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『日本人はなぜ存在するか』(與那覇潤) [読書(教養)]

 「私たちは「日本」というもの、「日本人」というものを、再帰的な存在として作り上げ、そして作り変えながら生きてきた。日本の歴史や文化を考えるというのは、最初から「実在」するものとしてのそれらを過去に探しにゆくことではなく、逆にそれらが存在するかのように人々に思わせてきた、再帰的な営みの軌跡をたどることなのです」(単行本p.33)

 国籍、民族、文化、歴史、社会。どれもこれも、どこか定義が曖昧で、突き詰めて考えてみようとすると途端によく判らなくなってくるのはなぜ? 大学の教養科目の授業を書籍化した、文系学問のショーケース。単行本(集英社)出版は、2013年10月です。

 まず、教養科目はなぜ大切なのか。その理由を、「自分たちを可能な限りローコンテクスト化することが重要になってきたからだ」と明快に説明してくれます。

 「グローバル化とは実は、「ハイコンテクストだった社会が、ローコンテクストな状態に移行してゆくこと」の一環なのです。(中略)求められるのは、何語であれ、自分の側の文脈(前提とする知識や価値観)を自明視せずに、自分とはまったく違う前提や背景を持っている人たちにも理解できるかたちで、自分の考えていることを表現する能力です。いわば、従来はハイコンテクストだったものを、ローコンテクストに翻訳することで、特定の文脈を超えてゆく力」(単行本p.10)

 これだけでも目からうろこ。

 続いて、「日本人は存在するか?」という、おそらく多くの学生が意外と思うであろう問いを立てて、検討してゆきます。ところがこれが予想外の難問であることが判明。

 「私たちはふだん、「いまは、国籍制度の話をしているから」「南米の日系人コミュニティの話題だから」といったかたちで、その場その場の会話の文脈ごとに「日本国籍保有者が日本人」「『日本民族』の血を引いているから日本人」などの定義を、使い分けて会話をしている。しかしそういった個別の文脈を超えて、客観的に実在する存在として「日本人」を捉えようとすると、その正体はとたんにあいまいになり、するりと私たちの手から逃れてしまうようです」(単行本p.16)

 なぜなのか。その根本的な理由は、人間が作り出してきた概念の多くが、いや実はすべてが、「再帰的な存在」だからだ、というのです。

 「人間の社会はそもそも、再帰性を活用しなければ成り立たないものであることがわかります。再帰性は貨幣経済のような利便性も、人種偏見のような罪悪も、どちらももたらす両義的な存在ですが、しかしなくすことはできない。(中略)人間が相互作用しながら作り上げている社会では、あらゆるものが再帰的に存在する。そういう見方で社会を研究するのが、社会学です」(単行本p.30、31)

 ある考えや制度や概念が、もともと何ら自然なものでも真実や事実でなくても、他人もそれを信じているという前提があるからこそ、それが「真実」となり「価値」がある、そんなあり方を再帰性と呼ぶわけです。例えば、貨幣が持っている「価値」とは何なのかを考えてみるとよく分かります。

 そして、文系学問に属する専門分野は、素朴な意味での「真実」や「事実」を探求しているのではなく、人間が作り出した諸概念の「再帰性」そのものを研究対象としているのだ、ということを明言。

 私、何しろ大学では客観的に実在するものだけを研究対象とする自然科学しか勉強しなかったので(自然科学だって実は再帰的なものではないのか、というレベルの高いツッコミは置いといて)、個人的に、この指摘には思わず「なるほど!」とひざうち。そうか、それで文系学問の本を読んでも、何だかもやもやとしたものが残ったのか、と。

 こうして、再帰性というキーワードを駆使して、様々な文系学問の専門分野が次々と明快な形で紹介されてゆきます。

 「フィクションをまじえず実際にあったことのみを語ろうとする学問や研究でも、「後の時代を知っている人間が、過去を記述する」という性格自体は、変わりませんから。いわば再帰的に語られるがゆえにこそ「間違えてしまう」のは、歴史一般の宿命です」(単行本p.47)

 「国家単位とは異なる「地域」という枠組みを設定することで、これまで国ごとに語られてきた歴史や文化の全体像を相対化する試みを、地域研究(エリア・スタディーズ)と呼びます」(単行本p.87)

 「このようなスタンスに立って文化を研究する方法論を、カルチュラル・スタディーズと言います。社会学が、単に社会を研究するから社会学なのではなく、社会で起きるもろもろの現象を「再帰的なもの」とみなして分析するからこそ社会学であったように、カルチュラル・スタディーズもまた、文化を昔から続くのっぺりとした存在としてではなく、たえず再帰的に構成され、改変されてゆく、ダイナミックなプロセスとして捉えるのが特徴です」(単行本p.95)

