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『極楽 大祭 皇帝 笙野頼子初期作品集』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「自分の目指すところも美意識も総て否定されながら、一筋の可能性だけを認められて私は、「期待」されていた。その時点では文学の仲間はない。足場もない。抜け道がないのに外に出るしかない。動物なら暴走し壁に頭をぶつけて死んだだろう」(Kindle版No.3203)

 「切実な幻想で世界を転覆する事、そんな行為が出来る年齢ではなく、使う日本語には違和感があり、書くという事に対する現実感覚も、それが活字になるという感触さえも、固まってなかった」(Kindle版No.3210)

 「「まだ若いのだから」という藤枝さんの言葉の重みが判った時、現実と幻想の接点という、私の戦場とも言える「外」へと、ついに抜け出た。寛容な先人とありがたい編集者と、何より家族のおかげで、今ここにいる。先人がもしかしたら一番嫌がるかもしれない事を、つまり、「幻想」をも純文学の方法として、「現実」を見抜こうと今もしている。先人とは違う。が、それでも、私は純文学だ」(Kindle版No.3217)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第77回。

 笙野頼子さんの初期作品集の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は1994年11月、文庫版(講談社)出版は2001年03月、Kindle版出版は2013年10月です。

 「暗黒の」と形容されることもある80年代に発表された作品を集めた一冊。社会になじめず、ひきこもるようにしてひたすらもがき苦しみ戦っていた時代。幻想のちからで現実をむき出しにしようとする苦闘。そんな痛々しいまでに研ぎ澄まされた短篇が三篇収録されています。

『極楽』

 「もしも当り前な、血も涙もある人間が今までに残してきた自分の悪感情の総てを或る時一度に“これがそうだ”と見せられたとしたら、彼はおそらく、自分が生涯に残してきたその汚らわしい排泄物の前に顔を覆うだろう。にもかかわらずこの男は自分の憎悪を集成し、しかもそれを前にして微笑している事さえできるのだった。檜皮は悪意の人間だった。ただその悪意に対処する方法が周囲の人間と異なっていただけであった」(Kindle版No.336)

 他人から嫌われ憎まれてきた男が、普遍的な「憎悪」を表現するために、自分の人生をすべて注ぎ込んだ“地獄絵”を完成させようとします。密室にひきこもって、ひたすら自らの憎悪を画布に塗り込めてゆくことに没頭する画家、檜皮。

 「無視され、嘲笑され、時には怒鳴られ、憎まれれば憎まれる程それは彼にとって非常に都合のいい事態だった。罵倒は描写を極めさせ、私刑は残虐のイマジネーションを募らせるためにあった。檜皮への蔑みは彼の外界に向かう憎しみを増殖させる糧であった。(中略)自分の醜悪さを眺め自分への反応を眺め、人をも自分をも同じように憎んだ。そして朝から晩まで藁半紙を費やして狂い続けた」(Kindle版No.489、495)

 「地獄絵は彼の残酷絵の終着となり得る充分な可能性を持っていた。あらゆる怒り、憎しみ、恐怖、疎外、すべての“悪しきもの”の集成を一度に表現するにはこれより外にないと檜皮は思った」(Kindle版No.515)

 「彼は“憎悪”という人を大きく動かし得る“崇高な”感情に強くひかれるようになっていた。純粋培養された、だれの息も掛っていないだれのものでもないがすべての人間の共有しうる“完全な憎悪”を描こうと志した。(中略)彼が描く地獄像は否定で塗り潰されてゆく紙の余白に最後に残ってしまうひとつの形でなくてはならなかった」(Kindle版No.529、563)

 地獄絵に没頭している限り、檜皮は「幸福」で、「超俗的」であり続けることが出来たのです。しかしあるとき、地獄絵に黄色の口が出現し、檜皮のなかに「他者」が侵入してきます。そして、檜皮は他者の視点から地獄絵を見せつけられるのです。

 「画面全体を薄汚い自己満足が覆い隠していた。“憎しみ”を盾に取って、現世の安穏をむさぼっている浅ましく汚らしい意識の上に点在して、未消化な反吐の中の食物のように、生の憎悪がところどころ顔を現しているだけであった。一番大きな無自覚が、彼の画面の総てであった。知らずにいたからこそ、感情の計算からもれてしまった彼の“極楽”がそこにあった」(Kindle版No.837)

