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『バラ肉のバラって何? 誰かに教えたくてたまらなくなる“あの言葉”の本当の意味』(金澤信幸) [読書(教養)]

 「へのかっぱ」は河童とは無関係? 「長いものには巻かれろ」の“長いもの”とは? 「セピア色」って何の色? 「ポン酢」はオランダ語? 日本になぜ「中国地方」があるの?

 日常生活でよく見かける様々な言葉の意外な語源を教えてくれる言葉の雑学読本。文庫版(講談社)出版は、2013年06月です。

 「金字塔」って、ピラミッドのことだったのか!

 あの言葉、あの名前は、いったい何が起源なのか。知っていそうで意外と知らない、あるいは誤解している、語源に関する豆知識を集めた本です。

 全体は11の章に分かれています。最初の「第1章 日常の言葉」からして、知らなかった雑学がいっぱい。

・「おじゃんになる」の語源は、江戸時代の火消し。
・「へのかっぱ」は、河童とは無関係。
・「四六時中」は、明治以前には「二六時中」だった。
・「お茶目」は、茶とも、目とも関係ない。
・「ケチを付ける」の“ケチ”は、金に細かいという意味ではない。
・「ビビる」という言葉は、平安時代にすでに使われていた。
・「ぐれる」の“ぐれ”は、蛤(はまぐり)の逆さ言葉に由来する。
・「長いものには巻かれろ」の“長いもの”とは、象の鼻のこと。

 へー、知りませんでした。こんな感じの項目がずらずらと並ぶ様は壮観です。

 「第2章 外来語に由来する言葉」と「第3章 名前に関する言葉」は、それぞれ外来語や様々な名前についての雑学集です。

・「超弩級」は、「超ドレッドノート級」の略語。“弩”は当て字。
・「セピア色」の“セピア”はラテン語で「甲イカ」のこと。色あせするのはイカスミ。
・「大学ノート」や「大学イモ」の“大学”とは、東京帝国大学のこと。
・「段ボール」の“ボール”は、「ボード(板)」の間違い。
・「ピーポくん」の名前は、パトカーのサイレンとは関係ない。

 何だかいい加減というか、間違いや誤解が定着してしまった言葉というのが意外に多いことが分かります。こういう例は本書全体を通じて頻出します。

 「第4章 食に関する言葉」と「第5章 動物・植物・天候に関する言葉」では、食事の場などで持ち出すのに最適なネタの宝庫と言えるでしょう。

・「ポン酢」はオランダ語で柑橘類のこと。“酢”は当て字。
・「バラ肉」とは、“あばら骨に付いている肉”のこと。
・「ショートケーキ」の“ショート”は、短いという意味ではない。
・「シュークリーム」の“シュー”は、フランス語で“キャベツ”のこと。
・「松ぼっくり」の“ぼっくり”は、ふぐり(金玉)のこと。
・「サニーレタス」の“サニー”は、日産の自動車の名前。

 6章以降では、芸能、スポーツ、ギャンブル、ファッション、文学・歴史・地理、人名、というテーマが続きます。

・「どさくさ」や「どさまわり」の“どさ”は、“佐渡”の逆さ言葉。
・「ため口」の“ため”は、サイコロのゾロ目のこと。
・「ワイシャツ」の「ワイ」は、ホワイト(白)の聞き間違い。
・「ルビをふる」の“ルビ”は、宝石の「ルビー」が語源。
・「金字塔」とは、ピラミッドのこと。
・「中国地方」は、律令制で「近国」と「遠国」の間にあった地域を示す。
・「銀ブラ」とは、「銀座の喫茶店「カフェーパウリスタ」にブラジルコーヒーを飲みに行く」の略。

 こんな語源ネタが350個ほど詰まっています。

 会話のなかでどんな話題になっても、これならさらりと語源ネタを披露できますね。きっと相手はあなたの教養に感心してくれるし、異性の場合など好意を抱いてくれる可能性だって、というようなことはまあ妄想で、実際には「うざっ」と思われるだけですから、あまり実用性など考えず読んで楽しむにとどめておいた方が賢明です。