 「この「中心」の権力によるイメージ操作を通じた再帰的な(中心の側に都合のよい)現実の構築という問題に対して、私たちはどう対処すべきなのでしょうか。サイードが専攻した比較文学とは、実はそのための方法論でした。(中略)複数の視座を切り替える=比較しながら作品を分析することで、ひとつの再帰性の内側からではみえてこなかった問題の所在や、新たな作品解釈を明らかにする。それが比較文学という手法です」(単行本p.108)

 「比較文学の方法論をより広く適用し、素材を狭義の文芸作品に限らずにこのような文化間の摩擦について考察する学問を、比較文化と言います。これもしばしば誤解されていますが、比較文化とは「日本人は集団主義的で、西洋人は個人主義的だ」といった適当な比較をすることではなく、「ある文化の中にいてはあまりに自明視されすぎて気づくことができない思考や慣習の前提を、他の文化との対照によって明らかにする」営為です」(単行本p.117)

 「作品を製作当時の時代背景と対照しながら分析することで、そこで当たり前のように用いられている表現が、どのような文脈の下で成立してきたのかを解明する技法を、文芸批評の用語で新歴史主義(ニュー・ヒストリシズム)と言います。「ニュー」がつく理由は、「日本でマンガが盛んになったのはね、古代の『鳥獣戯画』以来の伝統があるからなんだよ」といったかたちで、なんでも安易に伝統の産物にしてしまう類のベタな「歴史主義」ではなく、第2章で見たように歴史自体が再帰的な存在であることを受けとめた上で、もっとまじめにやろうよという含意だと思ってください」(単行本p.129)

 「近代世界で植民地とされた側の視点を導入して、長らくオリエンタリズム的に語られてきたいままでの歴史観や文化観を覆そうとする研究手法を、ポストコロニアリズム(脱植民地主義批判)と言います。 このポストコロニアリズムも、もともとは文芸批評の一技法だったのですが、現在では文学の分野にとどまらず、国際政治や世界経済の研究にまで広く取り入れられています」(単行本p.132)

 「この「認識し続けることによって存在し続ける」という再帰的な共同体のあり方を分析する技法として、1980年代以降の国民国家やナショナリズムをめぐる議論では、「物語」に注目が集まりました。(中略)物語、ないし「語ること」が果たす機能や効果を分析する文学研究の手法を、ナラトロジー(物語論)と呼ぶことがあります。国家や国民を「最初からあるもの」ではなく「再帰的な存在」として把握することは、まさにナラトロジーの技法を応用して、政治や歴史の展開を捉えなおすことでもあります」(単行本p.141)

 「私たちは近代に入って前近代より進歩したつもりでいるけれど、結局この再帰性のループの外側に出ることは不可能なままだという点では、まったく大したことなどできてないのではないか。 このようなかたちで、(特に西洋の)「近代」の価値に疑いを突きつける一連の思想を、ポストモダニズムと言います」(単行本p.159)

 「ふだん私たちがなんとなく「正しい」とものごとを判定している際の判断基準を抽出して、それが「本当に正しい」と言えるのかを、具体的な事例や思考実験に照らしながら理詰めで考察する学問を、倫理学(特に、応用倫理学。生命がテーマな場合は、生命倫理学)と言います。倫理学というと、「イイ感じの泣ける話」をみんなで聞いて道徳的な気持ちになりましょう、みたいなお説教めいたものを想像しがちなのですが、実際には逆にあらゆる道徳を相対化して、再帰的に検討しなおす学問です」(単行本p.176)

 という具合に、再帰性というキーワードを使って、様々な文系学問分野が、「日本人は存在するか」という問いに対してどのようなアプローチを提供してくれるかという具体例を示しながら、紹介されてゆきます。あたかもそれは文系学問のショーケース、カタログ、いやむしろ回転寿司。

 こうして既存の認識を大いにゆさぶられた学生たちが、「すべては再帰的な存在、つまり何の根拠もなく自分たちが勝手に決めて信じ込んでいる“捏造”だったんだよ!(な、なんだってーっ)」「絶望した!この嘘にまみれた世界に絶望した!」とかいって大学を辞めて放浪の旅に出てしてしまうのを防ぐために(憶測)、次のようにまとめてきます。

 「国籍、民族、歴史、文化など、私たちが「日本人」であることを支えていると思われる要素は、いずれも人間の認識を通じて再帰的に作られたものだった。したがって、それらは政治や経済や国際社会の動向と密接に絡み合いながら、かたちを変えてゆきます」(単行本p.138)

