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『動きの悪魔』(ステファン・グラビンスキ、芝田文乃:翻訳) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]


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基本的に乗客というものが我慢ならなかった。彼らの〈実用本位〉がいらだたしかった。彼にとって鉄道は鉄道のために存在するのであって、旅行者のためではなかった。鉄道の任務とは、人々をある場所から別の場所へと交通目的で運ぶことではなく、運行それ自体と空間に打ち勝つことであった。世の小人どものつまらない商いや、詐欺師の事業努力、商売人のおぞましい入札なんぞ鉄道となんの関係があろう? 駅があるのはそこで降りるためではなく、移動距離を測るためであった。鉄道の停車場は運行の基準であり、それらの一連の変化は、万華鏡の中さながらに、運行の進捗の証拠であった。
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単行本p.30


 ポーランド文学史上ほぼ唯一といってよい恐怖小説ジャンルの古典的作家による鉄道奇譚集。百年近く経っても変わらない鉄道マニアの心理と生態が手にとるように。本邦初訳14篇を収録。単行本(国書刊行会)出版は2015年7月です。

 「ポーランドのポー」「ポーランドのラヴクラフト」の異名をとる恐怖小説作家ステファン・グラビンスキの出世作となった短篇集。今から百年近く前に書かれた鉄道奇譚集ですが、ポーやラヴクラフトの名から連想されるような、恐怖小説、鉄道怪談、という印象は薄く、どちらかと言うと「鉄道マニアの心理と生態を赤裸々に描いた風刺小説」に近い印象を受けます。百年前のポーランドでも、現代の日本でも、テツはテツ、だなあと。


[収録作品]

『音無しの空間(鉄道のバラッド)』
『汚れ男』
『車室にて』
『永遠の乗客(ユーモレスク)』
『偽りの警報』
『動きの悪魔』
『機関士グロット』
『信号』
『奇妙な駅(未来の幻想)』
『放浪列車(鉄道の伝説)』
『待避線』
『ウルティマ・トゥーレ』
『シャテラの記憶痕跡』
『トンネルのもぐらの寓話』


『音無しの空間(鉄道のバラッド)』
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 突然得体の知れない不安に襲われ、二人とも黙り込み、すでに薄暗くなりつつある峡谷の首に目を釘付けにした。八月の晩の底なしの静けさの中、線路から突如、かすかな、だが明瞭なざわめきと何かがこすれるような音が流れてきた。何かの抑えた摩擦音、何かの臆病な囁き、カチャカチャという音が……。
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単行本p.16

 長年鉄道勤めをした後に退職した男が、すでに廃線になった路線への赴任を希望する。二度と列車が訪れることのない無音の廃駅。だが、夜な夜な、レールの軋みや駅のざわめきが少しずつ蘇ってくる。レールは生きている、駅は死なない、と言いながら過去の思い出にしがみつく老いた鉄道マンの姿を共感を込めて描く感傷的な作品。


『汚れ男』
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 汚れ男は列車の躰の中に存在し、自身を列車の多肢骨格に浸透させ、不可視となってピストンに打たれ、機関車の罐(ボイラー)の中で汗を流し、車両のあちこちを歩き回っているのだった。ボロンは彼が自分の近くにいることを、目には見えぬものの、変わらずにずっと存在していることを感じ取っていた。列車の魂の中でまどろむ汚れ男は、列車の秘めた潜在力であり、それは危険な瞬間、悪い予感の刹那に抜け出し、凝縮して、肉体をまとうのだった。
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単行本p.36

 列車事故の直前に目撃される「汚れ男」と呼ばれる謎の人影。車両内で「汚れ男」を目撃した車掌は、自分が乗っているこの列車に大事故が起きることを予期する。だが、意外にも、なかなか事故は起きない。鉄道というものはすべて予定通りに、定められた通りに運行されなければならないというのに。焦った車掌は、鉄道の理念を守るために、自ら行動することを決意する……。定時運行を守るためなら脱線事故のリスクもいとわない日本の鉄道にも通ずる心理サスペンス。


『永遠の乗客(ユーモレスク)』
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 アガピト・クルチカ氏は裁判所の書記だったが、鉄道と旅行の情熱的な支持者だった。鉄道環境は彼に麻薬のように作用し、彼の全存在を奥底まで揺さぶった。煙の、機関車の匂い、照明用ガスの酸っぱい香り、駅の廊下にこぼれた煤と煤煙の独特のむっとした空気は、彼に甘い眩暈を引き起し、意識と思考の明瞭さを掻き乱した。かりに健康状態が悪くなかったら、休みなく国の端から端まで列車に乗るために、車掌になっていただろう。
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単行本p.64、66