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『ウエストウイング』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「ビルで出会い、見かけたさまざまな人々が、ヒロシの中を通っていくような気がした。彼らと自分はまったく違っていて、塾の講師は彼らのようにはなるなと言う。ヒロシには、自分が彼らのようになるのか、そうならないのかは今はわからなかったけれど、あの建物に通うことから抽出された何か新たなものがヒロシの胸に棲み着いて、ヒロシの信じてきたものを不確かにするのを感じた」(Kindle版No.5379)

 家賃が安いだけが取り柄のぱっとしない雑居ビル、その西棟(ウエストウイング)で働いている人々のちょっと奇妙な交流。津村記久子さんの連作長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(朝日新聞出版)出版は2012年02月、Kindle版出版は2013年02月です。

 とある雑居ビルの西棟、四階。そこには使われていないスペースがあって、物置と化している。仕事中こっそりその秘密の場所にやってきては息抜きをしている三人、女性会社員ネゴロ、塾に通う小学生ヒロシ、そして男性会社員フカボリは、互いに顔も知らない関係だが、あることがきっかけでこの物置スペースを使った文通および物々交換を始める。

 三名の主要登場人物を中心に、ビル西棟に職場がある人々の交流が描かれます。不景気、苦しい経済事情、将来の見えない不安。そういったものに押しつぶされそうでいて、それなりに日々をやり過ごしている普通の人々の姿がリアルに描かれ、その細部の描写に思わず共感。

 全体は四つの短篇から構成されています。第一話では、女性会社員ネゴロと小学生ヒロシの視点を切り替えながら、舞台となる西棟四階の物置スペースで、三名だけの奇妙なコミュニティが自然発生する過程が描かれます。

 「泥水を飲みながら這いずり回るような思いで内定を取った先で、こき使われ雑巾のごとく扱われるようなさんざんな思いをし、買い叩かれて入った中途採用の今の会社では、地下鉄で一緒になるような華やかな女性たちとは、おそらくまるで次元の違うような月給で紐をつけられている。そういうものだとは思う」(Kindle版No.114)

 「夢はなくていい。ときどきおいしいお茶が飲めてお菓子が食べられればそれで満足だけど、それすらも叶わなくさせる力が、一見平坦な生活の中に潜んでいるのかと思う。ときどき微かに、生きていることがいやになる。もっといろいろとしておけばよかったのかしら、とも考える」(Kindle版No.118)

 仕事をする気のない部下、悪い人じゃないけどただそれだけの上司。希望もないけど厳しさもない、そんな生ぬるい職場で、とりあえず部下が放置して逃げた仕事を片付けるために今日も残業するネゴロ。息抜きは、あの秘密の場所。

 「ヒロシの中には、未だ描かれない物語が沸騰しながら渦を巻いていて、毎日そのことを考えるためにだけに生きていると感じている。そしてそのために練っている設定資料集を、親に見られた」(Kindle版No.272)

 「塾の休み時間のたびにここへ来る。十五分間、他の生徒たちのくだらない会話から逃げてくる。ここはヒロシの、いわゆる秘密基地だ」(Kindle版No.556)

 このビルの西棟にある塾に通っている小学生ヒロシは、物語を考えること、そして絵を描くことが大好きで、ひたすらそのことに打ち込んでいます。当然ながら成績は最低。友達もいない。そんなヒロシが、空想にふけったり、イラストを描いたりするための秘密基地。それは、あの秘密の場所。

 「ここにはわたしも含めて最低三人の人間がいる。(中略)べつに二人だろうと三人だろうとどちらでもいいのだが、とにかく自分一人ではないということはたしかで、何かそれが興味深く感じられる」(Kindle版No.760)

 やがて物置スペースにメモが残されるようになり、三人は互いがどんな人物なのか知らないままに、物々交換による相互助け合いを始めることに。何とも奇妙なコミュニティがそこに生まれます。

 第二話では、第三の人物フカボリの視点から、物置スペースから目撃されるちょっとした怪談が語られます。

 「会社が、人のようにゆっくりと老いてゆく。いつまでたっても新卒も中途も採らないのは、衰退の証のようにも思える。入社して三年ほどは、そういう話を先輩としたりもしたが、最近は二人とも諦めていて、ただ、会社がまだ潰れていないことに安堵するだけのことが多くなった」(Kindle版No.1812)