 「「日本人とはなにか」という問題は、「人間は再帰的にしかその定義を出しえない」という、もうひと回り大きな問題の一部だったのですね。(中略)近代には「この世界が再帰的であること」を知ることは、伝統からわれわれを解放してくれる喜びに満ちた体験でした。しかしポスト近代のいま、私たちはむしろ「すべてが再帰的であり、すなわち私たち自身の責任であること」を知って、苦しんでいる」(単行本p.168)

 「結局のところすべては再帰的な存在だから、そこには永遠も絶対も不変もない。しかし裏を返せば、それは私たちにはこれからもずっと、日本という国、日本人という存在、そして自分たちが正義と考える行いを、よりもっと優れた存在へとリニューアルしていくチャンスがあるということなのです」(単行本p.181)

 というわけで、文系学問の専門分野がそれぞれどのような問題意識のもとに何を研究しているのかを広く紹介しながら、そもそもなぜ学問をするのか、というところまで学生を導く、素晴らしい教養科目の授業。

 巻末には、参考文献として、それぞれの専門分野における入門書的な位置づけの書籍がリストアップされていますので、回転寿司で回ってきたネタが気に入ったら、その分野にすぐさま入門できるようになっているという親切設計。私だって、教養課程でこんな授業を受けていたなら、進路を考え直したかも知れません。この授業を受けられる今の学生たちが羨ましい限りです。


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『戦いの虚空(老人と宇宙5)』(ジョン・スコルジー) [読書(SF)]

 「これでどういうのが彼らにふさわしい状況かわかっただろう。ハイリスク・ハイリターンで、成功への道が用意されてはおらず、毒ヒキガエルでいっぱいのジャングルを山刀で切り開かなければならないような状況だ。(中略)クラーク号のクルーのような連中がいてもかまわないじゃないか----ほかに打つ手がなくなったときにパラシュート降下させる特命チームだ」(文庫版p.111、112)

 外交チームを乗せた宇宙船クラーク号。そこに乗り込んだコロニー防衛軍ハリー・ウィルスン中尉の冒険(災難)を描く「老人と宇宙(そら)」シリーズ最新刊。文庫版(早川書房)出版は、2013年10月です。

 ペリー来訪により鎖国をとかれた地球は、コロニー連合との関係を途絶。さらにエイリアン諸種族連合「コンクラーベ」は、コロニー連合から地球を引き離したままにしようと画策している。

 「われわれは地球において活発な外交的存在感を維持してきている。おもな国家の首都のうち五つに外交使節を置き、地球の各政府と人びとに、たとえコロニー連合と和解しないという選択をしたとしても、地球にはつねにコンクラーベに加盟する道があるのだと意識させている」(文庫版p.275)

 しかし、コンクラーベ内部でも、人類は危険なので殲滅すべしと唱える強硬派が次第に勢力を伸ばしていた。

 一方、兵力の補給を断たれたコロニー連合は、生存のためにエイリアン諸種族との外交に全力で取り組むことに。だが見通しは暗かった。

 「最善の推定でも、政体としてのコロニー連合は五年から八年で崩壊するでしょう。コロニー連合という包括的な防御構造を失ったあと、残った人類の惑星は二十年以内にすべて攻撃を受けて一掃されるでしょう。つまり、いまこの瞬間からですと、人類の絶滅まであと三十年ということです」(文庫版p.34)

 そんなとき、外交船クラーク号に乗り込んでいるハリー・ウィルスン中尉をはじめとするメンバーは、ろくでもない任務ばかり押しつけられ、いつもひどい目にあっていた。

 「われわれが引き受けるのは、低レベルな任務か、もしも失敗したら、そもそもの命令ではなくわれわれに責任が押しつけられるような任務なんだ」(文庫版p.26)

 だが、それはコロニー連合上層部によるカモフラージュ。実は密かに特命チームに選ばれた彼らには、本人たちも知らないうちに、人類の命運がかかった重要任務が次々と与えられていたのだ。そして、もちろん、彼らはこれからもずっとひどい目にあうはめに。

 というような背景のもと、全13エピソード、1クール分のTVドラマという体裁で書かれたのが、本書です。これまでのシリーズと違って、ドンパチより外交に力点が置かれており、まあ懐かしTVシリーズ『バビロン5』みたいな感じ。

