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『NOVA8  書き下ろし日本SFコレクション』(大森望:責任編集、山田正紀) [読書(SF)]

 バチガルピに駄洒落で挑む北野勇作、二足歩行する猫が愛しい松尾由美、カレーが日本史を動かしたと語る青山智樹、魚へ変貌してゆく主婦に感情移入させる友成純一、怪獣SF・ロボットSFの次は時間SFで勝負してきた片瀬二郎、ハッタリSFの豪速球を見せつける山田正紀、そして既刊NOVA掲載作品の続編を書き下ろした飛浩隆と東浩紀。全篇書き下ろし新作の日本SFアンソロジー『NOVA』、10篇を収録した第8巻。文庫版(河出書房新社)出版は2012年07月です。

 さて、季刊『NOVA』の第8弾です。今回もホラー、ギャグ、ほのぼの、そして宇宙SFから時間SFまで幅広くそろっています。

 冒頭に置かれたのは『大卒ポンプ』(北野勇作)。不況で人員整理の噂が流れる会社で、人間ポンプくん(大卒)がどっかいってしもうた、という会社員不条理話。

 「大卒のポンプなんか、他におらんからな。あっぱれあっぱれ、大卒ポンプ」
 (文庫版p.26)

 もちろん元ネタは『第六ポンプ』(パオロ・バチガルピ)ですが、いやー、この駄洒落、思いつきまへんわ普通。でも一番凄いのは、「あり得べき近未来社会を描いた巻頭作」(文庫版p.13)なる紹介文でしょう。

 飛浩隆さんの『#銀の匙』と『曠野にて』の二篇は、いずれもNOVA1に掲載された『自生の夢』の前日譚で、天才詩人アリス・ウォンの誕生と幼少期を扱った作品。個人的に好きなのは『曠野にて』で、文章による世界構築を囲碁のような陣取り型ボードゲームにする、というアイデアが光ります。

 『落としもの』(松尾由美)は、人間が撤退した後に猫たちが残された星で、眼鏡を拾った猫が友達に相談する話。ますむらひろし風のビジュアルイメージで、ほのぼのファンタジーが展開します。猫好きは、ほろりときますね。

 『人の身として思いつく限り、最高にどでかい望み』(粕谷知世)は、何でも願いをかなえてくれる「神」に出会った若者の話。昔話風のファンタジーで、SF色はほとんどありません。

 『激辛戦国時代』(青山智樹)は、何というか、抱腹絶倒ギャグ歴史小説。光秀の謀叛の陰にはカレーがあり、秀吉が朝鮮出兵を決意したのはキムチが目当てであった。「誰それは純粋な辛さになった」という文章が繰り返される度に笑っちゃうのですが、さすがに途中で飽きてくるのが難点。

 『噛み付き女』(友成純一)は、都市伝説から始まって、楳図かずお風ホラーへと展開してゆきます。NOVA5に掲載された『アサムラール バリに死す』と同じく呪いの奇病ネタ、というかインスマスものですが、時間をさかのぼってゆく構成が実に巧みに用いられています。グロテスクな変容譚から始まって、次第に主婦に感情移入させられて、最後はほろりとくる、その手際が見事。

 『00:00:00.01pm』(片瀬二郎)は、時間停止もの。自分を除く世界中が時間停止してしまうというシチュエーションを背景に、絶対的な孤独と、神にも匹敵する力を得たことから、狂気に追い詰められてゆく人間の姿を描きます。『お助け』(筒井康隆)の発展形というか、けっこうエグい残虐シーンも含まれます。「これは笑うところだろうか」という繰り返しが効果的。情緒に訴えるラストは、さすが『サムライ・ポテト』(NOVA7掲載)の作者。

 『雲のなかの悪魔』(山田正紀)は、現実的、物理的、論理的に脱出不可能な宇宙牢獄に一人の革命的少女が挑むという、これは驚くべきハッタリSFの金字塔。素粒子論やら宇宙論やらの用語をチャフのようにまき散らしながら、ウィリアム・ギブスンのカッコよさと『レンズマン』シリーズの勢いで爆走してゆく物語。

 「二者の愛情が公差衝突したときその愛情量は二者の愛情総和に匹敵する」(文庫版p.322)

 なんて無茶な「物理法則」がまかり通り、ヒロインがニュートリノとなって余剰次元に漏出したり、情報構築体が祈りのクオリアでマックスウェルの悪魔を退散させたり、ヒッグス場を操ってブラックホールと戦ったり。考えるな、感じるんだ、というハイテンション、ハイスピードで最後まで突っ走ります。プロットは少年漫画的なんですが、無理があるとか意味不明とか破綻しているとか、指摘するほうが気恥ずかしくなるような、強引なちからわざの連続。山田正紀SFとしかいいようがなく。