 不景気で仕事もめっきり減ってしまい、給料も減額されてゆく一方の職場。いつまで会社がもつのか、先のことを考えないようにしている会社員フカボリ。

 仕事をさぼっては物置スペースに逃避している彼は、そこから中庭を隔てて見通せる東棟四階に、奇怪な「顔」がときどき現れることに気づいてしまいます。他の二名はそのことに気づいてないのだろうか。確かめようとメモを残したのですが・・・。

 第三話は、豪雨のために帰宅できず、ビル西棟に取り残された人々の物語。同じビルで働く人々、第一話や第二話に登場した人々が、あっちでもこっちでも、様々な形で交流することに。物置コミュニティに属する三名も、それと気づかぬまま接近遭遇。それはまるで妙な祝祭のようです。

 「ネゴロは少し迷って、時計を確認したが、まだ終電には充分間に合う時刻で、会社の定時からこれまでの長い間のいろいろはいったいなんだったんだろうか、と少し呆気にとられる。雨の間、ビル全体が異次元に迷い込んでいたのではないかという気さえしてくる」(Kindle版No.3440)

 そして最終話。ビルの修繕工事に必要な積み立て金が不足しているため、西棟を取り壊すという話が管理会社から出てきます。店子たちは金策についてあーだこーだ相談しますが、みんな不景気で経営はぎりぎり。そもそも賃料が安いからこそこのビルにいる店舗や会社ばかりなので、不足分の修繕費が集まる見込みは得られないまま。そして着々と進められてゆく取り壊しの準備。

 この西棟の危機のとき、主要登場人物たち三名はどうしていたのでしょうか。実は全員が物置スペースを感染源とする伝染病にかかって、病院で隔離されているという体たらく。誰にも何もできないまま、密かに多くの人々に愛されている西棟は、そしてあの秘密の場所は、消滅してしまうのでしょうか。それはしょうがないことなのでしょうか。諦めるしかないのでしょうか。

 「ここから離れたくない、と思う。ヒロシの十一年の人生の中で、ある場所に対して明確にそのような印象を持ったのは、初めてのことだった」(Kindle版No.3863)

 「どん詰まりになっても、その場その場で何かがやってくる。フカボリはなんとなく、自分がそういった実感を持てるようになってきたのだということに気が付く」(Kindle版No.5507)

 西棟を守るために、少しづつ小さな行動を起こす登場人物たち。果たして彼らのささやかな努力は実を結ぶのか。だが、西棟取り壊しのタイムリミットは容赦なく近づいていた・・・。

 熱血展開になりそうでならない最終話ですが、それまでの小さなエピソードの積み重ねで登場人物たちと西棟に感情移入した読者は、どうか彼らの居場所がなくなりませんように、と祈らずにはいられません。

 というわけで、特に大きなストーリーがあるわけでもなく、ありがちな普通の職場における人間関係をリアルにえがき、ぱっとしない人々のうだつのあがらない人生のなかにある、小さな驚き、感動、他者との交流を丹念にすくい上げたような作品ですが、その細部の描写は実に魅力的で、品のよいユーモアも巧みで、読み進むにつれてぐいぐい引き込まれてゆきます。地味ながら、心を静かにゆさぶる傑作だと思います。


タグ:津村記久子
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『怪談短歌入門 怖いお話、うたいましょう』(東直子、佐藤弓生、石川美南) [読書(教養)]

  「オバQはそうじゃないよとナミちゃんの描いたあの絵を忘れたかった」(小瀬朧)

 ネットで募集された「twitter怪談短歌コンテスト」の応募作から、三名の歌人が選んだ傑作と選評その他を収録した一冊。単行本(メディアファクトリー)出版は、2013年09月です。

 可愛らしい小鳥がたくさんいる絵がカバーとなっていて、一見して微笑ましい印象を受ける本ですが、よーく見ると、一羽の小鳥の目に矢が刺さっていたりして。さすが。

 というわけで、怖い短歌、恐ろしい短歌を、「怪談短歌」としてツイッターで一般公募するイベントに寄せられた作品集です。

 怖い詩歌というと、まず思い出すのが倉阪鬼一郎さんによる『怖い俳句』。これはお勧め。

  2012年08月01日の日記:『怖い俳句』(倉阪鬼一郎)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-08-01

 事物や情景をずばっと提示して、何の説明もなくさっと終わってしまう俳句の衝撃的な怖さというのは、これは相当なものです。それに比べると、短歌は「状況説明」が長いぶん、一瞬おいて、状況を具体的に想像しているうちにじわじわ、というのが多いという気がします。

