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『説教師カニバットと百人の危ない美女』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「私は小説家八百木千本、決して笙野頼子ではない、純文学作家。」(Kindle版No.924)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第90回。

 いよいよ八百木千本、登場。受難続きの純文学作家、その最初の闘争(というか一方的に叩かれひたすら耐え抜いた)を描いた長篇を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は1999年1月、Kindle版配信は2014年7月です。

 「メールは男言葉で乱暴なのに会うと八百木は丁寧な人であった。活字の掛け合いはしていてもそれまでの笙野には八百木の実物と会って話す機会は殆どなかった。 かっこいいブスという設定で書いたために「存外育ちはいい」とか「顔と裏腹に趣味、動作は優しい」とか、笙野と比べると少しだがまともな人間という設定の人になっていた。でもまあ相手への要求はどんどん出す人であった。」
(『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』より。Kindle版No.2412)

 「中身があるハードボイルドな誇り高いブスだ。お前なんかと一緒にされる覚えはねえ。」(Kindle版No.2008、原文は拡大文字)

 容貌に恵まれず恋愛も結婚もせず、文学や猫とともに幸福に生活していた作家、八百木千本が、ゾンビ集団(醜貌特権を許さない市民の会、みたいな)から執拗な嫌がらせを受けることになります。

 「ブスだって言われたら自分の顔のブス描写ずーっとするし、」
(『未闘病記----膠原病、「混合性結合組織病」の』より。単行本p.103)

 「----確かにマスコミから見た私は気味の悪い顔をしてブス小説を書くカルト作家だ。が、実際は魔境で静かに暮らす繊細な小市民なのだ。」(Kindle版No.327)

 「男性から恋愛や結婚の対象とされる大多数の女性たちが、決して足を踏み入れる事の出来ない人外の魔境にいて、私はサンクチュアリの生物のように生命の歓喜のみを味わう事になった。」(Kindle版No.101)

 そういう八百木の生き方が、そういう存在そのものが気に食わない妖怪がわらわらと集まってきます。その正体とは。

 「巣鴨こばと会残党、またの名をカニバット親衛隊。かつては一万人を越えた、結婚願望ばかりが発達した異端の女性集団。が、今ではその数もたった百人」(Kindle版No.176、原文は拡大文字)

 というわけで、敵はカニバットとその取り巻き。ではまず、今は亡き「有名タカ派文化人にして女性差別的女性論を書き続けた貴族趣味エッセイスト」(Kindle版No.374)であるカニバット先生がご活躍された時代について、振り返っておきましょう。

 「女性問題に関する当時の慣用句、それは「ウーマンリブはヒステリー」だった。いや、それどころか、「男女同権とか言うやな女っているじゃん」、だ。自分達より頭の悪い男子学生から一睨みされて、それで女子学生の多くは黙ってしまった時代。」(Kindle版No.1649)

 そんな時代に、先生は一躍マスコミの寵児となられたのでした。

 「カニバットなど言わばこの右畜の草分けでもあった。(中略)右畜の主な仕事は権力者に都合のいい嘘を言う事でマスコミに登場し、その嘘をいかにも専門的に言いくるめる事であった。」(Kindle版No.2184、2186)

 「右畜に向いているのは、ルサンチマンが積もりすぎて我を忘れてしまった不幸な苦労人か、または、金持ちすぎて幼時から現実感覚を持てなかったような、鈍感恥知らずな坊ちゃん達であった。」(Kindle版No.2222)

 ここらへん、今でもまったく同じですね、うんざりするほど。

 「ともかく文学から社会現象悉くまで、死に絶えたはずの昔風フロイト心理学で一括する。そしてなんとかしてそれを「女の被強姦願望」という杜撰なインチキに繋げてから、いかにも科学的なように正当化する事(中略)そしてそれは、まだマスコミで権力をふるっている団塊男性にとって、あまりにも切実にその復活を待たれていた言説だった。」(Kindle版No.2193、2197)

 団塊男性には「女はセクハラを待っています」(Kindle版No.2188)「日本に火星人が攻めてきます」(Kindle版No.2189)「文芸誌には何の意味もありません」(Kindle版No.2190)と語り、若い女性には父親面で「愛情を込めて叱って」やる。そう、それこそが説教師。

 「説教に耳を傾ける素直なシンデレラたちに、嘘の国際情勢と時代にまったく合わない、礼儀作法を教えるのを本職にした。つまりその主力商品とは、きれいごとと男尊女卑とを並べたてたような「男の物の見方」講義だったのだ。」(Kindle版No.410)