 登場人物はいつもの通り類型的。この宇宙には「有能で、態度は厳しく、常に辛辣なことを口にする女性上司」、「自虐的軽口と皮肉をとばしながら、仕事はしっかりやるタフガイ」、「足をひっぱる無能」、という三種類のキャラクターしか存在しないので、しかもエイリアン種族だろうと何だろうとみんな現在の米国中産階級リベラル白人の価値観および世界認識に沿った考え方しゃべり方をしますので、どなた様も安心して読むことが出来ます。

 内容については、登場人物が的確に要約してくれますので、それを引用しておきましょう。

 「この一年はいろいろあった。エイリアンたちに外交交渉の一環としてつばを吐きかけられた。乗っている船がミサイルで攻撃を受けてあやうく爆発しそうになった。また別の、ぜんぜんちがう交渉では、エイリアンから人間の頭を届けられた。そして、みんなも知ったばかりだけど、三つめの交渉では犬に電気を流して気を失わせた」(文庫版p.457)

 「CDFに利用されて、内部にいるスパイを探し出そうとしたことがあったが、うまくはいかなかった。地球の使節団が船をおとずれたときには、そのうちのひとりが別のひとりを殺害して、われわれに罪を着せようとしたが、その理由はいまだにわかっていない。アーシ・ダーメイ号の件もある。あの船は、コンクラーベと会おうとしたわれわれに発砲したが、どこの勢力にコントロールされていたのかは不明だ」(文庫版p.571)

 ただでさえクソのような状況なのに、さらにコロニー連合に対して謀略や直接攻撃を仕掛けてくる謎の敵勢力にも翻弄されるクラーク号チーム。果たして彼らはコロニー連合の外交戦略を成功させ、宇宙における人類の生存を確保することが出来るのか。というか、そもそもこのタフな状況で彼らは生き残れるのか。そして、地球、コロニー連合、コンクラーベという三つ巴の勢力争いはどこに向かってゆくのか。

 付録として、本篇の前日譚『ハリーの災難』、後日譚『ハフト・ソルヴォーラがチュロスを食べて現代の若者と話をする』が収録されており、独立した短篇として楽しめます。

 なお、『ハリーの災難』はSFマガジン2011年12月号に掲載されています。お読みになった方は、あんな感じの冒険(災難)が続く連作長篇だと思って頂ければ当たらずといえども遠からずかと。

  2011年10月28日の日記:
  『SFマガジン2011年12月号 特集:The Best of 2005-2010』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-10-28

 というわけで、外交中心なのでこれまでの『老人と宇宙(そら)』シリーズのなかでは地味な印象もありますが、最後には、TVシリーズでこの特撮は予算的に難しいだろう、という一大スペクタクルシーンが待っていますのでご期待ください。

 主人公をチェンジしてシリーズ再起動ということなので、『老人と宇宙(そら)』シリーズこれまでの巻をすっ飛ばして本書から読み始めるというのもアリです。なお、話はまったく完結してない、というか始まったばかりなので、セカンドシーズン(突入決定)が待ち遠しい限り。『バビロン5』は全5シーズン続きましたが、はてさて。


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『SFマガジン2013年12月号 ジャック・ヴァンス追悼特集』 [読書(SF)]

 SFマガジン2013年12月号は、今年亡くなったSF界の巨匠、ジャック・ヴァンスの追悼特集ということで、短篇3篇を翻訳掲載してくれました。さらに先月号に前篇が掲載されたストロス作品の後篇、そして草上仁さんの短篇も。


『世界捻出者』(ジャック・ヴァンス)

 「人は悪夢のあいだに起きたことに責任を負うんだろうか?」(SFマガジン2013年12月号p.33)

 重要な情報を持ったまま逃亡した女を追って宇宙を駆け巡る主人公は、ある異星生物の“思念内世界”でついに彼女に追いつくが・・・。仮想現実ファンタジィや狂った自然法則など、ヴァンス色が既に色濃く感じられるデビュー作。


『ミス・ユニバース誕生!』(ジャック・ヴァンス)

 「宇宙の至宝、究極の美女たちが一堂に! カリフォルニア州三百年記念博覧会で見よう! ミス宇宙(ユニバース)誕生の瞬間を!」(SFマガジン2013年12月号p.47)

 第一回汎銀河美人コンテストが開催され、様々な星から異形のエイリアンたち(雌)が地球に集結。体側を18本の多間接脚が取り巻くミス・ケンタウルス座9518、100匹のクラゲがからみついた大きな回転草のようなミス・牡羊座44R951、狩りバチの頭を持ったアルマジロそっくりのミス・エリダヌス座アルファ星など、あまりにも多様な「美女」の美しさを公平に比べるため、主催者は巧妙な手段を考え出したのだが・・・。