  「厠から仏間にかけてぴちゃぴちゃとのたうつ金魚の一列縦隊」(立花腑楽)

  「背中だけ見せて揺れてるひまわりは私に気付き少し振り向く」(山崎智佐)

 「宝くじ」「地獄」「くちばし?」「しゃれこうべ」「・・・ベンチ・・・」「血」「・・・・・・ち、千葉」「ばらばら死体」(桔梗)

 いくつかの作品は、例えばひそひそ声で不安を盛り上げておいて、聞いている人をいきなり指さして「お前だーっ」と大声で叫ぶ、みたいな怪談の語りの手法を取り込んでいて面白い。短歌ならではの趣向というか、俳句だとこういう組み立ては無理ですよね。

  「ペトペトさんお先にどうぞと道譲る後ろにいたのがお前の父さん」(安芸こもり)

  「夜な夜なに眼鏡のアイツが誘い来る野球しようぜおまえボールな」(無樂)

  「悪夢から目覚めてママに泣きつけばねんねんころりあたまがころり」(中家菜津子)

 題材的には、友達、児童虐待、ストーカー、といった「人間関係に潜む不安」をえぐる作品が多いような印象を受けました。

  「あやとりの指絡みあう 押入れに誰にも言えぬ友だちはいて」(堀まり彗)

  「永遠に友達だよね よせ書きにひっそりとある知らない名前」(高橋徹平)

  「ぼくのためだといいながら涙するママはきれいだどんなひとより」(相田奈緒)

  「ごめんなさいごめんなさいが十続きすきま風の声のみ残る」(ぐら)

  「アパートのドアに下がった袋には心当たりの無い卵二個」(都季)

  「僕の名のすぐあとに君の名があった黄ばんだ貸出カードすべてに」(沼尻つた子)

 選者である東直子さん、佐藤弓生さん、石川美南さんが、それぞれ自分が選んだ作品への選評、三人の鼎談、さらにエッセイが収録されています。怪談短歌創作に関するアドバイスやヒントがいっぱい含まれていますので、これから詠んでみようという方は参考にするとよいでしょう。

 「短歌は俳句より長いけれど、具体的なことを直接表現する部分は、むしろ俳句より短くてもいいくらいです。たぶん十二音分くらいで十分。あとはアトモスフィアで包んで、見えるような見えないような感じでまとめると、うまくいくんじゃないかと思います」(単行本p.50)

 「まずは、「くり返し」という点。言葉にせよ、歌の中で起っている現象にせよ、くり返しがあることで、怖さが醸成される。これは大きな発見だったと思います」(単行本p.56)

 個人的に驚いたのは、石川美南さんが次のように告白していることです。

 「何を隠そう、私は怪談のことをほとんど知らない。怪談を書いたことがないのはもちろん、お皿を数えるのがお岩だったかお菊だったかもうろ覚え。(中略)正直言って、はじめは私で大丈夫だろうか、と不安だった。怪談でも短歌でもない、「怪談短歌」という新ジャンルを一から作らなくてはならない気がして、プレッシャーも感じていたのだ」(単行本p.170)

 石川美南さんの歌集『離れ島』や『裏島』には、

  「午前二時のロビーに集ふ六人の五人に影が無かつた話」

  「トイレットペーパーに深い指の跡、使へば消えてゆく指の跡」

など、典型的な怪談短歌が多数収録されているので、これは意外でした。

  2013年08月12日の日記:『裏島』(石川美南)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-08-12

  2013年08月13日の日記:『離れ島』(石川美南)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-08-13

 ちなみにそう思ったのは私だけではないようで、東雅夫さんも「石川美南さんの「物語集」(『離れ島』収録)にも、怪談短歌そのものといってよい歌が数多くある」(単行本p.173)と書いておられます。

 結局、怪談短歌がうまく書けることと、怪談に関する知識が豊富であることとは、あまり関係がないのかも知れません。逆に言うと、怪談にあまり縁がない方でも、すごい怪談短歌をものにすることが出来るかも知れないわけで、やる気になった方は次回の「twitter怪談短歌コンテスト」に応募してみるとよいでしょう。


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『dancetoday2013 ダブルビル』(島地保武+酒井はな、関かおり) [ダンス]