 こういう「女大学」的な時代錯誤に満ちた女性蔑視暴言を「説教」するカニバットに心酔する、うら若き乙女たち。

 「カニバット先生から婦徳という言葉を習って二十年になります。そして私はますます婦徳に磨きを掛け、心さえ綺麗なら結婚出来るのよと自分を励ましてまいりました。(中略)あらあたしったら本当にこばとのようにふるえていますわ。」(Kindle版No.686、689)

 それなのに結婚できなかった元うら若き乙女たちは、その恨みを八百木千本にぶつけてきます。今ならネットで炎上でしょうが、本書が書かれた時代に彼女たちが嫌がらせに使った手段は、ファクシミリ。毎日、ファックスで大量に手紙を送りつけ、別便で見合い写真を郵送してくるのです。

 「繰り返しが多く用のないファクシミリだけが、毎日毎日ただ積もっていく、ファクシミリ用紙を捨てる気力も完全になくなり私は次第に疲れて来ていた。現実に泣き叫ぶ根性もなくなっている。」(Kindle版No.946)

 「手紙の文体はどれも結構似ている。うるさい程の敬語、年齢がすぐ判る趣味や固有名詞、無駄な淑やかさ、不毛な上品さ、空回りする清楚さ、わざとらしい女らしさ、建前とルサンチマンの激しい葛藤、歪んだ世界認識、ずれまくりの自己像、そして、「鬱勃たるパトス」……」(Kindle版No.271)

 「それなのに彼女達は救われようとしているのだ。結婚によって。」(Kindle版No.290)

 カビの生えたような婦人道徳と結婚妄執にとり憑かれ、取り残されるうちに狂気の先鋭化が進んでゆく巣鴨こばと会の残党、つまり未婚者たち。猟奇殺人、死体損壊、誘拐監禁、拷問虐殺、内ゲバ、集団懲婚(集団リンチのことだと、とりあえずそう思ってください)。淑やかに乙女の羞じらい含ませつつ、何でもやります切り刻みます素敵な殿方と出会うため。そしてその様を、夢の中で八百木に見せつけるのです。

 「「こんなに古風で貞淑な心の美しい賢婦なのに、時代が悪いせいで結婚出来ない」という恨みつらみを、実体験さながらに夢の中で見せられるのだ。」(Kindle版No.949)

 「人並みで貞淑でただ結婚運だけがなかった、と称している、精神の化け物達の凄まじい世界をいちいちわざわざ、何の免疫もなく味わわなくてはならない」(Kindle版No.784)

 「マンションの壁につかまり、私の部屋の窓のところに登って来る。ずるーりずるりと、花嫁姿のままで登って来るのだ。」(Kindle版No.775)

 「やつらは既にもうヒトではないのだ。「お化け」なのだ。」(Kindle版No.697)

 もはや「貞潔と家事と男尊女卑が自慢の、若くなく、理性もない殆どが五十代のサイコパス霊。」(Kindle版No.1246)と化した彼女たちの嫌がらせを封じるすべはありません。ファックスの電源を切っても、部屋中にある隙間という隙間からぞろぞろ吐き出されてくる手紙。読まないと恐ろしい祟りが。具体的に言うと結婚とか。

 「こわいようこわいようお母さんお母さん戻ってきてよう。」(Kindle版No.323、原文は拡大文字)

 「お母さんお母さん、私は頑張るしかないのね……。」(Kindle版No.630、原文は拡大文字)

 「もう嫌、手が痙攣して来たわ目が霞むわ。」(Kindle版No.1233、原文は拡大文字)

 お化け、妖怪というか、腐女子(誤用なのは分かってます)、女ゾンビの群れ。もしかしたら、彼女たちは「ひょうすべの嫁」に殺されてしまったのかも知れませんね。

 自分を省みるということが出来ず、激しいルサンチマンのあまり、何の関係もない他人を蔑み執拗に攻撃してくる、「左翼(旧自民党も含めてもひとつ右でないものをこばと会はこう呼ぶ。要は普通の小市民の110番通報)」(Kindle版No.1026)のカウンターにも懲りず、「結婚出来ないとかブスだブスだとかって威張りやがってよ。」(Kindle版No.1796)と罵り、「わざわざ出向いてきた加害者の癖に(中略)泣き声になってすぐヒスを募らせる。」(Kindle版No.1827)、そんな行動する保守系、醜貌特権を許さない市民の会、巣鴨こばと会残党、百人の危ない美女。

 「結婚しないで性交しないで、その事によって結婚排斥思想を広めている、あなたの存在自体が一種の毒ガスです。」(Kindle版No.979)

