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『ぼくらの昭和オカルト大百科  70年代オカルトブーム再考』(初見健一) [読書(オカルト)]

 「あのころ、子どもたちは変わりばえのしない日々に、つまらない「ここ=現実」にうんざりしていた。今日と同じ明日が永久に続いていくような世界に退屈しながら、いつかその世界に「亀裂」が入り、そこからありもしない「向こう側」が見える日を心待ちにしていた」(文庫版p.311)

 ノストラダムスの大予言、ツチノコ探検隊、スプーン曲げ、介良UFO捕獲事件、コックリさん、恐怖の心霊写真集。70年代に全国のチビっ子たちを直撃し、心の奥深くにある何かを決定的に駄目にしてしまった(ような気がする)あの常軌を逸したオカルトブーム。あれはいったい何だったのかを振り返る一冊。文庫版(大空出版)出版は、2012年11月です。

 「王道に対するアンチとしてのサブカルチャーがネガティブだったのではなく、時代のオフィシャルな部分、根幹そのものになにか漠とした不安が宿っていて、その「嫌な予感」がサブカルチャー、キッズカルチャーの末端にまで影響を与えている感じ。それこそが70年代だ、とあらためて思う」(文庫版p.28)

 70年代に全国を席巻したオカルトブームを振り返る本ですが、「大百科」というほど網羅的、カタログ的なものではなく、どちらかと言えば個人的思い出を語るエッセイに近い内容となっています。

 取り上げられている話題は、終末論(ノストラダムスの大予言)、UMA(ネッシー、ツチノコ)、超能力(ユリ・ゲラー、超能力訓練)、UFO(アーノルド、アダムスキー)、心霊(コックリさん、心霊写真)、といったもの。

 オカルト史の本ではないので、マニアや研究家が重視する情報や議論はばっさり省いて、あくまで当時の普通のオカルトキッズたちが熱中した話題に絞っています。

 肯定vs否定という切り口ではなく、「はぁ、今から思うと、いったいボクらは何やってたんだろう・・・。でもまあ、今も対して変わらないか」という、ゆるーい感じに脱力した雰囲気で笑わせてくれます。

 興味深いのは、当時のオカルトキッズたちの気持ちを率直に語っているところ。

 「信じてないけど信じてる、というか、「信じない」と決めてしまえば、せっかく目の前にある最高におもしろいコトが幻のように消えてしまうので、みんなと一緒に暗黙の「信じてみる」ごっこをする。そんな感じだった。」(文庫版p.48)

 「子どもたちはバカだが、バカではない。たぶん、当時の小学生のほとんどは、この危うい綱渡りみたいな芸当をごく自然にこなしながら、器用に恐怖を楽しんでいた。(中略)いわば、この時期の子どもたちの誰もが持っていた「オカルトリテラシー」である」(文庫版p.48、49)

 「そこにあるものをつかみ取るための努力や工夫、そして見事つかめたときの喜びや充実感より、ないものを追い求める興奮と楽しさのほうにどうしても引き寄せられてしまう。(中略)恐ろしいのは、こうしたオカルトキッズ的非合理思考は、実は大人になってもほとんど修正されないらしい・・・ということだ」(文庫版p.91、92)

 えーと、まあ、その通りですね。困ったことだと思います、はい。個人的に「オカルトリテラシー」の低い人とはオカルト話をしたくないのですが、そういう態度が人としてイカンのでしょうね。

 オカルトネタ解説においては、著者の主観や好みが強く打ち出されています。例えば、雪男については「わりとどうでもいい」と言い切り、ネッシーは「デカすぎるし、めんどくさい」という評価。そのくせツチノコは「これぞUMAの理想型」と断定してはばからず熱く語る、といった具合。

 UFOについては、高知の介良事件(子どもたちが小型UFOを捕獲して家に持って帰ったというハイストレンジネスな事件)を「数あるUFO目撃エピソードのなかでは、この話が今も一番好き」(文庫版p.216)と。話が合いますね。

 著者は70年代オカルト話は大好きだけど、80年代以降に台頭してくるニューエイジ的なものは嫌いらしく、そういうのにハマっている方々のことを「上に立つ人々」と呼んで、反感を隠しません。

 「中学生のころ、日本のオカルト本、UFO本などにも、この「上に立つ人々」の「感じ」がちょっとずつ表れはじめたのを覚えている。それで僕は、急にオカルト関連の話題に冷めてしまった。つまらなくなってしまったというか、なんか「イヤなもの」に見えてきてしまったのだ」(文庫版p.197)

