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『日本人はなぜ存在するか』(與那覇潤) [読書(教養)]

 「私たちは「日本」というもの、「日本人」というものを、再帰的な存在として作り上げ、そして作り変えながら生きてきた。日本の歴史や文化を考えるというのは、最初から「実在」するものとしてのそれらを過去に探しにゆくことではなく、逆にそれらが存在するかのように人々に思わせてきた、再帰的な営みの軌跡をたどることなのです」(単行本p.33)

 国籍、民族、文化、歴史、社会。どれもこれも、どこか定義が曖昧で、突き詰めて考えてみようとすると途端によく判らなくなってくるのはなぜ? 大学の教養科目の授業を書籍化した、文系学問のショーケース。単行本(集英社)出版は、2013年10月です。

 まず、教養科目はなぜ大切なのか。その理由を、「自分たちを可能な限りローコンテクスト化することが重要になってきたからだ」と明快に説明してくれます。

 「グローバル化とは実は、「ハイコンテクストだった社会が、ローコンテクストな状態に移行してゆくこと」の一環なのです。(中略)求められるのは、何語であれ、自分の側の文脈(前提とする知識や価値観)を自明視せずに、自分とはまったく違う前提や背景を持っている人たちにも理解できるかたちで、自分の考えていることを表現する能力です。いわば、従来はハイコンテクストだったものを、ローコンテクストに翻訳することで、特定の文脈を超えてゆく力」(単行本p.10)

 これだけでも目からうろこ。

 続いて、「日本人は存在するか?」という、おそらく多くの学生が意外と思うであろう問いを立てて、検討してゆきます。ところがこれが予想外の難問であることが判明。

 「私たちはふだん、「いまは、国籍制度の話をしているから」「南米の日系人コミュニティの話題だから」といったかたちで、その場その場の会話の文脈ごとに「日本国籍保有者が日本人」「『日本民族』の血を引いているから日本人」などの定義を、使い分けて会話をしている。しかしそういった個別の文脈を超えて、客観的に実在する存在として「日本人」を捉えようとすると、その正体はとたんにあいまいになり、するりと私たちの手から逃れてしまうようです」(単行本p.16)

 なぜなのか。その根本的な理由は、人間が作り出してきた概念の多くが、いや実はすべてが、「再帰的な存在」だからだ、というのです。

 「人間の社会はそもそも、再帰性を活用しなければ成り立たないものであることがわかります。再帰性は貨幣経済のような利便性も、人種偏見のような罪悪も、どちらももたらす両義的な存在ですが、しかしなくすことはできない。(中略)人間が相互作用しながら作り上げている社会では、あらゆるものが再帰的に存在する。そういう見方で社会を研究するのが、社会学です」(単行本p.30、31)

 ある考えや制度や概念が、もともと何ら自然なものでも真実や事実でなくても、他人もそれを信じているという前提があるからこそ、それが「真実」となり「価値」がある、そんなあり方を再帰性と呼ぶわけです。例えば、貨幣が持っている「価値」とは何なのかを考えてみるとよく分かります。

 そして、文系学問に属する専門分野は、素朴な意味での「真実」や「事実」を探求しているのではなく、人間が作り出した諸概念の「再帰性」そのものを研究対象としているのだ、ということを明言。

 私、何しろ大学では客観的に実在するものだけを研究対象とする自然科学しか勉強しなかったので(自然科学だって実は再帰的なものではないのか、というレベルの高いツッコミは置いといて)、個人的に、この指摘には思わず「なるほど!」とひざうち。そうか、それで文系学問の本を読んでも、何だかもやもやとしたものが残ったのか、と。

 こうして、再帰性というキーワードを駆使して、様々な文系学問の専門分野が次々と明快な形で紹介されてゆきます。

 「フィクションをまじえず実際にあったことのみを語ろうとする学問や研究でも、「後の時代を知っている人間が、過去を記述する」という性格自体は、変わりませんから。いわば再帰的に語られるがゆえにこそ「間違えてしまう」のは、歴史一般の宿命です」(単行本p.47)

 「国家単位とは異なる「地域」という枠組みを設定することで、これまで国ごとに語られてきた歴史や文化の全体像を相対化する試みを、地域研究(エリア・スタディーズ)と呼びます」(単行本p.87)

 「このようなスタンスに立って文化を研究する方法論を、カルチュラル・スタディーズと言います。社会学が、単に社会を研究するから社会学なのではなく、社会で起きるもろもろの現象を「再帰的なもの」とみなして分析するからこそ社会学であったように、カルチュラル・スタディーズもまた、文化を昔から続くのっぺりとした存在としてではなく、たえず再帰的に構成され、改変されてゆく、ダイナミックなプロセスとして捉えるのが特徴です」(単行本p.95)

 「この「中心」の権力によるイメージ操作を通じた再帰的な(中心の側に都合のよい)現実の構築という問題に対して、私たちはどう対処すべきなのでしょうか。サイードが専攻した比較文学とは、実はそのための方法論でした。(中略)複数の視座を切り替える=比較しながら作品を分析することで、ひとつの再帰性の内側からではみえてこなかった問題の所在や、新たな作品解釈を明らかにする。それが比較文学という手法です」(単行本p.108)