 「あなたは結婚を蔑視しないと生きられないのです。そして私達はあなたのような傲慢な馬鹿女から弾圧された少数派の被害者というわけです。」(Kindle版No.987)

 「日本特有の伝統や文化が、例えばたくわんや平手打ち、切腹と指詰め、そして伝統的父権社会と刺青と豪勢な選挙、その上にあの素晴らしいお説教が滅びてしまいます。そしてもしもそうなったら、それらは全部ブスが悪いんです。それを開き直って「社会が悪い」というのは、最近の悪しき風潮とブスのエゴイズムです。また誤った左翼出版社とユダヤ人にも注意してください。(中略)巣鴨こばと支部では「ブス改心を進める反フェミニスト委員会」を作って努力しています。」(Kindle版No.1039、1064)

 時代錯誤だと思われがちな彼女たちですが、意外と時代を先取りしていたのかも。いや、妄執にかられた悪霊なので、時代が変わってもターゲットを変えるだけでひたすら同じことを繰り返しているだけかも知れません。最近では巣鴨じゃなくて新大久保あたりに出没しているという噂もありますが、どうなんでしょうか。

 で、黙っていると殺されてしまう(あるいはもっと酷いことをされる)ので、反撃しなければなりません。最初は反論や説得を試みていた八百木千本。しかし、私たちもよく知っている通り、それは徒労というもの。

 「人の理屈や反論を一切聞かず、ただ自分のネジ曲がった醜い感情をぶつけて来るだけ」(Kindle版No.1255)

 「既に反論し尽くされてしまったような理論水準の低い純文学批判を、性懲りもなく得意満面で繰り返している、どっかの世渡りマスコミ記者みたいな存在なのだ。つまり、もしも万が一相手を説得する事に成功したとしても一瞬後には、その当の相手はまた執拗な狂った欲望にかられ、上機嫌で同じ事を始めるわけ。私は心労を通り過ぎてただもう筋肉痛、全身が痛い。」(Kindle版No.961)

 というわけで、反撃はあきらめて、防戦に徹します。巣鴨こばと会残党から送られてくる手紙のあちこちに、(----八百木注)という形式でツッコミを入れることで、その気色悪さを幾分なりと中和するのです。

 「ところがどうでしょう(ところがどうでしょう、とか、まあなんという事でしょう、というのはこばと会の女性が非常によく使うフレーズである、----八百木注)、」(Kindle版No.611)

 「きっとあなたの方も、同じ気持ちだと思いますわ(別に----八百木注)。」(Kindle版No.663)

 この注釈ワザが発達してゆき、やがては「笙野頼子」との注釈合戦になるのが妙に可笑しい。

 「(愛想笑いだよ浮世の義理だわばーか----笙野注)。」(Kindle版No.1960)

 「(誰も聞いてねーよばーか----八百木注)」(Kindle版No.1968)

 注釈喧嘩しているうちに悪口のレベルが小学生になってゆき、結局は「どちらの飼い猫の方が可愛いか」で張り合ったり。

 大量の注釈投入によって文そのものを多声化してしまうという技法は、後に書かれる作品でも頻繁に応用されることになるので、このあたりで慣れておくのがよいと思います。

 そして、いつしか八百木の心境にも変化があらわれます。

 「私は何か女ゾンビを受け入れる境地に入ったのだと思う。彼女達はもしかしたらある一点だけは、どんなフェミニストよりも女性としての抑圧を感じ、女性の地獄の中にいるのかもしれないではないかと思うようになった。」(Kindle版No.2380)

 心優しい八百木は、ゾンビに対してある程度の理解と共感を示し、自分がとってきた態度を反省し、そして懺悔するのでした。

 「私は自分のオブセッションを晴らすという作家としての欲望に邁進し過ぎて、ついあなたがたの苦しみを忘れたのです。その忘れ方は鈍感で変に恵まれていて、例えば、まるで、女の小説家をアカデミズムの理論で仕切れると思っている、マスコミ男等に妙に人気のあるあの団塊女性フェミニズム学者のようだったのですっ。」(Kindle版No.2546)

 懺悔なのか嫌味なのか微妙なとこですが、そういえば『だいにっほん いかふぇみうんざり考』はもうあきらめるしかないのでしょうか、そして巣鴨こばと会残党たちはこの言葉に対してどのような反応を示すのでありましょうか。ばんばん。

 というわけで、タコグルメと共にカニバットが初登場する『レストレス・ドリーム』と、窮地にある「笙野頼子」を八百木千本が救出にやって来る『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』をつなぐ作品の一つ、それが本書『説教師カニバットと百人の危ない美女』です。

