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『私の中の男の子』(山崎ナオコーラ) [読書(小説・詩)]

 「雪村には十九歳まで性別がなかった。第二次性徴はあったし、体は膨らんだし、性交の経験もしたが、とくに性別はなかった。十九歳で作家デビューしたときに、初めて性別ができた」(Kindle版No.3)

 自らの性別や肉体との折り合いをつけること。その困難さに悩みもがき続ける作家の姿を描いた長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2012年02月、Kindle版配信は2012年10月です。

 ずっと自分の性別を意識することなく成長してきた雪村は、十九歳で作家としてデビューしたとき、初めて、他者から見られる自分、社会から規定される自分、というものを強く意識させられることになります。

 「雪村はつい、パソコンを開き、インターネットに接続して、自分の筆名を検索してみてしまったのだ。そして、雪村の容姿についての、バッシングの凄まじさを知った」(Kindle版No.103)

 「自分は女のつもりで生きてこなかった、それなのに急に女という体で悪口を言われ始めた、という感覚が湧いてきた。(中略)作品を批判されるときよりも、容姿のバッシングをされるときの方がこたえるのだ。雪村は肉体から離れられない」(Kindle版No.140、147)

 「一度見られる存在になってしまったら、二度と見るだけの存在には戻れない。文化の中に組み込まれなくては、二十歳近い雪村は、ごはんを食べられない。雪村はもう、毎日絶対に、自分の性別を忘れることができなくなった」(Kindle版No.211)

 肉体からは離れられない、自分の性別を忘れることができない。思春期の深刻な悩みが雪村を襲います。同じ苦痛を味わったことのある読者なら、あ、これはかなりやばいな、と思うことでしょう。

 「雪村はそのあともこのひと月、週二回ほどずつ、過食嘔吐を繰り返した。それはすでに、コントロールが不可能になっていた。自制が利かないのだ。(中略)夜中になると、雪村は静かな台所と向かい合う。冷蔵庫の音を聴きながら、クッキーやドーナツを胃に送り込む。満腹中枢はすでに破壊されているので、信号を出さない。尋常ではない量を食べ、洗面台へ向かう」(Kindle版No.289、307)

 「今やもう、決してネットで自分の名前や本のタイトルを検索することはなかったが、以前見てしまった「そんな顔でもセックスできるのか」という中傷は、記憶としていつまでも雪村を悩ませていた。文字としてしっかりと心に刻まれており、常に思い出すことができる。まるでフラッシュバックのように、そのフレーズは雪村の行動を制限する」(Kindle版No.505)

 こうして雪村は、恋愛とも友情ともつかない交際や、告白すらさせてもらえなかった片思い、性交渉なしの同居、などを通じて、男性との距離感を慎重に計りながら生きてゆくことになります。

 こう書くと暗く陰惨な話のようですが、妙にとぼけたところがある文章のおかげで、とても明るい印象を受けます。主人公である雪村に変な可愛げがある、というかごめん素直に可愛いよ、というのも大きい。

 「「ひとえ瞼を礼賛しよう」「ひとえ瞼礼賛部を作ろう」 と言い合って、友人三人で、ひとえ瞼礼賛部を結成した」(Kindle版No.600)

 「運ばれてきたおこげに、スープをかけると、じゅっと鳴る。「幸せの音だ」 思わず雪村はつぶやいた」(Kindle版No.746)

 「私のことが大嫌いなのかな。それとも単に、ばかなのかな。三十歳にもなる大人が、こんなにもばかなものなのかな。血尿の話は三十分ほど続いた」(Kindle版No.1166)

 「雪村は「好きな人に『好き』って言おう」と決めてから、予習をしまくった。(中略)自分がなんとかハラスメントをすると自分で考えることは辛く、どうしても避けたい。自由業であるのに、雪村はモラルというものに反することが、恐ろしくてたまらなかった。 そしてネット世界はモラリストで満ちていた。 そう。予習の際は、要は、ネットで検索しまくったのである」(Kindle版No.1023、1042)