 『オールトの天使』(東浩紀)は、『クリュセの魚』(NOVA2掲載)シリーズの完結編。ワームホールを抜けた先での再会とファーストコンタクトが描かれ、シリーズ全体の背景設定が明かされ、そして帰還する物語。個人的な印象としては、やはり最初の『クリュセの魚』が一番面白く、先に進んで話が大きくなるにつれてかえって盛り下がっていったような気がして残念です。


[収録作品]

『大卒ポンプ』(北野勇作)
『#銀の匙』(飛浩隆)
『落としもの』(松尾由美)
『人の身として思いつく限り、最高にどでかい望み』(粕谷知世)
『激辛戦国時代』(青山智樹)
『噛み付き女』(友成純一)
『00:00:00.01pm』(片瀬二郎)
『雲のなかの悪魔』(山田正紀)
『曠野にて』(飛浩隆)
『オールトの天使』(東浩紀)


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『Nameless Voice ~水の庭、砂の家』(Noism1、振付演出:金森穣) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 先週の土曜日(2012年07月07日)、彩の国さいたま芸術劇場小ホールにて、金森穣率いる「りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館劇場専属舞踊団」"Noism1"の新作公演を鑑賞しました。

 途中15分の休憩をはさむ1時間強の作品で、水、というかいわゆる水危機(ウォータークライシス)がテーマとなっています。

 水を満たしたペットボトルで囲まれた舞台(手前にまで「猫避け」のようにずらりと並べられている)で、人々が水紛争を繰り広げる、というのが第一幕。

 空のペットボトルが散乱するなか、水の入った一本のペットボトルをダークスーツを着用した男たちが大真面目に奪い合うという、深刻なのか滑稽なのか微妙な振付で始まります。

 舞台背景に投影された水危機に関する映像、様々な暴力(性暴力含む)、地域紛争、妊娠出産など様々なイメージを重ねつつ、水資源枯渇(舞台上に降り積もってゆく砂)による終末論的世界へと突き進んでゆきます。

 休憩をはさんで第二幕になると、世界破滅後を思わせる荒涼たる風景が広がります。舞台は砂漠化し、木々は枯れ、かろうじて生き延びている人間たちも何か変容しちゃってる。そんな悲惨でグロテスクな風景の中で、愛や家族の行方が描かれます。

 ダンス公演としては、何といっても井関佐和子さんの動きが素晴らしい。特に、リフトされたときの水中を泳ぎ舞うような動きは印象的で、思わず、はっとさせられます。ラスト近く、出演者全員(ただしシルエット)による群舞が醸しだす静謐な寂寥感にも胸を打たれます。

 随所に驚きを仕掛けた演出は悪くないし、ダンスのシャープさには感心したのですが、環境問題や家族といった象徴性を匂わせすぎるのは、ちょっとダサいかも。個人的には、小細工なしにがんがん踊るシーンがもっと観たかった気もします。


[キャスト]

演出振付: 金森穣
音楽: utp_ ( alva noto + ryuichi sakamoto )
衣裳: 堂本教子
映像: 遠藤龍
出演・テスキト: Noism1
井関佐和子、藤井泉、小尻健太、宮河愛一郎、宮原由紀夫、藤澤拓也、亀井紗加、角田レオナルド仁、真下恵、青木枝美、中川賢


タグ:金森穣
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『母のぴぴぷぺぽぽ  『母の発達』半濁音編(「文藝」2012年夏号掲載)』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第61回。

 「パピプペポの母については、また、そのうちね。----作者」
 (『にごりのてんまつ 『母の発達』濁音編(「文藝」2007年冬号掲載)』より

 『母の発達』から17年、『濁音編』のラストで冗談めかして「そのうちね」と告げてから5年近くの歳月が流れ、ついに『半濁音編』が書かれました。まことめでたい。

 「ダキナミヤツノの業績? そんなものとうの昔に忘れられていた。どころか、誰それ?の世界に彼女はいた」(「文藝」2012年夏号p.196)

 ということなので、ちょっと振り返っておきましょう。

 まず、1996年に『母の発達』という小説が出版されました(2007年09月13日の日記参照)。母をセンメツし、カイタイし、しかも発展的解消させちゃう話です。1999年に文庫化されています。めちゃくちゃ面白いので、未読の方は、この機会にすぱっと購入してしまうことをお勧めします。

