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『増補版 図説 台湾の歴史』(周婉窈:著、濱島敦俊:監修・翻訳、石川豪:翻訳、中西美貴:翻訳、中村平:翻訳) [読書(教養)]

 「台湾の歴史的状況を知らない日本の読者に、もしもわたしが「戦後50年も台湾人は台湾の歴史を学ぶことができなかった」と言ったら、きっと困惑することであろう。さらにわたしが「台湾人が台湾の歴史を学ぶことができなかった歴史は100年にもおよぶ」と言ったなら、さらに困惑することだろう。そして、実のところ、台湾人のこの不思議な歴史的状況は、日本との関係に由来するのだ、などと言えば事情はさらに複雑なものになり、「謎」が深まるばかりである。わたしの本は、もしかしたら読者のこうした「謎」にいくらか答えるものになるかもしれない」(「日本語版への序文」より)

 台湾の歴史、それはいったい「誰の」歴史なのか。そして台湾人が一世紀に渡ってそれを学ぶことが許されなかったのはなぜなのか。異なる歴史認識が引き起こす社会の分裂を乗り越えるべく「学術的な本としては台湾で最も多く売れ、そして読まれた」(「監修者あとがき」より)台湾史の教科書。原書にはない「戦後篇」を追加した、日本語翻訳・増補版。単行本(平凡社)出版は2013年02月です。

 「現在台湾社会はまさに甚だしい分裂状態にある。この分裂の多くは、民族集団(族群)によって、歴史経験、記憶、そして認識について大きな隔たりがあることに由来するものである。(中略)台湾社会の分裂は、あらゆる問題にわたり、そして深刻である」(単行本p.7)

 「現在台湾の指導者は国民党系、あるいは民進党系のどちらに属しているとしても、台湾の過去について系統的な基本認識を持つ人はきわめて少ない。(中略)近代的教育が始まって以来、台湾人は100年来自己の歴史を学べなかった。戦争期世代には、台湾の歴史についての認識が欠如しているが、それはまさに今日の台湾の中堅世代についても同様である」(単行本p.236、259)

 特定の民族集団の歴史認識に偏らず、包括的に台湾の歴史を解説しようとする力作です。さらに日本語翻訳版には、原著にはない増補[戦後篇]が書き下ろされており、まさにこの一冊で台湾史の概要を知ることが出来るようになっています。

 第1章から第6章までは、先史時代から移民開墾社会へと到る歴史が、漢人の視点に偏らないよう注意深く記述されています。

 台湾先住民族の歴史、世界で最も種類が多く地理分布が広い「オーストロネシア語族」が台湾先住民によって世界中に拡散した可能性があること、「台湾」という呼称が実はオランダ語の地名"Tayouan"に由来すること、など興味深い話題が満載。

 しかし多くの日本人読者にとって気になるのは、やはり「第7章 日本統治時代」から先でしょう。

 「台湾は、日本の統治下で、近代化と植民地化の二重の歴史課程を経験した。(中略)両者はあたかもチェロとヴァイオリンが織り成す二重奏のようなもので、高低の弦音が、影と形の寄り添うがごとくに、双方を支え合っていると言える。もし台湾におけるこのもつれ合って分かちがたい両者の関係をなおざりにするならば、台湾人が日本統治に対して抱いている心情の複雑さと曖昧さを理解することはできないであろう」(単行本p.123)

 台湾植民地化の経緯や評価といった話題になると、日本人として何となくきまり悪い思いをしながらも、実のところよく知らないし、台湾人もあまり語らないようなので、まあいいや、みたいな感じで曖昧に流してきた私。本書はこの点について詳しく、公平に記述してくれます。

 抗日戦争、日本統治の特色、近代的な制度や設備の導入、同化教育、差別と弾圧、植民地解放運動、皇民化、そして台湾人日本兵。どう受け止めるにしても、日本人としてきちんと知っておきたいことばかりです。

 また植民地化の影響という点では、個人的には、次の二点に強い感銘を受けました。

 「いつから台湾住民が台湾を思考の明確な範疇とするようになったのか、またいつから台湾人を自称するようになったのか、ここに一つの明確な起点を見出せるかもしれない。1895年に台湾が日本に割譲されたという共通の運命によって、台湾の士紳と民衆は、地理としての台湾を思考の単位とせざるを得なくなった。言い換えれば清朝が分割した土地の範囲が、「台民」というアイデンティティを作ったのだ」(単行本p.153)

 「植民地統治がいかに豊富な遺産をとどめたにせよ、近代植民地統治の残した最大の傷痕は、おそらく、植民地人民から彼ら自身の伝統・文化や歴史認識を剥奪し、「自我」の虚空化・他者化を招いたことであろう。これは植民地においてもっとも癒されがたい傷痕なのである。台湾人は今なおその呪縛の中に生きているかのようである」(単行本p.263)

