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『「『ジューシー』ってなんですか?」』(山崎ナオコーラ) [読書(小説・詩)]

 「先に続く仕事や、実りのある恋だけが、人間を成熟に向かわせるわけではない。ストーリーからこぼれる会話が人生を作るのだ」(Kindle版No.937)

 特に劇的なことが起きるわけでもなく、耐えられる程度の不幸がだらだらと続いてゆく仕事、そして人生。職場というものを詩的にとらえた長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(集英社)出版は2009年07月、文庫版出版は2011年11月、Kindle版配信は2013年08月です。

 新聞のテレビ・ラジオ欄の校正という、およそエキサイティングとは言い難い上に、長時間労働を強いられる報われない職場。そこで働いている六名の男女を描いた作品です。

 特に劇的なことは何も起きません。それまで仲違いしていた六名が会社存亡の危機に協力して立ち向かうとか、上層部の不正を知って葛藤するとか、職場恋愛から不倫騒動へ、みたいなことは一切なし。非常にリアルな職場です。

 何しろ作中で起きる最もドラマチックな出来事といえば、『ジューシーハムサラダ』というサンドイッチの名前を聞いて、「『ジューシー』ってなんですか?」と質問し、みんなが爆笑するという場面なのです。

 「岸の心に「『ジューシー』ってなんですか?」という広田の科白のユーモアが染み込み、一生抜けそうにない。笑いが永遠に続く。おばあさんになっても、「『ジューシー』ってなんですか?」というフレーズを、きっちりと覚えているような気がする」(Kindle版No.723)

 では何に重点を置いて書かれているかといいますと、まずは「ストーリーからこぼれる会話が人生を作るのだ」(Kindle版No.937)ということで、職場でのたわいもない会話の妙なおかしさ。例えば、こんな感じです。

----(Kindle版No.224)

「よく噛むと、甘さが出てきて、安っぽいパンには安っぽいパンなりのおいしさがあることを発見できるんですよ」

「でもさ、パンだけじゃ、栄養足りないんじゃない?」

「栄養、栄養ってみんなよく言いますけど、栄養っていうのは幻想ですからね」

「食べ物の中に、栄養は入ってないの?」

「愛とか、サンタクロースとかと同じで、ある人にだけあるんです」

「愛とか、サンタクロースとか、栄養って、実はお父さんなのかもなあ」

----(Kindle版No.263)

「世の中には、巨大な権力が存在しているんです。それで、僕たちの思想を統制しようとして、新聞やテレビや雑誌を使って、洗脳してくるんです」

「はあ」

「でも、ネットは、民が直に発信できる場所ですから」

「そうなんですか?」

「だから、裏の情報が手に入るんです」

「ネットって、何を見るんですか?」

「2ちゃんねるとかです」

----

 何かこう、リアルというか、そういう感じですよね、職場における実際の会話って。

 そして「働くとは 毎日を詩を詠んで過ごすことだ」(Kindle版No.727)ということで、職場や仕事をうたった詩の断片のような表現があちこちに散りばめられています。

 「他愛のない遣り取りが ビルの十階で泡のように生まれ続ける//机の島に言葉の波がうち寄せる//働くとは 毎日を詩を詠んで過ごすことだ/(中略)/登場人物は死んでも 会話が残る//永遠に残る」(Kindle版No.725)

 「平凡な男が世界の誰にも知られずに寝たり起きたりしている」(Kindle版No.25)

 「真っ直ぐに生きる勇気も、逃げる勇気も持ち合わせずに、ただ徒に時が過ぎてしまうのだろうか。/ 問題なのは広田が世の中を好きだということであった。広田は人生を愛してしまっている」(Kindle版No.352)

 「世間の規範から外れた幸せが欲しい。/ひとりだけで、こっそり笑うような。」(Kindle版No.375)

 「最近は本当に汚いものが好きだ。排水口、マグカップの茶渋、風呂の水垢。気がつくとじっと見つめている自分がいる。不浄観を極めるために、そのままじっとする」(Kindle版No.661)

 「疲れた目で見ると、世界が新鮮だ。電車の中では、垂直の線ばかり浮き上がって見える。銀色の手すりや、窓のサッシが妙にクリアに目に迫る」(Kindle版No.691)

