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『雲をつかむ話』(多和田葉子) [読書(小説・詩)]

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ごく普通に小説家として暮らしていても、犯人の人生と自分の人生が交差することがある。そういう交差点よりももっと重要な交差点はいくつもあるのだけれど、自分にとって重要な出遭いについてはほとんど人に話す気にはなれないのに対し、犯人と出遭った胸躍る話はみんなに話してきかせたくなる。
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Kindle版No.35

 様々な事情で投獄された人々との出会い。輪郭を曖昧にしたまま雲のように流れゆくそれぞれの思い出を書いていたドイツ在住の日本人作家は、気がつくと彼らの物語の中を生きているのだった。犯罪者をテーマとしつつもどこか漠然とした不思議な感触の長篇小説。単行本(講談社)出版は2012年4月、Kindle版配信は2012年12月です。


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 後に犯人として逮捕された人と、それと知らずに言葉を交わしたことがこれまで何度かあった。どれも「互い違い」という言葉の似合う出遭いだった。朝、白いリボンのように空を横切る一筋の雲を見ているうちに、そんな出遭いの一つを思い出した。
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Kindle版No.6


 最初に語られるのは、自宅に立ち寄った内気そうな男が、実は逃亡中の殺人犯だったと後から知ったという話。獄中から手紙をもらい、いずれ話をしようと思いつつ、それっきりになっています。


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「終身刑の人と知り合いになったことがあるんです。でももう名前も忘れてしまって、もらった手紙がどこかにいってしまったんで、その手紙が見つかるまで、わたしはこの説明できない気持ちから解放されることはないと思うんです。」
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Kindle版No.1764

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一度聞いたら忘れられない話らしく、もう十年以上も前にこの話をした友達でもちゃんと覚えていてくれて、その後あの人はどうなったのかと、まるで恩師の近況でも訊くような口調で訊いてきたりする。
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Kindle版No.3263


 この妙に気になる話が最後まで尾を引きながら、ぼんやりとしながらもある種の統一感をもたらします。その流れの中で、次々と「投獄されたことのある人々」と「わたし」の出会いの思い出が語られてゆくのです。作家、詩人、牧師、役者、家政婦など職業も様々。文学イベント、学会、電車で乗り合わせた等、出会いのシチュエーションも色々です。

 どの話も輪郭が曖昧で、具体的で細かい細部の描写にも関わらずなぜかぼんやりと霞んでいるような印象を与えます。始まりと終わりも明瞭ではなく、別の話の途中から割り込んだり、ふと想起されたり、途中で終わってしまったり。事実なのか作り話なのか夢なのかも曖昧模糊とした、それこそ「雲をつかむような」話。

 しかし、人が犯罪を犯す動機は曖昧でも、国家が人を犯罪者にする意図はこの上なく明瞭です。何も悪いことをしなくても、例えば滞在許可の延長手続きを忘れただけでも、いや理由など知らされないまま、いきなり犯罪者として投獄され誰からも見捨てられるということは自分にだって充分起こり得ることだと、ドイツ(もと東ドイツ)に住んでいる日本人作家である「わたし」は不安に思っています。


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 日本にいた頃は、逮捕される可能性のある人間たちの範疇に自分を入れていなかった。監獄とは縁がないと思い込んでいた。国境を越えて外に出る時も、特に犯罪さえ犯していなければ、日本のパスポートを持っていることが何か安全保障でもあるかのように思い込んでいた。そもそも自分は悪いことなどしようとさえ思っていない。法を守るためなら空腹でも霜焼けでも我慢しようという心がけで生きている。そんな自分が逮捕されるはずはない。思い込みの根は深かった。(中略)
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犯罪者にされるというのはとても簡単なことなのだ。誰にも危害を与えなくても、生きているということ自体が不法滞在という犯罪になることがある。
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Kindle版No.495、637

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間違ったことをしないようにどんなに気をつけて生きていても、ある日突然、逮捕されたという話は小説で読んだことがある。逮捕されるのはいつなのか分からない。ずっと先かもしれない。たとえずっと先であっても、いつなのか分からないということは、毎日が「その日」である可能性を含むということだった。わたしは何も「わるいこと」はしていないのだから逮捕の理由はもちろんわたしには分からない。
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Kindle版No.1181

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ジュネが好きな人もドストエフスキーが好きな人も、いざ自分の友人が監獄に「ぶちこまれる」ことになると、できることならかかわりたくないという態度をとる。無罪なのに不当に監禁されているのか、それとも一応法律を犯しているのか、あるいは道徳的に見ても弁解の余地がないのか、それはとりあえず関係ない。友人は友人である。それなのに見て見ぬふりをする。
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Kindle版No.584


 この不安と恐れが作品全体を通じてつきまとい、どこか黒雲のように重苦しい雰囲気が漂います。


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抜き打ち検査にまわって来る人たちは別に暴力を生業とする人々ではないが、交通会社の社員でもなく、切符を調べるためだけに雇われている。普段着を着て、複数で組んで乗って来て、ドアのしまった瞬間に「切符を拝見します」と言う。(中略)
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 普通の乗客のふりをして乗ってくる人たちが実は取り調べをする側の人間だと分かる瞬間ぞっとする。わたしは独裁政治を背景にした小説を読み過ぎたせいで妄想が生まれやすい体質になっているのかもしれない。(中略)
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道を歩いている人をいちいち調べるわけにはいかないから、電車に乗っている人が切符を持っているか調べるとか、車を運転している人がお酒を飲んでいないか調べるとか、そういう理由をつけて普通に生活している人間を調べて、逮捕しようと国家は狙っているのかもしれない。たかが切符を持っていないだけで、身分証明書まで出させるなんて、どう考えてもおかしい。
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Kindle版No.1669、1673、1679


 そして「わたし」は飛行機に乗っている夢を見ます。いや、本当にそれは夢なのでしょうか。周囲の座席に座っている人々は、みんなそれまでに本作に登場した人々ばかりです。しかし、「わたし」はそのことに気づきません。いや、本当は気づいているのに、意識しないように努めているのかも知れません。狭い座席にシートベルトで縛りつけられたまま長時間フライトが続きます。それは「投獄」の象徴でしょうか。「わたし」はいったいどこに向かうのでしょう。


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もしもこの世の終わりみたいな大洪水が来るとしたら、そうなる前にあらゆる犯罪例を一つずつサンプルとして拾ってノアの方舟に乗せて救おうと考える悪魔がいてもおかしくない。それがこの飛行機なのかもしれない。そう思ってもう一度まわりをみまわすと、どの人も犯罪を犯す理由を抱えていそうだった。そう言うわたしもこの飛行機に乗っているのだ。
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Kindle版No.2912


 というわけで、犯罪者をテーマとしながら、その動機を追求したり、犯行を分析したりするのではなく、彼らとの出会いの思い出や印象をどこか漠然とした感触のまま語ってゆく長篇小説です。移民、亡命者、滞在外国人といった、いちおう社会に受け入れられているものの、いつ迫害されるか分からない不安を抱えて生きる人々の心象が心に残ります。


タグ:多和田葉子
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