 「かつて母虫神話の創設者として、一部フェミニストからも相当の誤解含みで称賛されていた」(「文藝」2012年夏号p.196)

 「「従来の母親神話、母性への偏見にこりかたまった世界観を打破する」という表面的主題をそれは持っていたから。つまり世の中はその煽りによって、ヤツノの作品を簡便に理解出来たのだ」(「文藝」2012年夏号p.197)

 「未だに激しくジャケ買いをされる、華麗な装丁の書物に隠されている、ひとつのテーマはずっと秘められたままである。それはこの小話集の、世界規模国家規模のインチキ言語を暴くという隠された(文章それ自体の)悲願であり、歳月をへてまだ誰も、気付かない正味だった」(「文藝」2012年夏号p.197)

 えええっ、そうだったんですか。痛快大回転ユーモア小説だと思って、けたけた笑いながら読んでました。すいません。

 その『母の発達』のラストで主人公であるダキナミ・ヤツノは死んでしまうのですが、「文藝」2007年冬号に笙野頼子特集の一部として掲載された続編『にごりのてんまつ  『母の発達』濁音編』(2007年10月18日の日記参照)では、ヤツノは母天国にいて、やがて再び地上に降りてくるのでした。

 そして本作。地上に降りたヤツノが何をしているかというと、故郷の三重に帰り、かつて母を殺した実家に戻って、韓流ドラマを観ているのでした。

 いや、本当です。延々とヤツノが観ている韓流ドラマの登場人物紹介とストーリー解説が続きます。勢いで、文章に韓国語の単語が混じってきたりします。

 「でも、そうそう、これはなんという「ぱ」だろうなんという「ぴ」だろうなんという「ぷ」だろうなんという「ぺ」だろうねそしてなんという「ぽ」なのだろう。真似したい、出来ない、ヤツノは心を吸われて、この「ぱ」をころがしたい。この「ぺ」を展開させたい、ああああ、断言はダンギョレと発音するのですに」(「文藝」2012年夏号p.213)

 韓国語には半濁音、パピプペポの発音が多く、女子アイドルグループ"FIN.K.L"は「ピンクル」と発音するのです、coffeeはコピ、だから世界的コーヒーチェーン店はスターボクスコピ、そっから、母のぴぴぷぺぽぽ、へと。

 そっからつながるのかー。

 ウラミズモ温泉協会で、いつも爽やかなプルトニウムの母が演説していわく。

 「今後の私は反原発をもかねますのよ、これからは売れる反原発判りやすい反原発トラブルのない反原発だけを報道します。だって私以外の反原発では再稼働が出来ませんもの」(「文藝」2012年夏号p.215)

 彼女の選挙対策は全部パニックの母が担当し、プレゼンの母が褒め、プロパガンダの母は付和雷同、ポパーの母も陰で糸を引いてたり。

 プレカリアートの母が怒鳴るものの、息子たちが「おい女はだまっとれ、景気が落ち込んだらわしらからあぶれるんじゃ」(「文藝」2012年夏号p.216)と弱い立場から弱い立場へ同調圧力。ペンは剣より弱いかもの母は日和見、反対意見にはピーの母がかぶさって消してしまう。

 「変わった変わったと言われる震災以後の社会、しかしそれはただ震災の前も後もただただただただ、たった一種類の嫌さがまかり通るだけだった」(「文藝」2012年夏号p.218)

 「なのに「気高い」人々は「実直に」言っている。「選挙で選んだのだから自分達の責任」と。騙されて責任、取り囲まれ責任、作り込まれて責任、押しつぶされて責任、犯人だけが粛々と免責されながら。ああ。」(「文藝」2012年夏号p.213)

 「生き残ったものは恥ずべきものとして記録されるだろう」、「生き残ったものは恥ずべきものとして記録されるだろう」、「生き残ったものは恥ずべきものとして記録されるだろう」。」(「文藝」2012年夏号p.213)

 312以後のぱぴぷぺ日本で生きてゆくヤツノ、そして私たち。

 でも、文学はある。

 「ああぱぴぷぺぽぴぷぺぴぴぷぺぽん。あらゆるぱぴぷぺぽとヤツノは踊ってみる、生きようとして」(「文藝」2012年夏号p.219)

 「パピルスピニンファリナプテラノドンペッピョンユン、ああポリフォニーもあるでもバラバラじゃわい」(「文藝」2012年夏号p.219)

 あらかじめ『母の発達』を読んでから本作に取りかかることをお勧めしますが、そうでないと分からないかというと、そんなことはありません。作中、ウィキ(たぶんウィキペディア)に書かれている(という設定の)ヤツノの解説記事が詳しく引用されており、それを読めばとりあえず大丈夫。