 「何も見せなくとも、胸を張って歩けば、警備員に止められることはなかった。岸は、どこでも、歩ける。どこまでも、いつまでも、歩ける」(Kindle版No.533)

 「人々の小さな営みは蛆虫のように温かい。(中略)日光に当たってるものは何もかも、祝福されている」(Kindle版No.833、838)

 「痛みというものは消えることがないが、薄らぐという性質を持っている」(Kindle版No.936)

 併録されているのは、『ああ、懐かしの肌色クレヨン』という短篇。こちらは、工場で働いている鈴木さんが、職場を辞めるという同僚の男性を思い切ってデートに誘い、告白したもののてんで相手にされなかった、という話。

----(Kindle版No.1001)

 「あの、今日はお仕事とは関係なく、聞いていただきたいことがあるんです」

 「はい」

 「私は、やっぱり、山田さんのことが好きでしょうがなくて」

 「あら」

 「恋人になりたいくらいなんです」

 「おお」

 「そのことについて、少しでも考えてみていただくことは、できませんか?」

 「う、うーん。考えるって言っても、いつまで考えたらいいのか、わかんないよ」

 「はい」

 「じゃあ、今日しかないと思うので、口説くだけ口説いてみたいんですが」

 「でも、オレは今日、二時までしかいられないよ。三時に、神保町で別の人と待ち合わせてるから」

 「大丈夫です。短く口説きます」

----(会話だけを抽出)

 山田くんが三時に待ち合わせている「別の人」が、おそらくは本命の恋人だろうということは、読者にも、鈴木さんにも、よく分かっているのですが、それでも健気に勘張る鈴木さんなのです。

 もちろん奇跡が起きるはずもなく、まったく相手にされません。でも、それで鈴木さんが嘆いたり悲しんだりするわけでもなく。

 「でも、「肌色」という言葉があった世界のことも、鈴木は嫌いではなかったのだ。過ごしにくい世界を否定する気持ちは毛頭ない。「どんな世界だって生きていける」と鈴木は思っている。 だが、もしかしたら、この明るい気持ちは、鈴木が平和の中で育ったという理由によるものかもしれなかった」(Kindle版No.1086)

 なぜ人生には不公平がつきものなのか。絶対に「主役」になれず、常に「その他」として扱われる人生は、果たして不幸なのか。鈴木さんはあまり感情を表さないので、代わりに読者が色々と思いやってあげることに。

 というわけで、二篇とも、特に波瀾もなく、幸福でもない、かといって耐えがたいかというとそうでもない、普通の人々の凡庸な脇役人生を、不思議なユーモアを込めて描いた作品。読後感は意外に明るく、何だか終わってしまうのが惜しいような気持ちになる小説です。


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『夜の分布図』(三角みづ紀) [読書(小説・詩)]

  「これはかんたんな恋のはなし。/どこにでもある恋のはなし。」
    (『砂地』より)

 三角みづ紀さんの詩集の電子書籍版をKindle Paperwhiteで読みました。Kindle版の配信は2013年07月です。

  「息ができないくらい/怒鳴りあうように/ひとしきりわらって/つめたい炭酸水を買う//なんて しあわせだった/梅雨の日」
    (『しあわせだった』より)

  「カレンダーは正直だ/爪先に触れて/夏を遠ざける/めくったページを/まきもどして/画鋲で貼りつける/カレンダーより/わたしのほうが正直だ」
    (『鳴った』より)

 連作のような、必ずしもそうではないような、おそらくは恋愛詩が並んでいます。ハチさんによるイラストが一つ一つの詩に添えられており、それが静かに言葉を支えていて、とてもいい雰囲気。

  「世界の果てのように/わたしはいま よくできている/世界の終わりのように/わたしはいま よくできている」
    (『最上の椅子』より)

  「すべて壊れる方法は/案外に容易なことを/わたしたちは知っている//すべて壊れる方法は/案外に容易なことを/わたしたちは知っていた」
    (『呪文』より)

  「骨だけに、なって/いそいで/骨だけに、なって/いそいで/骨だけに、なって//できるだけ/いそいで」
    (『白い指』より)

  「うりふたつの死体たちが/海岸にて 整頓される/自分の顔にうりふたつの/死体たちが 海岸にて/整頓される」
    (『並ぶ』より)