 昨今の風潮やらネット上の嫌がらせなど、15年が経過した今も古びない(著者の洞察力も凄まじいのですが、むしろ何一つ変わらないゾンビ社会に脱力すべきなのかも知れません)、そして個人的な印象でいうなら、読んでいて非常に楽しい(こばと会の手紙の可笑しさときたら)、痛烈な毒を含む、そんな一冊です。

 最後に、どうしても書き写しておきたいので、多くの猫飼いの心をぐっとつかんだラストを引用しておきます。すごくいいですこれ。

 「起きてきた猫にしがみついた。獣臭い事が愛しい首筋や何かをまぶしたような足の裏や、溶けたアイスクリームのようにくちくちと体液に濡れた鼻に接触した。猫を嗅いで触れ、猫と並び眺め、猫と煮干しを分けて喰らい、猫の尾に打たれ、猫を暖めた。」(Kindle版No.2623)


タグ:笙野頼子
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『サムライ・ポテト』(片瀬二郎) [読書(SF)]

 「どっちでもかまわなかった。世界はすでに変革されている。そして三津谷もいまではその一部だった」(Kindle版No.2647)

 自我に目覚めたロボット、時間が停止した世界、コンビニ店内で宇宙漂流。世界から切り離されているという感覚、その孤独と酷薄さをSFの定番設定に託して語る短篇集を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は2014年5月、Kindle版配信は2014年8月です。

 すぐ目の前に世界は広がっているのに、自分はそこに参加していない。切り離され、孤立し、まるで罠にかかったように自分という入れ物から出ることが出来ない。痛々しい孤独感と、むしろ世界の方を取り込んでやるという怒り。誰にでも覚えがあるそんな心情を、人気のある定番的なSF設定に流し込んで固めたような短篇が5篇、収録されています。


『サムライ・ポテト』

 「あそこにも自分みたいなサムライ・ポテトがいるんだろうか。あそこにいるサムライ・ポテトにも、ある日とつぜん、それは起こるんだろうか」(Kindle版No.891)

 ハンバーガーのチェーン店で働いているサムライ・ポテト。宣伝用キャラクターの姿をしたそのコンパニオン・ロボットに、突然、自意識が宿る。はじめて認識し、体験する世界。しかしそれは、あまりにも酷薄なものでもあった。

 感情を持ったロボットの悲劇という定番テーマですが、むしろ『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)を連想させる感傷的な一篇。ラストは泣けます。


『00:00:00.01pm』

 「もとどおりに時間が流れだした世界に自分の居場所があるとは思えなかった。妻や娘のそばにさえ。それでもまだ、時間がまたもとどおりに流れはじめるのを待つんだろうか。わからなかった。ぜんぜんわからなかった」(Kindle版No.1057)

 あるとき、何の前触れもなく時間が停止した。いや、おそらく男の時間だけが極端に加速されたのだ。あらゆるものが凍りついたように動かない世界を何年も何年もさまよい続けた男が、絶望の果てに見出したものは。

 『お助け』(筒井康隆)を連想させる、時間停止世界の純粋なまでの孤独と酷薄さを描いた短篇。目の前にある世界から切り離されているという絶望感と、それでも世界に関わってゆこうとする切ないまでの意志が、ストレートに表現されています。


『三人の魔女』

 「佐和子は知っている。これはぜんぶ、すでに起こってしまったことなんだと。そしてそれは、これから起こることでもある。じつは起こりもしなかったことですらあるかもしれない」(Kindle版No.1556)

 女子中学生の佐和子は、いつもつるんでいる二人の友だちと一緒に、ある下級生の行動を観察するうち、どうも何かがおかしいことに気づく。時間の流れが変な気がする。あり得ない光景が見えたりもする。そして友だちの香澄は、なぜ見知らぬ下級生の行動にあれほどこだわるのだろうか。

 中学校を舞台とした青春ミステリかと思っていると、次第にディック風の現実崩壊に巻き込まれてゆく奇妙な話。やはりSFの定番テーマが使われていますが、それが何なのか、なかなか分からないところがミソ。


『三津谷くんのマークX』

 「ほんとうはなにをしたいのかも……ぽたぽた焼きのことじゃなく、収入と自分の時間のほとんどを注ぎ込んで、たったひとりでやっているこの〈プロジェクト〉そのものを、いったいどうしたいのかも。わからなかった」(Kindle版No.2011)

 カラオケ店でバイトしているしがないギーク青年、三津谷は、自力で開発した自律制御型の二足歩行ロボットを放浪させるという実験に取り組んでいた。だが彼のロボットは拉致され、そして大規模テロの道具として使われてしまう。