 「本屋で『ムー』をパラパラとめくって、ちょっと首を傾げてから、それをおもむろに棚に戻した12歳のとき、僕の馬鹿まるだしの「オカルト時代」は終わりを告げたのだと思う」(文庫版p.198、199)

 そういうわけで、例えば超能力の話題については、ユリ・ゲラー騒ぎ、スプーン曲げブーム、『エスパー入門』を片手に日々トレーニングに励んだ無意味な日々、といった話が中心となり、その後の展開については冷淡です。

 「子どもたちのオカルト観は「超能力」によって、より「やっかい」なものになってしまい、その時点で、80年代以降の「ニューエイジ」やら「スピリチュアリズム」やら、「あーあ、イッちゃったよ、あの人」的な方向への流れ、さらにはその先の90年代、「超本気モード」で越えてはならない一線を越えてしまう・・・というような傾向の下地ができてしまった・・・ようにも思える」(文庫版p.111)

 他に面白いと思ったのは、当時のオカルト女子たちの動向。

 「当時の小学生女子たちは、恐怖に関して「先進メディア」である少女マンガ誌を参照しながら、得た情報を一瞬で流布させる口コミネットワークを構築し、目に見えない「一大オカルト帝国」(笑)を校内に築きあげていたのである」(文庫版p.234)

 「男子が女子側からの「おこぼれ」をちょうだいするだけの立場に甘んじてたのも当然だ。70年代オカルト女子たちは、はるかに大きなアドバンテージを持っていたのだ」(文庫版p.234)

 「「オカルト女子」のなかの「急進派」勢力、生粋の「オカルト原理主義者」たちは、あくまでも恐怖を堪能するための「コックリさん」に取り組んでいた。(中略)「恋占い」にうつつをぬかす「穏健派」の女子たちをなかば軽蔑していて、「あの子たちがやってるのは本当の『コックリさん』じゃない」と主張する。(中略)彼女たちなりの細かい設定があり、わざわざ放課後の誰もいない教室に集まって「実験」を繰り返していた」(文庫版p.280)

 ボクらが校庭やら川べりで「UFOを呼ぶ儀式」をやってた頃、ツチノコ探検隊を結成して裏山を徘徊していた頃、オカルト女子はこんなことをしてたのか。知らなかった。勉強になるなあ。

 「70年代に子ども時代を過ごしてしまったために、いまだに「夢見がち」という病気が治らなくて困っているすべての元オカルトキッズたちに捧げます」(文庫版p.4)

 というわけで、ごく軽いタッチで70年代オカルトブームを振り返る楽しい本です。あきらかに同世代の読者をターゲットにしているので、この紹介文を読んで「懐かしい」と思った方にだけ、こっそりお勧めします。『ノストラダムスの大予言』(ノンブック新書)の表紙絵をそのまま使っちゃったカバーが目印。


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『なんらかの事情』(岸本佐知子) [読書(随筆)]

 「もう四捨五入をすると百なので、そろそろ次のことを考えておいたほうがいい気がする。次というのはつまり、次に生まれ変わったら何になりたいかということだ」(単行本p.54)

 ふと気にかかる妙な想像。ひたすら暴走する妄想。しかも暴走中だというのにそこらでぶらぶら寄り道する妄想。『気になる部分』と『ねにもつタイプ』という二冊の名エッセイ集で読者を魅了した岸本佐知子さん、待望の第三エッセイ集。単行本(筑摩書房)出版は、2012年11月です。

 「なぜ私が必ず猿がボタンつけをした服を買ってしまうのかわからないが、その同じ猿がしばしば私の買う服の裾のまつり縫いも担当しており、だから私には裾運もない」(単行本p.17)

 第二エッセイ集『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞を受賞した岸本佐知子さんの最新エッセイ集です。どうしても世間から浮いてしまう自分、日常生活でふと気になる変なこと、差し迫った仕事があるときなどに限って止まらなくなる妄想。前作同様、生真面目な文章により、思わず吹き出してしまう滑稽さと、ほんの少しの不安を残してくれる、名エッセイがそろっています。

 「一度でも外に持っていけば間違いなく今生の別れになる、それが確信できるほどその傘を私は気に入っている。外でさせないので、ときどき家の中でさしてみる。雨の日にさして部屋の中を歩きまわる。床の上に開いて置き、その中にうずくまってみる。青空をバックに記念撮影する。蜜月ではあるが、それはもう傘ではない別の何かだ」(単行本p.20)