 語句の繰り返しが生み出すリズムが素晴らしい。静けさのなかでリピートされる声が、どんどん切迫感を積み上げてゆきます。繰り返しに見えて、少し違えている箇所が強烈な余韻を残します。その狡猾なまでの巧みさ。もう胸がどきどきですよ。

  「起きたら波にまかれて/彼が沈んでいく/軒下の鳥の巣も/おなじく沈んでいき/おさない鳥の死骸が/うつくしくぶらさがっている」
    (『泣いた』より)

  「白んでいく、東/明けない夜を抱きかかえて/たいしたことではなく/たいしたことにするのだ」
    (『めまい』より)

  「たわいもない音が響く日、/ドアは木製だった/神妙に軋んで/神妙に閉じた」
    (『ドアは木製だった』より)

 切なさ。寂しさ。取り返しのつかなさ。直接的な表現を極力避けて、美しく響く言葉の連なりからそういった感情を読者に滑り込ませてくるような作品が多く、それがイラストと共鳴して、なんともいえない感傷的な気持ちになります。

 個人的には恋愛詩は苦手なんですが、こういう毒を盛るような手口でこられると、これがもうあっさりと感動してしまうことに自分でも驚きます。最後まで読んでから、また初めに戻って読み返すと、最初に読んだときとはまた別の情景が浮かび上がってくるところも素敵です。

  「すいこまれる声/ひとりになった夜/背中にまではりついたすべての夜を/引き離すつもりはない/あなたが降っている/絶え間なくあなたが/降っていたんだ」
    (『溶けるように』より)


タグ:三角みづ紀
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『アメリカ・メディア・ウォーズ ジャーナリズムの現在地」(大治朋子) [読書(教養)]

 「本書に記した米メディア界の再編の動きは、葛藤の中にありながらも挑戦を続ける記者たちの記録である。(中略)難問に直面したアメリカのジャーナリストたちがどう格闘し、挫折し、あるいは克服していくのか、その地図のない旅を最前線で記録しようと努めた」(Kindle版No.43)

 広告収入の激減、購読者の減少。新聞はネットに殺されてしまうのか。綿密な取材により、変革期をむかえる米国報道メディアの現状を描いたルポの電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。新書版(講談社)出版は2013年09月、Kindle版の配信は2013年10月です。

 毎日新聞で連載された『ネット時代のメディア・ウォーズ 米国最前線からの報告』を元に書き下ろされた一冊です。

 「米紙全体の新聞広告とウェブ上のオンライン広告を合わせた広告収入の総額は2005年には494億ドルだったが、09年には276億ドルと六割弱にまで落ち込んだ」(Kindle版No.1762)

 「2008年一年間で解雇された新聞社の社員は計6000人に達し、新聞社の合併・吸収が盛んに行われた1978年以来最大規模となった。09年にはさらに5200人が解雇され、両年で整理された人員は計1万1200人、わずか二年で米紙の社員(2001年に5万6400人)の約五人に一人が職を失った計算になる」(Kindle版No.588)

 「第1章 岐路に立つ米新聞業界」では、米国の新聞が置かれている、あまりにも厳しい現状を浮き彫りにします。広告料と購読者の減少、人員整理、それによる取材力の低下。結果として記事の質が下がり、それが購読者離れを加速する。果てしない泥沼のような苦境を抜け出す手はあるのでしょうか。そしてもし新聞が死んだなら、民主主義の将来はどうなってしまうのでしょうか。

 「第2章 ニュースはタダか」では、何とか収益を確保して生き延びようとする新聞社の苦闘を見てゆきます。

 「グローブ紙が実践したのは、「三分の一の原則」の徹底だった。予算を三分の一減らし、人員を三分の一削減し、発行する新聞のページを三分の一減らす。(中略)生き残るには、地方紙としての役割に徹するしかない」(Kindle版No.400、413)

 「米紙業界はいま、急激にデジタル版の課金制度導入へと舵を切り始めた。報告書によると、現在ある米紙約1400紙のうちすでに150紙が課金システムを導入しているが、さらに13年には100紙ほどが新たに有料化に乗り出すのではないかと予想されているという」(Kindle版No.1099)

