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『食品偽装の歴史』(ビー・ウィルソン、高儀進:翻訳) [読書(教養)]

 「本書は、卑劣で貪欲な行為の話であり、金が儲かるなら他人の健康を損ねてもいっこうに構わないという陋劣な人間の話である。しかし、それはまた、政治の失敗の話でもある」(単行本p.10)

 「それは、食品の抑制のない市場経済が、誤った政治と結びついた時に横行する欺瞞行為である。それは、1820年代の工業国英国の自由放任主義政策のもとで起こった。また、1860年代のニューヨークでも起こった。(中略)それは現在、21世紀の中国で起こっているのである」(単行本p.396)

 食品に対する混ぜ物工作。消費者に対する悪逆な欺瞞行為。生産者、商人、消費者、政府、科学者、消費者運動家が、ときに闘い、ときに共謀しながら作り上げてきた、その長い歴史を紹介した一冊。単行本(白水社)出版は、2009年7月です。

 英国の著名フードライターが情熱を傾けて書き上げた、食品偽装の歴史です。記述は英米中心となっていますが、他の国でも、どの時代でも、本質的なところは同じだろうと思わせる迫力と説得力に満ちています。例えば1820年代の英国を評した次の記述は、現代の多くの社会でもそのまま通じるのではないでしょうか。

 「自分の買うパンがなぜこんなに安いのか、こんなに白いのか、自分たちの子供が食べる菓子が、なぜ自然界には存在しない色に染まっているのか疑問に思わなかった。それは、狡猾さと無知が合わさり、危険な食べ物を作り出している国だった」(単行本p.35)

 全体は六つの章から構成されています。

 最初の「第一章 ドイツのハムと英国のピクルス」の舞台は、19世紀前半の英国。そこで横行していた食品偽装の実態と、それに対して敢然と闘いを挑んだフレデリック・アークムの栄光と挫折を生き生きと描き出します。

 「アークムは、子供のカスタードが月桂樹の葉で有毒なものになっていること、紅茶がリンボクの葉で誤魔化されていること、菱形飴がパイプ白色粘土から作られていること、胡椒には掃き寄せた床の屑が混ざっていること、ピクルスは銅で緑色になっていること、菓子は鉛で赤く染まっていることを書いている」(単行本p.15)

 「アークムが書いている食品偽装の世界は、多くの面で、いまだにわれわれの世界である。当時と同じように、政府は業界を動揺させるのに乗り気ではなく、科学は欺瞞を暴く手段を提供すると同時に欺瞞を作り出す能力を持ち、消費者と生産者のあいだの鎖は長くて曲がりくねっていて、最悪の欺瞞者は、手っ取り早く儲けるためなら、なりふり構わず他人の健康を犠牲にする。それゆえに、本書はアークムの話から始まるのである」(単行本p.65)

 「第二章 一壺のワイン、一塊のパン」では、ワインとパンの偽装とその成り行きを取り上げ、その顕著な違いを生んだ要因は何か、を追求します。ある意味で、食品偽装をはびこらせているのは、消費者の食に対する無知、無関心だということが、ここではっきりと示されます。

 「「混ぜ物のワインを見破る最上の方法は、上質のワインにすっかり馴染むことである」。上質のワインに馴染んだ者は、いまや過去のどんな時代よりも多い。(中略)総じて現在のワインは、過去のいかなる時代よりも純正で、(たぶん)表示通りで、旨い」(単行本p.86、87)

 「パン造りの水準が低下した主な要因は、しっかり造られたパンを要求しなかった英国の消費者だった。(中略)真のスキャンダルは、彼らがもはや良いパンとは何かがわからなくなっていたということである。(中略)混ぜ物をした白パンは、徐々にパン屋の通常のパンになった。ちょうど、工場製パンが現代の通常のものであるように」(単行本p.112、113)

 「第三章 政府製マスタード」では、貧困、市場経済、法制度、その他の社会状況が、どのようにして食品偽装を支えているかを解説します。

 「おやつをわが子に買ってやった両親は、死と一か八かの賭けをしているのが判明した。集めたサンプルのうち、赤いものはしばしば鉛か水銀で着色されていた。緑の菓子は銅をベースにした染料で色付けされていた。黄色のものは雌黄で色付けされていた。(中略)さらに、もっと危険なのだが、黄色クロム酸鉛や黄鉛が使われていた。(中略)そんなグロテスクなほどに食用に適さない食べ物をわざわざ作る食文化には、どこかおかしいところがあったのは言うまでもない」(単行本p.147、150)

 「買い手も売り手も、自分たちでは左右できない市場の犠牲者だった。貧しい者に食品を売る者も、たいてい自分自身が貧しかった。(中略)売り手から見ると、こうした貧しい暮らしにおいては、少しばかりの欺瞞は個人的正義----自分の暮らしのために金を少々くすね、客に復讐をする手段----のように思えた。(中略)買い手を見つけることのできるくらいの値段で売れるパンを造るには、成分の質をできるだけ落とさねばならなかった。そんな条件のもとでは、正直は自殺行為だった」(単行本p.138、139、142)

 「英国が「商業面で一段と優れて自由な国」だという事実と、英国の菓子製造業者が飴を銅と緑青で色付けしてもなんの非難もされない事実とは直接に関係していると考えた。その考えに異を唱えるのは難しいだろう。(中略)自由放任主義経済の支持者たちは(英国にはその支持者の数は多かった)、何もしないのが最善だと思い込んでいた」(単行本p.141)