 「私はいま、ひそかに気にかけているものがある。<カルミック>だ。公共のトイレで昔からよく見かける、便器の排水管の途中から枝分かれして壁に取り付けてある、あの銀色の箱。あれはいったい何をするためのものなのか。(中略)その釈然としない感じも含めて、私は<カルミック>を好ましく思っている。応援したい」(単行本p.32)

 「久しぶりに「うりずん」がやって来る。「うりずん」がやって来ると、判で押したように「デラシネ」と「ヘルダーリン」もついてくる。辞書で調べれば意味はすぐにわかるのだろうが、来なくなってしまうと寂しい気もするので、そっとしてある。どっちみち、たいてい半日ほどいて帰ってしまう」(単行本p.34)

 レジに並んだとき自分の列が一番遅くなる才能で世界新記録達成、金メダル授与。「立ち合いと同時に変化しました」とアナウンサーが実況中継するとき、力士はいったいどう変化したのだろうか。臓器が不調を訴えてきたらうるさいだろう。空きビンを捨てようとテーブルに並べて、ついつい言ってしまう「愚民どもめ」。

 読書するとき気になって仕方ない、ページ端に存在する謎めいた物体、親指。サザエのふただけを扱う専門店を夢見る。今の自分と、二人組の男たちに連行されているあの宇宙人と、どっちがよりやばいだろうか。

 よくこれだけ変な話題が続くなあと感心しますが、しかしよく分かる気もします。二度目に読むとその妄想やら過去やらが自分のものになっていることに気づいて愕然と。

 ラスト一行で強烈な余韻を残す『金づち』、『M高原の馬』、『万物の律儀さ』といった作品、短いネタを積み重ねてとんでもない世界に読者をつれてゆく(そして置き去りにする)『みんなの名前』、『やぼう』、『おめでとう、元気で』など、もはやエッセイというより短篇小説のようで、お気に入りです。

 なお、『虚構機関 年刊日本SF傑作選』(大森望、日下三蔵)に収録された、「ダース・ベイダーも夜は寝るのだろうか」の『ダース考』、「小学生のころ、家の近所に「快獣ブースカ」がやって来た」の『着ぐるみフォビア』、この二篇も収録されていますので、SF読者にもお勧め。というか、SFショートショート小説集として読んでも素晴らしい。


タグ:岸本佐知子
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『はじめまして』(振付:井手茂太、白井剛 出演:森下真樹、松島誠) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 2012年11月11日(日)は、夫婦でスタジオアーキタンツに行って、「イデビアン・クルー」の井手茂太さん、「発条ト」の白井剛さん、二人のコレオグラファの新作公演を鑑賞しました。三つのピースから構成される90分(+休憩20分)の舞台です。

 まず第一ピース。白井剛さんの振付で、松島誠さんが踊ります。両腕の肘から手首までスプーンを何本も乗せて、それを落とさないように注意しながら様々な動作をします。

 身体の自由度にあえて制約をつけることから生み出されるぎくしゃくした動きが面白く、スプーンが全部床に落下して「自由」になってからも制約つきのまま踊るところが見どころ。かなりの筋力とバランス感覚が求められる演目で、これをやらせる方もやる方もチャレンジャー。それにしてもすごい身体能力だと感心しました。

 第二ピースは、井手茂太さんの振付で森下真樹さんが踊ります。こちらは日常的な動作をベースに文脈をずらすことで、何ともいえない可笑しさを引き起こす作品。

 これが斉藤美音子さんなら何食わぬすまし顔で踊って観客を戸惑わせるところでしょうが、森下真樹さんだと、いちいち気合を込めて入念に踊っていますという雰囲気が何だか変な場違い感を生んでいて、グッドだと思いました。最後、スタジオの片隅に置いてあるピアノで「蛍の光」を弾いてから退場するという演出も似合ってた。

 第三ピースは、松島誠さんと森下真樹さんのデュオ、というか何か二人てんで勝手に動き回っていたという感の強い作品。スタジオの構造を最大限に利用して、階段やら二階のテラスやらで色々と変なことをやらかす。例えば、森下さんは長い髪を三つ編みにする過程を逐一見せてくれる。

 二人の距離はだんだん近づいてゆきますが、最後までコンタクトしないで、それぞれ激しく踊ります。床に倒れてばたばたしている森下さんの周囲を松島さんが踏まないように飛び跳ねるシーンとか強い印象を残します。ついに正面から向き合った二人、(森下)「おわりですか」、(松島)「おわりです」、とぼけた会話で終了。

[キャスト]