 「NYT紙は紙の読者を維持し、かつこれまで新聞では読んでいなかったデジタル版の利用者にも新たに新聞購読を促す動機付けにしようとしている。デジタルの有料化により紙とデジタルの購読者を増やすという攻めの発想で、プラス思考で相乗効果を起こそうとしている」(Kindle版No.947)

 「テクノロジーの革新がニュース業界に新たな顧客を呼び込んでいる現実がある。だが、問題はその新たな顧客を誰が利益に結びつけているかだ。報告書によると、2011年のデジタル版ニュースの広告収入の七割近くはユーチューブなど技術系の企業五社が独占している。ニュースを発信したメディア側は残る利益の一部を得ているに過ぎない」(Kindle版No.1121)

 「第3章 ハイパー・ローカル戦略は生き残りのキーワードか」では地方紙を中心に活性化する「記事共有」の試みを、「第4章 NPO化するメディア」および「第5章 調査報道は衰退するのか」では小規模NPOメディアによるジャーナリズム再編への挑戦を描きます。

 「地方紙による記事共有の動きは、全米各地で起きている。(中略)その後も同じような「大手紙+地方紙」連合の結成を模索する動きが目立った」(Kindle版No.1345、1389)

 「全米にあるNPOメディア全体の六割以上に当たる38団体が2006年以降に創設された比較的新しいものである。(中略)米ジャーナリズムの衰退に危機感を覚えてNPOを創設したり、最近になってNPOに参加した人々が少なくない。人員整理で新聞社を解雇された記者らも多く、NPOメディアがその受け皿となっている側面もある」(Kindle版No.1777)

 「私たちは良質のジャーナリズムを追求したい。そして、私たちのジャーナリズムが良いものだと思ったら寄付をしてください、と求めるわけです。そうやって、周囲の人々をインスパイア(感化)しながら資金提供を求めるのです」(Kindle版No.2019)

 「営利企業の規模はもっと小さくなり、以前とは違う形になっていくかもしれません。いま起きているのは、ジャーナリズムにおける「エコ・システム(生態系)」の多様化です。私たちのような小さなメディアはこれからもっと増えるでしょう」(Kindle版No.1994)

 NPOメディアと大学の協力関係、NPOメディアと大手メディアの連携。そういった米国メディア再編の立役者としての小規模NPOメディアの動きが特に印象的です。著者は、これは日本にとっても参考になるといいます。

 「既存の大手メディアから地方の小規模な新聞社まで、NPOメディアが媒介となり、巨大なメディア・ネットワークを作り上げていく。既存メディア同士の連携はライバル心もあってなかなか難しいが、NPOが仲介することで、そこはスムーズになる。これこそがNPOメディアの真骨頂であり、その個性を存分に生かした報道であったように思う」(Kindle版No.2373)

 「既存メディアもNPOメディアも、自らの信ずるジャーナリズムを守り、育てるために、新たなパートナーと時に手を組みながら、他者の力が必要な時は協力を求め、外注すべきところは外注しながら、浮かした労力とコストでそれぞれの個性に磨きをかけようとしている。それこそがコストや人員削減の中で、ユニークな独自性を育てる道につながり、結果的にその媒体の競争力を高め、存続への道を開くという発想だ」(Kindle版No.2312)

 「日本の税制がもっとNPO設立を容易にする方向で改正されれば、INのような取り組みは、日本におけるNPOメディア創設に非常に参考になるのではないかと思う。(中略)アメリカで私が見たさまざまな取り組みをそのまま日本で活用することは難しいかもしれないが、日本でもメディアの再編は進みつつある。NPOメディアがその存在感をさらに増すのも時間の問題だろう」(Kindle版No.2249、2736)

 著者の見立てをまとめると、こんな感じでしょうか。

 紙媒体は衰退しつつも、統廃合・記事共有・オンライン課金などの策で規模縮小しつつ生き残る。一方でネットを基盤とする小規模NPOメディアが台頭して、大学や地方紙、さらには大手新聞とも連携をとりながら、これからの米国ジャーナリズムを牽引してゆく。

 報道全体を俯瞰すると、これはメディアの再編、多様化、分業化であり、米国ジャーナリズムの活力と健全性にとって、必ずしも悪いことではない。現場の記者たちは、むしろ飛躍のチャンスと前向きにとらえて、情熱を持ってジャーナリズムの未来に挑戦し続けているのだ。