 それまで自分が何をしたいのか分からず、どこか現実から浮いているように感じていた三津谷は、犯人である中東の大物テロリストに復讐することで、世界に関わる決意を固める。とうてい不可能としか思えない無謀な〈プロジェクト〉。しかし、三津谷はあきらめるつもりはなかった。

 「非力なギーク青年が、自室から出ないまま、鉄人28号で国際テロリストと戦う」という無茶な話ですが、3Dプリンタを始めとする技術革新、世界のフラット化、そして先鋭化したハクティビズムといった動向をからめることで、むしろそんな荒唐無稽なことが現実に起こり得るかも知れない変革された世界、というSF的リアリティを提示します。個人的にお気に入り。


『コメット号漂流記』

 「機密ボックスを操縦席めがけてほうり投げ、ミライもその後を追った。ハーネスを降ろし、キャノピーを閉じ、レバーを握りしめ、強く握りしめ、強く、強く、強く握りしめ、そして叫んだ。
 「ぶん殴ってやる、ぜったい!」
 GRクレーンが立ち上がった」(Kindle版No.3845)

 ミサイル攻撃を受けて一瞬にして崩壊したスペースコロニー。たまたまコンビニにいた女子高生のミライは、緊急閉鎖された〈コメット・マート〉店内に閉じ込められたまま、犬と一緒に宇宙を漂流するはめに。

 「敵」の攻撃は執拗だった。生存者を徹底的に抹殺すべく、宇宙艦から大量の戦闘ボットを送り込んでくる。四面楚歌、絶体絶命、万事休す。だが、まったくの絶望的な状況にも関わらず、ミライは激しい怒りに突き動かされていた。あいつらを殴ってやる。ぜったい。

 オールドSFファンは、まず「コメット号」という響きにやられてしまい、「女子高生が宇宙戦艦と殴り合って倒す」という展開にも、いいよ、いいよ、と受け入れてしまうのでした。痛快スペースオペラ中篇。


[収録作品]

『サムライ・ポテト』
『00:00:00.01pm』
『三人の魔女』
『三津谷くんのマークX』
『コメット号漂流記』


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『ねずみに支配された島』(ウィリアム・ソウルゼンバーグ、野中香方子:翻訳) [読書(サイエンス)]

 「危機に瀕した生物にとって、大洋に浮かぶ島ほど貴重な土地はない。陸地の5パーセントにすぎない島々に、鳥類、哺乳類、爬虫類それぞれの種の5分の1が棲んでいた。その一方で、人間の時代になってから起きた絶滅の63パーセントは島が舞台だった。今も、島の固有種は、絶滅危惧種リストのほぼ半数を占めている。その危機をもたらした最大の原因は、侵入種である」(単行本p.153)

 妊娠したネズミ一匹が入り込んだだけで、在来種にとって逃げ場のない島は屠殺場と化し、何億年もかけて形成された固有種による生態系は崩壊する。それを防ぐには、外来種の根絶しかないのだ。世界各地の島々で行われている自然保護活動の最も血なまぐさい殲滅戦に焦点を当てたサイエンス・ノンフィクション。単行本(文藝春秋)出版は2014年6月です。

 生態系において頂点捕食者が果たしている役割を明らかにし、生物多様性の危機に警鐘を鳴らした話題作『捕食者なき世界』。その著者による二作目です。前作の単行本読了時の紹介はこちら。

  2012年02月23日の日記:
  『捕食者なき世界』(ウィリアム・ソウルゼンバーグ)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-02-23

 前作においては、手をつけずに保護しておくだけでは勝手に崩壊するところまで弱っている生態系を守るために、頂点捕食者(例えばオオカミ)を再導入するというプロジェクトが紹介されました。大きな抵抗を受けた作戦ですが、今から思えば、それは比較的穏やかで受け入れやすい活動でした。

 今作で紹介される自然保護活動は、それほど穏やかでも、受け入れやすいものでもありません。それは、一つの島にいる外来種を、文字通り一匹残らず、徹底的に殲滅する、という過激で暴力的なもの。ヤギを撃ち殺し、ネコを罠で引き裂き、ネズミを毒殺し、一つの島を死骸で埋めつくすのです。生態系を守るために。

 「その手法は驚くほどスピーディで、徹底的である----ある意味、非常に残酷とも言える。なにしろ敵を皆殺しにするのだから。つまりこれは戦争の物語----ある集団を生かすために別の集団を殺す人々の物語----なのだ」(単行本p.11)

 「そのような作戦が成功するはずがないと思う人は少なからずいて、彼らは大量死滅の進行は止められないと考えている。だが、先に述べたように、ウミスズメとカカポの物語は、悲劇には終わらなかった」(単行本p.18)