 日本語翻訳版で増補された[戦後篇]は、国民党政権による台湾接収、二・二八事件、白色テロ、38年続いた戒厳令(20世紀で最も長く続いた戒厳令だといわれる)、民主化運動、といった苦難の台湾近代史が語られます。虐殺、弾圧、思想統制。日本語版でしか読めないその過酷な内容には、戦慄を禁じ得ません。

 「台湾は植民地身分を脱却した後、すぐさま別の権威主義的統治の下に組み入れられ、ほどなくして二・二八事件が発生し、さらに間もなく巨大な中央政府及び膨大な軍民が台湾に撤退してきた」(単行本p.262)

 「国民党の台湾統治は、文化政策からしても、人事任用の上からしても、「疑似植民地統治」の傾向を免れることはできない。国民党統治が「二度目の植民」であったにせよ、あるいはまた「疑似植民地」であったにせよ、この一連の経緯が、台湾における「ポストコロニアル時代」の到来を緩慢で複雑なものとしてしまったのである」(単行本p.262)

 「全体的に見れば、台湾人は戦争期には中国人とまったく反対の立場、つまり日本人の側に立っていた。そのため必然的に、彼らは祖国の人びとの日本に対する怨恨感情を理解することができなかった。また逆に言えば、中国人もまた日本の植民地統治が台湾人に与えた影響、その功罪両面をまったく理解できなかったのである」(単行本p.203)

 現代の台湾をめぐる複雑な情勢、台湾社会を特徴づけるいくつかの重要なポイントが、どのような歴史的経緯を経て生まれたものなのか。それをおぼろげながらも理解するために、日本でもぜひ多くの人に読んでもらいたい一冊です。表面的な知識で「台湾は親日」などと物事を単純に捉えがちな若い人には特に。

 「国民党教育の枠組みで育った優秀な学生は、大学卒業後、立派に立身出世し、その枠外で起こった具体的な事物や知識に接する機会のなかった人物の場合、とりわけ白色テロ及びそれが「他者」に及ぼした傷痕について、30年経った今でも理解することはないだろう。明瞭に異なる歴史経験は、まったく異なった歴史的記憶を生み出す。「他者」の被害の歴史を知り、それを自己の記憶に組み入れることは、ある種の想像力と、現在の自分を超越する普遍的な理解力を必要とするものである」(単行本p.230)


タグ:台湾
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『ペンギンが空を飛んだ日 IC乗車券・Suicaが変えたライフスタイル』(椎橋章夫) [読書(サイエンス)]

 「2013(平成25)年3月23日、ついに交通系ICカードの全国相互利用サービスがスタートした。10種類のICカード、交通事業者は、鉄道52業者、バス96事業者、鉄道駅数4275駅、バス2万1450両、相互利用可能なICカード枚数8000万枚以上、相互利用可能な電子マネー加盟店約20万店舗となる、世界最大のIC乗車券ネットワークが完成した。(中略)今やSuicaは社会生活に必要不可欠な「オープンな巨大インフラ」となった。新しい社会インフラの誕生である」(新書版p.197、202)

 世界最大のICカードインフラはどのようにして開発されたのか。前人未到の巨大ネットワークシステムが大きなトラブルもなく安定運用できているのはなぜか。当事者が語るICカード乗車券Suicaの開発史。新書版(交通新聞社)出版は、2013年08月です。

 「最初に我々Suicaプロジェクトチームがその原点となるコンセプトを提案したとき、まだ海のものとも山のものともわからないICカードが、巨大な鉄道会社の事業の一つの柱になるなどと、本気で信じる者はほとんどいなかった。しかし、私はICカードに取り組むうちに、それがただの夢物語ではないことを確信していった」(新書版p.28)

 鉄道・バス・タクシーなどの乗車券、自動販売機や駅周辺の店舗で使う電子マネー、クレジットカードなど、様々な用途を兼ね備えたICカード「Suica」開発をめぐるノンフィクション。全体は10個の章に分かれています。

 最初の「第1章 一枚のカードが変えた鉄道の世界」では、Suicaにより鉄道業務、駅周辺、そして利用者のライフスタイルがどのように変化したかをまとめます。具体的な開発史が始まるのは、「第2章 技術開発の時代」から。

 「1987(昭和62)年、次世代の出改札システムとしてICカードを活用することに関しての検討が、民営化直後のJR東日本で始まった」(新書版p.36)

 ICカードを確実に読み取り、かつ利用者がスムーズに改札を通過できるようにするためには、接触式と非接触式のどちらがいいか。アクティブ方式かパッシブ方式か。電源は内蔵するか、周波数は、読み取りアンテナは横置きと縦置きのどちらがいいか。

 様々な試行錯誤を経て、次第に見えてくるICカード乗車券の姿。しかし、開発メンバーの前に最大の難問が立ちはだかります。多くの利用者が、読み取りに必要な時間だけカードを「かざす」動作をしてくれない、という問題です。

