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『この世のメドレー』(町田康) [読書(小説・詩)]

 「知りたいか。教えてやろう。僕は超然者でもなんでもない。ただの世を拗ねたおつさんだ」
 「あ、そうだったんですか」

 シリーズ“町田康を読む!”第44回。
 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、超然たる生き方を求め熱海をひたすら彷徨った『どつぼ超然』、待望の続編です。誰の待望。

『東京飄然』あらすじ

 飄然たる生き方を目指して旅に出た作家は、大阪梅田の「串カツ自分だけ一本少なかった事件」に打ちのめされ、世を拗ねてしまうのであった。

『どつぼ超然』あらすじ

 心機一転、東京から熱海に引っ越し、「もはや余が目指すのは飄然ではない。“超然”である」と宣言した作家は、熱海の町をひたすら放浪し、あまりに超然からほど遠い様に絶望するのであった。

『この世のメドレー』あらすじ

 自分は悟りを開いて超然者となったと言い張る作家が、来る日も来る日もチキンラーメンや握り飯ばかり食していたところ、小癪な若造が尋ねて来たので一緒に熱海の町に飯を喰いに。帰りにふと沖縄に飛び、なりゆきでロックバンドを結成してデビューコンサートへ。そして「余は超然者などではなかった。余はただのバカモノであった」(単行本p.312)と悟るのであった。七年の歳月、長篇小説三冊分、一千ページを費やした結論がそれでいいのか。

 というわけで、「醜態を演じる。それはそれでおもしろいことを余は知っている。醜態・愚行。そんなことを演じて私小説に書けば或いは絶賛されるかも知れない」(単行本p.276)とうそぶく現代の文豪による自然主義文学、私小説ならぬ余小説です。

 超然たる死に場所を求めて熱海の町を彷徨ってから二年、今作では小癪で生意気で「ときにチョボ口のようなこともしている」(単行本p.110)若造が道連れとなります。

 「余の文学は呪われた腐乱死体のための文学だ。愚劣な魂の競演だ。愚夫と凡夫のアホ食い選手権、猿と鳩のトークショーだ」、「もっと自信を回復してください。先生は人間からすればゴミクズですがミミズやミジンコからすれば神様のような存在です」(単行本p.97、p.105)

 「そんなことをやるのもひとつの超然行為と云えるのではないか、。と、読点と句点を同時に打つ。抉り込むように鬱」(単行本p.237)

 熱海では文学、沖縄ではロックを実践する二人。文学とは何か、ロック魂とは何か。

 「余は長いこと、脇見運転とは自分の脇を見ながら運転をすることだと頑に信じ、そんな無意味なことをする人間の奇怪な性質に深い興味と関心を持っていたが、それがただ単に風景を眺めることだと知ってからは、余自身もつまらない人間になったような気がしていたのだった」(単行本p.149)

 「いまをときめくルンバだって、結局はゴミしか吸い込んでいないのだ!」(単行本p.280)

 「子供の頃はジンギスカン、チンギスハーン、成吉思汗、この三つが同じものであることまでは理解しつつ大人たちがその三種の表記を同時に使って互いに殺し合わない姿勢に苦しんだ」(単行本p.282)

 作中で使用される楽曲「ポコランポコランズのテーマ」のオリジナル歌詞が全文掲載されているのも素晴らしい。

 「働き口もないのに。景気も悪いのに。ソブリンリスク増大。ユーロ崩壊。中国の台頭。自分の頭の悪み。酒の飲み過ぎ。ドシドシドシドシ。子供だけが生まれてくる。これから二十年間。誰が食わすのか。俺か。」(単行本p.230)

 最近の小説はダザイ不足で物足りないとおっしゃる文学青年や文学少女に向けて放たれた、文学とロックが炸裂する抱腹絶倒の余小説。くだらねえ、世の中なにもかもくだらねえんだよ、と叫びがちな若者に、本当にマジくだらないことを見せつけて更生させてしまいかねないぶっちぎり現代文学。個人的には、『どつぼ超然』より面白く、『バイ貝』や『餓鬼道巡行』よりもロックだと思う。お気に入りの一冊です。


タグ:町田康
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