 ミス・ユニバース候補「美女」たちの説明が延々と続いたりして、おバカ満点のドタバタSF。


『暗黒神降臨』(ジャック・ヴァンス)

 「それこそは、大いなる暗黒神のごとき存在にほかなりません。それは圧倒的な危機をもたらします。それはいかなる抵抗をも許しません」(SFマガジン2013年12月号p.83)

 採掘場で働いている作業員たちが定期的に全消失してしまう小惑星の謎。調査に赴いたのは、老哲学者マグナス・リドルフ。シリーズものの一篇で、意外にもハードSFっぽい展開になりますが、何しろヴァンスなので、読み所はむしろ舞台となる小惑星の風景描写。


『ウンディ』(草上仁)

 「ただ想うところを表現したいのではなかった。ただコンテストに優勝したいのではなかった。ただ認められ、プロになりたいのではなかった。優しく、真面目で、いい音色をしたサッコと一緒に、それを成し遂げたかったのだ」(SFマガジン2013年12月号p.139)

 生きた楽器として使われる異星生物ウンディ。サッコという名のそのウンディを「弾く」バイオミュージシャン、シロウが仲間と共に音楽コンテストに参加する。だが、完璧な演奏のためにはサッコでは力量不足。もっと「性能」の高いウンディを手に入れろ、という忠告を聞き流し、大切な友であるサッコと共に音楽の高みを目指すシロウだったが・・・。

 ミュージシャンの楽器に対する愛情をテーマとした音楽SF。ウンディの演奏シーンでは、『猫弾きのオルオラネ』(夢枕獏)を思い出しました。


『パリンプセスト〈後篇〉』(チャールズ・ストロス)

 「そのヴァージョンのきみの反復タグは数百万という膨大な数にのぼる。これはただのパリンプセスト待ち伏せではない。書き換えと注釈と企図された矛盾からなる口伝律法(タルムード)が積みあがって、恐ろしい非歴史の津波となり、きみの頭の上からなだれ落ちる」(SFマガジン2013年12月号p.261)

 タイムパトロール組織「ステイシス」のエージェントとなった主人公は、謎の敵から待ち伏せ攻撃を受ける。その時間帯は、書かれていた文字を消してから再利用される羊皮紙(パリンプセト)のように、何度も何度も上書きされていたのだ。九死に一生を得た彼は、この事件の背後にある陰謀を探ってゆくが・・・。

 ストロス版『永遠の終り』(アイザック・アシモフ)という趣向の中篇。展開はアシモフと大差ありませんが、そこはストロス。平気でこんな目茶苦茶スケールのでかいことを書いてしまいます。

 「銀河系からボイドに向けて太陽系を脱出させるための〈長期噴射〉は一万世紀続く。千億年がたったが、地球は局部銀河群から二億光年しか移動してない。銀河星団は宇宙の事象地平面の向こうへ去ってしまう。それから百京年が過ぎた。遠からず最後の〈再播種〉のときが訪れる」

 ほかにも、「宇宙の終わりが近づいて水素原子がなくなってきたため、三百億年ほど前に、全生物の酵素系に手を加えることで生物圏を「重水素化」した」とか、「ステイシスへの忠誠を誓う儀式として「二秒前の自分を殺せ」と命じられた主人公がいざそれを実行しようとしたとき、背後から刺された」(・・・バカ)とか、あまりに節制なくストロスなので、たじろいでしまいます。


[掲載作品]

『世界捻出者』(ジャック・ヴァンス)
『ミス・ユニバース誕生!』(ジャック・ヴァンス)
『暗黒神降臨』(ジャック・ヴァンス)
『ウンディ』(草上仁)
『パリンプセスト〈後篇〉』(チャールズ・ストロス)


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『錆からでた実』(森下真樹、きたまり、川村美紀子、美術:束芋) [ダンス]

 「と、東京オリンピック・・・。ここ、なくなっちゃうの?」

 2013年10月27日(日)は、夫婦で青山円形劇場に行って、森下真樹さんの振付作品を鑑賞しました。束芋さんの心地よい美術映像が投影されるなか、森下真樹、きたまり、川村美紀子という個性派ダンサー三名が踊る1時間強の公演。「夢の共演」的な何か。

 マキ・マリ・ミキ。まるで本当の三姉妹のように仲違い三人組が、各々その圧倒的な存在感で何かを突き抜けてしまう素晴らしき舞台。感激です。

 いつもより多めにがんがん踊ってくれた森下真樹さん。もちろん威圧もします。大柄な彼女が繰り出すダイナミックな動きは端正で美しく、大真面目な顔で自分の振付を細かくチェックしながら、つぶやくように、“38”。