 「もっとも通過阻害率が少ないカバー・デザインがわかった。読み取り機面を13度傾けたデザインだった。このわずかな傾斜により、歩行速度が減速され、確実にタッチしてから改札機を通過できる。その後、Suicaの基本コンセプトとなった「タッチ・アンド・ゴー」が誕生した瞬間である」(新書版p.53)

 「呼び名を「かざす」から「タッチ・アンド・ゴー」に変えただけで、使う人の行動が大きく変わったのである。私はまるで、おとぎ話の魔法の呪文のような気がした。あとで調べて、わかったことだが、学問的には「メンタル・モデル」と呼ばれている」(新書版p.54)

 つい「ICカード読み取り時間をさらに短縮できないか」と課題設定してしまいそうですが、「必要な時間カードをかざすよう利用者の行動を変えるにはどうすればいいか」と視点を変えて解決したという、このエピソードが個人的お気に入りです。

 他にも(第5章に書かれているのですが)Suica定期券の表面に書かれた文字を書き換える「リライト技術」の開発にも感銘を受けました。

 これは何度も繰り返し使用するカードに「従来の定期券との見た目の互換性」を持たせることで利用者に安心感を与える、という目的で開発されたといういかにも日本独自技術で、こういう努力を「ガラパゴス化」などと揶揄するのはよくないと思うのです。

 「第3章 ビジネスモデル構築の時代」では、巨額の設備投資費をどのようなビジネスモデルで回収するのか、という難題への挑戦が描かれます。

 「ICカードを使った出改札システムの総投資額は約460億円。そのうち設備更新維持経費が約330億円。ICカードシステム導入経費が約130億円である。その130億円をどうするかが我々に突きつけられた課題だった」(新書版p.73)

 「まずは自動改札機のすみずみまで調べ尽くした。それこそビス一本一本の値段まで調べ上げた。どの部品がどれくらい消耗するか徹底的に調査した。(中略)最終的にSuica導入における「費用対効果」の切り札となったのは、磁気式自動改札機が抱えていたメンテナンスコストだった」(新書版p.75、76)

 どんな革新的な技術であっても、ビジネスモデルが具体的で説得力がないと支持されません。若い技術者は、このことをよく理解しておく必要があります。個人的には、ICカードの技術開発よりも、むしろ「ビス一本一本の値段まで調べ上げる」その姿勢に感銘を受けました。

 「第4章 Suica導入の時代 その1」および「第5章 Suica導入の時代 その2」では、巨大コンピュータネットワークシステムを実際に導入するための悪戦苦闘が描かれます。

 「日立、東芝、オムロン、ソニー、松下(パナソニック)、日本信号、日本電気などの企業に委員会を作ってもらった。(中略)数百件のトラブルが続出した。スケジュール半ばで続行は不可能と判断せざるを得なくなり、8月に試験は中止となった。 トラブルの原因の多くは、ソフトの不具合と機器メーカーごとに細かな部分での仕様の解釈がバラバラだったためだ。(中略)トラブルを起こした機器は所詮、単独で使われるスタンドアローンの機器だったのである。ネットワークにつないだ途端にボロが出た」(新書版p.101、103)

 「もし、センターサーバーがダウンして東京中のSuicaが使えなくなったら・・・。従来の改札機ごとに完結しているスタンドアローンのシステムでは、1台や2台が止まっても全体的に波及することはない。しかし、ネットワーク化をすれば、センターシステムの故障や、ネットワークの切断は、致命的なトラブルになってしまうのだ」(新書版p.90)

 複数のメーカーが「スタンドアローン環境での使用しか考慮せずに」開発した機器を巨大ネットワークにつないで一つのSuicaシステムを作り、それをトラブルなく運用する、というのがどれほどの困難であるか、私もネットワーク技術者なのでしみじみ分かります。この課題をどうやって乗り越えたのか、本書にはあまり詳しく書かれていないのですが、そこがむしろ知りたい。

 「第6章 Suica育成の時代」から「第9章 世界最大のIC乗車券ネットワークが完成した!」までは、導入後の展開が描かれます。

 「毎日約1万枚のSuicaが増え続けている勘定になる」(新書版p129)

 「一枚のICカードがJR、私鉄、地下鉄、バスそれぞれの会社の違いに関係なく交通網をシームレスにつないだことの意味はとてつもなく大きい」(新書版p.133)

 「2013(平成25)年3月末時点でSuica電子マネーが使える店舗は20万店を超えている」(新書版p.150)

 さらに、Suica対応自動販売機、モバイルSuica、クラウド型マルチ決済システム、そして夢の全国相互利用ネットワーク実現へと、Suicaの利用は果てしなく広がってゆきます。