 好きな人に告白するのが「なんとかハラスメント」にならないか、ネットで検索しまくる雪村。だからネットはほどほどにしておいた方が、というか告白の前に予習すべきことは他にあると思うのですが、そういうとこ、雪村。

 やがて自分の肉体および性別との折り合いを見つけてゆく雪村。多くの読者が自身の思い出を重ねて、共感するであろう心境に到達します。

 「雪村は、中学時代や高校時代に、運動部員をばかにしていた自分がいたのを、覚えている。宇宙の仕組みや、何故人は生きるのかという問いから逃げて、周囲の人と和を保つことばかりに心を費やす子たち。体を動かして、顔の美醜や、身体的能力で、自分や他人を判別する子たち」(Kindle版No.1820)

 「だけどその子たちは、世界の中に自分というものが、物理的に存在しているということを実感しながら生きていて、その責任から逃げ出すことがなかった。雪村はその子たちとは違って、ただ頭の中だけで生きて、自分というものが存在しないがごとく振る舞っていた。 手や足を動かすだけで、自分がここにいる実感が湧いてくる。世界を信じる気持ちになる」(Kindle版No.1822)

 「腹の底から、ふつふつと新たな仕事欲が湧き上がってきた。もっと仕事がしたい。私は、他人に異性を求めない。私の中に、すでに異性がいる。紺野はやはり、異性ではない。私の中のしこりの方が、よっぽど異性だ」(Kindle版No.1200)

 「他者に、男を求めない。自分の中の異性を愛する。 男と女は似ている。だから、自分があれば、男のことも、書ける。そう信じて一生書き続けよう、と雪村は思った。やっぱり自分は女性ではなくて、男女(おとこおんな)なのだ」(Kindle版No.1865)

 というわけで、自分の性と肉体を受け入れることの困難さ、その強い葛藤を乗り越え、成長してゆく物語です。どうしても重苦しくなるか、空々しくなりがちなテーマだと思うのですが、これをこんな風にさわやかに力強く書いてしまうところはさすが。似たような悩みを持つ多くの方々にお勧めします。元気出ます。

 「実は雪村は、すごく仕事ができるのだった。雪村だけではない。女は、仕事ができるのだ」(Kindle版No.1479)


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『プラスマイナス 143号』 [その他]

 『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。

[プラスマイナス143号 目次]

巻頭詩 『文乱』(深雪)、イラスト(D.Zon)
俳句 『微熱帯 35』(内田水果)
随筆 『目黒川には鯰が 治療終了編』(島野律子)
詩 『南の島』(島野律子)
詩 『浄化』(多亜若)
詩 深雪とコラボ 『結局』(深雪のつぶやき(+やましたみか 編集))
詩 『彼岸桜』(琴似景)
詩 『美しい女』(多亜若)
随筆 『香港映画は面白いぞ 143』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 82』(D.Zon)
編集後記
 「ふるさとを語る」 その2 島野律子


 盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。

目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/


タグ:同人誌
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『食べられないために 逃げる虫、だます虫、戦う虫』(ギルバート・ウォルドバウアー) [読書(サイエンス)]

 「昆虫が捕食者から身を守る自衛手段とそれを回避するために捕食者がとる対抗手段は、相互作用する生物同士が互恵的に進化することを示す説得力のある例だ。(中略)昆虫捕食者とその被捕食者の相互作用を理解することは、陸上および淡水の生態系を理解する上で欠かすことができない」(単行本p.255、257)

 食べられることで生態系を支えている昆虫。しかし彼らは為す術もなく食べられているわけではない。逃走、攻撃、威嚇、隠蔽、擬態、あらゆる手段を駆使して捕食者から逃れようとしているのだ。米国を代表する昆虫学者が活き活きと描き出す、昆虫の生存戦略の驚くべき多様性。単行本(みすず書房)出版は、2013年07月です。

 「どんな生物にも食物が必要なのだから、食べられる者と食べる者とのせめぎあいは、生物の共同体で起きている重要な----たぶんもっとも重要な----出来事にちがいない。(中略)昆虫は、植物を食べない動物にとって、直接的あるいは間接的に、もっとも豊富に存在する動物性食物源になっている」(単行本p.9)

 「東アフリカの平原では、1エーカーあたり数百種いる昆虫のうち、たった二種類のアリだけで、おなじ面積に生息するヌーやシマウマやレイヨウといった大型の草食動物をすべて合計した重量に匹敵していた」(単行本p.12)

 「ニューメキシコ州にあるカールズバッド洞窟群国立公園のようなところにすむ、おびただしい数のコウモリが(中略)一晩で、約58トンもの飛翔昆虫を食べたという」(単行本p.214)

 自然界における昆虫のバイオマスは驚異的な分量に達し、その捕食と被捕食の関係が生態系を形作っています。そうした昆虫たちの自衛と対抗の途方もない手段の数々を、専門家が紹介してくれる本です。最初の二つの章だけでも、次のような例がぞろぞろ登場。

 「ナゲナワグモは、たまたま虫がやってくるのを無為に待つようなことはしない。獲物----常に蛾----をおびき寄せるのだ。そのエサは偽のシグナル。メスの蛾がオスを惹き寄せるのに使う性誘引物質のフェロモンを模したにおいを漂わせるのである」(単行本p.23)

 「カレドニアガラスは・・・そのままでは捕獲できない獲物を手に入れるために、道具を作成して使用するという驚くべきスキルを見せる」(単行本p.48)

 続く第三章のテーマは、隠蔽と逃走。まずスロースモスの隠蔽戦略に度肝を抜かれます。

 「「ソロースモス」の生活環境とは、新世界の熱帯林の梢の上で葉を食べて暮らす緩慢な動きの哺乳類「ナマケモノ」の密生した毛の中なのだ。ナマケモノ一頭の体には、この蛾が、数匹から100匹以上すみついている。(中略)ナマケモノは、一週間に一度ほど、地面に降りて糞をする。(中略)その際、メスのスロースモスはすばやくナマケモノの体を離れ、落ち葉でおおわれる寸前の糞に卵を産みつける。幼虫は糞を食べてさなぎになり、羽化して糞の穴を出ると、木々の上方に飛び上がってナマケモノを探す。この蛾は、交尾もナマケモノの体の上で行う」(単行本p.62)

 一生を特定のナマケモノ(とその糞)と共に過ごし、ほぼまったく外界に出ないことで、捕食を免れるというわけです。

 「ゴキブリを含む、ある種の昆虫の腹神経索を構成する神経繊維には、他の昆虫に比べて14倍もの太さを持つ巨大繊維が6本から8本含まれている。巨大繊維の利点は神経刺激が迅速に伝わることだ。ローダーによると、他の繊維の伝達速度が秒速60センチほどであるところ、巨大繊維では秒速約7メートルにもなるという。(中略)ワモンゴキブリは、1秒間に、約3.8センチという体長のほぼ34倍もの距離を走る」(単行本p.69、73)

 ゴキブリの瞬発力、物陰に逃げ込むスピード、それは生き延びるために何億年もかけて進化してきたものなのです。むかつく。

 「飛翔速度が遅いという昆虫の短所は、初期警戒システムがタイミングよく発動することと、すばやく身をかわすための不規則な飛翔により、少なくともある程度までは補われている(中略)極小のヌカカは、驚くことに1秒間に1047回も羽ばたきをする」(単行本p.80)

 第四章と第五章のテーマは、カモフラージュ。木の枝そっくりに擬態するシャクトリムシ、木肌と見分けがつかない蛾、草木の枝そのものに見えるナナフシなど、有名どころが次々と登場します。しかし、単体カモフラージュは、いかに驚異的であっても、まだまだ基本に過ぎません。