 「比較文学の方法論をより広く適用し、素材を狭義の文芸作品に限らずにこのような文化間の摩擦について考察する学問を、比較文化と言います。これもしばしば誤解されていますが、比較文化とは「日本人は集団主義的で、西洋人は個人主義的だ」といった適当な比較をすることではなく、「ある文化の中にいてはあまりに自明視されすぎて気づくことができない思考や慣習の前提を、他の文化との対照によって明らかにする」営為です」(単行本p.117)

 「作品を製作当時の時代背景と対照しながら分析することで、そこで当たり前のように用いられている表現が、どのような文脈の下で成立してきたのかを解明する技法を、文芸批評の用語で新歴史主義(ニュー・ヒストリシズム)と言います。「ニュー」がつく理由は、「日本でマンガが盛んになったのはね、古代の『鳥獣戯画』以来の伝統があるからなんだよ」といったかたちで、なんでも安易に伝統の産物にしてしまう類のベタな「歴史主義」ではなく、第2章で見たように歴史自体が再帰的な存在であることを受けとめた上で、もっとまじめにやろうよという含意だと思ってください」(単行本p.129)

 「近代世界で植民地とされた側の視点を導入して、長らくオリエンタリズム的に語られてきたいままでの歴史観や文化観を覆そうとする研究手法を、ポストコロニアリズム(脱植民地主義批判)と言います。 このポストコロニアリズムも、もともとは文芸批評の一技法だったのですが、現在では文学の分野にとどまらず、国際政治や世界経済の研究にまで広く取り入れられています」(単行本p.132)

 「この「認識し続けることによって存在し続ける」という再帰的な共同体のあり方を分析する技法として、1980年代以降の国民国家やナショナリズムをめぐる議論では、「物語」に注目が集まりました。(中略)物語、ないし「語ること」が果たす機能や効果を分析する文学研究の手法を、ナラトロジー(物語論)と呼ぶことがあります。国家や国民を「最初からあるもの」ではなく「再帰的な存在」として把握することは、まさにナラトロジーの技法を応用して、政治や歴史の展開を捉えなおすことでもあります」(単行本p.141)

 「私たちは近代に入って前近代より進歩したつもりでいるけれど、結局この再帰性のループの外側に出ることは不可能なままだという点では、まったく大したことなどできてないのではないか。 このようなかたちで、(特に西洋の)「近代」の価値に疑いを突きつける一連の思想を、ポストモダニズムと言います」(単行本p.159)

 「ふだん私たちがなんとなく「正しい」とものごとを判定している際の判断基準を抽出して、それが「本当に正しい」と言えるのかを、具体的な事例や思考実験に照らしながら理詰めで考察する学問を、倫理学(特に、応用倫理学。生命がテーマな場合は、生命倫理学)と言います。倫理学というと、「イイ感じの泣ける話」をみんなで聞いて道徳的な気持ちになりましょう、みたいなお説教めいたものを想像しがちなのですが、実際には逆にあらゆる道徳を相対化して、再帰的に検討しなおす学問です」(単行本p.176)

 という具合に、再帰性というキーワードを使って、様々な文系学問分野が、「日本人は存在するか」という問いに対してどのようなアプローチを提供してくれるかという具体例を示しながら、紹介されてゆきます。あたかもそれは文系学問のショーケース、カタログ、いやむしろ回転寿司。

 こうして既存の認識を大いにゆさぶられた学生たちが、「すべては再帰的な存在、つまり何の根拠もなく自分たちが勝手に決めて信じ込んでいる“捏造”だったんだよ!(な、なんだってーっ)」「絶望した!この嘘にまみれた世界に絶望した!」とかいって大学を辞めて放浪の旅に出てしてしまうのを防ぐために(憶測)、次のようにまとめてきます。

 「国籍、民族、歴史、文化など、私たちが「日本人」であることを支えていると思われる要素は、いずれも人間の認識を通じて再帰的に作られたものだった。したがって、それらは政治や経済や国際社会の動向と密接に絡み合いながら、かたちを変えてゆきます」(単行本p.138)

 「「日本人とはなにか」という問題は、「人間は再帰的にしかその定義を出しえない」という、もうひと回り大きな問題の一部だったのですね。(中略)近代には「この世界が再帰的であること」を知ることは、伝統からわれわれを解放してくれる喜びに満ちた体験でした。しかしポスト近代のいま、私たちはむしろ「すべてが再帰的であり、すなわち私たち自身の責任であること」を知って、苦しんでいる」(単行本p.168)

 「結局のところすべては再帰的な存在だから、そこには永遠も絶対も不変もない。しかし裏を返せば、それは私たちにはこれからもずっと、日本という国、日本人という存在、そして自分たちが正義と考える行いを、よりもっと優れた存在へとリニューアルしていくチャンスがあるということなのです」(単行本p.181)

 というわけで、文系学問の専門分野がそれぞれどのような問題意識のもとに何を研究しているのかを広く紹介しながら、そもそもなぜ学問をするのか、というところまで学生を導く、素晴らしい教養科目の授業。

 巻末には、参考文献として、それぞれの専門分野における入門書的な位置づけの書籍がリストアップされていますので、回転寿司で回ってきたネタが気に入ったら、その分野にすぐさま入門できるようになっているという親切設計。私だって、教養課程でこんな授業を受けていたなら、進路を考え直したかも知れません。この授業を受けられる今の学生たちが羨ましい限りです。


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