SSブログ

『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』(磯野真穂) [読書(教養)]


--------
 ある行為が問題とみなされると、人は原因探しに夢中になり、その行為の渦中で当事者はどのような体験をしているのかに目を向けることをやめてしまう。重要なのは問題の解決であり、「問題行動」から生じる体験のありようは、とるに足らないものとなってしまうからである。
 しかしそれが問題であろうとなかろうと、そこで起こっていることも間違いなく一つの生のありようである。彼女たちはそこで何を感じ、何を思っているのだろう。
 ここでは病気とされたゆえほとんど着目されることのなかった、ふつうに食べられない人たちの食の体験から始めてみよう。
--------
単行本p.219


 拒食や過食嘔吐を繰り返す。それは本当に対人問題(親子関係のこじれ等)が原因で引き起こされる「症状」なのだろうか。そのとき、主観的にはどのような体験をしているのか。逆にいうと「ふつうに食べられる」というのは何を意味しているのだろう。うまく食べられない人たちの生き方から、人間全般にとっての食の本質を探求する一冊。単行本(春秋社)出版は2015年1月です。


--------
親とは一言も口をきかずに深夜の過食を繰り返し、食べ物を親が隠すと、親を叩いたり、寝ている親の首もとをつかんで揺り起こしたりして食べ物を要求した。はじめの一ヶ月は入浴もせず、ひたすら深夜の過食を繰り返したため、体重は激増して90キロになり、親が無理やり外に連れ出そうとすると手を上げた。
--------
単行本p.55


--------
食べて吐いて食べて吐いての繰り返し。止まらない。コンビニに走るたび、「助けてよ、誰か助けてよ」と声に出す。心と身体がばらばら。身体に悪いことはわかってる。明らかに嘔吐する前より身体が不調になってる。でも、止まらない。(中略)やっぱり、「食べちゃったものを出さないでおく」っていうのがその時はどうしてもできなくて。コンビニ行くけど、疲れているから、もうやだっていう気持ちはあるけど許せない。食べ物が胃の中に吸収されていくのが許せない
--------
単行本p.69、145


 余談で恐縮ですが、私、『たそがれたかこ』(入江喜和)というコミックが大好きで、何度も読み返しては心の中でたかこさんを熱く応援している者であります。その、たかこさんの生活に暗い影を落とす要因のひとつが、彼女の一人娘が抱えているいわゆる摂食障害。娘を連れて病院に行くシーンが何度か描かれるのですが、これは読むたびに心が痛みます。これほど多くの患者がいて苦しんでいるのに、はっきりとした原因も、確立された治療法も、知られていないらしい。しかも、治療施設も専門家も少なく、受診するだけで何ヶ月も待たされるという状態のようです。

 本書は「拒食や過食嘔吐を繰り返す」という悩みを抱えている6名の女性たちへの徹底したインタビューを通じて、この「ふつうに食べられない」人々を探った本です。類書と違うのは、原因や治療法を探すのではなく、むしろ「拒食や過食嘔吐という体験は、主観的にはどのようなものなのか」「逆に、ふつうに食べるということは何を意味しているのか」を追求してゆく姿勢。既存の解釈や治療方針に対しては批判的です。


--------
 しかし私たちは「摂食障害」について、もう一つの事実を押さえておく必要がある。それは、大量の研究がなされ、治療技法も一定の到達点に達したにもかかわらず、患者数が減ったわけでも、治す方法が確立されたわけでもないことである。この状態について、医療側からは摂食障害の専門家の少なさ、専門の治療施設のなさ、この病気について一般の無理解がしばしば挙げられるが、私は異論を持っている。それは、ふつうに食べられない状態を「摂食障害」という病気とみなし、治療の対象とする現行のやり方では到達できない領域があり、それがふつうに食べられない状態の理解を不完全なものに留まらせているという見解である。
--------
単行本p.4


--------
女性の葛藤は、もちろんシンガポールにも存在するし、摂食障害の治療においては家族療法も行われている。しかし一方で、子供の問題を親、特に母親に還元する論調は20世紀後半の日本に比べると明らかに薄いといえる。
 ふたつの国家の摂食障害の議論を比較すると、そこには医療現場をとりまく社会文化的背景の影響が色濃く映し出されていることがわかる。つまり日本では80年代から90年代に広く受け入れられた家族モデルは科学の落とし子ではなく、戦後日本のジェンダー観の影響を受けた時代の申し子なのである。
--------
単行本p.215


 こうした問題意識から、解釈(母親との葛藤が逃避行動として表れている、など)や治療法(認知行動療法など)を探し求めるのではなく、まず当人の語りを通じて「体験」として拒食、過食をとらえようとします。一般論ではなく、個人の体験としての「ふつうに食べられない」状態が詳細に、生々しく語られてゆきます。