 「この“花”は、バーベナのように、縦長の茎に沿って下から上に咲いていく小さな花やつぼみが集まった穂状花序の姿をしていた。しかし花に触ったグレゴリーは唖然としてしまった。「花とつぼみが四方に飛び散った」からである。彼は、アマチュア植物学者だったワトソン氏に、別の“穂状花序”を指さした。その花を摘もうとしたワトソン氏も、グレゴリーとおなじぐらい、逃げ出した花とつぼみに驚かされた」(単行本p.113)

 ハゴロモという昆虫は、それぞれの個体が分担して「花」や「つぼみ」や「茎」に色も形もそっくりに擬態した上で、正しく配置することにより、集団擬態による偽の“穂状花序”を作り出す、というのです。その出来ばえは、大英博物館自然史部門の専門家と植物学者をまんまと騙してのけたのです。

 第六章のテーマは、威嚇。いきなり鮮やかな色(フラッシュカラー)や、巨大な「目玉」模様を見せて捕食者を驚かせて一瞬ひるませ、その隙に逃げるという基本手段が色々と紹介されますが、さらに複雑な威嚇行為を見せるのは、やはりカマキリ。

 「ベネズエラにすむウスバカマキリは、他の数種のカマキリとおなじように、鳥に対して驚くほど複雑な威嚇誇示を行う。それは、危険を感じると言う人もいるぐらい異様な行動だ」(単行本p.122)

 まるまる1ページ近くを費やして紹介されるその威嚇誇示の複雑さと精微さには舌を巻きます。俗に「蟷螂の斧」と言いますが、これだけの行動が進化してきたということは、捕食者に対して絶大な効果があるのでしょう。

 「「この蝶は着地時に驚くべき行動をとる。着陸するとすぐに体の向きを変えて、偽の頭部がこれまで飛行してきた方向に向くようにするのだ」。こうして、偽の頭で天敵をまどわせるだけでなく、着地時に頭と腹部の位置を入れ替えることによって、相手を攪乱するのである」(単行本p.132)

 さほど重要な器官がない尾部に偽頭部を作り、さらに体勢も動員して、最初にそこを攻撃するよう捕食者を誘導する。一瞬の攻防に命をかけていることがひしひしと感じられます。

 第七章のテーマは、群れ。集団の数によって捕食される危険性を減らそうという基本的な手段を扱います。

 第八章のテーマは、武器と警告シグナル。

 「ホソクビゴミムシの腹部には、過酸化水素とヒドロキノンをそれぞれ収めている貯蔵室がある。発射準備が整うと、この二種類の化学物質はもう一つの貯蔵室に押し出され、そこで酵素の働きによって、爆発的な化学反応が引き起こされる。この反応は非常に刺激性の高い高熱のベンゾキノンを生みだし、それが腹部先端の管を通して噴射されるのだ。(中略)腹部先端が回転するため、事実上どんな方向にも噴射可能で、ホソクビゴミムシは、常に正確に敵に狙いを定める」(単行本p.164)

 「向こう見ずな働きアリが、戦いの最中に、「腹壁を猛烈に収縮させ」、ついには毒が詰まった腺を膨れ上がらせて「破裂させ」ることにより、敵に毒を撒き散らす」(単行本p.170)

 「ある種の甲虫と蛾のさなぎには、体節と体節のあいだにある顎のような“罠”がある。ちょうど、バネ式のハサミワナのような仕掛けだ。さなぎがうごめくと、この仕掛けが作動してアリや他の捕食性昆虫の脚をつかむことができる」(単行本p.158)

 化学兵器から自爆テロ、無害な幼児に仕掛けられた罠まで、その残虐非道、冷酷無慈悲っぷりには愕然とさせられます。

 「ケムシは脱皮に先だち、毒針毛の多くを回収して、さなぎの段階とそのあとの成虫の段階で、身を守るために再利用するのだ。一部の種の成虫には、すでに三度も利用した毒針毛をさらにもう一度使って、卵塊をおおうものまでいる」(単行本p.175)

