者、光周波数コム担当者、などなど)が息を合わせて電光石火の早業で行うことになります」(新書版p.127)

 「人為的な調整を加えず、人間ができるベストを無心の心で尽くし、その結果出てきた答えが合わなくてはいけない。現在、秒の再定義の候補に残っているものはどれも、そのような苦しい試練を乗り越えてきたものなのです」(新書版p.137)

 「息を合わせて電光石火の早業で」「ベストを無心の心で尽くす」とか、もはや技術解説の範疇を越えた、現場の緊張感が伝わってくるようです。しかも、ドイツやアメリカではさらに次世代技術、原子核時計の開発がスタートしており、「また、ここから終わりのない戦いが始まると予感させられます」(新書版p.147)という苛烈さ。

 全体的に文章は平易で親しみやすく、ときどき妙な脱線があったりして、専門的な内容にも関わらず楽しく読めます。こんな感じ。

 「物心がつき始めた1970年代終わり頃、家の柱時計のぜんまいを巻くのが私の仕事でした(当時としても多少時代遅れな感じですが、島根県では時の流れが多少遅いのです。パワースポットのせいで重力が強いのかもしれません)」(新書版p.165)

 というわけで、時間を計測する、逆に計測するための基準を定義する、という目標にどれほどの最先端テクノロジーが惜しみなく注がれてきたか、今まさにどれほど烈しい国際競争が繰り広げられているか、知らなかったことも多くて驚かされました。


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『うわさとは何か ネットで変容する「最も古いメディア」』(松田美佐) [読書(教養)]

 「すでに数多くのうわさに関する書籍があるなか、本書の第一の特徴を挙げるならば、1990年代半ば以降、私たちの日常生活になくてはならないものとなったケータイやメール、インターネットといったメディアとうわさの関係性について焦点を当てたところにある」(新書版p.248)

 「うわさはその「内容」だけで成り立っているのではなく、それを伝える「形式」----口頭で広まるのか、電話が使われるのか、インターネットなのか、テレビ番組で取り上げられるのか、それらすべてのミックスなのか----と切り離すことができない」(新書版P.153)

 ゴシップ、怪情報、デマ、風評、チェーンメール、都市伝説。今やネットを介して急速に広まってゆく「うわさ」は、従来の噂とどこまで同じでどこが違うのか。古典的研究から最新状況まで、うわさをめぐる研究を紹介した一冊。新書版(中央公論新社)出版は、2014年4月です。

 「フランスの社会学者ジャン-ノエル・カプフェレはうわさを「もっとも古いメディア」と呼んだが、この「もっとも古いメディア」は新聞やテレビなどマスメディアが普及しても、ケータイやインターネットが広く利用されるようになっても消え去ることがない」(新書版p.ii)

 かつては情報不足によって引き起こされると考えられていた「うわさ」が、情報過多の時代になっても一向に減る気配がない、むしろ社会的影響力を増しているようにさえ思えるのは、いったいなぜでしょうか。

 本書は、都市伝説などを含む広い意味での「うわさ」に注目し、それがどのようなメカニズムに支えられているのかを読み解いてゆきます。

 全体は六つの章から構成されます。まず最初の「第1章 うわさの影響力」では、70年代の「トイレットペーパー買いだめ騒動」と東日本大震災直後の買いだめ騒動を比較する等を通じて、「うわさ」がどのような社会的影響力を持つかを分析します。

 「一般に、「うわさとは怪しげな話であり、そんな情報にだまされるのは愚かであるからだ」とされる。また、「災害時は人びとがパニックに陥っているから、おかしな話が広まる」とも考えられがちだ。さらには、「くだらない話や人のプライバシーに首を突っ込みたがるうわさ好きは、自分とは関係ない」と思っている人も多い。しかし、そうではない。(中略)誰もがうわさに関わるのであり、うわさに影響を受ける。自分だけは大丈夫ということはない。うわさを理解するには、まずはうわさに対する否定的な見方を改めるところから始めるのがよいと考える」(新書版p.34)

 人々が善意で流した情報が大量虐殺の原因となり、銀行破綻のうわさが実際に銀行を破綻させ、物不足のうわさが物不足を引き起こす。「うわさは広まることで「事実」を生み出すことがある。(中略)「煙」がいつの間にか「火」を起こすのだ」(新書版p.17)。たかが「うわさ」と侮ってはいけません。それは、「現実」を作り出すほどの力を持っているのです。

 続く、「第2章 うわさを考える----「古典」を繙く」ではうわさに関する古典的な研究をいくつか取り上げて紹介し、「第3章 都市伝説の一世風靡----1980~90年代」では、いわゆる都市伝説を取り上げ、「うわさ」が果たす社会的役割が広がっていく様子を見ます。

 「うわさは事実関係を超えた「神話」あるいは「物語」でもあるのだ。だとすると、うわさを消すために、事実関係を明らかにするだけでは十分ではない。その神話性や物語性を弱める必要がある」(新書版p.106)