 米国が持っているこういう側面には、賛嘆の他はありません。著者もこう書いています。

 「多くのアメリカ記者に接して感じるのは、「ジャーナリズムの力」を記者がとても強く信じていて、それがもたらす地域社会、市民社会への影響力は、民主主義社会には欠かせないという信念を抱いているということだ」(Kindle版No.2628)

 「アメリカでは、多くの現場の記者たちが、大切なのはあくまでもジャーナリズムというソフトウェアであり、その価値を信じることであり、それを実践し、提示するための媒体、つまりハードウェアは時代と共に変わるものだという大局的な感覚を広く共有している。(中略)だから、さまざまな形のメディアを作り、むしろ発信の場を多様化することで、インターネットの拡充や経済の悪化といった時代の変化を、多様なジャーナリズムを実践するチャンスにしようというプラスの発想にさえつながっている」(Kindle版No.2763)

 「私はこの一連の取材で、アメリカに「ジャーナリズムの木」が絶えてなくなることはないだろうという確信を抱いた。それは現場の若い記者一人ひとりがジャーナリズムの重要性を信じ、そして彼らにいろいろな機会や場を提供するアメリカ社会の多様な価値観があるからだ。ジャーナリスト同士もまた、日頃のライバル意識とは別に、同じようにジャーナリズムを追求する仲間として一定の連帯感を保ち、協力しあうさまざまなネットワークを構築している。これこそがアメリカのジャーナリズムの強さであり、生命線であるに違いないと私は思う」(Kindle版No.2786)

 ひるがえって、日本の報道メディアはどうなのでしょうか。米国ほど急激にではなくても、日本でも着実にメディア再編への圧力は強まっています。それが限界に達したとき、記者の一人一人が、逆境を乗り越えてジャーナリズムを守り育てようとする気概を保ち、互いに分業・連携して、新たな多様化メディアの時代を切り拓くことが出来るのでしょうか。

 大手マスコミの報道姿勢を見るにつけ、個人的には、どうにも不安を禁じ得ないのです。

 というわけで、「新聞もうオワコン」、「ネットがあるからマスゴミ不要」などと無責任に言い放つ前に、ぜひ一読をお勧めしたい一冊です。特にジャーナリズムを学ぶ学生は必読でしょう。理想と情熱に燃える若きジャーナリストたちこそが、報道メディア再編を引っ張ってゆくのですから。


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『イスラム飲酒紀行』(高野秀行) [読書(随筆)]

 「私はイスラム圏で酒のために悪戦苦闘を繰り返している。決してタブーを破りたいわけではない。酒が飲みたいだけなのだ。そして、実際に酒はどこでも見つかった。いつも意外な形で。 本書はおそらく世界で初めての、イスラム圏における飲酒事情を描いたルポである。ルポというよりは酒飲みの戯言に近いかもしれないが」(Kindle版No.184)

 飲酒が禁じられているイスラム圏の国々。しかし、人が住むところ、必ず酒はあるはず。アフガニスタンでは違法な売春宿で、イランでは秘密警察の監視をかいくぐって、何としてでも酒を飲もうとする著者の挑戦は続く。

 イスラム圏における飲酒事情を探ったルポの電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(扶桑社)出版は2011年06月、Kindle版配信は2012年09月です。

 「イスラムにおける酒とは、日本における「未成年の飲酒」に極めて近い。公には原則的にダメなのである。(中略)不特定多数の人々が利用している公共の場で酒を飲むというのは、異教徒といえども控えるべき場面なのである」(Kindle版No.123)

 無類の酒好きである著者は、世界中どこに行っても飲酒を諦めようとはしません。謎の怪獣や未確認国家を探しているときも、常に最優先で考えるのは、酒の確保。

 「現地のゲリラ兵士とともに二ヶ月も雨期のジャングルを歩き、しばしば道にも迷っていたのだが、日記を読み返すと、なんと酒を飲まなかった日が一日もなかった。道はわからなくても酒の入手は怠らなかったのだ。そのエネルギーと集中力の十分の一でもルート探しに役立てればよかったと思う」(Kindle版No.2237)