 2013年10月20日(日)は、夫婦で彩の国埼玉芸術劇場に行って、ダブルビル公演を鑑賞しました。

 前半の演目は、アルトノイ(島地保武+酒井はな)振付による『詠う~あなたが消えしまうまえに~』で、二人が踊る45分の作品。続いて、25分の休憩をとって、観客を全員追い出した上で舞台整備。

 そして後半、関かおり振付による『アミグレクタ』が始まります。5名のダンサーが踊る55分の作品。これが、凄いのです。

 先日、青山円形劇場で『Hetero』という、関かおり振付作品を観て、まずこれが衝撃的でした。無音のなか、関かおりさんと岩渕貞太さん、二人のダンサーが向きあって、ゆっくり動き、静止する。関係性があるようでないようで、それをひたすら続けるというこの異次元感覚。なのになぜか飽きるということがなく、その奇妙な動きの組み合わせから目を離すことが出来ません。なにこれ。

  2013年06月03日の日記:
  『DANCE-X13 MONTREAL:TOKYO:BUSAN 3rd Edition』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-06-03

 さすがにこんな異次元ばかり創っているわけではないだろう、などと考えていた私は甘かった。関かおりさんの今回の新作『アミグレクタ』は、まるで『Hetero』を時間的にも空間的にも人数的にも、3倍に拡張したような作品。

 意識できないくらい微かな環境音が流れるほぼ無音の空間で、関かおりさんと岩渕貞太さんを含む総計5名のダンサーが踊ります、というか動きます。

 舞台上に開いた孔からダンサーが這い出てきて、ゆっくりゆっくり、奇怪な動きを繰り広げ、単独で床を這って、ときどき両足でぴょんっと跳んだり、複数のダンサーが組み合わさって不可解なオブジェか群体のようなものを構成したり、意外にアクロバティックに仰向けのまま他人を足で持ち上げるリフトなどゆーらゆら、そしてまた這いながら、ゆっくりゆっくり、個別に孔から「巣」に戻っていったり。

 それは人間の動きとは思えず。まるで人間の肉体に何か別の、節足動物とか、爬虫類とか、軟体生物とか、そういういきものが乗り移り、それが人間の肉体の使い方を色々とイチから試しているような具合。植物、あるいは定着性刺胞動物に見えることもあります。

 それを一時間近く続けるわけです。どう考えても途中で飽きるに違いない、と思いきや、同じ動きが繰り返されるということがなく、常に新しい動きを「発見」し続ける。人外のなにかが人間の肉体を使って新しい動きの要素を探求し続けている、そんな異界の実験室のような舞台から、なぜか目が離せません。炭酸水の泡がはじけるように、微細な衝撃が続くのです。一時間弱も。

 最後は関かおりさんと岩渕貞太さんの二人が残り、次第に動きに繰り返しが生じると共に、何となく「意志」のようなものが感じられるようになってきます。あ、意識が生まれたか、というところで、終演。気がつけば一時間、なにしていたんだろう、私。「異星人に誘拐された」と語る人々の気持ちが少し分かります。

 これを作品として成立させてしまった異界的な力量には脱帽。これから創られる作品に、期待よりもむしろ不安が先立ってしまいます。なるべく観ようと思います。


タグ:関かおり
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『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「群像でこの三部作を書いた事で私のここでの「任務」は一応果たせたと思う。「イデオロギー」を持ち、或いはイデオロギーに傷を受けた書き手が昔も今も群像を支えている。その中で新しい書き方をこの雑誌のためにしたいと思った。思想それ自体ではなく、人間をゾンビ化させてしまうものを、思想に添付された主体なき言語悪を書きたいと思い、ついに『ドイツ・イデオロギー』批判にたどり着いた。それは飛び移りもつれ合うリゾームさえもうのっとったかもしれない厄介なものだった」(Kindle版No.2965)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第76回。

 代表作の一つ、だいにっほん三部作。その完結編の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2008年04月、Kindle版出版は2013年09月です。

 「おんたこ世界におけるこの二次元評論のもっとも大きな「功績」は少女の二次元化、脱人間化、商品化であった」(Kindle版No.303)

 「三次元の少女には内面などない、内面があるのは二次元のマンガに出て来る美少女だけだ」(Kindle版No.310)

