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『ペンギンが空を飛んだ日 IC乗車券・Suicaが変えたライフスタイル』(椎橋章夫) [読書(サイエンス)]

 「2013(平成25)年3月23日、ついに交通系ICカードの全国相互利用サービスがスタートした。10種類のICカード、交通事業者は、鉄道52業者、バス96事業者、鉄道駅数4275駅、バス2万1450両、相互利用可能なICカード枚数8000万枚以上、相互利用可能な電子マネー加盟店約20万店舗となる、世界最大のIC乗車券ネットワークが完成した。(中略)今やSuicaは社会生活に必要不可欠な「オープンな巨大インフラ」となった。新しい社会インフラの誕生である」(新書版p.197、202)

 世界最大のICカードインフラはどのようにして開発されたのか。前人未到の巨大ネットワークシステムが大きなトラブルもなく安定運用できているのはなぜか。当事者が語るICカード乗車券Suicaの開発史。新書版(交通新聞社)出版は、2013年08月です。

 「最初に我々Suicaプロジェクトチームがその原点となるコンセプトを提案したとき、まだ海のものとも山のものともわからないICカードが、巨大な鉄道会社の事業の一つの柱になるなどと、本気で信じる者はほとんどいなかった。しかし、私はICカードに取り組むうちに、それがただの夢物語ではないことを確信していった」(新書版p.28)

 鉄道・バス・タクシーなどの乗車券、自動販売機や駅周辺の店舗で使う電子マネー、クレジットカードなど、様々な用途を兼ね備えたICカード「Suica」開発をめぐるノンフィクション。全体は10個の章に分かれています。

 最初の「第1章 一枚のカードが変えた鉄道の世界」では、Suicaにより鉄道業務、駅周辺、そして利用者のライフスタイルがどのように変化したかをまとめます。具体的な開発史が始まるのは、「第2章 技術開発の時代」から。

 「1987(昭和62)年、次世代の出改札システムとしてICカードを活用することに関しての検討が、民営化直後のJR東日本で始まった」(新書版p.36)

 ICカードを確実に読み取り、かつ利用者がスムーズに改札を通過できるようにするためには、接触式と非接触式のどちらがいいか。アクティブ方式かパッシブ方式か。電源は内蔵するか、周波数は、読み取りアンテナは横置きと縦置きのどちらがいいか。

 様々な試行錯誤を経て、次第に見えてくるICカード乗車券の姿。しかし、開発メンバーの前に最大の難問が立ちはだかります。多くの利用者が、読み取りに必要な時間だけカードを「かざす」動作をしてくれない、という問題です。

 「もっとも通過阻害率が少ないカバー・デザインがわかった。読み取り機面を13度傾けたデザインだった。このわずかな傾斜により、歩行速度が減速され、確実にタッチしてから改札機を通過できる。その後、Suicaの基本コンセプトとなった「タッチ・アンド・ゴー」が誕生した瞬間である」(新書版p.53)

 「呼び名を「かざす」から「タッチ・アンド・ゴー」に変えただけで、使う人の行動が大きく変わったのである。私はまるで、おとぎ話の魔法の呪文のような気がした。あとで調べて、わかったことだが、学問的には「メンタル・モデル」と呼ばれている」(新書版p.54)

 つい「ICカード読み取り時間をさらに短縮できないか」と課題設定してしまいそうですが、「必要な時間カードをかざすよう利用者の行動を変えるにはどうすればいいか」と視点を変えて解決したという、このエピソードが個人的お気に入りです。

 他にも(第5章に書かれているのですが)Suica定期券の表面に書かれた文字を書き換える「リライト技術」の開発にも感銘を受けました。

 これは何度も繰り返し使用するカードに「従来の定期券との見た目の互換性」を持たせることで利用者に安心感を与える、という目的で開発されたといういかにも日本独自技術で、こういう努力を「ガラパゴス化」などと揶揄するのはよくないと思うのです。

 「第3章 ビジネスモデル構築の時代」では、巨額の設備投資費をどのようなビジネスモデルで回収するのか、という難題への挑戦が描かれます。

 「ICカードを使った出改札システムの総投資額は約460億円。そのうち設備更新維持経費が約330億円。ICカードシステム導入経費が約130億円である。その130億円をどうするかが我々に突きつけられた課題だった」(新書版p.73)