 この軍事費の節約も涙ぐましい。自然界は厳しい。

 第九章のテーマは、捕食者側の対抗手段。昆虫の防衛手段の裏をかくために鳥が進化させてきた能力の凄さが示されます。

 「鳥のなかには、もっとも毒性の低い部位だけを食べ、残りを捨てることによって、毒のあるオオカバマダラを食べるものがいれば、毒針のある腹部がちぎれるまでカリバチやハナバチの体を枝に叩きつけることで、毒を持つハチ類の裏をかくものもいる」(単行本p.197)

 他にも、コウモリが襲ってきたときある種の蛾が超音波を発するという話題が素晴らしい。その目的は警告シグナルなのか、それともコウモリのエコーロケーションを妨害するための音響攪乱なのか、という論争が長く続いてきたというのです。

 そして第十章のテーマは、擬態です。他の種そっくりの形や行動で捕食者を騙す「ベイツ型擬態」と呼ばれる作戦の数々。

 「数種のゴキブリの種は、それぞれ赤と黒の体色を持つ特定のテントウムシの種に擬態している」(単行本p.224)

 「アマゾン川流域を広く探検するあいだに、ベイツは、妨害されると小型のヘビの頭部と首を説得力のある仕草でまねる大きなイモムシに出会って仰天した」(単行本p.224)

 カラフルなテントウムシのふりをするゴキブリや、毒蛇がもたげた鎌首そっくりに擬態するイモムシがいるこの世界は素敵なのですが、個人的には、じわりと嫌な汗が滲んでくる思いです。

 「ベイツ型擬態は、広く、かつ一般的に見られる行動で、(中略)圧倒されるほど多種多様な擬態システムがあることに特徴がある。・・・昼行性の目立つ節足動物は、実質的にほぼすべてのものが何らかの形で擬態行動に加わっており、明らかな例は、この擬態システムのなかで送られ、受けとられ、まねされている聴覚と視覚と化学によるシグナルの精密な分析を通して今後発見されるであろうものの、ほんの一部を示しているにすぎない」(単行本p.227)

 数千年にわたって人間を欺いてきた「ミツバチへの擬態の完璧さ」(単行本p.243)を誇るナミハナアブなど、本章で紹介されるベイツ型擬態の多様性からは、進化というものの凄みが感じられます。

 ただ昆虫の珍しい生態を並べるだけでなく、その進化的な意味合いや、研究者のことにも詳しく触れているのが本書の特徴の一つです。特に、昆虫が示すこれらの形態や行動が「生存上、有利な効果を持っている(=適応的価値があるから進化した)」という、一見すると明らかとしか思えない結論を出すために必要な労力には、もうほんと頭が下がる思いです。

 「科学というものは、実験あるいはシステマティックな観察を通した検証を要求する。そのような検証は、自然界に暮らす生物を使って行うのは難しいし、たとえ実験室で行うにしても容易ではない」(単行本p.124)

 「自由に行動する野生の捕食者、擬態者、および非擬態者のあいだの相互作用を、統計学的に有意な回数が集められるような形で観察するのは、ほぼ不可能である」(単行本p.246)

 といった表現が随所に登場。あえてその困難に挑戦し、長年かけて「魅力的な仮説」(その多くが自明としか思えないもの。例えばある昆虫が木の葉そっくりの外見をしているのは、それによって捕食者に見逃される可能性を高めるためである、など)を検証し、その正さを証明した、といったエピソードも満載で、いずれも感動的です。

 というわけで、虫好きの方、生物学の研究者(特にフィールドワーカー)を目指している方、昆虫の珍しい生態という豆知識をこよなく愛する方、などにお勧めの一冊です。


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『史論の復権』(與那覇潤) [読書(教養)]

 「いまの日本社会が抱える問題の多くは、「中間的なもの」の衰退ということに尽きると考えています。(中略)極論がもてはやされる。逆に「中間派」だと見なされると、両側から石が飛んできかねない。 私にはそれは、人々の歴史に対する感覚の衰弱と、表裏一体のもののようにみえたのです」(新書版p.5)

