『とにかくうちに帰ります』(津村記久子) [読書(小説・詩)]
「うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい」(Kindle版No.1709)
私物の事務用品を勝手に拝借される。南米のフィギュアスケート選手の話で地味に盛り上がる。そして土砂降りの雨の中、寒さに震えながら帰宅を目指して歩く。職場で起きるささやかなドラマをユーモラスに書いた作品集の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(新潮社)出版は2012年02月、Kindle版出版は2012年08月です。
連作短篇と中篇を集めた職場小説集です。冒頭に置かれた『職場の作法』は、4篇の連作短篇(『ブラックボックス』、『ハラスメント、ネグレクト』、『ブラックホール』、『小規模なパンデミック』)から構成されており、続く『バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ』は同じ登場人物が活躍(?)する中篇、そして表題作『とにかくうちに帰ります』が独立した中篇、ということになります。
いずれも、職場でありがちな状況がユーモラスに書かれていて、思わず登場人物に感情移入してしまう佳作ばかり。なにげない心理描写が実に巧みで、文章も格段にいい感じ。とても気に入りました。
『ブラックボックス』
「田上さんは、言葉でも表情でも陳情でもなく、仕事そのもので、腹の立つ相手に一撃を加える」(Kindle版No.88)
物静かで有能な事務職の田上さん。仕事を頼まれた田上さんは、素早く仕上げてしまった後に書類を「ブラックボックス」に隠し、態度の悪い相手には、わざとギリギリまで返却を遅らせて胃痛を起こさせるという、厳しく冷徹な報復をしているのだ。そのことに気づいた語り手は、どきどきしながら田上さんの仕事ぶりを見守るが。
『ハラスメント、ネグレクト』
「浄之内さんが、何か自分の身を守るための切り返しもできないぐらいの短い時間、北脇部長は、有名人の美人議員の従姉と喋っているという空気を思い切り吸い込むのだ」(Kindle版No.190)
親戚に有名人がいるというだけで何かと話し掛けてくるイヤな上司。セクハラともパワハラとも違う、何かまだ名前がないかも知れない微妙に腹立たしいハラスメント行為に対して、彼女がとったしっぺ返しとは。
『ブラックホール』
「間宮さんは、人の文具を勝手に持っていく代わりに、自分の文具を勝手に持ち出されてもまったく平気そうにしている。だから皆、ちょっと困ると間宮さんのデスクの上にあるペンなどをどんどん持っていくのである。そうやって循環したものが、たいていは回り回って持ち主の元に返っているので、間宮さんはそれほど責められることがないのだ」(Kindle版No.306)
どこの職場にもいる、他人の文具や事務用品を何気なく無断で拝借して、そのまま失くしてしまう人。そうやってお気に入りのペンを失くされた語り手は、ある日、彼の机を勝手に徹底捜索するが、引き出しの底からは変なものがぞくぞくと。
『小規模なパンデミック』
「外のコンビニなどに昼ごはんを買いに出て手も洗わない人、げっほんげっほん咳をしながら、それでもマスクをせずに喋り続ける人、体がだるいけれども忙しいんで来なくちゃー、と病気自慢をする人など、誰一人として、自分の問題として気にしていそうな人はいない。そういう社風なのである」(Kindle版No.443)
インフルエンザが大流行している職場で、咳をしながら得意気に「忙しい自慢」をする無神経な男にいらだつ語り手。やがて無人に近くなった職場で、それでも出てきた彼に対して、女性社員による無慈悲な報復攻撃が始まるのであった。
『バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ』
「うまく説明しにくいし迷信じみたことなので、自分の心の中でさえ、あまり取り出して検分したくないことなのだが、浄之内さんには何かマイナスの力があって、興味の対象に深刻な影響を及ぼしてしまうのではないか、という、いつもお世話になっている相手に対するものとしては甚だ失礼なものだった」(Kindle版No.645)