 「まずは自動改札機のすみずみまで調べ尽くした。それこそビス一本一本の値段まで調べ上げた。どの部品がどれくらい消耗するか徹底的に調査した。(中略)最終的にSuica導入における「費用対効果」の切り札となったのは、磁気式自動改札機が抱えていたメンテナンスコストだった」(新書版p.75、76)

 どんな革新的な技術であっても、ビジネスモデルが具体的で説得力がないと支持されません。若い技術者は、このことをよく理解しておく必要があります。個人的には、ICカードの技術開発よりも、むしろ「ビス一本一本の値段まで調べ上げる」その姿勢に感銘を受けました。

 「第4章 Suica導入の時代 その1」および「第5章 Suica導入の時代 その2」では、巨大コンピュータネットワークシステムを実際に導入するための悪戦苦闘が描かれます。

 「日立、東芝、オムロン、ソニー、松下(パナソニック)、日本信号、日本電気などの企業に委員会を作ってもらった。(中略)数百件のトラブルが続出した。スケジュール半ばで続行は不可能と判断せざるを得なくなり、8月に試験は中止となった。 トラブルの原因の多くは、ソフトの不具合と機器メーカーごとに細かな部分での仕様の解釈がバラバラだったためだ。(中略)トラブルを起こした機器は所詮、単独で使われるスタンドアローンの機器だったのである。ネットワークにつないだ途端にボロが出た」(新書版p.101、103)

 「もし、センターサーバーがダウンして東京中のSuicaが使えなくなったら・・・。従来の改札機ごとに完結しているスタンドアローンのシステムでは、1台や2台が止まっても全体的に波及することはない。しかし、ネットワーク化をすれば、センターシステムの故障や、ネットワークの切断は、致命的なトラブルになってしまうのだ」(新書版p.90)

 複数のメーカーが「スタンドアローン環境での使用しか考慮せずに」開発した機器を巨大ネットワークにつないで一つのSuicaシステムを作り、それをトラブルなく運用する、というのがどれほどの困難であるか、私もネットワーク技術者なのでしみじみ分かります。この課題をどうやって乗り越えたのか、本書にはあまり詳しく書かれていないのですが、そこがむしろ知りたい。

 「第6章 Suica育成の時代」から「第9章 世界最大のIC乗車券ネットワークが完成した!」までは、導入後の展開が描かれます。

 「毎日約1万枚のSuicaが増え続けている勘定になる」(新書版p129)

 「一枚のICカードがJR、私鉄、地下鉄、バスそれぞれの会社の違いに関係なく交通網をシームレスにつないだことの意味はとてつもなく大きい」(新書版p.133)

 「2013(平成25)年3月末時点でSuica電子マネーが使える店舗は20万店を超えている」(新書版p.150)

 さらに、Suica対応自動販売機、モバイルSuica、クラウド型マルチ決済システム、そして夢の全国相互利用ネットワーク実現へと、Suicaの利用は果てしなく広がってゆきます。

 最終章「第10章 Suicaという“ものづくり”への思い」では、さらにSuicaシステムを利用した情報ビジネスへの展開が語られるのですが、これが凄い。

 「2013(平成25)年5月1日、JR東日本IT・Suica事業本部内に「情報ビジネスセンター」が設置された。Suicaの持つ膨大な情報(いわゆるビッグデータ)を解析し、当面は自社およびグループ各社のビジネスに活用するためのチームである」(新書版p.209)

 「Suicaの持つ情報の特徴は3つある。一つは、毎日2500万件にも及ぶ膨大な情報データベースであること。2つめは、その情報は移動や購買などのいわゆるライフログ(Life Log)と呼ばれるものであること、さらに、その情報がカードのID番号別に管理されていることにその特徴がある。この移動情報と決済情報を組み合わせて、新しいサービスを創出することが情報ビジネスの狙いである」(新書版p.210)

 誰が、いつ、どこからどこに移動し、何を購入したか。一日あたり2500万件のライフログが黙っていても蓄積されてゆくデータベース。これとビッグデータ解析技術を組み合わせたとき、どんなことが可能になるか。想像しただけで、わくわくすると共に、不安も感じます。

 というわけで、毎日何気なくお世話になっているSuica、それを支えているシステム。それが技術的にもビジネス的にも極めて興味深いものだということを再認識させてくれた一冊。世界中から講演依頼が殺到するというのもよく分かります。

 「講演では、「まったく新しいシステムなのにどうして大きなトラブルも起こさずに安定して稼働しているのか」といった技術的な興味や、「ビジネスの成功モデルとしての話を聞きたい」といった依頼が多かった」(新書版p.205)


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