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『にょにょっ記』(穂村弘) [読書(随筆)]

 歌人の穂村弘さんが体験する奇妙な日常と妄想を記録した、虚実ないまぜの日記、あるいは日記の体裁をとったショートショート詩集。とぼけたユーモアに思わず失笑。単行本(文藝春秋)出版は2009年7月。私が読んだ文庫版の出版は2012年1月です。

 日付と題名がついた短い文章が並んでいます。ぱっと見は日記のよう。

 ふと思ったこと、電車内で見聞きした他人の言動、ニュースや広告に見られる不可思議な言葉。そういったものがはらむ「おかしさ」を、歌人の瑞々しい感性で丁寧にすくい取って、これで読者をひとつ笑かしてやろかいという下心を込めて仕立てたと思しき短文の数々。例えば。

 「ポインター犬をみる。ポインター犬は全身がぶちだ。この犬に噛まれたひとを知っている。念のため金玉もぶちかどうか確かめようとしたのだという」
(文庫版p.55)

 「電車に乗る。女性が連れの男性に向かってしみじみと云っていた。
「モグラって本当はサングラスもシャベルももってないんだよね」」
(文庫版p.74)

 「教会の前を通り過ぎてから、ん、と思って引き返す。講話のタイトルらしい貼り紙があった。「ペトロの立ち直り」
 立ち直ったのか、ペトロ。
 ということは、挫けてたんだ」
(文庫版p.119-120)

 「願い事の書かれた絵馬たちをみる。(中略)いちばん切実感があったのはこれだ。「これ以上電化製品が壊れませんように」」
(文庫版p.137-138)

 「駅前のスーパーマーケットのドアに広告が貼ってあった。
   太陽印の純粋ハチミツは栄養満点です。
   パンに!
   ケーキに!
   ヨーグルトに!
   お子さまたちに!」
(文庫版p.145)

 「存在しない女性の名前を考える。例えば「えぐみ」。
  町にはあんなに沢山の「めぐみ」が溢れているのに、「えぐみ」はいない(たぶん)のだ」
(文庫版p.176)

 「電車の前面に「あいつ」の文字をみて、びくっとする。電車なのに「あいつ」って・・・・・・。「あいづ」だ」
(文庫版p.181)

 きりがないのでこの辺で止めておきますが、とにかくこういう感じの日記というか雑文というか、個人的には「ショートショート現代詩」と呼びたくなる短文がずらずらと。

 上述の引用を読んでも、「で?」となる方も多いでしょう。こんなのツィッターを見ればそこら中にあふれてるよ、と云われるかも知れません。私も、なぜこれがそんなにおかしいのか、うまく説明できません。

 ですが、やっぱり特別におかしい。思わず笑いが込み上げてきます。内容よりも、「(たぶん)」とか、「!」とか、「・・・・・・」とか、細部に何かが宿っている気がする。

 なお、謎のいきもの(カワウソか)の日常生活を描いたフジモトマサル氏のイラストも実に雰囲気にあっており、しかも本文にないオリジナルネタを入れているのが凄い。

 「その豆腐柄のハンカチ、一つください」
 「木綿と絹がございますが」
(文庫版p.92)

 「もしもし、あたしリカちゃん。パパが交通事故にあっちゃって大変なの。いそいで今から言う口座にお金を振り込んでくださる?」
(文庫版p.107)

 「体温計をレンジで10秒チンしたら何度になるだろう。・・・いや、いかん。この実験は危険すぎる。・・・しかし、5秒なら・・・。」
(文庫版p.190)

 こちらは言葉や細部より、内容でニヤリとさせられます。


タグ:穂村弘
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『地上の飯  皿めぐり航海記』(中村和恵) [読書(随筆)]

 カリブ海の島々、オーストラリア大陸の砂漠、モスクワ、北海道、インド。世界中を歩き、食べ、学び、考え、そしてまた食べる。食文化を通じて世界を味わう魅惑のエッセイ。単行本(平凡社)出版は2012年1月です。