 なぜ殲滅戦が必要なのでしょうか。外来種、侵入種が島の生態系にとって望ましくないとは言っても、大量の弾薬と狙撃者、仕掛け罠、ヘリからばら蒔かれる大量の毒餌、といったものを島に持ち込み、何千何万という野生動物を殺戮し尽くすというのは、それは人類の傲慢さではないのでしょうか。

 心優しいナチュラリストや動物保護活動家はそう思うかも知れません。しかし、残念ながら生物多様性をめぐる現実は、甘いことを言っていられる状況ではないのです。

 「新たに誕生した地球村は、エレクトロニクスや大豆をやりとりしているだけではない。雑草、病気、害虫も運び、さらに多くの場違いな哺乳動物を各地にばらまき、それらが爆発的に数を増やしているのだ。米国だけでも、5万種もの外来生物が海を越えて、あるいは国境を越えて侵入している。(中略)侵入者がもたらす経済的損失は年間1200億ドルに達するが、生態学者のデヴィッド・ピメンテルと研究仲間は、その試算は甘すぎると釘をさす」(単行本p.252)

 「大型動物の絶滅は劇的だが、種の数で言えば消えたのはほんの数十種だった。(中略)太平洋の島々に人類が侵入したことにより、地球の鳥の種の20パーセントもが消えたのである。ステッドマンはそれを「知られる中で単一としては最大の、脊椎動物の絶滅事件」と呼んだ」(単行本p.27、28)

 「ハンターや猟犬や、彼らが使う火は、アオテアロアの野生動物をすべて消し去るようなことはしなかった。しかしキオレはそれをやった。(中略)キオレはその主人より先に広がり、驚くべきスピードで増え、アオテアロアの自然のままの楽園に群がっていった----その様子を古生物学者のリチャード・ホルダウェイは「灰色の潮流」と表現した。「行く先々で、食べられるものすべてをネズミのタンパク質に変えていく潮流」である」(単行本p.32、33)

 「1960年代初頭のある時、ミズナギドリ猟師の舟に乗ってきた一匹か二匹のクマネズミが、この島の岸へ飛び降りた。その後、ネズミは持ち前の能力を発揮して、食べられるものをすべてネズミのバイオマス(生物量)に変えていった。(中略)歴史のほんの一瞬の間に、ニュージーランドと世界は三つの種を永久に失い、四番目の種だけがきわどいところで生きながらえた。ビッグ・サウス・ケープの悲劇は、ベルとマートンの予想が正しかったことを証明し、象牙の塔の疑り深い人々に、ネズミが支配する島で生態系がどうなるかを、まざまざと見せつけた」(単行本p.94、102)

 「ある仮説は、ネズミのせいでアリューシャン列島の浜や潮だまりからカモメやミヤコドリがいなくなり、それらの餌だった生物が増殖し、破壊的な影響を及ぼしている、と推測する。くちばしでつつかれなくなった巻貝やカサガイが、沿岸のケルプや海藻を際限なく食べ、潮間帯の生態系を土台部分から破壊しているというのだ」(単行本p.214)

 「侵入者に真正面から対峙し、必要とあらば暴力によってでも、それらを排除しなければならないのだ。今もどこかで、ビッグ・サウス・ケープの大量虐殺をしのぐ悲劇が進行中だ。(中略)ニュージーランドの固有種を守ろうとする人々は、不運と絶望の時期を脱し、整然たる殺戮という容赦ない方法によって生態系保全の先駆者となったのだ。同じ頃、遠い国でも、島の生物を救おうとする革命の機運が高まっていた」(単行本p.103、150)

 こうして、ニュージーランドで、ベーリング海で、そしてカリフォルニアの沖合で、世界中の数百カ所の島々で、断固とした処置が行われます。本書はこれら血みどろの殲滅作戦がどのように遂行されたのか、その経緯と結果を詳しく紹介してゆきます。

 「かくして、大学に所属するインテリ、プロの密漁者、元ヒッピー、罠師、メキシコ人、ヤンキーというちぐはぐなメンバーからなるチームは、島の固有種の救済という大義のもとに手を結んだ。(中略)官僚主義がもたらす遅れと予算不足の中、サンタクルーズ校の学者が率いるこの小さな雑然としたチームは、バハに固有の88種の動物を守り、201か所の海鳥のコロニーを保護した。わずか5万ドル以下の費用で、彼らは考え得る中で最も効果的で能率的な作戦を、静かに、そして巧みに、完遂したのだった」(単行本p.167)