 アカデミズムとジャーナリズムの間をつなぐ「中間」としての役割を果たすべき「史論」を復権させたい。『中国化する日本』の著者による、多様な分野との対話を通じた史論ブラッシュアップの試み。新書版(新潮社)出版は、2013年11月です。

 自分たちが生きている時代が歴史上いかなる境位にあるのかを、専門家に限らず広く問いかけ、歴史の文脈から現在を捉えなおす。歴史と現在をつなぐ。七人の論客との真摯な対話により、史論に磨きをかける一冊です。対談相手は、それぞれ政治学、経済学、戦後史、民俗学、昭和史、映画史、大河ドラマ、という幅広い分野で活躍している方々。

 「本書に収めたのは、『中国化する日本』という私の史論をきっかけとして出あうことになった、多くの方々との対話の一部です。同じ考えの方ばかりではなく、同書に対する批判も含めたさまざまな立場と触れあうことによって、あるひとつの歴史の見方が、少しずつ形を変えていく。その様子を通じて、つねに完成への途上、なにかの「中間」にある場所としての、歴史の姿を示すことにつながっていればと願っています」(新書版p.6)

 「中国化」(元祖グローバル化)とそれに対する反動のせめぎ合い、として日本史を捉える視点を打ち出した『中国化する日本』を元に、それぞれの対談相手と議論してゆきます。いきなり初手から鋭く対立したりして、なかなかに刺激的。

 例えば、最初の「第一章 日本に「維新」は必要なのか 政治学との対話」では、対談相手がこう切り込んできます。

 「グローバル化が不可避の歴史の流れというのは、単純な進歩史観ではないでしょうか。(中略)政策選択の誤りが生みだしたに過ぎない社会の変化を、避けられない「長期的なトレンド」と見間違える罠に気を付けなければなりません」(新書版p.18、22)

 対して與那覇先生は、次のように返します。

 「歴史の大きな文脈の中で、世界全体の構造が中国化しているからこそ、「結果」として金融立国的・マクドナルド化的な政策が採られてきたのでは」(新書版p.21)

 さあ、中国化(グローバル化)は不可避な歴史トレンドなのか、それとも各国が無批判に政策をそれに合わせているだけなのか。対話は否が応にも盛り上がります。

 「第二章 企業が受け継ぐ「江戸時代」の遺産 経済学との対話」では、その続きとして、仮に中国化を前提とするなら、そこで日本はどのように対応すべきかを議論します。

 まず対談相手からの問いかけ。

 「確かに「中国化」の波に下手に抵抗をしていると失うものが多いというのは私も賛成です。ただ、一方でフラット化が進みすぎて、日本を日本たらしめていた「デコボコ部分」を削ぎ落としてしまうと、日本の存在感がなくなってしまうのではないか」(新書版p.34)

 與那覇先生は次のように応じます。

 「中国化に合わせることが「いいことだ」という立場ではないんです。 ただ、合わせるのがいいことではないにしても、合わせないとその国が没落してしまうのが、グローバル化=中国化の怖いところです。(中略)だから私の立場も、中国化は素晴らしいから積極的に乗っていこうというよりは、しないと負けちゃうから何とか対応しないとまずい、という主張ですね」(新書版p.35、36)

 そこから「中国化が進む国際社会のなかで日本の企業経営はどうあるべきか」、「日本が持っている価値を国際的に活かす道は」といったエキサイティングな議論へと転がってゆきます。

 と、こんな具合に、様々な相手との対話が収録されています。

 「これまでの思想史が非常に狭いイデオロギー思想史になっている、という批判意識ゆえなのでしょうか」(新書版p.73)

 「正確に言うと、イデオロギー思想史にすらなっていないというのが私の見立てなんです。今までの政治思想史は、ほとんどが有名思想家の解釈学ですから」(新書版p.74)

 などとシビれるやりとりを交わす一方で、

 「この空間から政治を捉えるというモチーフは、やはり当初から一貫していたのでしょうか」(新書版p.67)

 「あの本を書いた動機は不純でありまして、現在の妻、つまり当時の交際相手がソウルにいたんです。(中略)彼女に会いに行くために、急遽テーマを変えたんです(笑)」(新書版p.68)

 別の意味でシビれる話が飛び出したり。読み物としての面白さも充分です。

 後半は映画、時代劇、大河ドラマ、に関する濃い対話が続きます。個人的には、教養がないため正直ついてゆけず、とても残念でした。ただ、大河ドラマにおける時代考証の様子は予想外で、びっくり。

 「私自身も必ずやるのは、作品に入る前に、主な登場人物についてのわかっている限りの足取りを日にち単位で表にする。(中略)その典拠、何とか先生の本の何ページに書いてある、というところまで。(中略)その空白部にドラマをつくるわけです。「そのときなら、誰と誰は物理的に会える」と」(新書版p.223)

 「物理的にいられるかいられないかというのは、まず最初に考えます。後は、そのときそのときに登場人物たちがどんな思想を持って行動していたのかを調べ、それを照らし合わせながらセリフをつくっていくわけです。(中略)光秀の動きも全部、時間単位でおさえています。この街道を通ったら何時間かかるから、これだったらいけるということで、大きな嘘を編み出すわけですけど」(新書版p.227)

 與那覇先生が「歴史学の世界でも、本格的な大河ドラマ研究がなされていい頃だと思います。自国史に対するどんなイメージをつくって日本人が生きてきたかというのは、ほんとうに重要な問題ですから」(新書版p.233)とおっしゃるのも頷けます。

 全体を通読して感じるのは、同じ学問分野の中だけでなく他の分野の人々と真摯に対話して見識を広げることの大切さ。ことばで斬り結び、ことばで共通理解と差異を明確化する、そのことの重要性。

 これから学問の道へ進もうという方、特に若者には、與那覇先生の著書が大いに役立つのではないでしょうか。というのも、

1.自分自身の考えを確立する (参考『中国化する日本』)

2.専門家と議論して洞察を深めてゆく (参考『日本の起源』)

3.前提を共有しない人にも通じるよう、明瞭で原理的なことばにする (参考『日本人はなぜ存在するか』)

4.そのことばで他の分野の人々と議論して思索を広げ、また自分の考えをブラッシュアップする (参考『史論の復権』)

という繰り返し、いわば「知のPDCAサイクル」の分かりやすい実践例になっているからです。どこがPDCAなんだ、というツッコミはご勘弁。こうして、学問の果てしない道程の「中間」でなすべきことを示してくれる好著が手軽に(専門書ほど高価でなく)読めるというのは素晴らしいことだと思います。


タグ:與那覇潤
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『食堂つばめ2 明日へのピクニック』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]

 「おいしいものをおいしいと思うことで、生きることを思い出してもらうのが、この食堂つばめなんです(中略)作るのはあなたの思い出の料理です」(文庫版p.28、32)

 生と死の境界にあるという不思議な街の「食堂つばめ」では、誰もが自分だけの思い出の料理を食べることが出来るという。大人気『ぶたぶた』シリーズの著者による新シリーズ第二弾。文庫版(角川書店)出版は2013年11月です。

 「はっきり申し上げますけど、あなたは今、臨死体験をなさってるんです」(文庫版p.23)

 そのまま死んでしまうか、生き返るかの境目にいる人に、思い出の料理を食べさせて生きる気力を取り戻させる(ついでに自分も相伴にあずかってうまいものを食う)という目的で開かれた小さなお店。食堂つばめ。

 「ぬいぐるみ+中年男性」という意表をついた組み合わせで好評を博した『ぶたぶた』シリーズの著者が、今度は「臨死体験+食いしん坊」というこれまた意外性のある設定を打ち出した『食堂つばめ』シリーズ、その第二弾が早くも登場です。