 『キミハドコニイルノ』、『降ります  さよならオンナの宿題』に続く中村和恵さんの随筆集です。世界中を歩いて食べた食事のことを中心に、そこから文化、歴史、文学、など幅広く語られます。

 あくまで食の話題が中心になっているので、植民地主義、ポストコロニアル、クレオール化、といった話題を見かけると逃げ腰になってしまう私のような読者でも大丈夫。今まで食べたことのない料理を食べるのが好き、という方なら、どなたでも楽しめます。

 『降ります  さよならオンナの宿題』でもカバーを外すと素敵なイラストが現れるという仕掛けがあったので、もしや今作も、と思ってカバーを外してみると。出てきた出てきた。水面に仰向けに浮かんだラッコが腹の上に皿を乗せ、両手にナイフとフォークを握っている可愛いイラスト。ラッコが食べようとしているのが何であるかは、ご自身で確認してみて下さい。というかちゃんと見てね。

 「なにがあろうが変わらないのは人間がごはんを食べるということであります。
 土地の食べ物の背後には古い物語と驚嘆すべき知恵があり、
 食卓の食べ物のまわりにはつねに個人の記憶があり、
 海を越えてもたらされた食べ物には驚くようなエピソードや思いがけない思惑が隠され、
 火を囲む人々の楽しみは香ばしい食べ物の匂いと繰り返される物語で、
 旅人は一皿の親切を与えてくれる見知らぬ方の厚意に頼って見慣れぬ土地を横切っていきます」(単行本p.186)

 インドの蒸しパンから始まって、南の島のマンゴー、ドミニカ島で食した魚汁、パンの実、ロシアのホットケーキ、という具合に世界各地の料理が登場します。

 芋虫からクジラまで、スシから食人まで、度肝を抜かれるほどバラエティに富んだ食の話題。しかも、どれもこれも、味はもちろん、匂いの描写とか、いかにも美味しそうに書かれており、読んでいるうちに食欲が刺激されてくらくらしてきます。

 「おかわりしてもいいかな」

という言葉が繰り返し登場し、その度にひどく羨ましい気持ちに。

 「国際アパートでは今日も、韓国人の女子学生がお米を炊いている。イラン人家族は羊肉の煮込み。スリランカ人の先生のお部屋からは華やかなスパイスの匂い。パンチパーマのサウジアラビア青年は魚フライを電子レンジで温めているようだ。ケニア人の女の子がお鍋をもって友達の部屋へいくところとすれ違う。お豆料理ですか。おいしそうな匂いですね。うふふ。彼女は微笑む」(単行本p.149)

 廊下にあるはずの「国境」など軽々と越えて、おいしそうな匂い、食卓の雰囲気、暮らしの気配、そういったものが行き交う場。いいなあ。「異文化相互理解」といった厳めしい言葉ではなく、うまそうな匂いで読者を誘う手口は大したもの。

 逆に、他人の土地の食文化に馴染まない、拒絶する、見下す、珍奇な見世物か支配と搾取の対象としか見ない、という心のありようが、どれほど寂しく、そして悲劇的であるかも、繰り返し語られます。

 個人的に心に響いたのは、北極圏に探検に出かけたフランクリン探検隊が、イヌイットの人々の生活圏のただなかにあって、本国から持ち込んだ缶詰ばかり食べていたせいで全滅したという逸話。あまりに象徴的すぎて悲しい気持ちになります。

 食文化の話から、植民地主義、国際貿易、途上国に対する搾取、自国民に対する抑圧、原住民文化、そしてポストコロニアル文学といった話題への移行もスムーズで、まるで食卓での気軽な会話のように、すっと入ってきます。食欲が刺激されているとき、心の構えは低くなりますね。