南米のフィギュアスケート選手が気になった語り手。マイナー選手なので話をする相手がいなくて寂しい。そんなとき、職場の先輩がフィギュアスケート競技に詳しいことを知るが、彼女に興味をもたれた選手は駄目になる、というジンクスがあるので話しにくい。
職場の昼休みにフィギュアスケート世界選手権の話題で盛り上がる、ただそのためだけに、前途あるスポーツ選手を潰してよいのか。それでいいのか。クワン選手があんなことになったのも、もとはといえば自分が応援したせいではないのか。大真面目に葛藤する語り手であった。
『とにかくうちに帰ります』
「いつものように、自宅から電車とバスを乗り継いで会社に行ったこの日に、この平日に、会社から単に帰るというだけのことに、どうしてこうまでてこずっているのだ。話さえできなくなるぐらいおかしくなって、震えて」(Kindle版No.1737)
職場を出るのがちょっと遅れたせいで、終バスを逃してしまった人々が、雨のなか、最寄りの駅まで徒歩で歩いて帰ろうとする。だが雨足はどんどん強まり、気温も下がって、プチ遭難状態に。
「部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!」 「そうだな」ハラは深くうなずく。「別に愛は欲しくないから、家に帰りたい」」(Kindle版No.1687)
「「屋根を考えた人はえらいと思うのよ」ハラはもはや、誰に語りかけるでもなく、心に浮かぶことを次々と口にしていた。「わたしは、アイスクリームを発明した人がいちばんえらいと思ってたけど、撤回して、今日から屋根を発明した人にしようと思う」」(Kindle版No.1646)
もはや欲も得も恥も外聞もなく、とにかくうちに帰りたい、その一心だけで震えながら歩く人々。言ってることが支離滅裂ぎみになっても、とにかくうちに帰りたい。だが、雨は激しさを増し、足元は川のよう、服はぐっちょり濡れて、気温もさらに下がったようだし、もう二度と「部屋でくつろぐ」などという奇跡には辿り着けない気がしてくるのだった・・・。頑張れみんな、明日は土曜日だ。
私物の事務用品を勝手に拝借される。南米のフィギュアスケート選手の話で地味に盛り上がる。そして土砂降りの雨の中、寒さに震えながら帰宅を目指して歩く。職場で起きるささやかなドラマをユーモラスに書いた作品集の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(新潮社)出版は2012年02月、Kindle版出版は2012年08月です。
連作短篇と中篇を集めた職場小説集です。冒頭に置かれた『職場の作法』は、4篇の連作短篇(『ブラックボックス』、『ハラスメント、ネグレクト』、『ブラックホール』、『小規模なパンデミック』)から構成されており、続く『バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ』は同じ登場人物が活躍(?)する中篇、そして表題作『とにかくうちに帰ります』が独立した中篇、ということになります。
いずれも、職場でありがちな状況がユーモラスに書かれていて、思わず登場人物に感情移入してしまう佳作ばかり。なにげない心理描写が実に巧みで、文章も格段にいい感じ。とても気に入りました。
『ブラックボックス』
「田上さんは、言葉でも表情でも陳情でもなく、仕事そのもので、腹の立つ相手に一撃を加える」(Kindle版No.88)
物静かで有能な事務職の田上さん。仕事を頼まれた田上さんは、素早く仕上げてしまった後に書類を「ブラックボックス」に隠し、態度の悪い相手には、わざとギリギリまで返却を遅らせて胃痛を起こさせるという、厳しく冷徹な報復をしているのだ。そのことに気づいた語り手は、どきどきしながら田上さんの仕事ぶりを見守るが。
『ハラスメント、ネグレクト』
「浄之内さんが、何か自分の身を守るための切り返しもできないぐらいの短い時間、北脇部長は、有名人の美人議員の従姉と喋っているという空気を思い切り吸い込むのだ」(Kindle版No.190)