 駅に行き、切符を買わずに停車中の列車に乗り、出発直前に飛び降りて、駅の待合室で時刻表と地図を広げ、いましがた「乗車」した列車の乗り継ぎ計画を細かく細かく確認する男。この謎めいた不可解な行動にはいかなる理由があるのか……。というか、それ普通に時刻表マニアの生態あるあるですから。百年後に読んだ日本人にはすぐに分かってしまう。


『偽りの警報』
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誠実で自己犠牲的な十年間の職務ののち、ビトムスキは鉄道災害の分野に、まだよく知られていない、ある謎の要因を導入せざるを得ないと感じた。それは実のところ測定可能な値の範囲を超えていた。ほぼすべての事故で、いわゆる〈原因〉の表面下深く、偽装された秘密が隠れていることに疑問の余地はなかった。
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単行本p.84

 鉄道事故の統計データを研究していた鉄道マンが、事故には法則性があることに気づく。彼だけが知っているこの知識を応用すれば、次にどの駅でいつごろ大事故が起きるか正確に予言できるのだ。上層部にいくら進言しても信じてもらえなかった彼は、信奉者を集めて極秘計画に取りかかる……。真面目で几帳面な人がオカルト的ジンクスにハマってゆく過程をリアルに描いた作品。


『機関士グロット』
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 理想はひたすら直線を逸脱せず循環せず進むこと、息もつかず停まらずに狂ったように走ること、霧で青ずむ遠方を目指す機関車の疾風の速度、翼のある無限の疾走だったからだ。(中略)
 こうしたことから機関士は駅や停車場の手前に来ると抑えがたい恐怖を感じた。なるほど、そうした場所は担当区間内に多くはなかったが、しかし常にあったし、列車は時々停まらなければならなかった。
 駅は彼にとって次第に憎むべき終了の象徴、定められた放浪の目的地の具現化、それを前にすると嫌悪と恐怖に襲われるあの忌まわしいゴールとなった。
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単行本p.124、125

 どこにも停まることなく機関車を永遠に走り続けさせたい。強迫観念的にそう思い詰めた機関士は、機関車を駅に停車させるのを拒否するようになる。そのために職を失った彼は、最後に長年の夢をかなえようとして……。機関車を愛するあまり「駅さえなければ」と思う、まるで「乗客さえいなければ確実に定時運行できるのに」という日本の鉄道のような、明らかに本末転倒でありながらやけに切実な本音を描いた作品。


『放浪列車(鉄道の伝説)』
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 あるときから国鉄路線に、周知の記録には記載がない列車が現れたのである。定期運行の蒸気機関車に牽引されておらず、言うなれば特許も承認もない闖入者であった。どの種別に属しているのか、どこの工場から出たのかさえ特定することはできなかった。(中略)もっとも懸念されたのは、その気まぐれさだった。闖入者はここかと思えばあちらに現れ、突然どこからともなく、どこか遠くの鉄道区間からやって来て、悪魔のような轟音とともに線路を走り抜け、遠くに消え去るのだった。
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単行本p.184

 時刻表の隙間をぬうように、どこからともなく現れては、走り抜け、消え去る、謎の列車。それを捕まえようとする試みはことごとく失敗するのだった。そしてあるとき、駅で停車中の列車に、幽霊列車が全速力で突っ込んできた……。『X電車で行こう』(山野浩一)を連想させる幽霊列車もの。


『トンネルのもぐらの寓話』
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彼は死から逃げた。死を前にして〈忘却の洞窟〉に閉じこもり、鉄の閂を掛けた。あちらの外の世界では絶えず変化が渦巻き、生と死の親、永遠の動きが猛り狂っていて、若き緒民族が芽吹いては、老いて萎れたものは墓に横たわり、文化や文明が生まれ、あるものは立ち上がり、あるものは奈落の底に崩れていった……ーー彼は永遠にとどまり、すべてに対して無関心で、孤独で、見捨てられていた。ただ彼の躰はひ弱になり、獣の形へと退化していったが、何世紀もの両生類とのつきあいで幾分彼らの外形に似てきた。
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単行本p.283

 長いトンネルのなかの路線を保全する仕事を続けるうちに、外の世界を拒絶して洞窟の暗闇に安寧を求めるようになった保線工。彼が迷い込んだ地下の秘密の空間には、両生類のような姿に退行した男がいた。彼は先史時代からずっとそこで生きてきたのだという。二人は意気投合するが、やがて忌まわしい「外の世界」から捜索の手が伸びてくる……。「ポーランドのラヴクラフト」の異名にふさわしい怪奇小説。本書収録作品中、鉄道や列車が主役にならない唯一の作品です。



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