 「女性はただ二次元の少女に同化する以外、何のオリジナリティも感情もないのです。もしあればそれらは全て想定済みの幻想です。社会的諸関係の生んだ迷妄に過ぎない」(Kindle版No.1666)

 ロリコンとネオリベが最悪な形で結びつき、現実の少女を二次元美少女キャラに同化させ、商品化し、消費する「ろりりべ」国家、だいにっほん。はたしてそこに救済は届くのか。

 というわけで、まずは三部作の作者である金毘羅(もちろん)、頭の上に蛇が三つ生えてきます。その正体は、かつて小説の主役をつとめた登場人物たち。20代の桃木跳蛇、30代の沢野千本、40代の八百木千本。それぞれ、グリーンスネーク、レッドスネーク、イエロースネークに変身した彼女たちは、三人合わせて「名の連蛇」、そう、ナノレンジャーとなったのだ。ゆけ、ナノレンジャー。おんたこ地獄から登場人物たちを救済するのだ!

 完結編はそういう話になるわけですが、第一部、第二部を読み通してきた読者なら、このくらいの展開にはついてゆけますとも。

 「近代文学の私小説系統の作家でさえ、頭の上に蛇がみっつ生えているという程度の事は実は珍しくもなんともないのを私は知っている。ただ、それがポップ文化のレンジャー物と連動したイメージになってここに現れ、市場経済の批判と相対化に向かう、或いは近代という通貨の馬鹿光を言葉の闇で半分隠したる、などと言い始める。そんな自覚的方向性は今までの近代文学にはなかったかもしれん」(Kindle版No.34)

 それでも「そうですか」とすんなり納得できないかも知れない読者に対して、まずは『金毘羅』の解説、評論から入ります。

 この第三部、実はそのかなりの部分が文芸評論あるいはそのパロディになっていて、基礎教養がまったく欠如している私にはとうてい理解できそうもない内容が続くのですが、でもまあそれでも頑張って読んで、読んで、読んで、とにかく「あらすじ」だけでも紹介することにします。いやそれ無意味だし、とか言われても、それしか出来ることがないし。

 で、ついにおんたこの深層が明らかに。それは、マルクス&エンゲルス共著『ドイツ・イデオロギー』、通称「ドイデ」。そのフォイエルバッハ批判に、おんたこの原点を見た、と。

 「フェティッシュ信仰が一個の石を拾いそれを崇めるとしたら、金毘羅の目で見た時、そこには自我がある。仏教的自我とは持てるものの自我だ。だがだからと言ってそれを貴族、贅沢な階級の土地所有にだけ根源あるものとして批判出来るだろうか。一個の石を握ってもそれは所有だ。一個の石に守られて私は眠れる。無論ホームレスであれば眠れない人の方が多いだろう。ドイデはそういう事を声高に言う」(Kindle版No.867)

 「ドイデの大声はええとこの坊ちゃんの左翼ぶりっこのように、都合悪くなると「貧乏な人」におんたこ的乗っ取りで寄生して騒ぐ。でもやっている事は支配的な教会や抑圧国家と、変わらないのだ」(Kindle版No.844)

 「やがて、共産主義が現実の経済面で崩壊した。しかしそのあとも、左翼ぶっている、昔と同じ論調の、同じマスコミ哲学の、おかしな人々の存在に私は気づいた。しかし彼らは左翼ではなくて反権力だというのだ。崩壊した癖にまだいるな、と思うとなぜか彼らは昔変だった70年代左翼の批判をしているのだ。加えて今の彼らは左翼でも右翼でもないポーズも取る。その一方、「貧しい人が」みたいなことはやはり我が事のように言い続ける、抑圧的に、人を黙らせるために」(Kindle版No.782)

 「同じなのだ。今も昔もネオリベと言っていても70年代左翼と言っていても感触は同じ。文学は啓蒙の役に立てというけれど、啓蒙するための判りやすさというスタンスが国家そのもので、国家とはそもそも見てくれだけの、インチキな「判りやすさ」なのだ。その上時代が下がってどんどん無知になっている」(Kindle版No.792)

 「どのようなおかしな言語も追求され反論されると必ず売上げ文学論に化けて来るのである。そしてそれがまたあらゆるものに取りついて化ける。「テロの前に」、「食卓の前に」、「ケータイの前に」、「災害の前に」、「貧しい人々の前に」、文学は「届くか」。彼らの「届く」とは数の問題でしかない。「売る」、「届く」。古い共同体の崩壊で芽生えたおんたこは近代国家で流通し世界市場にも出ていった」(Kindle版No.879)