 「私はデイパックからオーストラリア産の赤ワインのボトルを取り出した。私はイスラム圏に入国するときだけでなく、ただ通過するときにもちゃんと酒のことを考慮している」(Kindle版No.85)

 そんな著者が探索した「イスラム圏の酒場と酔っ払い」の数々を描いたルポが本書です。なぜそこまでして酒を飲もうとするのか、酒飲みにそれを問うのは野暮というものでしょう。

 「第一章 紛争地帯で酒を求めて パキスタンからアスガニスタンへ」では、アフガニスタンに棲息するという謎の怪獣を求めて危険な紛争地帯へ突入。酒飲み以前に人生そのものが酔っぱらっているような著者。

 パキスタンで知り合った若者たちの部屋でこっそり飲酒して、酒の購入が許可されている場所を捜し当てます。

 「医者の診断書があれば飲めるんだ。『この病気の治療にはアルコールが必要だ』ってね。医者に金を払ってそれを出してもらう人もいる」(Kindle版No.320)

 「酒を禁じる国に住む酒飲みが、そこだけ酒が手に入る五十センチ四方の穴に殺到しているのだからその激しさは想像できるだろう」(Kindle版No.432)

 アフガニスタンではあからさまに怪しい売春宿に潜入。そこでビールを飲んで一息つく著者。大丈夫なのか。そんなところでのんびり飲酒していて。

 「よくこんなところまで来て、こんな商売をするもんだ。多国籍軍並みに危険度が高い仕事でありながら、門番の一人も置いていないのだ」(Kindle版No.636)

 「私はビールを飲むことしか頭になく、ここが安全な場所かどうかなど考えもしなかった。「よくこんなところでこんな商売する度胸があるな」と感心していたが、その前に「こんなところで酒なんか飲んでいいのか」という心配を先にすべきだったのだ」(Kindle版No.650)

 というより、なぜその心配をしないで「まずは一杯」となるのか、そこが分かりません。

 「第二章 酔っ払い砂漠のオアシス チュニジア」では、奥さんと一緒にチュニジアに出かけた著者。幸い、飲酒には困らない国なのですが。

 「イスラム圏ではいつも「酒を求めれば求めるほど現地から離れる」という法則に悩まされる。酒は高級ホテルか高級レストランでしか供されないことが多い。外国人や上流階級の人間しかそこにはいない。酔っ払いがわいわいがやがやと楽しくやるような雰囲気がない」(Kindle版No.728)

 酒が手に入ったら入ったで、さらにハードルを高くする著者。砂漠のオアシスで開かれているという真夜中の酒宴の存在を聞きつけ、もぐり込んで大騒ぎ。

 「人の言うことを聞かない、同じギャグを繰り返す----。酔っ払いはどうしてかくも似ているのか。「チュニジアには酒飲みはいても酔っ払いはいない」とモンデールさんは言った。だが、どんな砂漠にもオアシスがある。酔っ払い砂漠にもちゃんとオアシスがあった」(Kindle版No.877)

 そして翌朝、激しい下痢に襲われる著者。奥さんも大変だなー。

 「第三章 秘密警察と酒とチョウザメ イラン」では、外国人だということで秘密警察に監視されながらも、何とか酒の密売人と接触。さらに彼らのアジトに招待され、酒さえ飲めるのであれば、とついてゆく著者。ついてゆくなよ。

 「伝統を感じてグッとくる。長い長いペルシアの飲酒文化は今もイランに息づいている。(中略)やっぱりイランは奥深い。革命も酒の禁止もイランの長い歴史の中ではつい昨日、一昨日くらいのことでしかないのかもしれない。イラン人はそれがわかっているから、「はいはい」と言って、政府の言うことを聞き流しているのかもしれない」(Kindle版No.1107)

 などと最初は冷静に評していた著者ですが、アルコールが回ってくると。

 「イランは酒が絶対禁止だとか女性はヘジャーブを被れとかうるさく言うが、結局みんな建前だけだ。「イラン、楽勝じゃん!」」(Kindle版No.1226)

 浮かれていたら、危うく秘密警察に捕まりそうに。

 「やはりイランは怖い。まったく予想がつかない。バスに乗る前に酒を買わなかったことも幸いだった。もし尾行されていたのならその場でアウトだし、バスの中でも酒の微細な匂いが敏感な秘密警察の男に嗅ぎつけられていたかもしれない。どっちにしても酒の所持が露見したら、即逮捕、監獄行きだった」(Kindle版No.1243)