 ところで、この記事、ほぼ一行ごとに作者による訂正が入ってるんですが、これはやはり「Webちくま」への、あの寄稿が元ネタなんでしょうか。(参考 『現代文学論争』をめぐって http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/ronsou/

 というわけで、『母の発達』もこれで完結、いや待てアルファベット編があるかも知れないOK?、これでまた『神変理層夢経』の続きをひたすら待ち続ける日々。荒神さま、荒神さま。


タグ:笙野頼子
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『天井桟敷の人々』(ジョゼ・マルティネス振付)、『カラヴァッジョ』(ビゴンゼッティ振付、中村祥子、マラーホフ) [映像(バレエ)]

 2012年06月25日(月)午前0時より、NHK BS 『プレミアムシアター』にて、パリ・オペラ座バレエおよびベルリン国立バレエの舞台映像を放映してくれました。

 まずはパリ・オペラ座バレエ公演『天井桟敷の人々』。これはフランス映画の名作をバレエ化したもので、振付はジョゼ・マルティネスです。

 まず場面転換の鮮やかさに目を奪われます。幕を下ろさず、基本的に暗転もしません。照明を工夫しながら、大道具がするすると入れ替えられ、観客の目の前で舞台がなめらかにトランスフォームしてゆく様は何とも素晴らしい。

 この場面転換と共に効果をあげているのが、劇中劇のシーンです。舞台上に観客席を作って、登場人物たちが劇中劇を鑑賞する、というシーンが繰り返され、これが重要になります。

 登場人物がバレエ公演に出演するシーンなど、架空のバレエ団が舞台上で本当に「公演」を行い、あまつさえ終演後のカーテンコールまでやってしまい、それを観ていた登場人物が花束を投げる、といった粋な演出も。

 さらには、幕間に登場人物たちがホールの外(!)でシェークスピア劇を踊ったりします。キャストに「デズデモーナ: ミテキ・クドー」とあるのを見て、誤植かしらと思ったのですが、実はこのシーンのこと。ちなみにクドーさんのデズデモーナは素敵でした。

 こういう、こじゃれた演出には感心したのですが、肝心の振付がどうもいまひとつに感じられて残念でした。滑稽なシーンはそれなりに面白く、楽しめるのですが(特に、バンジャマン・ペッシュの大仰な表現、カロリーヌ・バンスの弾けっぷり、好きです)、シリアスなシーンになると、何だか古典バレエの動きだけで構成した気の抜けたノイマイヤー作品みたいで、退屈してしまいました。

 さて、もう一つの舞台映像は、ベルリン国立バレエ公演『カラヴァッジョ』。

 これはビゴンゼッティがベルリン国立バレエ団のために振り付けた作品で、マラーホフとポリーナ・セミオノワが中心となって、それに中村祥子さんも重要パートを踊るという豪華な舞台。

 これは以前に市販映像で観たことがあります。2010年05月27日の日記を参照して下さい。これが四十代の肉体、動きだとは到底思えないマラーホフ、そして中村祥子さんが登場するつごう三回のシーンは必見です。


NHK BS プレミアムシアター
2012年06月25日(月)【24日(日)深夜】午前0時~午前4時


パリ・オペラ座バレエ公演
バレエ『天井桟敷の人々』全2幕

[振付]
    ジョゼ・マルティネス

[出演]
    ガランス: イザベル・シアラヴォラ
    バチスト: マチュー・ガニオ
    フレデリック・ルメートル: カール・パケット
    ラスネール: バンジャマン・ペッシュ
    伯爵: クリストフ・デュケンヌ
    ナタリー: ミュリエル・ズスペルギー
    マダム・エルミーヌ: カロリーヌ・バンス
    バレリーナ: ノルウェン・ダニエル
    デズデモーナ: ミテキ・クドー
    パリ・オペラ座バレエ団

[音楽]
    マルク・オリヴィエ・デュパン作曲
    ジャン・フランソワ・ヴェルディエ指揮、パリ・オペラ座管弦楽団

[美術]
    エツィオ・トフォルッティ

[衣装]
    アニエス・ルテステュ

[照明]
    アンドレ・ディオ

[収録]
    2011年7月6日、9日。パリ・オペラ座ガルニエ宮。


ベルリン国立バレエ団公演
バレエ『カラヴァッジョ』

[振付]
    マウロ・ビゴンゼッティ

[出演]
    ウラディーミル・マラーホフ
    ポリーナ・セミオノワ
    ベアトリス・クノップ
    ミハイル・カニスキン
    ドミートリ・セミオノフ
    エリサ・カリッリョ・カブレラ
    中村祥子
    ミヒャエル・バンジャフ
    レオナルド・ヤコヴィーナ