 最終章「第10章 Suicaという“ものづくり”への思い」では、さらにSuicaシステムを利用した情報ビジネスへの展開が語られるのですが、これが凄い。

 「2013(平成25)年5月1日、JR東日本IT・Suica事業本部内に「情報ビジネスセンター」が設置された。Suicaの持つ膨大な情報(いわゆるビッグデータ)を解析し、当面は自社およびグループ各社のビジネスに活用するためのチームである」(新書版p.209)

 「Suicaの持つ情報の特徴は3つある。一つは、毎日2500万件にも及ぶ膨大な情報データベースであること。2つめは、その情報は移動や購買などのいわゆるライフログ(Life Log)と呼ばれるものであること、さらに、その情報がカードのID番号別に管理されていることにその特徴がある。この移動情報と決済情報を組み合わせて、新しいサービスを創出することが情報ビジネスの狙いである」(新書版p.210)

 誰が、いつ、どこからどこに移動し、何を購入したか。一日あたり2500万件のライフログが黙っていても蓄積されてゆくデータベース。これとビッグデータ解析技術を組み合わせたとき、どんなことが可能になるか。想像しただけで、わくわくすると共に、不安も感じます。

 というわけで、毎日何気なくお世話になっているSuica、それを支えているシステム。それが技術的にもビジネス的にも極めて興味深いものだということを再認識させてくれた一冊。世界中から講演依頼が殺到するというのもよく分かります。

 「講演では、「まったく新しいシステムなのにどうして大きなトラブルも起こさずに安定して稼働しているのか」といった技術的な興味や、「ビジネスの成功モデルとしての話を聞きたい」といった依頼が多かった」(新書版p.205)


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『日本SF短篇50 (5) 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー』(上田早夕里、宮内悠介、山本弘) [読書(SF)]

 「日本SF界は確実に世代交代の時を迎えようとしていた」(文庫版p.527)

 日本SF作家クラブ創立50周年記念として出版された日本短篇SFアンソロジー、その第5巻。文庫版(早川書房)出版は、2013年10月です。

 1年1作、各年を代表するSF短篇を選び、著者の重複なく、総計50著者による名作50作を収録する。日本SF作家クラブ創立50年周年記念のアンソロジーです。第5巻に収録されているのは、2003年から2012年までに発表された作品。

 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジーもいよいよ最終巻。収録されているのは、すべて現役の作家、今の作品。50年かけて日本SFがどこまでやってきたのか、これからどこに向かおうとしているのか、現時点におけるその到達点を再確認できる十篇です。


2003年
『重力の使命』(林譲治)

 「その天体はフェムト秒レーザーではじめて解析できるような微細な構造物で表面が覆われていた。基本は何等かの繊維状の構造物、そして胞子に相当するような形状。それはまさに黴としか言えない物である。そう、この天体は黴びているのである」(文庫版p.20)

 恒星間探査船が遭遇した不思議な天体。その秘密を探るべく着陸を試みたモジュールを襲った異常事態とは。「ダイヤモンド・ハードSF」と評される作者の面目躍如たる宇宙SF。古典ハードSFへのオマージュだと思わせるタイトルが巧妙。


2004年
『日本改暦事情』(冲方丁)

 「(星は人を惑わせるものとして思われがちですが、それは人が天の定石を誤って受け取るからです。正しく天の定石をつかめば、暦は誤謬無く人のものとなります----) 帰り道、二十代の終わりに、保科正之に対して告げた言葉が、卒然と蘇った。 「やっと天に届きました。・・・・・・保科様・・・・・・関殿・・・・・・」」(文庫版p.88)

 江戸時代前期、日本史上はじめて独自に暦が作成された。大和暦の完成と採用に向けた艱難辛苦とそれを通じた若者の成長をつづった時代小説。後に『天地明察』として長編化され、ベストセラーとなりました。長篇版読了時の紹介はこちら。

  2013年05月15日の日記:『天地明察』(冲方丁)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-05-15


2005年
『ヴェネツィアの恋人』(高野史緒)

 「背ばかりがやたらと高いその歌手は、愛だの恋だのばかりを歌うものよりも幾分か文学臭い、凝った内容の歌を歌っていた。時間や運命について、芸術に捉えられた人間の悲劇について、あるいは記憶にない記憶、会ったこともない運命の恋人について」(文庫版p.135)

 パリの街角。若いころ一夜をともにした恋人と再会した、今や年老いた語り手は、あの瞬間を取り戻したいと占い女に頼み込むが・・・。運命と芸術をテーマに、様々な人生(SF的に解釈するなら並行世界)が交差する様を描いた幻惑的な短篇。


2006年
『魚舟・獣舟』(上田早夕里)

 「ヒトにとってヒトの定義とは何なのだろう。形態なのか。ゲノムなのか。それすらも個人の価値観によって違ってしまうのだろうか」(文庫版p.157)