 危ない危ない。さすがにびびって、街を離れて地方の村へ。そこでようやく酒にありついた著者。だからなぜそうまでして・・・。

 「第四章 「モザイク国家」でも飲めない!? マレーシア」では、ポルトガル租界で世界中の酒飲みと遭遇。

 「ここはポルトガル系の「租界地」だが、酒飲みの「租界地」もあるのだ。「民族のモザイク」ではなく、これぞ「民族のるつぼ」で彼らの共通言語は「酒」である」(Kindle版No.1635)

 「これがマレーシアらしいかどうか多少の疑問はあったものの、酒が存分に飲める今、もはやそんなことはどうでもいいのであった」(Kindle版No.1642)

 「第五章 イスタンブールのゴールデン街 トルコ・イスタンブール」では、どこかにあるという伝説の「飲み屋街」を探索。そして、ついに発見。

 「呆然としてしまった。たまげたことに、街の一区画がまるで新宿のゴールデン街のように、まるごと飲み屋街になっているのだ」(Kindle版No.1779)

 「さっきの隠れ家レストランといい、このゴールデン街といい、イスタンブールには酒文化がどばっと花開いていた。(中略)イスラム圏に飲酒接待があるとは思わなかった。イスタンブール恐るべし」(Kindle版No.1818)

 さらには意気投合した酔っ払いから「日本人はトルコ人みたいにバカスカ飲むって言うんだけど、ほんとうかね?」(Kindle版No.1832)と聞かれたそうで。バカスカ飲むんだ、やっぱり。

 「第六章 ムスリムの造る幻の銘酒を求めて シリア」では、ただ「イスラム圏で酒が飲める場所」を捜し出すだけでは飽き足らなくなった著者が、またさらにハードルを高くすることに。

 「もはや中東を十数ヶ国回り、酒に関する情報も集めていたが、いまだにムスリムが公に酒を造っているという話は聞いたことがない。ああ、イスラム地酒、どこかにないかなあ・・・・・・」(Kindle版No.1890)

 イスラム地酒。いくら何でもそんなものがあるはずが、と思いきや、どうやらあるらしいという噂を聞きつけた著者。学生たちのネットワークを駆使して酒屋を捜し出し、そこからたどって、ついに、ついに。

 「やった、ついに幻のイスラムワインに巡り会えた! しかも自家製の地酒だ!(中略)代金を支払おうとしたら、イナセ兄さんが一杯やる仕種をしながら「シュワイイェ(少しやる)?」と首を傾げた。 なんとも色っぽく、私が女かゲイだったらイチコロでついていっただろう。いや、私はストレートの男だが、酒に誘われているのだ。イチコロでついていってしまった」(Kindle版No.2191)

 もう慣れました、この展開。

 「第七章 認められない国で認められない酒を飲む ソマリランド(ソマリア北部)」では、ソマリア北部の未確認国家ソマリランドでカート中毒になって朝から晩までカートをキメている著者。『謎の独立国家ソマリランド』にその頃のことが書かれています。

  2013年04月18日の日記:『謎の独立国家ソマリランド』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-04-18

 「カートは決して効き目の弱い嗜好品ではない。依存性が酒なみに強いドラッグの一種だ(中略)毎日朝からカートをかじっていた。 もちろん、昼も夜もかじるから、ほとんど一日中、カート漬けだ」(Kindle版No.2287、2301)

 「一日中、ほしいときにカートが食える。まるで天国のようで、私は酒のことなどすっかり忘れてしまった。たまに思い出しても「酒なんかあるわけないよな。必要ないもんな」と思い込んでいた」(Kindle版No.2308)

 ところが、エチオピアから密輸されてくる酒があるという話を聞きつけて、なぜカート天国で酒が必要なのか、さっそく「取材」に乗り出す著者。その理由がついに明らかに。

 「カートをやっていると、セックスをする気にならない。かみさんともできなくなる。だけど酒はちがう。酒を飲むと、ガンガンやる気になる。子供もできる!」(Kindle版No.2402)