[音楽]
    ブルーノ・モレッティ(原曲:モンテヴェルディ)
    ポール・コネリー指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団

[衣装]
    クリストファー・ミラー、ロイス・スワンデル

[照明・装置]
    カルロ・チェッリ

[収録]
    2008年12月。ベルリン国立歌劇場。


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『餓鬼道巡行』(町田康) [読書(小説・詩)]

シリーズ“町田康を読む!”第43回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、リフォームのため台所が使えなくなった作家が外食に挑戦する様を面白おかしく書いた自虐ユーモア長篇『餓鬼道巡行』と、食事をテーマとした詩集『美食放埒』を合わせた一冊。単行本(幻冬舎)出版は、2012年06月です。

 「その日の夕、流し台のなくなった台所を見て私は気楽にも「ははは。さっぱりしよった」と嘯いていた。いま思えばそのときの自分は本当に気楽であったと思う。なぜなら自宅で湯も沸かせなくなった自分はその日の夜より、飢えと渇きに苦しみつつ餓鬼道を経巡るようになったからである」(単行本p.46)

 自宅のリフォームで台所が使えなくなった作家、まずはコンビニでインスタント食品を購入、さらに外食に出かけたものの適当な店が見つからず、とりあえず近所の定食屋でとろろ定食を食したところこれが激マズ、次にラーメンを喰ったがうまくもなんともなかった、完。

 たったこれだけの内容を200ページを超える長篇小説にしたという驚くべき作品。定食屋のメニューをひたすら描写したり、ラーメン屋の佇まいを禅の公案として読み解いたり、飯喰いながら悟りだ宇宙だ実存だと、まるで泉昌之さんの脱力グルメ漫画みたいなお馬鹿なことを延々と書き続けます。

 「情報化社会というのはまるでつくねの中に天現寺交差点が丸ごと入ってしまったような社会だ。もっというと、広尾そのものが巨大な温野菜になってしまったようなものか。俺はいま自分でなにを言っているかわからなくなっているし、自分すら見失っているが、それすら情報化社会の賜物なのだろう」(単行本p.145)

 普通なら怒るところですが、これが何しろ面白いのだから始末におえません。読んでいて思わず「ぷぷっ」と吹き出してしまいます。

 「そんなことになるのは嫌だが、事実なので仕方がない。と言うと、事実だから仕方がないだろう、と開き直っているように聞こえるかも知らんが、猿に誓って言う。そんなつもりは毛髪ない。禿げである」(単行本p.33)

 「なんて言うと、なにか僕がふざけているように聞こえるが、正直に言う。ほんの少しだが、ふざけていた。そりゃあ、僕だって人間だ。ふざけるときだってある。(中略)しかし、だからといって逃げるつもりはない。僕も男だ。言ったことには責任を持ちたいなあ、という希望がまったくないわけではない」(単行本p.33, p34)

 まあ、買物ではなく外食する『バイ貝』、飯を喰うという目的を持って熱海を徘徊する『どつぼ超然』、という感じでしょうか。実はタイトルを見て「さては『宿屋めぐり』の続編か」と期待したのですが、これは愚かでした。

 西宮大策さんの写真が間に挟み込まれています。

 さらに後半には食事をテーマとした詩集『美食放埒』を収録。

   「飢渇、僕らにイワシを、鰯のピッツアを

    飢渇、僕らに平目を、平目のぶつ切りを

    飢渇、僕らにテリーヌを、フォアグラのテリーヌを

    飢渇、僕らにソテー、キノコのソテーを

    飢渇、僕らにワインを、ぐんぐんに冷却された白ワインを

    飢渇、僕らは万民、だから万民向けのお料理を

    飢渇、いまこそ

    飢渇、いまこそ

    飢渇、いまこそ

    飢渇、いまこそ

    飢渇、いまこそ

    飢渇、いまこそ
  
    与えたまえ、与えたまえ、清めたまえ、与えたまえ」

(『私たちの餓えを清めてください』より)

 こんな感じで、「溜池山の王」や「六本の木」や「自由の丘」について、「酔っぱらいのジョナサン」と「怠けものでカラオケ狂いの吉野兆吉」について、力強く歌い上げてゆきます。頭の中で凶暴なリズムを刻みながら声に出して読むと、腹減った、てめえふざけんな、何しようが俺の勝手だろ、といったテーマが心を震わせてきます。飢餓感。


タグ:町田康
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