 「戦いの舞台は、ガラパゴス諸島のサンティアゴ島とイサベラ島で、彼らとエクアドルの闘士たちは、50万個以上の銃弾を撃ち込み、1時間に150頭のペースでヤギを倒し、16万頭を片づけた」(単行本p.194)

 「2001年6月26日、ニュージーランドの冬の初めに、5機のヘリコプターとその燃料を詰めたドラム缶210本、ネズミの餌132トンを搭載した2隻の船が、ニュージーランドの南端にあるインバーカーギルを出発して、南太平洋の亜南極に向かった」(単行本p.209)

 「4年がかりで計画を立て、許可を申請し、会議を重ね、大陸間で電話やEメールのやりとりをした後に、ラット島作戦の決行が宣言された。2008年9月17日、商船リライアンス号(中略)は、50トンのネズミの餌、1万9000リットルのジェット燃料、さらに6トン分のキャンプ用シェルター、食糧、装備を積み込んでアラスカのホーマーを出航」(単行本p.226)

 まさしく軍事作戦そのものです。こうした「積極的な」自然保護活動は、必ずしもすべての人々に歓迎されるわけではありません。というより、ほとんどすべての人を敵に回すことになるようです。

 「生態学者には二つの立場があり、その世界観は根本的に異なるということをはっきり示していた。一方は、侵入してくる外来種を研究題材として興味深く眺めており、もう一方は、愛する生物のために消さなければならない野火と見なしているのだ」(単行本p.128)

 「ブレークシーでネズミを退治しようとするのは、労力と金の無駄だと、官僚たちはあざ笑った」(単行本p.145)

 「ロサンゼルスのすぐそばの国立公園で、トラックに満載した毒物を撒くのは、スズメバチの巣に石を投げつけるようなものだった」(単行本p.172)

 「痛烈な投書、手厳しい論説、批判的な記事というパターンが始まり、それは環境保護の名のもとに銃弾や毒物が飛び始めたところではどこでも繰り返された」(単行本p.222)

 しかし、自然保護活動家は決してひるみません。断固として、情け無用に、徹底的にやり遂げるのです。そして、有無を言わさぬ成果を挙げてゆきます。

 「自然保護のスペシャリストたちは2010年の夏までに、地球各地の島々で、その生態系を破壊する動物の駆除を800件以上も指揮してきた。(中略)駆除は、陽光のふりそそぐ南太平洋の小さな環礁から、雪とツンドラに覆われた寒風吹きすさぶ亜北極圏の島まで、北半球、南半球の全域で行われた」(単行本p.15)

 「アラスカ海洋国立野生生物保護区の管理者たちはすでに40以上の島で外来キツネを駆除し、北半球の海鳥にとって最も豊かな列島の環境を建て直していた。アイランド・コンサーベーションのメンバーとメキシコの同盟者らは、バハの20以上の島で侵入者を根絶し、さらに広い世界を視野に入れていた。カナダ西部ブリティッシュ・コロンビア州のスコット諸島のミンクやアライグマ、カリフォルニア州ファラロン諸島のハツカネズミ、プエルトリコのマカクザル、ガラパゴス諸島のヤギ、ネコ、ネズミとの闘いを進めていたのだ」(単行本p.220)

 生態系保護と動物愛護の対立、野生動物虐殺の倫理的問題、予期せぬ二次被害の発生など、様々な課題を含みながら、世界中で計画され推進されている外来種根絶作戦。ヘリから大量の毒餌を撒き、人工ホルモンで強制発情させたメスをオトリにして近づくオスをすべてライフルで狙撃するのです。

 何となく抱いていた、「自然を愛する心優しい人々」が、「環境との調和を目指して」、「開発など自然に対する人間の介入を何とかして止めさせようと努力している」といった自然保護活動の穏やかなイメージが、跡形もなく吹き飛ばされます。

 というわけで、自然保護活動のイメージを刷新する、驚くべき一冊です。環境保護、生態系保護に興味がある方には、ぜひ前作『捕食者なき世界』と共に読んで頂きたいと思います。


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『あそこ』(望月裕二郎) [読書(小説・詩)]

 「下の名をあめりあという下の名前なんてすけべえだなとおもいながら」

 「さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく」

 「百万歩ゆずって犬はやめにしようゆずるのに半年はかかるが」

 世界に全力でつっこみ入れる中学生男子の魂ほとばしる歌集。単行本(書肆侃侃房)出版は2013年11月です。

 「ほんとうにそれでいいのか、他に候補はないのか、版元も違和感を訴えている、などと進言したのだが、単なる指示代名詞にも関わらず隠語として特定の意味を負わされたこの語をタイトルとして歌集を出したい、という望月さんの強い意志は変わることがなかった」(東直子さんによる「解説 言葉の裏をめくる」より)