 小柄で、ひたむきで、かっこいいきたまりさん。気配り担当。活き活きとした身体のキレからあふれる魅力をほとばしらせながら、しみじみ確かめるように、“みそじ”。

 そしてコンテンポラリーダンス界のアイドル川村美紀子さんは、自傷行為からゼッキョーまで思う存分に病みアピール。そのアニメ声と、強烈なリズムを刻んでくる激しいダンスに、観客はどっか遠いところに連れてかれます。うっかり脳裏に流れる「かわむらみきこのうた」。

 舞台中央のスクリーンに投影される束芋さんの映像は、何だか、懐かしいような少し怖いような、夢の感覚に満ちた心地よさ。この映像のおかげで、下手をするとバラバラに弾けてしまいかねない三人の個性が、「まあ明晰夢だし」という納得感に包み込まれたまま、勢いよく弾けてゆきます、どこかに。

 三人が同時に踊るシーンもいくつかありましたが、何しろ青山円形劇場なので同時に全員を視界に入れることがかなわず、いまここでこの瞬間誰を観るべきか、迷いながら、きょろきょろ視線をさまよわせてしまうという贅沢。何度も繰り返し観たい舞台ですが、そういうわけにいかないのがつらいところ。

[キャスト]

振付: 森下真樹
美術: 束芋
出演: きたまり、川村美紀子、森下真樹


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『極楽 大祭 皇帝 笙野頼子初期作品集』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「自分の目指すところも美意識も総て否定されながら、一筋の可能性だけを認められて私は、「期待」されていた。その時点では文学の仲間はない。足場もない。抜け道がないのに外に出るしかない。動物なら暴走し壁に頭をぶつけて死んだだろう」(Kindle版No.3203)

 「切実な幻想で世界を転覆する事、そんな行為が出来る年齢ではなく、使う日本語には違和感があり、書くという事に対する現実感覚も、それが活字になるという感触さえも、固まってなかった」(Kindle版No.3210)

 「「まだ若いのだから」という藤枝さんの言葉の重みが判った時、現実と幻想の接点という、私の戦場とも言える「外」へと、ついに抜け出た。寛容な先人とありがたい編集者と、何より家族のおかげで、今ここにいる。先人がもしかしたら一番嫌がるかもしれない事を、つまり、「幻想」をも純文学の方法として、「現実」を見抜こうと今もしている。先人とは違う。が、それでも、私は純文学だ」(Kindle版No.3217)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第77回。

 笙野頼子さんの初期作品集の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は1994年11月、文庫版(講談社)出版は2001年03月、Kindle版出版は2013年10月です。

 「暗黒の」と形容されることもある80年代に発表された作品を集めた一冊。社会になじめず、ひきこもるようにしてひたすらもがき苦しみ戦っていた時代。幻想のちからで現実をむき出しにしようとする苦闘。そんな痛々しいまでに研ぎ澄まされた短篇が三篇収録されています。

『極楽』

 「もしも当り前な、血も涙もある人間が今までに残してきた自分の悪感情の総てを或る時一度に“これがそうだ”と見せられたとしたら、彼はおそらく、自分が生涯に残してきたその汚らわしい排泄物の前に顔を覆うだろう。にもかかわらずこの男は自分の憎悪を集成し、しかもそれを前にして微笑している事さえできるのだった。檜皮は悪意の人間だった。ただその悪意に対処する方法が周囲の人間と異なっていただけであった」(Kindle版No.336)

 他人から嫌われ憎まれてきた男が、普遍的な「憎悪」を表現するために、自分の人生をすべて注ぎ込んだ“地獄絵”を完成させようとします。密室にひきこもって、ひたすら自らの憎悪を画布に塗り込めてゆくことに没頭する画家、檜皮。

 「無視され、嘲笑され、時には怒鳴られ、憎まれれば憎まれる程それは彼にとって非常に都合のいい事態だった。罵倒は描写を極めさせ、私刑は残虐のイマジネーションを募らせるためにあった。檜皮への蔑みは彼の外界に向かう憎しみを増殖させる糧であった。(中略)自分の醜悪さを眺め自分への反応を眺め、人をも自分をも同じように憎んだ。そして朝から晩まで藁半紙を費やして狂い続けた」(Kindle版No.489、495)

 「地獄絵は彼の残酷絵の終着となり得る充分な可能性を持っていた。あらゆる怒り、憎しみ、恐怖、疎外、すべての“悪しきもの”の集成を一度に表現するにはこれより外にないと檜皮は思った」(Kindle版No.515)