 海面上昇により陸地がほとんど失われた25世紀の地球。巨大海棲生物「魚舟」と共棲して生きる海上民と、暴走した「獣舟」を殺すことで残された陸地や海上都市を守ろうとする陸上民の対立。だが魚舟、獣舟、人類は、すべて同一ゲノムを共有する「同一種」なのだった。

 後に書かれる傑作長篇『華竜の宮』の原型となったバイオSF短篇です。長篇読了時の紹介はこちら。

  2010年12月28日の日記:『華竜の宮』(上田早夕里)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-12-28


2007年
『The Indifference Engine』(伊藤計劃)

 「戦争は終わっていない、とぼくは街の人々に言うつもりだった。 戦争は終わっていない。ぼく自身が戦争なのだ」(文庫版p.230)

 泥沼化した凄惨な民族紛争が終結し、「解放」された少年兵たち。憎悪と暴力の連鎖を断ち切るために、彼らは脳にある処置を施される。だが、テクノロジーの力で人間の心を救うことが出来るのだろうか。長篇『虐殺器官』と同じ世界を舞台にした、切れ味鋭い傑作短篇。


2008年
『白鳥熱の朝に』(小川一水)

 「人生最悪の年だった。 一年後、第二波流行の襲来を受けるまではそう思い続けた。 人類は白鳥熱に対する免疫を持っていない。それの意味するところは、全人類が免疫を持つか死ぬかするまで、流行が終わらないということだった」(文庫版p.286)

 変異型の鳥インフルエンザが大規模パンデミックを引き起こし、国内だけで800万人を超える死者を出した惨劇から数年後。家族をすべて失った男が、同じく孤児となった少女の保護者として指定される。それぞれに「秘密」を抱えた二人は、ぎこちないながらも家族となってゆくが・・・。

 パンデミックからの社会復興と、心に深い傷を負った個人の治癒を、重ね合わせるようにして描いた感動作。


2009年
『自生の夢』(飛浩隆)

 「このインタビューは、その対話を行うことそれ自体が<忌字禍>(イマジカ)との闘争そのものでもあった。この壮絶な闘争を維持するため、人類は公共的計算資源をピーク時で三パーセント消費した。その膨大な計算こそがこのインタビューの実体なのだ」(文庫版p.306)

 言葉によって他人を操り死に至らしめる連続殺人者。三十年も前に死んだその男が、描写によって文字空間へ再構築される。文字にとりつき感染を広げてゆく恐るべき疫病<忌字禍>に対抗するためだというのだが・・・。独創性あふれる言語SF。


2010年
『オルダーセンの世界』(山本弘)

 「それはあなたたちがオルダーセンの言葉を信じてるから。絶望してると言ってもいい。『外の世界は滅びてしまった』『この小さな世界以外に生きられる場所はない』『これが現実だ』・・・・・・そう思ってあきらめているから。せいぜい禁制品を見つけるだけで満足して、それ以上のことを望まない。だから世界はこんな姿であり続けてるの」(文庫版p.407)

 独裁者に支配された禁欲的な閉鎖世界にあらわれた謎の美女、シーフロス。彼女は、この世界は広大な「夢」の海に浮かぶ泡のような、局所的「現実」に過ぎず、しかも崩壊が迫っていると告げる。

 いわゆる「壁の中」テーマに量子論的世界観を組み合わせたアイデアストーリー。想像力を信じればボクらは世の中を変えることが出来るんだ、というジュブナイルSFのナイーブさを蘇らせた短篇。


2011年
『人間の王 Most Beautiful Program』(宮内悠介)

 「このようにして、二人は出会ったのだった。 最後まで人間の側の王として戦った男と----いずれ、チェッカーを滅ぼす男とが」(文庫版p.445)

 チェッカーの王者、マリオン・ティンズリー。人生のすべてをチェッカーに捧げた男は、コンピュータソフトに負けたとき、さらに完全解が明らかになりチェッカーがゲームとして「死んだ」とき、何を考えたであろうか。

 テーブルゲームをテーマにした連作短篇の一作。ほとんどティンズリーの伝記のように書かれていながら、最後になってSF的設定が明らかにされるところが巧い。


2012年
『きみに読む物語』(瀬名秀明)

 「本当に世界が変わってしまったとき、どれだけの人がその事実に耐えられるだろう。その証拠に特定のジャンルをとりわけ愛する人は、自分たちのコミュニティが変化しないことを願うからだ。変わろうとする世界が他人事である限り、SFはいつまでも変わらずにいられる」(文庫版p.482)

 人はなぜ本を読んで感動するのだろうか。小説を読んだときの感動を客観的・定量的に予測するアルゴリズムの完成は、社会に様々な衝撃を与えることになった・・・。

 読書、共感、社会性、脳科学といったお馴染みのテーマを追求しながら、SFに何が出来るのかを問う、シリアスな楽屋オチSF。読後、『日本SF短篇50 (1)』の巻頭言を合わせて読むことで、瀬名秀明ではじまり瀬名秀明で終わるという本アンソロジー全体の構成の妙に唸らされることに。