第一ピース
  振付: 白井剛 
  出演: 松島誠

第二ピース
  振付: 井手茂太
  出演: 森下真樹

第三ピース
  演出、出演: 松島誠、森下真樹


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『近藤良平×大萩康司』 [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 2012年11月10日(土)は、夫婦で所沢市民文化センターミューズのマーキーホールに行って、近藤良平さん(ダンス)と大萩康司さん(ギター)のコラボレーション企画を鑑賞しました。

 大萩康司さんのギター演奏に合わせて近藤良平さんが踊るという、一回限りの特別企画です。

 キューバのレオ・ブローウェルの作品を中心に、アルゼンチンのアストル・ピアソラなど中南米の音楽、それもバリバリのラテン現代音楽を強靱なテクニックで力強く叙情豊かに演奏する大萩さん。

 対する近藤良平さんは、こちらも手加減なしのコンテンポラリーダンスを全力で踊ります。一曲だけマイムと小芝居で観客を笑わせる演目がありましたが(ビートルズの楽曲だし軽く流しても無問題ということで)、それを除けば全てフルスイング。体力勝負。

 ひゅっという鋭い呼気と共に跳躍し、回り込みながら片足で着地、もう片方の足がひとテンポ遅れて投げ出されるように旋回し宙を切り裂く、その動きがもうたまりません。拳法のような鋭い突き、逆立ち、そのままジャンプ、果ては舞台下への落下と、スケールが大きくシャープなダンスが炸裂。いいもの見せて頂きました。

 基本的に現代音楽と現代舞踊を本気でぶつける先鋭的な舞台ですが、それだけでも困るだろうということで、ビートルズや沖縄民謡風の曲を入れたり、大萩さんが「ひょっとこ踊り」を披露したり、近藤さんが舞台上で着替えてみせたりと、観客への気配りも色々とあり、大いに楽しめます。

 客席も盛り上がり、終演後もアンコールの手拍子が鳴りやまず。ふらふら汗だくの近藤さんがそれに応えて気合で踊ってみせたのには嬉しいやら気の毒やら。近藤さんが「意外に、良い企画になりましたね」と語った通り、スリリングな90分でした。これはぜひ再演してほしいと思います。


タグ:近藤良平
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『Red Bull Flying Bach』(ヴァータン・ベイジル振付、Flying Steps、川口ゆい) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 2012年11月09日(金)は、夫婦で渋谷Bunkamuraオーチャードホールに行って、ブレイクダンスとコンテンポラリーダンスの融合が大きな話題となっているフライングステップスの公演を鑑賞しました。

 ピアノとチェンバロによるヨハン・セバスティアン・バッハの楽曲(平均律クラヴィーア曲集、他)生演奏に乗って、総勢七名のチームによるブレイクダンスの超絶技巧が炸裂、そこに川口ゆいさんの鞭のようにしなやかで激しいコンテンポラリーダンスがからむ。見応えたっぷり爽快な90分ほどの舞台です。

 バッハの楽譜を分析しその構成要素を取り出して、ブレイクダンスの動きにひとつひとつ「翻訳」していったというヴァータン・ベイジルの大胆にして緻密な振付がまず素晴らしく、ダンサーたちが曲に合わせて踊っているというより、楽譜そのものを視覚的にダンスで表現しているという印象を受けます。

 そして腕自慢のダンサーたちが次々と繰り出す難易度の高いワザ、もうこれが超絶的で。軽快なエントリ、豪快なパワームーブ、胸のすくようなフリーズ、観ているだけで鼻血が出そうな興奮に包まれます。

 しかし、何といっても個人的に気に入ったのは川口ゆいさん。バッハとヒップホップ系の相性がいい、というのはある意味想像通りでしたが、バレエ・モダンダンス系のどちらかと言えば伝統的なコンテンポラリーダンスがあそこまで見事に調和するというのは、想像をはるかに超えていました。

 しなやかで鋭い川口さんのダンス、手足を大きく使った旋回、跳躍。そのリズムがブレイクダンスとぶつかって、あるときはダンスバトルになり、またあるときはパ・ド・ドゥ(デュエット)のように響き合う。

 コンテンポラリーダンスとブレイクダンスが古典の礎の上で出会い、交流し、ときに対立し、和解し、調和してゆく様をエンターティメント性たっぷりに描いた舞台。実に感動的でした。

[キャスト]

振付: ヴァータン・ベイジル
出演: 川口ゆい、ベニー・キモト、パニッシャー、マイケル、リル・ツェンリル・チェン、KC-1、リル・ロック、スパイダー


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