 こうして檜皮は、「極楽から現世に落ちた人間」(Kindle版No.863)になってしまい、地獄絵は放置されることになるのでした。

 個人的に印象深いのは、檜皮が「極楽」から蹴り落とされたとき、ふいに一人称「私」で語り出し、それを聞いた妻、綾子が泣き出す場面です。

 「綾子の顔色が漸く変った。ただならぬ異変に気付いたのであった。常軌を逸した質問は毎度の事だが、この一人称単数だけは絶対に“嘘”であった。綾子は絶句し、そして“びーっ”という声をあげて泣き出したのだった」(Kindle版No.845)

 めそめそ、でも、おいおい、でもなく、“びーっ”と泣き出した綾子。かなり激しく号泣したのでしょう。何がそんなにショックだったのかというと、檜皮が一人称「私」を無造作に使ったこと。もはやそこに檜皮はいない、何もかもが終わってしまった、ということを衝撃的に示した、これは一人称の使用(不使用)に強迫的なまでにこだわる著者ならではの名シーンではないでしょうか。

『大祭』

 「大祭はもう彼の側を通り過ぎて行ってしまう。五十年に一度の儀式は蚕を置き去りにして遠くに行くのだ。もし大祭に行ければ、大祭に行きさえすれば、自分は解放されるはずだ。蚕はついにそう確信するに至った。取り上げられてしまった事で大祭は絶対的な価値を持った」(Kindle版No.1318)

 他人との協調性に欠け、不登校を続けている小学生の蚕。彼は自分を抑圧してくる両親から逃れるため、五十年に一度だけ行われるという大祭に期待しています。大祭のときなら、ここから逃げ出すことが出来るのではないかと。しかし、横暴な父親によって、大祭への参加は禁止されてしまうのでした・・・。

 一人遊びのシーン、特に「鼠硝子生成」が印象的です。小さな硝子容器の中に鼠の死体を詰め、それを焼くことで両者を合成しようというのです。

 「硝子というのは不思議なものだと感心した。硝子の中に生物を入れると無生物のように見えて面白いのだった。死んだものでも生きてるものでもただの有機物になってしまう。生きているあるいは生きていた、という当り前さを欠いてしまうと硝子越しのものは限りなく精密で複雑な玩具、人造物のようだ」(Kindle版No.1028)

 後に書かれることになる『硝子生命論 』を連想せずにはいられません。しかし、まだ「切実な幻想で世界を転覆する」ことは出来ず、蚕の幻想は幻想のままに終わってしまいます。もの悲しい作品です。

『皇帝』

 「“私”は“内の私”と“外の私”に分かれたのです。すでにもう、“私”は、神聖なものなどではございません。“外の私”は廃止します。みなさま、これまでの私はもう、処分します。“内の私”は皇帝と呼びます。皇帝を、信じましょう。内の私は皇帝に、外の私は零になります」(Kindle版No.1534)

 狭いアパートの一室で潜伏生活を続けている青年。部屋のなかが全世界である限り、彼は「皇帝」ですが、そんな密室にも外界や過去の記憶から「他者」や「社会」が侵入してこようとします。「声」という形で。

 「おまえはおまえだ」。社会からの評価としての自分、他者からみた客観的な存在としての自分、それを認めさせようと彼を責め苛み、はては自殺に追い込まんとする「声」。それに対して、自ら造り出した妄想を呪文のように使って、自分の内面を守ろうとする「皇帝」。

 「いくつかの呪文を造り出して彼は毎日この声と戦って生き延びてきた。戦わなければ生きられなかったのだ」(Kindle版No.1398)

 「“彼の世界”は暗示や比喩やものごとに対する独特の意味付けによって出来上がった妄想の体系である。そしてひとりよがりな言葉はみなそれらを引き出すキーワードになっているのだ」(Kindle版No.1426)