 「彼は“憎悪”という人を大きく動かし得る“崇高な”感情に強くひかれるようになっていた。純粋培養された、だれの息も掛っていないだれのものでもないがすべての人間の共有しうる“完全な憎悪”を描こうと志した。(中略)彼が描く地獄像は否定で塗り潰されてゆく紙の余白に最後に残ってしまうひとつの形でなくてはならなかった」(Kindle版No.529、563)

 地獄絵に没頭している限り、檜皮は「幸福」で、「超俗的」であり続けることが出来たのです。しかしあるとき、地獄絵に黄色の口が出現し、檜皮のなかに「他者」が侵入してきます。そして、檜皮は他者の視点から地獄絵を見せつけられるのです。

 「画面全体を薄汚い自己満足が覆い隠していた。“憎しみ”を盾に取って、現世の安穏をむさぼっている浅ましく汚らしい意識の上に点在して、未消化な反吐の中の食物のように、生の憎悪がところどころ顔を現しているだけであった。一番大きな無自覚が、彼の画面の総てであった。知らずにいたからこそ、感情の計算からもれてしまった彼の“極楽”がそこにあった」(Kindle版No.837)

 こうして檜皮は、「極楽から現世に落ちた人間」(Kindle版No.863)になってしまい、地獄絵は放置されることになるのでした。

 個人的に印象深いのは、檜皮が「極楽」から蹴り落とされたとき、ふいに一人称「私」で語り出し、それを聞いた妻、綾子が泣き出す場面です。

 「綾子の顔色が漸く変った。ただならぬ異変に気付いたのであった。常軌を逸した質問は毎度の事だが、この一人称単数だけは絶対に“嘘”であった。綾子は絶句し、そして“びーっ”という声をあげて泣き出したのだった」(Kindle版No.845)

 めそめそ、でも、おいおい、でもなく、“びーっ”と泣き出した綾子。かなり激しく号泣したのでしょう。何がそんなにショックだったのかというと、檜皮が一人称「私」を無造作に使ったこと。もはやそこに檜皮はいない、何もかもが終わってしまった、ということを衝撃的に示した、これは一人称の使用(不使用)に強迫的なまでにこだわる著者ならではの名シーンではないでしょうか。

『大祭』

 「大祭はもう彼の側を通り過ぎて行ってしまう。五十年に一度の儀式は蚕を置き去りにして遠くに行くのだ。もし大祭に行ければ、大祭に行きさえすれば、自分は解放されるはずだ。蚕はついにそう確信するに至った。取り上げられてしまった事で大祭は絶対的な価値を持った」(Kindle版No.1318)

 他人との協調性に欠け、不登校を続けている小学生の蚕。彼は自分を抑圧してくる両親から逃れるため、五十年に一度だけ行われるという大祭に期待しています。大祭のときなら、ここから逃げ出すことが出来るのではないかと。しかし、横暴な父親によって、大祭への参加は禁止されてしまうのでした・・・。

 一人遊びのシーン、特に「鼠硝子生成」が印象的です。小さな硝子容器の中に鼠の死体を詰め、それを焼くことで両者を合成しようというのです。

 「硝子というのは不思議なものだと感心した。硝子の中に生物を入れると無生物のように見えて面白いのだった。死んだものでも生きてるものでもただの有機物になってしまう。生きているあるいは生きていた、という当り前さを欠いてしまうと硝子越しのものは限りなく精密で複雑な玩具、人造物のようだ」(Kindle版No.1028)

 後に書かれることになる『硝子生命論 』を連想せずにはいられません。しかし、まだ「切実な幻想で世界を転覆する」ことは出来ず、蚕の幻想は幻想のままに終わってしまいます。もの悲しい作品です。

『皇帝』

 「“私”は“内の私”と“外の私”に分かれたのです。すでにもう、“私”は、神聖なものなどではございません。“外の私”は廃止します。みなさま、これまでの私はもう、処分します。“内の私”は皇帝と呼びます。皇帝を、信じましょう。内の私は皇帝に、外の私は零になります」(Kindle版No.1534)

 狭いアパートの一室で潜伏生活を続けている青年。部屋のなかが全世界である限り、彼は「皇帝」ですが、そんな密室にも外界や過去の記憶から「他者」や「社会」が侵入してこようとします。「声」という形で。

 「おまえはおまえだ」。社会からの評価としての自分、他者からみた客観的な存在としての自分、それを認めさせようと彼を責め苛み、はては自殺に追い込まんとする「声」。それに対して、自ら造り出した妄想を呪文のように使って、自分の内面を守ろうとする「皇帝」。

 「いくつかの呪文を造り出して彼は毎日この声と戦って生き延びてきた。戦わなければ生きられなかったのだ」(Kindle版No.1398)