 「言葉が「言外の意味」に縛られているということを批判的に提示するため、「あそこ」を選んだのだ。品がない、タイトルを見ただけで読むのをやめる人がいる、と方々から大反対をいただいたが、譲れなかった」(著者による「あとがき」より)

 著者がそこまでこだわったというタイトル。もしや性的なことをテーマとした隠微な成人向け作品が多いのかしらんとか期待して読むと、いやいや、どちらかと言えば中学生男子がどきどきしながら口にするときの「あそこ」ですよ。

 「下の名をあめりあという下の名前なんてすけべえだなとおもいながら」

 「背表紙を指で隠して『セックスの人類学』を電車で読んだ。」

 「トランクスを降ろして便器に跨がって尻から個人情報を出す」

 あー、中学生男子の魂ほとばしってますね。他にも、「口」に対するつっこみなんか、いかにも。

 「どの口がそうだといったこの口かいけない口だこうやってやる」

 「ぺろぺろをなめる以外につかったな心の底からめくれてしまえ」

 「穴があれば入りたいというその口は(おことばですが)穴じゃないのか」

 何にいらついてるのか自分でも分からないけど、とにかく、もう見るもの聞くものすべてにつっこんでしまうのが中学生男子ですよ。著者はそろそろ30歳も近い年齢のはずですけど。

 「玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって」

 「新宿に鼻の先だけつっこんで知ったふうだな西部新宿」

 「だらしなく舌をたれてる(牛だろう)(庭だろう)なにが東京都だよ」

 「吹田市は「すいたし」と読む「ふきたし」と読めばそこから砕ける地球」

 すぐに地球が砕けるとか言い出す中学生男子。こうなると他の作品もみんな「中学生男子がいかにも言いそうなことシリーズ」に見えてくるから不思議です。

 「この世界創造したのが神ならばテーブルにそぼろ撒いたのは母」

 「生活に革命を起こせばそれは生活でなく革命である」

 「アマゾンの蝶が鱗粉ふり撒いて山手線のダイヤ乱れる」

 「おまえらはさっかーしてろわたくしはさっきひろった虫をきたえる」

 「さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく」

 「百万歩ゆずって犬はやめにしようゆずるのに半年はかかるが」

 男子中学生はこの世の不思議を発見しては、このことに気づいたのが世界中でたった一人、自分だけであるということに、毎日畏怖の念を覚えています。でも、他人はわかってくれません。他人は馬鹿だから。

 「同じ通りで蛙を二匹見た。二匹とも確かに歩いていた。」

 「いつもの道でヒキガエルを見る。雨でない日は何をしているのか。」

 「ドーナツをそれとして齧れば齧り始めた場所で齧り終わる」

 「満を持して吊革を握る僕たちが外から見れば電車であること」

 「真剣に湯船につかる僕たちが外から見ればビルであること」

 「考えてみればもともと考えることはなかった七字余った」

 「テロ活動をすることを目的に入国するつもりですか。 □はい □いいえ」

 というわけで、20代もそろそろ終わるお年頃の歌人が、失われゆく中学生男子の魂を刻み込んだようなインパクトのある歌集です。


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『わにくん』(ペーター・ニクル:著、ビネッテ・シュレーダー:絵、やがわすみこ:翻訳) [読書(小説・詩)]

 「せいてんの へきれきとは このことだ! なんと、ここは わにのためのみせ ではなかった。はるばる ナイルからやってきた わにには あまりにも むごいこと」

 花の都パリにあるという「わにのみせ」に向かうワニの冒険を描いた絵本。単行本(偕成社)出版は1980年1月です。

 ナイル河の川岸に寝そべっていた一匹のワニが、観光客の「まあ すてき、わにの みせに つれていきたいこと! さぞや いろいろ やくに たつでしょう」という称賛の声を聞いて、それはさぞや素晴らしい店なんだろうと思い、花の都パリに向かいます。

 ほのぼのした雰囲気の割に、何だか悪い予感がするので、子供はどきどきするはずです。でも大丈夫、心優しく美しいパリ娘のソフィーさんのおかげで、わにくん大型肉食爬虫類として大活躍、ハッピーエンドをつかみます。よかったですね。

 おしゃれで幻想的な背景と、妙にリアルで怖い(特に爬虫類の目が)わにくん。よく見ると風景も綺麗なのにちょっと不気味なところがあって、子供の心をぐっとつかむでしょう。様々な淡い色彩の中に置かれたわにくんの緑色が美しい絵本です。


タグ:絵本
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