 「彼もかつて、そうやって何としてでも現実的になろうとしたのだった。だが彼は事実、特に社会が認める事実というものに耐えられなくなって了ったのだ。そこで自分を独りよがりな図式にあてはめ、誰の手も借りない自己、社会にもたれかからぬ魂を造ろうとしたのである」(Kindle版No.1904)

 「私は私ではない」。一人称を拒否することで「声」に対抗する「皇帝」。ぎりぎりの攻防戦が繰り広げられます。

 「外界から肉体や心の動きにかけられ、常に“内の私”を殺そうとする力、これが“外の私”だ。そしてまた内側から外に向かって、それ自体とその器である肉体以外のものを、すべて殺し尽くし破壊し尽くそうとする力、これが“内の私”だ。この“内の私”を個々人で魂とか自分とか呼ぶ事はあたっている。しかしその性質をあきらかにし、新しい世界を造り上げる目安とするためには“皇帝”と呼んだ方がふさわしいのだ」(Kindle版No.1565)

 「“私”という言葉は汚らしい。“私”はよくない。それは幻のくせにあらゆるものを抱え込んでのさばり世界中に害毒を撒き散らしている。(中略)社会からの評価に苦しみ、集団からの疎外に怯えながら暮らすものよ、あなたが苦しんでいるのはただの制度だ。真理ではない。あなたがたの本当の名前は“私”などでなく“皇帝”というのだから」(Kindle版No.1571、1577)

 「私」から解放され、「皇帝」として新世界(全住民がひきこもりである「自閉都市」含む)創造を夢想しながら、同時に過去のある「事件」の記憶に怯え、自分が追跡されあるいは見張られているかも知れないという強迫観念(それは必ずしも妄想というわけでもないらしい)を抱く青年。

 やがて記憶が彼を過去に連れ戻してゆきます。疎外され尽くした少年時代、他者との関わりを徹底的に避けた予備校時代。

 「これが、彼の生まれた町とそこでの暮らしだ。ここには追いかける血族と見張る地域の目と戸外の情容赦ない敵たちが存在している。彼はこれを模倣し、これに適応し、これの一員にならなくてはいけなかった。彼の両親はこれをやみくもに信じ込んでいた。(中略)なぜ孤立していてはいけないかという事となぜそんなに他人の目障りになるかという理由とは彼女にも彼女の息子にも判らなかった」(Kindle版No.2217、2263)

 どうしようもない社会不適合と疎外感と孤立癖を抱えて、ひたすら他者から逃れひきこもるための密室を求めさまよう青年。社会とのわずかな接点さえも彼を傷つけ殺そうとするのでした。

 「労働はどこかで必ず他者とのかかわりあいを含んでいた。外に引き出された彼の魂は評価された。その魂に、まず、普遍性がない事、そして彼の絵が二流品のげてもので表現したがっている事に何の価値もない事、加えて画の感じを全面的に変える必要がありまた彼の礼儀がどうしようもないという事などを担当者は過不足のない言葉で彼に教えた」(Kindle版No.2598)

 それはいったい誰の話ですか。

 などと思うまもなく、小説は急流のように「事件」の記憶へとなだれ込んでゆきます。彼が何年もこの潜伏生活を続けることになった、そして経済的にそれを可能にした直接的な原因である、あからさまにドストエフスキー的な「事件」。

 その顛末が幻想的に語られ、喪失感と絶望感のなかで「皇帝」の一日がまた終わります。しかし、翌朝になれば、むろん声たちは戻ってくるでしょう。そして戦いはまた最初から繰り返されることになるのでしょう。いつまでも。

 思い詰めたような、一読して息がつまり顔を背けたくなるほどの迫力で自意識をえぐる濃密ひきこもり小説です。一人称の扱い、「書き手」として登場する作品内作者視点、多様な声による語りの挿入、社会からの疎外感やどうしようもない生き辛さといった主題、個人の内面を圧殺しようとするものとの言葉による戦闘など、後に書かれる作品を思わせる特徴がすでにして強烈に出ていることに驚かされます。

 初期作品と思って油断しているとたいへん危険なので、気を引き締めて読むことをお勧めします。個人的には、『皇帝』から『金毘羅』に到るまでの長い長い道のりに思いを馳せ、涙しています。


タグ:笙野頼子
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