 カート中毒なのに密輸してまで酒を飲むのはそういう理由か。「ソマリランド人は子沢山だ。カート中毒で子供好きの彼らを支えていたのは、実は一杯の酒なのかもしれない」(Kindle版No.2405)と感慨深げに記す著者。それ、やっぱり「酒にまつわるちょっといい話」なのでしょうか。

 「第八章 ハッピーランドの大いなる謎 バングラデシュ」ではバングラデシュにあるという謎の「色町」、通称「ハッピーランド」を探す著者。闇酒場で顔の見えない相手から「バングラデシュのビールがある」と言われて(おなじみの展開)、売春宿に乗り込んで酒だけ飲んで脱出(おなじみの展開)、そして地方の村で密造酒にありついて(おなじみの展開)、酒宴に参加して(おなじみの展開)。

 「あとがき」にて、イスラム圏における飲酒文化について判明したことをまとめ、さらに次のように読者に語りかけます。

 「ムスリムの人たちは酒を飲む人も飲まない人も、気さくで、融通がきき、冗談が好きで、信義に篤い。(中略)そういうイスラム圏の楽しさが少しでも伝われば嬉しい」(Kindle版No.2796)

 というわけで、読めばイスラム諸国に対するイメージががらりと変わってしまいそうな好著。世界中どの国だってそうでしょうが、先入観や報道イメージと、実際にそこで生活している人々の姿は、まったくかけ離れていることが多いということがよく分かります。

 同行したカメラマンが撮影した写真も多数収録されており、著者といっしょに異国を旅しながら飲んで浮かれているような気分にひたることが出来ます。酒好きにも、旅好きにも、紀行文好きにもお勧めの一冊です。


タグ:高野秀行
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『ピュディック・アシッド』『エクスタシス』(振付:マチルド・モニエ、ジャン=フランソワ・デュルール) [ダンス]

 2013年11月09日(土)は、夫婦で彩の国埼玉芸術劇場に行ってマチルド・モニエの初期作品二本立て公演を鑑賞しました。1984年と1985年にそれぞれ初演されたもので、いずれも男女ペアで踊るデュオ作品です。どちらも上演時間25分。

 『ピュディック・アシッド』は、黒の衣装に目立つ赤いチェックのスカートをはいた男女ダンサーが踊ります。抽象ダンスですが、どこか物語(それも、しょうもない痴話喧嘩)を感じさせるところがユーモラス。

 古典バレエ的な「お約束」を、次から次へと裏切ってゆく様が心地よい作品です。

 例えば、「女性らしい」動き、「男性らしい」動きを、男女逆で踊ったり。普通は男女の親密さを示すところを、どつき、小競り合い、肘鉄、様々な喧嘩と対立の動きを取り入れてみたり。握手、抱擁といった二人の関係性を示す動きを、無意味に繰り返すことで、すっかり台無しにしたり。

 ダンサーたちの身体能力とスキルはかなりのもので、例えば跳躍の高さや姿勢など感嘆したのですが、何しろ振付に意地の悪さがしみ出ていて、テクニックの高さがむしろ滑稽さを感じさせる、というのが凄い。

 『エクスタシス』の舞台は、四隅にはこれみよがしに照明が立てられ、撮影スタジオの雰囲気を出しています。そこで男女が「劇的に」踊るという趣向。

 今度は、両名とも純白の古典バレエ風スカートをはいた上から茶色の厚手のコートを羽織って登場。「男らしさ」「女らしさ」という固定観念をからかうことに情熱を傾けているらしい。ラストでは男性ダンサーが真っ赤な口紅を塗って、塗りすぎて、ピエロみたいになってしまいます。

 1980年代半ばの観客が受けたであろう新鮮さは今となってはさほど感じられませんが、「何か新しいことをやるぜ」という若々しい息吹は確かにそこにありました。まあ、ユーモアのセンスが個人的に好みに合わない、途中で退屈してしまった、というのも正直なところですが。

[キャスト]

振付: マチルド・モニエ、ジャン=フランソワ・デュルール
出演:  ソニア・ダルボワ、ジョナタン・プランラ

[初演]

『ピュディック・アシッド』 1984年3月(ニューヨーク)
『エクスタシス』 1985年11月メゾン・ドゥ・ラ・ダンス (リヨン)

[再演]

2011年モンペリエ・ダンス・フェスティバル


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