 「通貨、この「平均化したい」、「行き渡りたい」、「良貨を駆逐したい」という存在への信仰からカビのように生えた主体なき言説。この言説の中で育ち、これしか見ず、通貨に身を委ねる人に向けて通貨的な思想をマルクスは放った。それが「交通」なのだ。脳の容量を超えた知識からの逃走、内面を空洞にしてしまう程の肉体の行動欲、それが通貨に生えて近代化したもの、劣化したもの、それがおんたこだ」(Kindle版No.883)

 「四半世紀文章を書いてきてずっと苦しんできた事の原因がこの本一冊の中にあった。(中略)そこを理解するために金毘羅の大学二年からの人生はあり、またこの三部作の二部まではあった」(Kindle版No.890)

 「そもそも作者だって、「あっ、『ドイツ・イデオロギー』変だとわかりましたぁ」と言いたいためにだけ三部作を書いているわけではない。自分の歴史とあわせて一本で自己語りプラス『ドイツ・イデオロギー』。読んでいるうちにここまで書いたかいあってトラウマが溶け、認識を獲得したからそれをまた報告しているという事なのである」(Kindle版No.925)

 金毘羅の語りにより、おんたこの正体と歴史的由来があらかた判明したところで、この先、小説は次第にスピードアップ、ヒートアップ、パワーアップ。様々な声が次々と自己語りを始めます。三部作、いよいよ大団円へ。そうか?

 小説内世界に出動した桃木跳蛇は『レストレス・ドリーム』について、かつてのゾンビとの言語闘争が「だいにっほん」とどのように関連しているかを語ります。そういや、『レストレス・ドリーム』には既にカニバットとタコグルメが登場しているのでした。タコグルメもえらい出世したもんだなあ。

 沢野千本は『二百回忌』について、時間変成と蘇りについて語ります。八百木千本だけはちょっと特殊事情があって、というのも三部作の前日譚に相当する『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』でウラミズモに亡命した彼女は、その後、断続的な昏睡状態のまま50年そこにいたというのです。

 第二部の視点人物だった埴輪いぶきは、自分が火星人少女遊廓でおんたこに殺されたときのことを思い出し、そのことを火星人落語として語り始めます。

 「笙野の理論が判らない少女だからむしろおんたこ理論には向いている」(Kindle版No.1762)いぶきは、「おんたこの世界に取り込まれた。そしておんたこのコントロールの中で変形して目覚めた」(Kindle版No.1881)。危うし埴輪いぶき。そのとき、遊廓の天井を突き破って下りてきたグリーンスネークこと桃木跳蛇。とまあ、そういう段取りで、いぶきはついに一人称「俺」を取り戻したのでした。

 ウラミズモの密かな庇護下で、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』の書き足し部分を執筆している作中人物たる笙野頼子。それがまた文芸批評家に対する怒りと悪意とイヤミに満ち満ちた激烈評伝で、うっひゃあーっ。ちなみに付録として収録されている、読まず評論家、越え駄目評論家への罵倒、じゃなかった論争文と合わせてお読み頂ければ、と。

 その笙野頼子のもとへ、ついに目覚めた八百木千本がイエロースネークとなって救出にやってきます。こうして、主要登場人物が揃ったところで、ついに始まるみたこ復活祭、そして降臨のときが。

 作者の脳内みたこ天国へ次々と帰天してゆく死者たち。させじと沼から巨大おんたこ出現。習合せよ、ナノレンジャー!

 言語クラッシュ! 蘇り攻撃! ブ・キック! ブ・アタック!

 「習合ナノレンジャーの戦闘レベルはおんたこを完全に制圧した」(Kindle版No.2657)

 とまあ、そういうわけで、純文学論争あたりから続いてきた戦いの、おそらくは最も派手な戦闘シーンを経て、ついに三部作は完結します。だが、これで戦いが終わったわけではない、いずれ第二第三のおんたこが・・・。というか、どこもかしこもおんたこだらけだし、と思った方。大量の付録が収録されていますので、さらなる激闘をお楽しみ下さい。


タグ:笙野頼子
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