[収録作品]

2003年 『重力の使命』(林譲治)
2004年 『日本改暦事情』(冲方丁)
2005年 『ヴェネツィアの恋人』(高野史緒)
2006年 『魚舟・獣舟』(上田早夕里)
2007年 『The Indifference Engine』(伊藤計劃)
2008年 『白鳥熱の朝に』(小川一水)
2009年 『自生の夢』(飛浩隆)
2010年 『オルダーセンの世界』(山本弘)
2011年 『人間の王 Most Beautiful Program』(宮内悠介)
2012年 『きみに読む物語』(瀬名秀明)


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『図解 ねこ用 知らなくてもいい人間界の基礎知識』(ひろみ子) [読書(教養)]

 「この本は、そんな悩める猫のみなさんのために生まれました。人間の住居や持ち物の、本来の役割と猫独自の活用法を知ることで、暮らしやすい環境をととのえ、共に暮らす人間の心をわしづかみにする。そのための豆知識が、この一冊に詰まっています」(「はじめに」より)

 人間と暮らす際に知っておくべき生活知識を可愛いイラストで図解した、猫のためのライフハック読本。単行本(幻冬舎)出版は、2013年08月です。

  自動給餌器(機械)
    決められた時間に決められた分量の食事を用意する装置。
  自動給餌器(人間)
    望み通りの時間に欲しいだけ食事を用意する装置。

  掃除機(通常)
    音がうるさい迷惑な機械。
  掃除機(自動)
    静かで快適な乗り物。

 一見よく似ているのに、その性質や使い方が大きく異なるものが身の回りには色々あります。人間といっしょに暮らす上で、そういったものを的確に使い分けられるようになるための、猫のための生活ガイドブックです。

 生活上のちょっとした工夫やコツなどの豆知識も豊富。

  乗る(新聞紙)
    人に注目されたいときに簡単に視線を集めることが出来る。
  乗る(人の肩)
    バランス感覚と器用さをアピールする。
  乗る(脱ぎ捨てられた服)
    人のぬくもりを間接的に受ける姿をアピールすることで、己をけなげに見せる演出。

  のびる(自然)
    寝起きに自然にとる行動。主に背中がのびる。
  のびる(アピール)
    腹を見せるなどして存在感を示す行動。

 各項目には、何十匹ものちっちゃい猫でびっしり埋めつくされた素敵なイラストが付いています。家中どこでも、ミニ猫がごっちゃりまぶされて、可愛いです。それにしても、よくこれだけこんまい猫を佃煮のように、その偏執的な、いや愛情に満ちた努力に、猫好きなら心が暖かくなるはず。

 実のところ多くの猫は読書に興味がないので、本書は飼い主にとっての猫イラスト集として活用されることが多いのではないでしょうか。『ちまねこ』(幻冬舎)が気に入った方には文句なくお勧めです。

 「この一冊があれば、これまで、理解不能と頭を悩ませてきたことの全てが解決するかもしれないし、しないかもしれません。解決しなかったとしても、猫がかわいい、愛すべき存在であることに変わりはありません」(「はじめに」より)


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『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「そういうわけでにゃん公はこの『だいにっほん、おんたこめいわく史』の続きをその日は買いに行った。一冊目が読めた人は少なくともこの日本という、革命の夢が滅び経済だけが転がっていく国の中で自分がどこに立っているか分かった人物だ。そしてさらに、日本が明治維新以来放置して来た宗教の問題と前作の補講義的な部分が多い『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を待っていたのである」(Kindle版No.2331)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第75回。

 代表作の一つ、だいにっほん三部作。その第二部の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2007年10月、Kindle版出版は2013年09月です。

 「おんたことは何か、市場原理の上に生えた黴でありながらその市場原理を自分自身の意志だと考えてしまうもの。あるいは上手に自分のために利用するもの。本来の自分を持っていないものだ。また、国家権力に寄生しながら、「みんな」の意志で動いていると信じて結局は自己都合を発揮するものだ。そのその自己とは内面を自覚する事のない自己なのである」(Kindle版No.1771)

 さて、第一部にて概要がざっと書かれた「だいにっほん」ですが、第二部ではその中にすすっと入ってゆき、その世相をよりクローズアップで仔細に眺めてゆくことになります。むろん嫌さ倍増。

 「ろんちく----論畜とも書く。かつては右畜と左畜があり、両方を合わせて論畜と読んだ。(中略)個人の中でその論旨には何の一貫性もなく、また発言の責任を取ることも求められなかった。そもそも国家やマスコミが実物の論客を使う面倒を避けたいがため、或いは、国民・視聴者の煽動、洗脳、時にはまともな議論の攪乱、隠蔽工作等を目的として、導入するものにすぎなかったのである」(Kindle版No.1800、1806)