 「第4章 人と人をつなぐうわさ・おしゃべり」では、古典的研究では捉えきれない「現代的うわさ」のメカニズムを探ってゆきます。うわさをその情報/内容から理解するのではなく、コミュニケーション/動機の観点から考えてゆくのです。

 「都市伝説に顕著に見られるようなうわさの特徴を捉えるには、「古典」とは別の視点が必要である。(中略)事実かどうか疑わしい話が広まるのは、うわさが既存の人間関係を基盤にしているためでもある。やはり、うわさは事実性からのみ理解、評価することはできないのだ」(新書版p.107、111)

 「第5章 メディアとの関係----ネットとケータイの普及のなかで」および「第6章 ネット社会のうわさ----2010年代の光景」では、これまでの論考をもとにして、現代の「うわさ」の背後にあるメカニズムを探求してゆきます。

 「インターネット上に事実関係の定かではない情報が数多く存在しているとしても、それだけでは「インターネットではうわさやデマが広まりやすい」という結論を導くことは難しいのである。むしろ、インターネット上では個人がもっともらしく思う情報に出会いやすく、その情報を共有できる相手とも出会いやすい点が重要である」(新書版p.203)

 「インターネットがうわさの巣窟とされるのは、単に情報が多いからというわけではなく、また事実関係のあやふやな情報が多いからというわけでもない。それだけでなく、むしろ、特定の立場からの「情報」が集まることで増殖するところにある(中略)インターネットの公開性は集団分極化やカスケードを促進することで、立場を同じくしない人からは「うわさにみえるもの」を増殖させることとなる」(新書版p.206、208)

 さらには、「うわさの貯蔵庫として機能するインターネット」と「他人からの評価が可視化されるSNS」が何を引き起しているか、またインターネットの普及によって逆説的に浮かび上がってくるマスメディアの影響力の大きさ、など、現代の「うわさ」を考えるための様々な視点が提示されます。

 インターネットを「うわさ(デマ、風評)を素早く拡散させるメディア」とだけ捉えるのでは不十分で、うわさの特徴や性質を大きく変容させている「場」として考える必要があることがよく分かります。


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『PANORAMA パノラマ』(フィリップ・ドゥクフレ振付、カンパニーDCA) [ダンス]

 2014年6月15日は、夫婦で六本木ブルーシアターに行って『スキャッタード』を、その後、彩の国さいたま芸術劇場で『パノラマ』を鑑賞しました。

 『パノラマ』は、フランスのコレオグラファー、フィリップ・ドゥクフレが、自身の過去の作品からいくつかハイライトシーンを抽出して再構成したものだそうで、まあドゥクフレ総集編みたいな感じでしょうか。

 吊りを使ったサーカス風のダンスがあるかと思えば、影絵と小芝居があったり、何だかよく分からない着ぐるみでレトロ格闘ゲーム風のコントを大真面目にやったり、みんなで蛸のような謎の生き物(バイキンだと主張するものの説得力なし)になってぞろぞろ動いたり、とにかくバラエティに富んでいます。

 個人的なお気に入りは、天井の滑車でつながった一本のロープの両端に釣られた男女二人のダンサーによって踊られる、無重力痴話喧嘩。何しろ一方が怒って立ち去ろうとする度に他方は宙づりになって大騒ぎ。ゆらゆらと宙を舞うダンサーたちの美しさは息を飲むほどですが、サーカスにありがちなロマンチックな演出に全然ならないのが素敵。

 吊りを使ったシーンはもう一つあって、ゴムのような伸縮性の高いロープで釣られた二人のダンサーが月面のようにびょーんびょーんと飛び跳ねます。こちらも好き。

 あと、影絵(指で色々な形をつくる)とダンサーの姿勢がシンクロするシーンには新鮮な驚きと感動がありました。

 何しろダンサー達の身体能力も技術も凄いのですが、それを実にくだらなくて思わず失笑してしまうようなギャグに使っていたりして、その無駄遣いっぷりが贅沢です。ギャグのセンスは良く、キマるたびに会場に子供たちの歓声が響くという大変嬉しい状態に。文字通り、大人も子供も楽しめる作品でした。楽しかった。

 余談になりますが、ショートコントを次々とつなげてゆき、影絵や芝居などを挟み込むスタイルからは、近藤良平さんが率いている日本のダンスカンパニー「コンドルズ」を連想する人も多いと思います。実際、『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド HYPER』(乗越たかお)では、次のような逸話が紹介されていたり。

 「フィリップ・デュクフレの『シャザム!』のレセプション・パーティで近藤と話した。笑いや非ダンス的な要素満載でありながら、きわめてアーティスティックでもあるフィリップの作品。感想を聞くと、近藤は「困りましたね」と言ったのだった。筆者はおお、と思った。普通なら「スゴイですね」とかなんとか言うものだろう。気持ちの上ではフィリップと対等に立っているのだなと思った」(単行本p.184)

 というわけで、コンドルズ公演『ひまわり』、そしてフィリップ・デュクフレ『パノラマ』を、さあ見比べてみようと言わんばかりに、一カ月にも満たない期間で続けざまに上演してくれた彩の国さいたま芸術劇場に大いに感謝したいと思います。どっちも素晴らしかった。


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