 「英国人の多くは飲食物の実態に「目をつぶって」いると、イライザ・アクトンは考えた。「彼らはなんの不都合もないという信念を揺るがせられたくないのだ」。多くの場合、問題に対して目をつぶるというのが、英国の消費者にできるすべてだった。(中略)食品偽装について騒ぎ立てた結果、最善のことは何もしないことだ、という自由放任主義の教条主義者の立場が強まっただけだった。そして、その態度が支配的であったあいだ、混ぜ物工作はいっそう蔓延した」(単行本p.145、152)

 「ハッサルのケースは、食品偽装に対する闘いが、いかに純正に対する無益な探求になりうるかを示している。そんな探求は結局のところ、個々の消費者の要求を満たすことは、ほとんどできないのだ。混ぜ物工作は、人々がもはや自分の感覚を信じない時に最も盛んになることを歴史は証明している。何が良い食べ物なのかについて、人々がじかの知識を欠いている時に」(単行本p.191)

 「第四章 ピンクのマーガリンと純正ケチャップ」では、舞台は新大陸に移ります。英国と基本的な状況は同じですが、闘いのヒートアップと極端に走る姿勢が、いかにも米国。

 「混ぜ物工作に対する闘いは、必然的に罪と贖罪の言葉に結びついていった。(中略)混ぜ物論争のいずれの側も、相手に過激な言葉を使わせるだけのことになり、ついには膠着状態に陥り、なんの真の意思疎通も行われなかった。(中略)十九世紀の最後の十年まで、アメリカにおける食品政策は、狂信的な人間と党派の利害に相変わらずどうしようもなく分かれていて、連邦政府はその真ん中でなす術もないように見えた」(単行本p.210、221)

 そして「第五章 紛い鵞鳥の仔とペアナナ」と「第六章 バスマティ米と乳児用ミルク」は、二十世紀から今日までの状況を描きます。

 もはや混ぜ物食品どころか、人工フレーバーで味付けした合成食品、インスタント食品、ジャンクフードだけが流通する世界。広告業界が押し付ける空虚なイメージによって、食に関する無知と無関心が積極的に押し進められている世界。極端な純正食品運動と法外な値段の「自然食品」の世界。そして、中国やバングラディッシュで横行している身の毛のよだつような食品偽装の世界。

 「食品偽装は、昔よりもっと多様なものになっている。もっと多くの違った形をとっている。言ってみれば、恐怖心が絶え間のない背後の騒音のように食品を取り巻いて脈打っているのである。その恐怖心は、今度は食品についての過剰な恐怖(パラノイア)を生み、その結果、人々の不安に付け込む市場が出現する」(単行本p.342)

 「食品に対する不信感がこのように広範囲に蔓延している雰囲気においては、自分たちの商品を売らんがために、ある食品に対する不安を掻き立てて世間を騒がす者に騙されやすくなる。食品呪い師(シャーマン)----そのうちの何人かは「栄養学者」と自称している----には不足しない」(単行本p.373)

 「極東と東南アジアの買い物客は、寸毫の疑いもなく偽造され、毒を入れられた食べ物を食べざるを得ない運命に、いまだに置かれている。(中略)多くの中国人は市場で売られているものは偽物だと予期するようになっている。食品偽装はあまりに日常化したので、いまや偽装者はいっそう大胆に人を騙そうとしている。例えば、上海で売られた「揚げ豆腐」である。それは石膏、絵具、澱粉を混ぜ、豚の流動飼料と内臓で出来た「オイル」で揚げたものだということがわかった。あるいは、2006年12月、再利用した汚水と工業用油で「食用ラード」を造った廉で、工場長が逮捕された事件である。(中略)2004年、中国の中央部で、偽の調合乳を飲んだ赤ん坊の少なくとも十三人が死に、数百人以上が重態になった」(単行本p.391)

 21世紀の世界にようこそ。

 19世紀の英国、20世紀の米国、21世紀の中国。繰り返される食品偽装問題と、その構造が、本質的に同じであることに衝撃を受けます。そしてもちろん、日本だけは例外などと考えるのは愚かなことでしょう。

 本書には、食品偽装を行った者、それと闘った者、法律を制定した者、そして被害を受けた者が多数登場します。しかし、優れた歴史書の常として、誰が悪玉で誰が善玉か、誰が加害者で誰が被害者か、誰が勝利者で誰が敗北者か、簡単には判断できません。

 大切なことは、社会状況こそが食品偽装を引き起こすこと、そして問題を解決する鍵は、生産者や商人や政府ではなく、主に一人一人の消費者が握っているということを忘れないことかも知れません。

 本書は、成分表示を義務づけ、偽装した者を厳しく罰すれば、食品偽装はなくなる、といった素朴な考えがなぜ成り立たないのか、それを(文字通り)苦い教訓とともに教えてくれます。この憤懣と絶望に彩られた本の中には、しかし大いなる希望と行動指針もまた、書かれているのです。

 というわけで、食の安全に興味があるすべての人に一読をお勧めします。ただし、食事の最中に読むのは、避けたほうがいいかも知れません。

 「動機は主として経済によって決定され、機会は政治と科学によって決定される。欺瞞行為は、「自由貿易」とか「グローバリゼーション」とかいった抽象的なものによって生まれるのではない。仲間の市民を欺こうという単なる衝動以外のほかの性質も持っている個々の人間に対して、もろもろの力が働いた結果である。正しい経済と正しい政治が、多かれ少なかれ食品偽装を一掃している社会を想像するのは荒唐無稽ではない」(単行本p.402)


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