 「左畜とは無論、左翼的な考えを骨抜きにして、マスコミマッチョや傲慢企業をいつわりの「反権力」で飾り、表現の自由があるように見せかけながら世の中を駄目にしていく茶番的な「対抗勢力、少数意見」である」(Kindle版No.324)

 「彼らは常に「国家目線」で物を考え、「公共性」と「多数派」だけを重要視するので、都心の三つ程の区以外はなかった事になっていた。(中略)都心の外にあるものはすべて「迷妄」であり、「地方などない」、「郊外などない」というフレーズはもう慣用表現になってしまっていた。但し地方でも税金と美少女は管理の対象であった」(Kindle版No.1071、1075)

 「連中の特徴のひとつとして、「労働政策はその場限り」、「労働の主体はパーツ扱い」という「美学」がある。(中略)やる事は醜悪な労働者の分割統治、というかもうそんなレベルでさえなく、孤立させて、パーツ化させて、使う側の自己都合だけで使い回して来る」(Kindle版No.273)

 「フリーターという言葉もタイムセラーなどと言い替えられている。また危険な仕事で保障もなく働くものはセーフセラーなどと呼ばれている。どうせおんたこ英語なのだからライフセラーとでもすれば実態が伝わるのだが、「安全を売って命を失うのは自己決定権の範囲だから」、というよく判らない理由でセーフセラーと呼ばれる」(Kindle版No.282)

 「その他には「児童がポルノに出演し自己実現する自己決定権」という「権利」があり、もし児童が騙されて承諾した時は「個人の自己決定を大切にし温かく見守る」という制度が出来ている」(Kindle版No.308)

 「女児が可愛いと思い友達にするもの、掌に載せて慈しむもの、それを女児自身を穢す形に作り込んで販売している、この国の文化の殆どがそういう構造になってしまっていた。子供が慈しむものを、子供を弄ぶ手がかりにする。そして加害者は被害者面をする」(Kindle版No.487)

 「「過激な実験」から生まれた遊廓芸能は一線を越えたところだけを来歴実態が分からないように隠したままで映像に乗せられる。(中略)一般の少女の中には争ってまねをするものもいるし、関連グッズが売れれば新しいパターンの「実験」が求められる」(Kindle版No.1083)

 「女性を商品と見なし、美貌よりも若さという数量的価値で女性を計る。これは規模の大きな産業にとって都合のいい事であった。市場の健全さなどというものは幻想に過ぎない。若さは宣伝するのにも判り易く、募集する時にも基準をたてやすく、しかも安く使える」(Kindle版No.1732)

 「十八過ぎて生きていられてもなあ、というのがこのだいにっほん政府の本音なのだ。そしてそれは市場原理や経済効果を絶対視する事で美徳とされている。この状態を笙野はロリリベと名付けていた」(Kindle版No.1721)

 読めば読むほど嫌、というか、現在の日本がそのまま書かれているようで苦しい。もう、新聞記事、美少女アイドルグループ、萌え美少女漫画、ネット上のもっともらしい言説、何を見ても聞いても読んでも「うわーっ、まんまだ」と気づいて、激しく落ち込むことに。

 さて、この第二部の舞台となっているのは、だいにっほんとウラミズモの国境に位置する千葉県S倉市です。視点人物をつとめるのは、第一部で火星人落語を語ったあの青年の妹、名前は埴輪いぶき。

 「死んだ人間が帰ってきはじめた。そんな時代が来たのだ。そんな国になったのだ」(Kindle版No.17)

 今や蘇りによって死者の人口がどんどん増えている、そんな西暦2060年、だいにっほん。かつて18歳のとき火星人少女遊廓で殺されたという埴輪いぶきも、生者と入り混じってS倉で生活しています。

 第二部の大半は、この埴輪いぶきを主人公として、ごく普通の小説のように書かれています。

 弾圧され殺されたみたこ教の信者たちが、夜な夜な笙野頼子の家に集まって勉強会を開き、『だいにっほん、おんたこめいわく史』なる「殆ど全部が語り物の口調で書かれており、時々入る説明がやや評論的だがそれも講義録同然」(Kindle版No.88)の「蘇ってきた人々が肉声で語り、死者の声で作った史書」(Kindle版No.85)を編纂していること。

 第一部で比丘尼の子と自称していた少女霊は浄泥という名前で、埴輪いぶきの友達になっていること。

 おんたこに虐待されて死んだ少女たちの霊が、ウラミズモの陰謀により、おんたこに対する無差別テロに利用されているらしいこと。

 作中人物である笙野頼子は、ウラミズモからやって来る人々に身の回りの世話をされつつ、ウラミズモの読者向けに、にっほんを紹介するノンフィクション『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を書いていること。