 読了後、何だか「世界中の人々が互いの飯を一緒に食えば、文化摩擦や紛争はなくなるのではないかしらん」という気分にすらなります。文化的偏狭さや排外主義でしか「自尊心」を保てないと大真面目な顔でそうおっしゃる方々には、是非とも嫌いな国にいって現地の人々と同じ飯を喰らい、頭ふわふわの湯気になってみて欲しい、切実にそう思います。

 余談ですが、著者の視覚的イメージとしては、『降ります  さよならオンナの宿題』の隠しイラストにあった「ちびでぶかわいい」の絵だったのですが、本書に出てくる「伸び放題の髪の毛を頭頂でお団子に結びいよいよムーミン谷の住人らしくなったわたし」(単行本p.151)というくだりを読んで、ちびの「ミイ」のイメージが離れなくなりました。

 今もミイが世界のあちこちを旅して、色々と辛辣なことも口にしながら、現地の食事を食べて湯気になっている。おかわりしてもいいかな、とか言ってる。そんな想像をすると、けっこうこの世界もいいとこなんじゃないかと、そんな風に思えてくるのです。


タグ:中村和恵
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『カラマーゾフの兄弟(2)』(ドストエフスキー、翻訳:亀山郁夫) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

 女と金をめぐる家族内の争い。三男アリョーシャの導き手たる長老の死。奸計をめぐらす料理人と次男イワン。様々な人間模様が描かれるなか、来るべき惨劇への準備は着々と整えられつつあった・・・。数年前にベストセラーとなった亀山郁夫さんの新訳カラマーゾフ、その第2巻。文庫版(光文社)出版は2006年11月です。

 おそらく世界で最も有名な長篇ミステリ。その第2巻です。全体は四部構成(+エピローグ)となっていますが、その第二部に当たります。第一部の感想については、2012年01月13日の日記を参照して下さい。

 そろそろ親父が殺されるかと思いきや、これがなかなか死なない。長男は金策に駆けずり回り、次男は何やら含みのある言動をとり、三男は師の最後を看取るのに忙しい。

父親フョードル:「かわいいわたしのヒヨコちゃん」
長男ドミートリー:「グルーシェニカは俺の嫁」

 父親と長男、どちらにも気を持たせて楽しんでいるらしい美女グルーシェニカ。いい歳してマジな顔で「彼女と結婚して全財産を譲る。息子たちには一銭もやらん」と言い出し、彼女に渡す大金を封筒に入れて寝室に置く好色親父。

 それまでけっこう好感(しょうがないオヤジだなあ)を持って読んできた父フョードルですが、その封筒に「わたしのヒヨコちゃんへ」と書いてある、という描写には怒髪。死ねばいいのに。私見ですが、きっとこれが殺害に至る直接のきっかけになると見た。

カテリーナ:「あの人を救えるのは私だけなの」
次男イワン:「それ、典型的なだめんずうぉ~か~の言い草ですよ」

 長男ドミートリーの婚約者カテリーナは、何としてもこの駄目な男を自分が救わなければ、という使命感に燃えて、あるいはそういう「健気な」自分に陶酔して、たぶん後者でしょうけど、言い寄る次男イワンにもなびかない。

料理人スメルジャコフ:「お父上がトラブルに巻き込まれるよう小細工など」
次男イワン:「ふっふっふっ。お主も悪よのう」

 おそらく「カラマーゾフの兄弟」の一人(少なくとも自分ではそう信じているに違いない)料理人スメルジャコフが奸計をめぐらし、そのことを知らされる次男イワン。待てよ、親父と兄貴を排除すれば、遺産とカテリーナの両方が手に入るじゃん。

三男アリョーシャ:「ああ、親父も兄貴たちも何て見苦しいんだろう。ボクは神にこの身を捧げ、女と縁のない清らかな生活を送ることにしよう」
幼なじみのリーザ:「大好きです。大人になったら結婚して下さい」
三男アリョーシャ:「はい」

 あるときは長老に云われたので使いっ走りとなり、またあるときはお兄さんに云われたので使いっ走りとなる。そんな下っぱ体質が身についた三男アリョーシャ。幼なじみの病弱美少女リーザからの恋文ひとつであっさり陥落。もっと自分を大切に、というか、自分というものを持った方がいいと思う。

