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『ウエストウイング』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「ビルで出会い、見かけたさまざまな人々が、ヒロシの中を通っていくような気がした。彼らと自分はまったく違っていて、塾の講師は彼らのようにはなるなと言う。ヒロシには、自分が彼らのようになるのか、そうならないのかは今はわからなかったけれど、あの建物に通うことから抽出された何か新たなものがヒロシの胸に棲み着いて、ヒロシの信じてきたものを不確かにするのを感じた」(Kindle版No.5379)

 家賃が安いだけが取り柄のぱっとしない雑居ビル、その西棟(ウエストウイング)で働いている人々のちょっと奇妙な交流。津村記久子さんの連作長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(朝日新聞出版)出版は2012年02月、Kindle版出版は2013年02月です。

 とある雑居ビルの西棟、四階。そこには使われていないスペースがあって、物置と化している。仕事中こっそりその秘密の場所にやってきては息抜きをしている三人、女性会社員ネゴロ、塾に通う小学生ヒロシ、そして男性会社員フカボリは、互いに顔も知らない関係だが、あることがきっかけでこの物置スペースを使った文通および物々交換を始める。

 三名の主要登場人物を中心に、ビル西棟に職場がある人々の交流が描かれます。不景気、苦しい経済事情、将来の見えない不安。そういったものに押しつぶされそうでいて、それなりに日々をやり過ごしている普通の人々の姿がリアルに描かれ、その細部の描写に思わず共感。

 全体は四つの短篇から構成されています。第一話では、女性会社員ネゴロと小学生ヒロシの視点を切り替えながら、舞台となる西棟四階の物置スペースで、三名だけの奇妙なコミュニティが自然発生する過程が描かれます。

 「泥水を飲みながら這いずり回るような思いで内定を取った先で、こき使われ雑巾のごとく扱われるようなさんざんな思いをし、買い叩かれて入った中途採用の今の会社では、地下鉄で一緒になるような華やかな女性たちとは、おそらくまるで次元の違うような月給で紐をつけられている。そういうものだとは思う」(Kindle版No.114)

 「夢はなくていい。ときどきおいしいお茶が飲めてお菓子が食べられればそれで満足だけど、それすらも叶わなくさせる力が、一見平坦な生活の中に潜んでいるのかと思う。ときどき微かに、生きていることがいやになる。もっといろいろとしておけばよかったのかしら、とも考える」(Kindle版No.118)

 仕事をする気のない部下、悪い人じゃないけどただそれだけの上司。希望もないけど厳しさもない、そんな生ぬるい職場で、とりあえず部下が放置して逃げた仕事を片付けるために今日も残業するネゴロ。息抜きは、あの秘密の場所。

 「ヒロシの中には、未だ描かれない物語が沸騰しながら渦を巻いていて、毎日そのことを考えるためにだけに生きていると感じている。そしてそのために練っている設定資料集を、親に見られた」(Kindle版No.272)

 「塾の休み時間のたびにここへ来る。十五分間、他の生徒たちのくだらない会話から逃げてくる。ここはヒロシの、いわゆる秘密基地だ」(Kindle版No.556)

 このビルの西棟にある塾に通っている小学生ヒロシは、物語を考えること、そして絵を描くことが大好きで、ひたすらそのことに打ち込んでいます。当然ながら成績は最低。友達もいない。そんなヒロシが、空想にふけったり、イラストを描いたりするための秘密基地。それは、あの秘密の場所。

 「ここにはわたしも含めて最低三人の人間がいる。(中略)べつに二人だろうと三人だろうとどちらでもいいのだが、とにかく自分一人ではないということはたしかで、何かそれが興味深く感じられる」(Kindle版No.760)

 やがて物置スペースにメモが残されるようになり、三人は互いがどんな人物なのか知らないままに、物々交換による相互助け合いを始めることに。何とも奇妙なコミュニティがそこに生まれます。

 第二話では、第三の人物フカボリの視点から、物置スペースから目撃されるちょっとした怪談が語られます。

 「会社が、人のようにゆっくりと老いてゆく。いつまでたっても新卒も中途も採らないのは、衰退の証のようにも思える。入社して三年ほどは、そういう話を先輩としたりもしたが、最近は二人とも諦めていて、ただ、会社がまだ潰れていないことに安堵するだけのことが多くなった」(Kindle版No.1812)

 不景気で仕事もめっきり減ってしまい、給料も減額されてゆく一方の職場。いつまで会社がもつのか、先のことを考えないようにしている会社員フカボリ。

 仕事をさぼっては物置スペースに逃避している彼は、そこから中庭を隔てて見通せる東棟四階に、奇怪な「顔」がときどき現れることに気づいてしまいます。他の二名はそのことに気づいてないのだろうか。確かめようとメモを残したのですが・・・。

 第三話は、豪雨のために帰宅できず、ビル西棟に取り残された人々の物語。同じビルで働く人々、第一話や第二話に登場した人々が、あっちでもこっちでも、様々な形で交流することに。物置コミュニティに属する三名も、それと気づかぬまま接近遭遇。それはまるで妙な祝祭のようです。

 「ネゴロは少し迷って、時計を確認したが、まだ終電には充分間に合う時刻で、会社の定時からこれまでの長い間のいろいろはいったいなんだったんだろうか、と少し呆気にとられる。雨の間、ビル全体が異次元に迷い込んでいたのではないかという気さえしてくる」(Kindle版No.3440)

 そして最終話。ビルの修繕工事に必要な積み立て金が不足しているため、西棟を取り壊すという話が管理会社から出てきます。店子たちは金策についてあーだこーだ相談しますが、みんな不景気で経営はぎりぎり。そもそも賃料が安いからこそこのビルにいる店舗や会社ばかりなので、不足分の修繕費が集まる見込みは得られないまま。そして着々と進められてゆく取り壊しの準備。

 この西棟の危機のとき、主要登場人物たち三名はどうしていたのでしょうか。実は全員が物置スペースを感染源とする伝染病にかかって、病院で隔離されているという体たらく。誰にも何もできないまま、密かに多くの人々に愛されている西棟は、そしてあの秘密の場所は、消滅してしまうのでしょうか。それはしょうがないことなのでしょうか。諦めるしかないのでしょうか。

 「ここから離れたくない、と思う。ヒロシの十一年の人生の中で、ある場所に対して明確にそのような印象を持ったのは、初めてのことだった」(Kindle版No.3863)

 「どん詰まりになっても、その場その場で何かがやってくる。フカボリはなんとなく、自分がそういった実感を持てるようになってきたのだということに気が付く」(Kindle版No.5507)

 西棟を守るために、少しづつ小さな行動を起こす登場人物たち。果たして彼らのささやかな努力は実を結ぶのか。だが、西棟取り壊しのタイムリミットは容赦なく近づいていた・・・。

 熱血展開になりそうでならない最終話ですが、それまでの小さなエピソードの積み重ねで登場人物たちと西棟に感情移入した読者は、どうか彼らの居場所がなくなりませんように、と祈らずにはいられません。

 というわけで、特に大きなストーリーがあるわけでもなく、ありがちな普通の職場における人間関係をリアルにえがき、ぱっとしない人々のうだつのあがらない人生のなかにある、小さな驚き、感動、他者との交流を丹念にすくい上げたような作品ですが、その細部の描写は実に魅力的で、品のよいユーモアも巧みで、読み進むにつれてぐいぐい引き込まれてゆきます。地味ながら、心を静かにゆさぶる傑作だと思います。


タグ:津村記久子
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