 そして、いぶきは『だいにっほん、おんたこめいわく史』に入れるための自己語りに挑戦しているものの、自分が死んだ時のことが思い出せないこともあってうまくゆかず、悩んでいること。

 第一部の前衛っぷりに挫けそうになった読者も、「あ、これなら普通の小説として読めますね」と一安心。また、笙野頼子さんの作品が実のところさっぱり判らなくて不安になったり憤ったりした読者も、その苛立ちをいぶきが代弁してくれて、溜飲が下がるというか、ストレスが解消されるというか、この娘だって判らないなりに頑張って読んでいるようだしとりあえず自分も読み進めようか、という前向きな気持ちに。

 すいません、さっきから、読者、読者って、他人事みたいに書いてますけど、私のことです。

 「その善意の講義は、いぶきには、判らん。判らんしむかつくしうさん臭い。 そもそもいぶきは図式を信じて丸暗記する以外の事に向いていないのだ。それ故自我とか言われると腹が立ってくる。(中略)いぶきはぶち切れていた。 がっといぶきは本を閉じ、ぐうっと唸り、煮えくり返った掌に仮綴を握り潰す。判らん! 判らん! 仏教的自我というのが糞むかつきで判らん」(Kindle版No.152、233)

 「その日も授業は彼女ひとりのために難渋した。仏教的自我、というともう怒って来るのだから。 ----そこが判りません。近代になったんだからそんなもの消えていますね、そうでしょう。 笙野が説明すると話を変えてくる。うーん、と言って下を向いてから同じ事を言う。帰れというと、あ、やっぱりないんだそんなもの、と言う」(Kindle版No.2043)

 第二部は普通の小説みたいで読みやすいなー、とか、埴輪いぶきは私の気持ちを代弁してくれるいい娘だなー、とか、そう思っていたら、実は後に書かれた『人の道御三神といろはにブロガーズ』のなかに、次のような記述があるのですね。

 「そもそもいぶきというのは、----。 この笙野の難解三部作の第二部の主人公で、六十代の精読ブロガー怒吐与夢子が理解しにくいオタク問題や西哲批判について来られるように、あえて作品の進行を遅らせ、彼女のライバルとして登場させたものだ。同時に時代の推移を描くカメラアイでもある。いくつかの性質はブログ上の与夢子に似てなおかつ逆の面をそなえた存在であり、つまり悪しき近代文学の主人公の愚民性を与えてある」(『人の道御三神といろはにブロガーズ』単行本p.209)

 「いぶきは一方、マッチョ娘でもやはりまじめに文字を読む女の子だ。いくら勝手にとはいえ味方の少ない笙野に対し素人伴走してくれるきとくな与夢子を、これで「釣ろう」と笙野は思ったのだった。劣化した形式的な近代文学に対する悪意をこめて、登場人物を、いぶきを、贈ったのだ。そしてそんな典型的な愚民いぶきは天国で典型的に救われるしかないし権力に転がされ死後も肉体を生きるだけなのだ」(『人の道御三神といろはにブロガーズ』単行本p.210)

 こうして種明かしされると、ようやく自分がいかに典型的な愚民読者であるか、「図式を信じて丸暗記する以外の事に向いていない」か、「複雑な文脈が読めない」か、思い知らされてしまいました。しかも追い討ちのように。

 「フレームを作ってから現実をそれにあてはめる操作しか出来ない人間、自分の頭で物を考えず自分の体で快不快を感じない人間、近代の道具、商品的人間達はまた、そんな効用ある、複雑な文脈は読めないのだ。単語の持つ洗脳的イメージに反応し、差別コードを使った単文だけを書く。文と文の組み合わせで字面は単純でも内容が複雑になっている単文も狂人扱いする。「美しい日本語」、「明晰である事」、「判り易い事」、それが、「多くの人に届く」文章である」(Kindle版No.219)

 「官製の物の見方でしか何も把握できない人間、因果関係をはっきりさせた事情説明が出来ないときは、仮想敵を作ってそれに代える人々。そんな彼らは自分達を「新しき個人」だと思い込んだ。(中略)自分ひとりの内面を代償として、彼ら、男子個人は、女子供小作雇い人等複数名の内面を黙殺していい権利を与えられた」(Kindle版No.223)

 ごめんなさい。

 気がつけば、だいにっほん国に住んでいるばかりか、自分自身もおんたこ化していたことを否応なしに自覚させられる、恐ろしい第二部。どうすればいいのか分からず、おろおろしていると、さらに容赦ない言葉が。

 「世界に絶望はしても、誰もその絶望に耐えようとしないのだ。笙野は絶望する。そして耐える。せめて藤枝論だけでも書こうとおもう」(Kindle版No.1791)

 そして第三部へ。


タグ:笙野頼子
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