長老ゾシマ:「アリョーシャ、死ぬ前に告白しておくことがあるのじゃ」
三男アリョーシャ:「何でしょうか」
長老ゾシマ:「わたしが、おまえの、父だ」
三男アリョーシャ:「のぉぉぉぉぉーっ!」
長老ゾシマ:「というのは冗談として、みんなぱらいそさいくだ!」
三男アリョーシャ:「長老様ーっ」

 魂の導き手たるゾシマ長老の死を看取る三男アリョーシャ。そうこうしている間にカラマーゾフ家には悲劇が着々と迫っています。たぶん迫っていると思う。文庫版で一千ページ読み進めてきてもまだ親父がぴんぴんしている(かわいいかわいいわたしのヒヨコちゃん)のは困ったことです。第三部へと続きます。


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『その「正義」があぶない。』(小田嶋隆) [読書(随筆)]

 時事ニュースや会社組織の駄目なところを、いい加減に脱力した感じで愚痴る。身も蓋もない事実をぼそっと指摘する。話題の対象の「しょぼさ」を表現することにかけては右に出るものがない。そんな小田嶋隆さんが日経ビジネスオンラインに連載している人気コラムが書籍化。単行本(日経BP社)出版は2011年11月です。

 80年代に、「月刊遊撃手」とか、「Bug News」とか、パソコンやパソゲーまわりの奇妙なサブカルチャーを扱った雑誌で気勢を上げていた小田嶋隆さんが、そのタチイチのまま時事ニュースについて語ってしまうコラム集。

 原発問題、サッカー、芸能人のスキャンダル、大相撲の八百長問題、表現規制問題、国旗起立問題、さらにはジョブズ死去に至るまで、旬ネタが集まっています。姉妹編『地雷を踏む勇気』と同じく、身も蓋もないことをぼそぼそと語り、しょぼい雰囲気を作り出すのが巧い。

 「子供を盾に何かを言ってくる人々は、正直なコラムニストにとっては、天敵だ。(中略)この人たちは、クレームを付けるに当たって、本人の名においてそれをせずに、子供の弱さやいたいけさをタマよけにして、その後ろでモノを言う」(単行本p.182-183)

 これは表現規制問題について語るコラムの導入部なんですが、これを見ても想像がつくように、社会問題を論じる部分ではごく凡庸な論調になるのに、個人的な愚痴をこぼすところはやたらキアイが入ってます。

 「小沢ガールズという言葉を使っている書き手も同じだ。彼らは読み手を侮っている。(中略)どうにもTOEIC 300点台っぽい和製英語以前の語感の、カラ駄目な用語を使っているという時点で、書き手の見識の低さは、隠蔽不能。どうにもならない」(単行本p.233)

 政局を論じるときも、「なぜ、小泉'sチルドレン、と云わないのか。なぜ、小沢'sガールズ、と云わないのか」を熱く語る(そこかっ)ところが、いかにも小田嶋隆さんらしい。

 野田政権について包括的に評価するコラムでは、自作の歌詞を全文掲載した上で、こうくる。

 「作詞者はオダジマ。まだ20代の頃、当時所属していたアマチュアバンドのために書いたものだ。だから、大丈夫、ジャスラックは手を出せない。引っ込んでろよ、シャイロック。オレの歌をオレが引用しているだけなんだから」(単行本p.243)

 正直なコラムニストというのも、いろいろとストレスが溜まる商売のようですね。

 というわけで、何を論じるにしても、裏付けデータなど一切出さないし、根拠はたいてい「若い頃、知人にこんなヘンなヤツがいた」といったものだし、論調もまあ常識的というか凡庸というか、あまりぱっとしないし、「内容」に期待して読むときっと失望させられます。

