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『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「そういうわけでにゃん公はこの『だいにっほん、おんたこめいわく史』の続きをその日は買いに行った。一冊目が読めた人は少なくともこの日本という、革命の夢が滅び経済だけが転がっていく国の中で自分がどこに立っているか分かった人物だ。そしてさらに、日本が明治維新以来放置して来た宗教の問題と前作の補講義的な部分が多い『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を待っていたのである」(Kindle版No.2331)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第75回。

 代表作の一つ、だいにっほん三部作。その第二部の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2007年10月、Kindle版出版は2013年09月です。

 「おんたことは何か、市場原理の上に生えた黴でありながらその市場原理を自分自身の意志だと考えてしまうもの。あるいは上手に自分のために利用するもの。本来の自分を持っていないものだ。また、国家権力に寄生しながら、「みんな」の意志で動いていると信じて結局は自己都合を発揮するものだ。そのその自己とは内面を自覚する事のない自己なのである」(Kindle版No.1771)

 さて、第一部にて概要がざっと書かれた「だいにっほん」ですが、第二部ではその中にすすっと入ってゆき、その世相をよりクローズアップで仔細に眺めてゆくことになります。むろん嫌さ倍増。

 「ろんちく----論畜とも書く。かつては右畜と左畜があり、両方を合わせて論畜と読んだ。(中略)個人の中でその論旨には何の一貫性もなく、また発言の責任を取ることも求められなかった。そもそも国家やマスコミが実物の論客を使う面倒を避けたいがため、或いは、国民・視聴者の煽動、洗脳、時にはまともな議論の攪乱、隠蔽工作等を目的として、導入するものにすぎなかったのである」(Kindle版No.1800、1806)

 「左畜とは無論、左翼的な考えを骨抜きにして、マスコミマッチョや傲慢企業をいつわりの「反権力」で飾り、表現の自由があるように見せかけながら世の中を駄目にしていく茶番的な「対抗勢力、少数意見」である」(Kindle版No.324)

 「彼らは常に「国家目線」で物を考え、「公共性」と「多数派」だけを重要視するので、都心の三つ程の区以外はなかった事になっていた。(中略)都心の外にあるものはすべて「迷妄」であり、「地方などない」、「郊外などない」というフレーズはもう慣用表現になってしまっていた。但し地方でも税金と美少女は管理の対象であった」(Kindle版No.1071、1075)

 「連中の特徴のひとつとして、「労働政策はその場限り」、「労働の主体はパーツ扱い」という「美学」がある。(中略)やる事は醜悪な労働者の分割統治、というかもうそんなレベルでさえなく、孤立させて、パーツ化させて、使う側の自己都合だけで使い回して来る」(Kindle版No.273)

 「フリーターという言葉もタイムセラーなどと言い替えられている。また危険な仕事で保障もなく働くものはセーフセラーなどと呼ばれている。どうせおんたこ英語なのだからライフセラーとでもすれば実態が伝わるのだが、「安全を売って命を失うのは自己決定権の範囲だから」、というよく判らない理由でセーフセラーと呼ばれる」(Kindle版No.282)

 「その他には「児童がポルノに出演し自己実現する自己決定権」という「権利」があり、もし児童が騙されて承諾した時は「個人の自己決定を大切にし温かく見守る」という制度が出来ている」(Kindle版No.308)

 「女児が可愛いと思い友達にするもの、掌に載せて慈しむもの、それを女児自身を穢す形に作り込んで販売している、この国の文化の殆どがそういう構造になってしまっていた。子供が慈しむものを、子供を弄ぶ手がかりにする。そして加害者は被害者面をする」(Kindle版No.487)

 「「過激な実験」から生まれた遊廓芸能は一線を越えたところだけを来歴実態が分からないように隠したままで映像に乗せられる。(中略)一般の少女の中には争ってまねをするものもいるし、関連グッズが売れれば新しいパターンの「実験」が求められる」(Kindle版No.1083)

 「女性を商品と見なし、美貌よりも若さという数量的価値で女性を計る。これは規模の大きな産業にとって都合のいい事であった。市場の健全さなどというものは幻想に過ぎない。若さは宣伝するのにも判り易く、募集する時にも基準をたてやすく、しかも安く使える」(Kindle版No.1732)

 「十八過ぎて生きていられてもなあ、というのがこのだいにっほん政府の本音なのだ。そしてそれは市場原理や経済効果を絶対視する事で美徳とされている。この状態を笙野はロリリベと名付けていた」(Kindle版No.1721)

 読めば読むほど嫌、というか、現在の日本がそのまま書かれているようで苦しい。もう、新聞記事、美少女アイドルグループ、萌え美少女漫画、ネット上のもっともらしい言説、何を見ても聞いても読んでも「うわーっ、まんまだ」と気づいて、激しく落ち込むことに。

 さて、この第二部の舞台となっているのは、だいにっほんとウラミズモの国境に位置する千葉県S倉市です。視点人物をつとめるのは、第一部で火星人落語を語ったあの青年の妹、名前は埴輪いぶき。

 「死んだ人間が帰ってきはじめた。そんな時代が来たのだ。そんな国になったのだ」(Kindle版No.17)

 今や蘇りによって死者の人口がどんどん増えている、そんな西暦2060年、だいにっほん。かつて18歳のとき火星人少女遊廓で殺されたという埴輪いぶきも、生者と入り混じってS倉で生活しています。

