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『だいにっほん、おんたこめいわく史』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「この不幸な現状とは何か、その根本にある、おんたことは何か、それを解明する、または世に訴えるために著者はこの小説を書いているのである。(中略)要するにこのおんたこ的進化というか正確にはおんたこ的頽廃の極み、付けの踏みたおしがこれから物語るおんたこの世、今のにっほんという事なのである」(Kindle版No.387、414)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第74回。

 おんたこ丸出しのエロ卑怯、グロ腑抜けにみちみちた国、だいにっほん。そのすっちゃんすっちゃんな世相を、ブス言語でもって深く深くえぐってみせた名作。その電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2006年8月、Kindle版出版は2013年09月です。

 笙野頼子さんの近作を読み進める道筋としては、乱暴に分けるなら、金毘羅三部作から荒神様へと向かう「人の道」ルートと、どっぺるげんげるからひょうすべに到る「妖怪」街道があると思うのですが(まったくの私見)、後者の系列のなかで『水晶内制度』と並ぶ代表作が『だいにっほん三部作』、そしてその衝撃的な第一部が本書ということになります。

 舞台となるのは、50年後(という設定でしたが実際はだいたい5年後でしたね・・・、うっ、うっ、)のこの国。おんたこに支配された、だいにっほん国であります。

 「にっほんというのは笙野が茨城をモデルにしたウラミズモという国を書いた時に、「怖すぎる」と思って書かずに放置した国であった。(中略)女人国だけを書いて、それを取り囲んだにっほんの事を今まで笙野は放置していたのだ。しかしその国が今書けと迫ってくる」(Kindle版No.1422、1431)

 「おんたこの実悪は書かねばならないのだ。だってもう見えるのだから。国がこうなってて、国全体がここにいると見えてしまうのだ」(Kindle版No.1050)

 こうして、『水晶内制度』では書かれなかった、こっち側の国のことがついに明らかにされます。それは読んでいてむかむかしてくるほど嫌な、そしてリアルな、だってこれ今の日本のことに他ならないんだもの、2005年に書かれた小説とは思えない、予言めいた、洞察に満ちた、これでもまだ第一部なんですって。

 「実は左畜、おんたことは結局反動なのである。というか一貫してない。ただ唯一の一貫とは市場原理を美徳とし神聖化しながら、自分達ではその事を一切意識出来ないという点であった。(中略)おんたことは言った事をすぐ忘れ、立場もころころ変える存在なので、矛盾を気にせずに極端な「正義」を追求し続けるのであった」(Kindle版No.227、247)

 「そんな右と左の対立が戦闘ごっこになり素人芸になり、どんどん無責任化していたのだった。 しかし最初は単なるマスコミの笑いものにすぎなかった両者がいつしか政権に食い込むようになっていったのである。ようするにいつのまにか国全体がおんたこ化していたのだった。というより冗談だおふざけだパフォーマンスだと言っていて結局はそれが本当だったのである」(Kindle版No.754)

 「最初、一般市民はただ変だと思っていただけであった。が、いつのまにかひとりひとりが変なのであると思う事が結局国全体を動かすようになってしまっていた。 声をあげるとどうやっても個人ひとりだけで戦うしかないような体制に世の中がいつのまにかなっていたのだった。そして個人だけで戦えば公共性がないとされ、黙殺された」(Kindle版No.722)

 「現にっほん政府は常に一番犯しやすそうなものを仮想敵にし、それを権力に仕立て上げて、そこに反逆するポーズを取る事で団結をはかるのだった。自分に一点似た者をしつこく狙う理由は、憎悪というよりは責任転嫁である」(Kindle版No.132)

 「第一党の癖にマイノリティを称する。それがおんたこの正義なのだ。それ以外の正義のあり方を知らないのだ。(中略)つまりこのにっほんにおける反権力とはしいていえばそれは無責任な大権力の意であり、また付け込みやすいところに付け込みながら被害者面をする事をただもう反権力と呼んでいるのである。(中略)雰囲気しかない国だ。独裁者が国家をのっとった後もずっと反権力ブリッコをしているという、まさにおんたこはにっほんの特産物なのだ」(Kindle版No.157、261、276)

 「おんたこの世とはともかく人にやる気をなくさせ、形だけの迷惑な改革しかさせない世なのである」(Kindle版No.357)

 「始まって約原稿用紙五十枚分でこのていたらくだね」(Kindle版No.384)

 書き写しているだけで落ち込む。思い当たることがあれこれ、そして自分の中にも確実にある、おんたこ性向。危ない、怖い。

 そんなおんたこの世で、みたこ教と呼ばれる宗教団体が弾圧されるところから小説は始まります。時をさかのぼること6年前に書かれた『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』で「私は託宣するインチキ巫女になってた」(Kindle版No.1451)と書かれていた、たぶんあの巫女さんが、頑張って託宣を出します。

 「うちどもらのその子らども孫どもらよ、曾孫どもらよ、うちどもはの、おんたこにの、触れてはならぬ、おんたこをの見てはならぬ。 もし見れば疑えおんたこを疑え、もし触れれば戦え、おんたこと戦え。(中略)さてほれ、ほれここに、さてほれ、ほれここに、間違うなよ、見極めよ、ほれここに、おんたこが、隠すとも、ほれほれほれ」(Kindle版No.523)

 しかし、みたこ教団はあっさり解散させられ、内部の転向者による密告もあって、連行された信徒たちはおんたこにひどい目に合わされることに。なんという非道なことでしょう。とまあ、こういう分かりやすい物語に回収して読者を安心させることを断固として拒否する小説でありまするので。

 途中から、様々な登場人物(?)たちが入れ代わり、語りを始めます。まずは作中人物である笙野頼子、かつて遊廓にいたという比丘尼の子、おんたこに弾圧されて首をつった火星人青年、古墳の主である御霊。

 オノマトペの鳴り物も響き渡るなか、「おたい」、「うちども」、「もれ」など様々な一人称が、古語、方言、2ちゃん用語まで駆使して、ときに火星人落語の形式をとり、ときに他人の語りの途中に割り込んだりして、それぞれに来歴を語ります。この呪術的な多声法の凄さときたら。

 語り手たちは、実は第二部、第三部にも登場してそれなりに活躍(?)しますので、ここで語られていることは、イミフ、とか言わずにきちんと読んでおきましょう。

 おんたこ文化の精髄とされる火星人少女遊廓のことが、ついに書かれたところで、本作は終わります。続きは第二部で。

 『言語にとって、ブスとはなにか ----困惑した読者のための本作取説----としての、後書き』という、けっこう長いあとがきが付いていて、ここにはかなり親切な解説(および批判への反論)が書かれていますので、まずは本編より先にこちらを読んでしまうというのもアリかも。

 読後、落ち込むだけでなく、もうラノベや萌え美少女コミックなど心から楽しむことは出来なくなりますから、それなりの覚悟を持って、でも読まないままこの日本で生きてゆくのはたいそう危険なので、とにかく読んで下さい。お願いします。


タグ:笙野頼子
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