 しかし、その何かを「へっぴり腰で、ぼそぼそとけなす」という、しょぼい感じがツボに入ると、これが思いっきり笑えます。個人的にもときどき思わず失笑が漏れてしまいました。向き不向きはあると思うので、まずは『地雷を踏む勇気』(小田嶋隆)を読んでみて、面白いと思った方はためらわずにどうぞ。


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『地雷を踏む勇気』(小田嶋隆) [読書(随筆)]

 原発の本質はマッチョ、復興構想会議はポエム、今や恋愛は田舎くさい娯楽。身も蓋もないことをへっぴり腰で語るオダジマ流、日経ビジネスオンラインの人気コラムを書籍化。単行本(技術評論社)出版は2011年12月です。

 80年代の後半でしたか、パソコンやパソゲーまわりの奇妙なサブカルチャーを扱った雑誌を熱心に読んでいた時期があります。「月刊遊撃手」とか、「Bug News」とか。うん、「Bug News」は素敵だった。そういう雑誌で気勢を上げていたライターが小田嶋隆さん。

 とにかく小田嶋さんの記事は面白かった。社会現象や会社組織や何やらの駄目なところを、いい加減に脱力した感じで愚痴る。身も蓋もない事実をぼそっと指摘する。思わず失笑してしまう比喩。話題の対象の「しょぼさ」を表現することにかけては右に出るものがない、そんなコラム。

 その小田嶋隆さんが今や日経ビジネスオンラインにコラムを連載しているというから驚きです。「日経」、「ビジネス」、いずれもイメージに合いません。もしや「グローバルマーケットでビジネスチャンスをつかむには」みたいなことを書いているのか。オダジマよう。

 というわけで、単行本化を機会に、おそるおそる読んでみました。ところがところが、何とこれが、昔のまんま。一安心です。

 例えば、原発問題について語る言葉はこうです。

 「原子力シンパの皆さんは(中略)「エネルギー効率」であるとか「温暖化ガス排出ゼロ」であるとかいったクレバーに聞こえる言葉を使うことにしている。でも、心の中には、「かっけー」「つええ」「すげえ」ぐらいな間投詞が溢れているはずなのだ。男の子は、何歳になっても変わらない。われわれは、強力で、派手で、むちゃくちゃで、制御の難しいホットロッドなマシンが、心の底から大好きなのである」(単行本p.21)

 九電やらせメール事件についての考察。

 「これは、昨日今日の付け焼刃の無能さではない。きちんと筋金の入った、十分に訓練の行き届いた無能だ(中略)。関係者のすべてが無能であり続けることが組織存続の前提条件になるといったような何かが、九州電力の内部の、少なくとも原発に関連する部署には内在しているはずだ。そうでないと、説明がつかない」(単行本p.51)

 自衛隊について。

 「そうだった。軍隊ではない。撤回する。彼等は軍手だ。汚物や危険物に触る時に用いる使い捨ての手袋。権力者の手を汚さないための・・・・・・以下略。忘れてくれ。4月1日だ。オレだってデタラメを言いたくなる日が一年のうちに一回ぐらいはある」(単行本p.152)

 といった具合。80年代にパソコンメーカーや、パソコンユーザーや、パソコン雑誌について書いていた文章と同じです。

 「人間の中味について言うなら、私の心根は、上野行きの都営バスに乗っていた高校生の頃とほとんど変わっていない。ただ、外見が五十男になっただけだ」(単行本p.235-236)

 読んでいるこちらの心根も、あの頃と何一つ変わっちゃいません。

 タイトルだけ見て「批判をものともせず、毅然とした姿勢で自分の主張を貫く暑苦しいコラム」を想像する読者もいるかも知れませんが、それは誤解です。

 まわりくどい言い訳を長々と書いた挙げ句、へっぴり腰で地雷に近づいて、踏むポーズだけして、「えんがちょっ!」と叫びながら逃げてゆく、そんな感じのヘタレ記事が多いので、むしろそういうのを期待している方にお勧めします。それと「Bug News」を読んでいた人。


タグ:小田嶋隆
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