 第二部の大半は、この埴輪いぶきを主人公として、ごく普通の小説のように書かれています。

 弾圧され殺されたみたこ教の信者たちが、夜な夜な笙野頼子の家に集まって勉強会を開き、『だいにっほん、おんたこめいわく史』なる「殆ど全部が語り物の口調で書かれており、時々入る説明がやや評論的だがそれも講義録同然」(Kindle版No.88)の「蘇ってきた人々が肉声で語り、死者の声で作った史書」(Kindle版No.85)を編纂していること。

 第一部で比丘尼の子と自称していた少女霊は浄泥という名前で、埴輪いぶきの友達になっていること。

 おんたこに虐待されて死んだ少女たちの霊が、ウラミズモの陰謀により、おんたこに対する無差別テロに利用されているらしいこと。

 作中人物である笙野頼子は、ウラミズモからやって来る人々に身の回りの世話をされつつ、ウラミズモの読者向けに、にっほんを紹介するノンフィクション『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を書いていること。

 そして、いぶきは『だいにっほん、おんたこめいわく史』に入れるための自己語りに挑戦しているものの、自分が死んだ時のことが思い出せないこともあってうまくゆかず、悩んでいること。

 第一部の前衛っぷりに挫けそうになった読者も、「あ、これなら普通の小説として読めますね」と一安心。また、笙野頼子さんの作品が実のところさっぱり判らなくて不安になったり憤ったりした読者も、その苛立ちをいぶきが代弁してくれて、溜飲が下がるというか、ストレスが解消されるというか、この娘だって判らないなりに頑張って読んでいるようだしとりあえず自分も読み進めようか、という前向きな気持ちに。

 すいません、さっきから、読者、読者って、他人事みたいに書いてますけど、私のことです。

 「その善意の講義は、いぶきには、判らん。判らんしむかつくしうさん臭い。 そもそもいぶきは図式を信じて丸暗記する以外の事に向いていないのだ。それ故自我とか言われると腹が立ってくる。(中略)いぶきはぶち切れていた。 がっといぶきは本を閉じ、ぐうっと唸り、煮えくり返った掌に仮綴を握り潰す。判らん! 判らん! 仏教的自我というのが糞むかつきで判らん」(Kindle版No.152、233)

 「その日も授業は彼女ひとりのために難渋した。仏教的自我、というともう怒って来るのだから。 ----そこが判りません。近代になったんだからそんなもの消えていますね、そうでしょう。 笙野が説明すると話を変えてくる。うーん、と言って下を向いてから同じ事を言う。帰れというと、あ、やっぱりないんだそんなもの、と言う」(Kindle版No.2043)

 第二部は普通の小説みたいで読みやすいなー、とか、埴輪いぶきは私の気持ちを代弁してくれるいい娘だなー、とか、そう思っていたら、実は後に書かれた『人の道御三神といろはにブロガーズ』のなかに、次のような記述があるのですね。

 「そもそもいぶきというのは、----。 この笙野の難解三部作の第二部の主人公で、六十代の精読ブロガー怒吐与夢子が理解しにくいオタク問題や西哲批判について来られるように、あえて作品の進行を遅らせ、彼女のライバルとして登場させたものだ。同時に時代の推移を描くカメラアイでもある。いくつかの性質はブログ上の与夢子に似てなおかつ逆の面をそなえた存在であり、つまり悪しき近代文学の主人公の愚民性を与えてある」(『人の道御三神といろはにブロガーズ』単行本p.209)

 「いぶきは一方、マッチョ娘でもやはりまじめに文字を読む女の子だ。いくら勝手にとはいえ味方の少ない笙野に対し素人伴走してくれるきとくな与夢子を、これで「釣ろう」と笙野は思ったのだった。劣化した形式的な近代文学に対する悪意をこめて、登場人物を、いぶきを、贈ったのだ。そしてそんな典型的な愚民いぶきは天国で典型的に救われるしかないし権力に転がされ死後も肉体を生きるだけなのだ」(『人の道御三神といろはにブロガーズ』単行本p.210)

 こうして種明かしされると、ようやく自分がいかに典型的な愚民読者であるか、「図式を信じて丸暗記する以外の事に向いていない」か、「複雑な文脈が読めない」か、思い知らされてしまいました。しかも追い討ちのように。

 「フレームを作ってから現実をそれにあてはめる操作しか出来ない人間、自分の頭で物を考えず自分の体で快不快を感じない人間、近代の道具、商品的人間達はまた、そんな効用ある、複雑な文脈は読めないのだ。単語の持つ洗脳的イメージに反応し、差別コードを使った単文だけを書く。文と文の組み合わせで字面は単純でも内容が複雑になっている単文も狂人扱いする。「美しい日本語」、「明晰である事」、「判り易い事」、それが、「多くの人に届く」文章である」(Kindle版No.219)

 「官製の物の見方でしか何も把握できない人間、因果関係をはっきりさせた事情説明が出来ないときは、仮想敵を作ってそれに代える人々。そんな彼らは自分達を「新しき個人」だと思い込んだ。(中略)自分ひとりの内面を代償として、彼ら、男子個人は、女子供小作雇い人等複数名の内面を黙殺していい権利を与えられた」(Kindle版No.223)

 ごめんなさい。

 気がつけば、だいにっほん国に住んでいるばかりか、自分自身もおんたこ化していたことを否応なしに自覚させられる、恐ろしい第二部。どうすればいいのか分からず、おろおろしていると、さらに容赦ない言葉が。

 「世界に絶望はしても、誰もその絶望に耐えようとしないのだ。笙野は絶望する。そして耐える。せめて藤枝論だけでも書こうとおもう」(Kindle版No.1791)

 そして第三部へ。


タグ:笙野頼子
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