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『母のぴぴぷぺぽぽ  『母の発達』半濁音編(「文藝」2012年夏号掲載)』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第61回。

 「パピプペポの母については、また、そのうちね。----作者」
 (『にごりのてんまつ 『母の発達』濁音編(「文藝」2007年冬号掲載)』より

 『母の発達』から17年、『濁音編』のラストで冗談めかして「そのうちね」と告げてから5年近くの歳月が流れ、ついに『半濁音編』が書かれました。まことめでたい。

 「ダキナミヤツノの業績? そんなものとうの昔に忘れられていた。どころか、誰それ?の世界に彼女はいた」(「文藝」2012年夏号p.196)

 ということなので、ちょっと振り返っておきましょう。

 まず、1996年に『母の発達』という小説が出版されました(2007年09月13日の日記参照)。母をセンメツし、カイタイし、しかも発展的解消させちゃう話です。1999年に文庫化されています。めちゃくちゃ面白いので、未読の方は、この機会にすぱっと購入してしまうことをお勧めします。

 「かつて母虫神話の創設者として、一部フェミニストからも相当の誤解含みで称賛されていた」(「文藝」2012年夏号p.196)

 「「従来の母親神話、母性への偏見にこりかたまった世界観を打破する」という表面的主題をそれは持っていたから。つまり世の中はその煽りによって、ヤツノの作品を簡便に理解出来たのだ」(「文藝」2012年夏号p.197)

 「未だに激しくジャケ買いをされる、華麗な装丁の書物に隠されている、ひとつのテーマはずっと秘められたままである。それはこの小話集の、世界規模国家規模のインチキ言語を暴くという隠された(文章それ自体の)悲願であり、歳月をへてまだ誰も、気付かない正味だった」(「文藝」2012年夏号p.197)

 えええっ、そうだったんですか。痛快大回転ユーモア小説だと思って、けたけた笑いながら読んでました。すいません。

 その『母の発達』のラストで主人公であるダキナミ・ヤツノは死んでしまうのですが、「文藝」2007年冬号に笙野頼子特集の一部として掲載された続編『にごりのてんまつ  『母の発達』濁音編』(2007年10月18日の日記参照)では、ヤツノは母天国にいて、やがて再び地上に降りてくるのでした。

 そして本作。地上に降りたヤツノが何をしているかというと、故郷の三重に帰り、かつて母を殺した実家に戻って、韓流ドラマを観ているのでした。

 いや、本当です。延々とヤツノが観ている韓流ドラマの登場人物紹介とストーリー解説が続きます。勢いで、文章に韓国語の単語が混じってきたりします。

 「でも、そうそう、これはなんという「ぱ」だろうなんという「ぴ」だろうなんという「ぷ」だろうなんという「ぺ」だろうねそしてなんという「ぽ」なのだろう。真似したい、出来ない、ヤツノは心を吸われて、この「ぱ」をころがしたい。この「ぺ」を展開させたい、ああああ、断言はダンギョレと発音するのですに」(「文藝」2012年夏号p.213)

 韓国語には半濁音、パピプペポの発音が多く、女子アイドルグループ"FIN.K.L"は「ピンクル」と発音するのです、coffeeはコピ、だから世界的コーヒーチェーン店はスターボクスコピ、そっから、母のぴぴぷぺぽぽ、へと。

 そっからつながるのかー。

 ウラミズモ温泉協会で、いつも爽やかなプルトニウムの母が演説していわく。

 「今後の私は反原発をもかねますのよ、これからは売れる反原発判りやすい反原発トラブルのない反原発だけを報道します。だって私以外の反原発では再稼働が出来ませんもの」(「文藝」2012年夏号p.215)

 彼女の選挙対策は全部パニックの母が担当し、プレゼンの母が褒め、プロパガンダの母は付和雷同、ポパーの母も陰で糸を引いてたり。

 プレカリアートの母が怒鳴るものの、息子たちが「おい女はだまっとれ、景気が落ち込んだらわしらからあぶれるんじゃ」(「文藝」2012年夏号p.216)と弱い立場から弱い立場へ同調圧力。ペンは剣より弱いかもの母は日和見、反対意見にはピーの母がかぶさって消してしまう。

 「変わった変わったと言われる震災以後の社会、しかしそれはただ震災の前も後もただただただただ、たった一種類の嫌さがまかり通るだけだった」(「文藝」2012年夏号p.218)

 「なのに「気高い」人々は「実直に」言っている。「選挙で選んだのだから自分達の責任」と。騙されて責任、取り囲まれ責任、作り込まれて責任、押しつぶされて責任、犯人だけが粛々と免責されながら。ああ。」(「文藝」2012年夏号p.213)

 「生き残ったものは恥ずべきものとして記録されるだろう」、「生き残ったものは恥ずべきものとして記録されるだろう」、「生き残ったものは恥ずべきものとして記録されるだろう」。」(「文藝」2012年夏号p.213)

 312以後のぱぴぷぺ日本で生きてゆくヤツノ、そして私たち。

 でも、文学はある。

 「ああぱぴぷぺぽぴぷぺぴぴぷぺぽん。あらゆるぱぴぷぺぽとヤツノは踊ってみる、生きようとして」(「文藝」2012年夏号p.219)

 「パピルスピニンファリナプテラノドンペッピョンユン、ああポリフォニーもあるでもバラバラじゃわい」(「文藝」2012年夏号p.219)

 あらかじめ『母の発達』を読んでから本作に取りかかることをお勧めしますが、そうでないと分からないかというと、そんなことはありません。作中、ウィキ(たぶんウィキペディア)に書かれている(という設定の)ヤツノの解説記事が詳しく引用されており、それを読めばとりあえず大丈夫。

 ところで、この記事、ほぼ一行ごとに作者による訂正が入ってるんですが、これはやはり「Webちくま」への、あの寄稿が元ネタなんでしょうか。(参考 『現代文学論争』をめぐって http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/ronsou/

 というわけで、『母の発達』もこれで完結、いや待てアルファベット編があるかも知れないOK?、これでまた『神変理層夢経』の続きをひたすら待ち続ける日々。荒神さま、荒神さま。


タグ:笙野頼子
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