 「“彼の世界”は暗示や比喩やものごとに対する独特の意味付けによって出来上がった妄想の体系である。そしてひとりよがりな言葉はみなそれらを引き出すキーワードになっているのだ」(Kindle版No.1426)

 「彼もかつて、そうやって何としてでも現実的になろうとしたのだった。だが彼は事実、特に社会が認める事実というものに耐えられなくなって了ったのだ。そこで自分を独りよがりな図式にあてはめ、誰の手も借りない自己、社会にもたれかからぬ魂を造ろうとしたのである」(Kindle版No.1904)

 「私は私ではない」。一人称を拒否することで「声」に対抗する「皇帝」。ぎりぎりの攻防戦が繰り広げられます。

 「外界から肉体や心の動きにかけられ、常に“内の私”を殺そうとする力、これが“外の私”だ。そしてまた内側から外に向かって、それ自体とその器である肉体以外のものを、すべて殺し尽くし破壊し尽くそうとする力、これが“内の私”だ。この“内の私”を個々人で魂とか自分とか呼ぶ事はあたっている。しかしその性質をあきらかにし、新しい世界を造り上げる目安とするためには“皇帝”と呼んだ方がふさわしいのだ」(Kindle版No.1565)

 「“私”という言葉は汚らしい。“私”はよくない。それは幻のくせにあらゆるものを抱え込んでのさばり世界中に害毒を撒き散らしている。(中略)社会からの評価に苦しみ、集団からの疎外に怯えながら暮らすものよ、あなたが苦しんでいるのはただの制度だ。真理ではない。あなたがたの本当の名前は“私”などでなく“皇帝”というのだから」(Kindle版No.1571、1577)

 「私」から解放され、「皇帝」として新世界(全住民がひきこもりである「自閉都市」含む)創造を夢想しながら、同時に過去のある「事件」の記憶に怯え、自分が追跡されあるいは見張られているかも知れないという強迫観念(それは必ずしも妄想というわけでもないらしい)を抱く青年。

 やがて記憶が彼を過去に連れ戻してゆきます。疎外され尽くした少年時代、他者との関わりを徹底的に避けた予備校時代。

 「これが、彼の生まれた町とそこでの暮らしだ。ここには追いかける血族と見張る地域の目と戸外の情容赦ない敵たちが存在している。彼はこれを模倣し、これに適応し、これの一員にならなくてはいけなかった。彼の両親はこれをやみくもに信じ込んでいた。(中略)なぜ孤立していてはいけないかという事となぜそんなに他人の目障りになるかという理由とは彼女にも彼女の息子にも判らなかった」(Kindle版No.2217、2263)

 どうしようもない社会不適合と疎外感と孤立癖を抱えて、ひたすら他者から逃れひきこもるための密室を求めさまよう青年。社会とのわずかな接点さえも彼を傷つけ殺そうとするのでした。

 「労働はどこかで必ず他者とのかかわりあいを含んでいた。外に引き出された彼の魂は評価された。その魂に、まず、普遍性がない事、そして彼の絵が二流品のげてもので表現したがっている事に何の価値もない事、加えて画の感じを全面的に変える必要がありまた彼の礼儀がどうしようもないという事などを担当者は過不足のない言葉で彼に教えた」(Kindle版No.2598)

 それはいったい誰の話ですか。

 などと思うまもなく、小説は急流のように「事件」の記憶へとなだれ込んでゆきます。彼が何年もこの潜伏生活を続けることになった、そして経済的にそれを可能にした直接的な原因である、あからさまにドストエフスキー的な「事件」。

 その顛末が幻想的に語られ、喪失感と絶望感のなかで「皇帝」の一日がまた終わります。しかし、翌朝になれば、むろん声たちは戻ってくるでしょう。そして戦いはまた最初から繰り返されることになるのでしょう。いつまでも。

 思い詰めたような、一読して息がつまり顔を背けたくなるほどの迫力で自意識をえぐる濃密ひきこもり小説です。一人称の扱い、「書き手」として登場する作品内作者視点、多様な声による語りの挿入、社会からの疎外感やどうしようもない生き辛さといった主題、個人の内面を圧殺しようとするものとの言葉による戦闘など、後に書かれる作品を思わせる特徴がすでにして強烈に出ていることに驚かされます。

 初期作品と思って油断しているとたいへん危険なので、気を引き締めて読むことをお勧めします。個人的には、『皇帝』から『金毘羅』に到るまでの長い長い道のりに思いを馳せ、涙しています。


タグ:笙野頼子
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