親戚に有名人がいるというだけで何かと話し掛けてくるイヤな上司。セクハラともパワハラとも違う、何かまだ名前がないかも知れない微妙に腹立たしいハラスメント行為に対して、彼女がとったしっぺ返しとは。
『ブラックホール』
「間宮さんは、人の文具を勝手に持っていく代わりに、自分の文具を勝手に持ち出されてもまったく平気そうにしている。だから皆、ちょっと困ると間宮さんのデスクの上にあるペンなどをどんどん持っていくのである。そうやって循環したものが、たいていは回り回って持ち主の元に返っているので、間宮さんはそれほど責められることがないのだ」(Kindle版No.306)
どこの職場にもいる、他人の文具や事務用品を何気なく無断で拝借して、そのまま失くしてしまう人。そうやってお気に入りのペンを失くされた語り手は、ある日、彼の机を勝手に徹底捜索するが、引き出しの底からは変なものがぞくぞくと。
『小規模なパンデミック』
「外のコンビニなどに昼ごはんを買いに出て手も洗わない人、げっほんげっほん咳をしながら、それでもマスクをせずに喋り続ける人、体がだるいけれども忙しいんで来なくちゃー、と病気自慢をする人など、誰一人として、自分の問題として気にしていそうな人はいない。そういう社風なのである」(Kindle版No.443)
インフルエンザが大流行している職場で、咳をしながら得意気に「忙しい自慢」をする無神経な男にいらだつ語り手。やがて無人に近くなった職場で、それでも出てきた彼に対して、女性社員による無慈悲な報復攻撃が始まるのであった。
『バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ』
「うまく説明しにくいし迷信じみたことなので、自分の心の中でさえ、あまり取り出して検分したくないことなのだが、浄之内さんには何かマイナスの力があって、興味の対象に深刻な影響を及ぼしてしまうのではないか、という、いつもお世話になっている相手に対するものとしては甚だ失礼なものだった」(Kindle版No.645)
南米のフィギュアスケート選手が気になった語り手。マイナー選手なので話をする相手がいなくて寂しい。そんなとき、職場の先輩がフィギュアスケート競技に詳しいことを知るが、彼女に興味をもたれた選手は駄目になる、というジンクスがあるので話しにくい。
職場の昼休みにフィギュアスケート世界選手権の話題で盛り上がる、ただそのためだけに、前途あるスポーツ選手を潰してよいのか。それでいいのか。クワン選手があんなことになったのも、もとはといえば自分が応援したせいではないのか。大真面目に葛藤する語り手であった。
『とにかくうちに帰ります』
「いつものように、自宅から電車とバスを乗り継いで会社に行ったこの日に、この平日に、会社から単に帰るというだけのことに、どうしてこうまでてこずっているのだ。話さえできなくなるぐらいおかしくなって、震えて」(Kindle版No.1737)
職場を出るのがちょっと遅れたせいで、終バスを逃してしまった人々が、雨のなか、最寄りの駅まで徒歩で歩いて帰ろうとする。だが雨足はどんどん強まり、気温も下がって、プチ遭難状態に。
「部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!」 「そうだな」ハラは深くうなずく。「別に愛は欲しくないから、家に帰りたい」」(Kindle版No.1687)
「「屋根を考えた人はえらいと思うのよ」ハラはもはや、誰に語りかけるでもなく、心に浮かぶことを次々と口にしていた。「わたしは、アイスクリームを発明した人がいちばんえらいと思ってたけど、撤回して、今日から屋根を発明した人にしようと思う」」(Kindle版No.1646)
もはや欲も得も恥も外聞もなく、とにかくうちに帰りたい、その一心だけで震えながら歩く人々。言ってることが支離滅裂ぎみになっても、とにかくうちに帰りたい。だが、雨は激しさを増し、足元は川のよう、服はぐっちょり濡れて、気温もさらに下がったようだし、もう二度と「部屋でくつろぐ」などという奇跡には辿り着けない気がしてくるのだった・・・。頑張れみんな、明日は土曜日だ。
タグ:津村記久子