 今巻には、四つの話が収録されています。幼児、少女、青年、老人、年齢性別さまざまな人々が食堂つばめを訪れ、自分の命を見つめることになります。


『第一話 なつかしい街』

 「そもそも女房との出会いのきっかけがその肉じゃがなんです」(文庫版p.40)

 その青年が食べたいと思ったのは、妻が作ってくれた肉じゃが。「肉じゃがではなくて、じゃがいものそぼろ煮なのでは・・・・・・?」(文庫版p.40)と指摘されながらも、「うちの肉じゃが」を食べた彼が思い出した大切なこととは。ここで設定と物語の基本パターンが提示されるので、前巻を読んでない方でも大丈夫。


『第二話 夢のランチバスケット』

 「小さなお弁当箱を開けた時の気持ちはどんなプレゼントよりもうれしかった。(中略)ママが作ってくれたお弁当のおかずは、なんでもおいしかった」(文庫版p.101)

 身体が痛くない、苦しくもない、何でも出来る。病院で子供が目覚めたとき、そこは夢のなかのような不思議な場所。やがて彼女はその街で出会ったお姉さんとピクニックに出かけ、「食堂つばめ特製ランチバスケット」(文庫版p.104)を開く。何でも食べられることの喜び。

 生まれたときからずっと病弱だった薄幸な幼子の健気さに、うるうる、くる話です。「迷子にも一度なってみたかったの!」(文庫版p.80)、「苦しくなくて寝るのは初めて」(文庫版p.83)、「大人にはならないと思うな」(文庫版p.99)など、泣けるセリフが満載。だからこそラスト一行のキメに感動します。


『第三話 最後の待ち合わせ』

 「あの「待ち合わせ」という時間は贅沢だったんだな、と今思う。携帯電話もない時代、ただひたすら相手が来ると信じて待つだけ」(文庫版p.132)

 「私は生き返る気はありません」(文庫版p.123)ときっぱり言い切ったその老人が望んでいるのは、亡き妻との再会。そのためには妻との待ち合わせ場所を見つける必要があるのだが・・・。

 今回は喫茶店となった食堂つばめ、冷たいコーヒーゼリー、香りが爽快なレモンパイ、もちもちのマカロニがとろとろホワイトソースと溶け合うマカロニグラタンという、昭和感あふれる懐かしの味を次々と出してくれます。料理の美味しそうな描写という点では、本書収録作のうち最高でしょう。


『第四話 そこにしかない道』

 「あたしなりに人生全うしたよ」
 「十六歳でやり直しが効かないと思っている時点で、全うしているとは言えません」(文庫版p.182)

 やってきたのは、自殺した少女。「そこまで生きるつもりなかったなあ。昔から早死にするって決めてましたから」(文庫版p.173)などと斜に構えたことを口にしながらも、生きたい死にたくないと身体が叫んでいるような彼女を、「おばあちゃんの揚げ餅」は救うことが出来るのだろうか。


 四話とも、みんな文字通り「命がけ」の状況に立っていて、設定としてはシリアスなんですが、何しろ基本「食いしん坊」の世界観で書かれているので読後感は明るく、のどかで、どこかユーモラス。病気や自殺といった薬味と、よろこびあふれる料理の描写、そのさじ加減が素晴らしい。

 「死ぬことは逃げ道ではないのよ(中略)いつかはそこにしか道がなくなるの。生きることだって同じよ。生きるしかないから、生きるのよ」(文庫版p.191)

 などと、じんとくるセリフを抜き出しつつ、しかし今巻で個人的に最もウケたセリフは、「服装で『今日どれくらい食べるか』がわかる女でしたね」(文庫版p.147)というもの。ぜひ本書でご確認ください。

 というわけで、この食と人生への肯定感に満ちた幸せな物語が、『ぶたぶた』と並ぶ人気シリーズに成長することを期待したいと思います。

 「おいしいところをわかってくれるとうれしい。 おいしいものを食べると、とりあえずうれしい。 だから、この食堂があるんだな」(文庫版p.197)


タグ:矢崎存美
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