--------
 家に帰るとすぐに過食が始まる。当時住んでいた1Kのアパートは、玄関を入るとすぐにキッチンがあり、その奥に自分の部屋があったが、キッチンを通り抜けることすらかなわず、キッチンで過食が始まることもしばしばであった。
 過食時の注意点は間をあけないことである。間をあけてしまうと、胃の物理的な限界や気持ち悪さを感じて食べられなくなってしまうため、間髪いれずに口の中に入れるようにし、電子レンジを使う場合は何かを食べている最中に温めた。
(中略)
 下剤は食べてすぐよりも、一時間くらい経過した方が効きがよいため、過食後しばらくはベッドの上で休んでいたが、下剤を飲まずにそのまま眠ってしまうことはほとんどなかった。明け方になると下剤が効き始め、腹痛が起こるので途中で何度も起きてしまう。しかし下剤がよく効くと、過食で膨らんだ腹部は平らになり、体重は二、三キロ落ちており、そうなると過食の罪悪感は消え、すっきりした気分で一日を過ごすことができた。
--------
単行本p.226、227


--------
 帰宅すると、すぐに過食が始まる。着替えはおろか、コートを脱ぐことすらできない。食べ物をスーパーの袋から一つずつ取り出す時間も惜しいので、汚れてもよいように新聞紙を床に広げ、買ってきたものを新聞紙いっぱい乱暴に広げて食べ始める。しかし早く食べようと焦りに焦っているので、パンの袋や熱い弁当の蓋を上手に開けることができない。パンの袋はぐしゃぐしゃになり、弁当箱を新聞紙の上にひっくり返してしまうこともあったし、さらに箸で食べ物をつかむことにも煩わしさを感じ、手づかみで弁当を食べたこともあった。
(中略)
 一口食べるごとに、傍らに用意してあるスーパーの袋に液状になる寸前の食べ物を吐きだしてゆく。口に入れては吐きだす作業を猛烈な勢いで繰り返すため、手や洋服は汚れ、時には、髪の毛まで食べかすがついてしまうこともあった。
--------
単行本p.228、229


 様々な体験談から見えてきた驚くべき結論。過食嘔吐のとき人は「フロー」状態に入っているというのです。極限の精神集中、忘我の境地、宇宙と一体化した感覚。トップアスリートやエクストリームスポーツの分野で知られている特別な意識変容状態。フロー。


--------
 還元主義は、心と身体に何らかの問題があるから過食は継続すると考える。したがって、認知のゆがみを修正したり、コミュニケーションスキルをつけさせたり、飢餓状態から抜け出すための治療法がとられるが、本書が提示する過食継続の理由は、還元主義とは全く異なる。彼女たちが過食を手放したくとも手放せない理由は、過食がフローを誘発するからである。
(中略)
 しかしこれで話は終わりではない。それはキャベツの過食ではフローは起こせないことである。フローを起こせる食べ物は限定されている。これはいったい何を意味しているのだろうか。
--------
単行本p.237、238


 さらに、これらの体験に見られる「食や人生の“意味づけ”の硬直化」という点に注目し、そこから逆に「ふつうに食べる」ことの意味を探ってゆきます。こうして、副題にある通り、文化人類学が扱うテーマへと到達するのです。


--------
ここまで紹介した女性たちの語りを見ると、食べ物と人生の意味が硬直化し、流動性を失っていることがわかる。食べ物や人生に自ら意味を見出すことをやめ、他人の作った意味にただ従属していることがわかる。
 カロリーや栄養素、家族モデルといった食べ物や拒食・過食に対する意味づけは、自分の人生とは直接かかわりのない人々が作り出した、食べ物や生き方に対しての意味づけの一つのあり方に過ぎない。しかしふつうに食べられない人々は、やせようと思った過程でてこれまで自分が食べ物に与えてきた意味づけを進んで放棄し、そのような人々が作り出した意味づけに従って食べ方や生き方を調整するようになる。
--------
単行本p.274


 ルッキズム(容姿至上主義)、ダイエット法、家族モデル。他人の規範(意味づけ)に「従属」することの恐ろしさがひしひしと迫ってきます。

 というわけで、苦しんでいる人、治療法を探している人にとって、即効性がある本ではありませんが、原因や対策を求める前に「そもそもこの体験は、自分にとってどのような意味づけを持っているのか」と深く内省するきっかけになるかも知れません。いわゆる摂食障害にかかわる方々に一読をお勧めします。それから、たかこさんに幸多かれと思う。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: