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『未闘病記----膠原病、「混合性結合組織病」の』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「「文学とはなんだろう、それは全身性の病である、混合性の症状である」」(単行本p.162)

 「まさに私のこの病気は私自身を規定して、私小説となり、妄想小説となり、体の声はそのまま作品になったのだ。」(単行本p.166)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第88回。

 自分は「死な、ない」し、「なんでも/できる」。希少難病と診断された著者が見つけた、生の不全感から生まれて来る精妙な幸福。病を通して自らの文学を見つめる最新長篇。単行本(講談社)出版は2014年7月です。

 「医学を知らぬひとりの人間から見える範囲を、間違っているかもしれないけれど、自分なりの過去の総括を今ここに残します。不謹慎にも見えるところは自分が今明るくなるため、また三十年来の読者を明るくするつもりで、敢えて書きました」(単行本p.3)

 「じゃ、本日は書きます。たった一日の幸福のために。書くことは生きる事私は一日を生きる。」(単行本p.22)

 ある夜、寝入りばなの著者を襲った猛烈な苦痛。これがもう、読んでいるだけで血の気が引くような苛烈さです。

 「首が折れるような、背骨が折れるような、未経験の重い大きい痛みで、ごきぼきっと腰以外の部分が布団に押しつけられた。そして高熱が皮膚から体の中に流れ込んできた。つまり目の奥と鼻の奥だけでなく全身が焦げてるぽい。」(単行本p.66)

 「起きようとすると全身の骨に錘がついている。またその錘は筋肉を切り裂くらしく関節の間にも入っているらしかった。寝返りするのにも全身が切り分けられるような痛みと衝撃。息も、精神も夢も、環境も全部が攻撃して来る。」(単行本p.67)

 「その壊れ方には壊れる方向や流れさえなかった。というか何もなくなって、世界の端が滝のようにではなく、その場その場で落ち、後には全て剥がれた裏側が剥き出しになっていた、全方位奈落。 夢の中で、私は多くの場合現実世界と同じ体を持っているのだけれども、その日寝入りばなの景色の中私の体は、皮膚ごと剥げた世界に崩れ落ちていこうとしていた、その上。 わーっと叫んで起きればもう痛い重い熱い怖いではない、壊れの夢と同じ感覚がそこにはあった。どうやら誰かが、自分の生命を嫌っているのである。」(単行本p.70)

 「それからしばらくして朝になった。苦しいままだったけれど。少し遅れたけど猫には投薬した。薬やらないと三日で心臓の腫れる数値に戻ってしまうから。(中略)「ギドウ、食べて、ギドウ一口で食べて」(中略)どっちにしろ痛くて動くどころではなかった。救急車を呼ばなかったのが正しいのかどうか今もよく判らない」(単行本p.75、76、80)

 読者も顔色が青ざめます。よくぞ心不全を起こさなかったと思える激烈な症状、というか急性増悪。何としても救急車を呼ぶべきだったと個人的には思います。しかし、そこで呼ばない、それどころか病院に行く決心をするまで三日かかった、さすが『なにもしてない』の著者というか、笙野文学でいうところの「三重県人」。

 診断結果はMCTD、混合性結合組織病。膠原病の一種で、本気の希少難病。原因不明、根治不可、症状激烈、そして合併症が出ると予後不良。まじでヤバい。

 「むろん暫く、飲み込めなかった。そしてその後、ふいに自分の人生はまるごと、あれだ、悔しいって、一瞬、電撃。でもその次にはいつまで書ける? って、どれを書き残すかって。」(単行本p.127)

 「もし私が入院したら老いた病猫は? 誰が投薬する、三日預けたら多分、命がないよ、猫。じゃあその後、私生きていられる?」(単行本p.129)

 「その後、私生きていられる?」という一節を流し読んでから、その意味に気づいて愕然。読者の心も白く固まってしまいます。

 「先生、私、猫がいるのです、そして書きたいものが少しだけある、後十年生きたいです」、「ええと、こうげんびょうてしぬの、わたし、しぬの(くそかまとと)」。 「しな、ない」と答える医師の目は異様に澄んでいた。」(単行本p.110)

 「「死ぬの」?「死なない」。「でも死ぬの」?「死、な、な、い、か、ら」。 「だったら保険きくの?」。」(単行本p.128)

 「「私、ずっとストレスとかネットで脅されたり仕事を干されたり、痛くなってそれから急になんか物凄い熱と」、「うんうん、うんうんうんうんうんうん」。」(単行本p.131)

 パニックになって、おろおろする著者。無理もありません。会話などの描写は思わず笑ってしまう感じで比較的明るく、あるいは皮肉な調子で書かれていますが、事態はかなり深刻です。

 様々な検査を経て、あまりにも「判らない」ことが多いながらも、少なくともすぐには「死な、ない」ことに納得がゆくにつれて、今までに書いた作品のことを思い出します。読者もそう。

 「病や不具合をそのまま小説に出す事が多くなっていた。本は何十冊も出しているけれど今思えば、それらは一種関節痛や歩行困難の長記録になっている」(単行本p.24)

 「受賞が続いた大昔などは確かに忙しくもあった。でもそれ以上に疲れ易くいつも痛かったし眠かったのだ。無論、そのつらさが普通だと思い込んでいる私は、世間から見ればきっと変だったのだろう。マスコミの丈夫で優秀な人間からはしばしば、「けっ」と思われていた」(単行本p.30)

 「熱に、くしゃみに鼻炎に腹痛、腸はかたまり足もつれ、目眩に浮腫に関節痛、肋のきしみ全身脱力、加えてひどい厭世感、「がんばらないと、いけ、ない、のに、立て、ない」その罪悪感、立っていても意識の遠のく、呼吸不全に似た急な眠気、足元から落ちていく恐怖の疲労感。」(単行本p.136)

 「不明熱、関節痛、落ち込み、易疲労、跛行、耳鳴り、目眩、鼻血、指のこわばり、皮膚の爛れ、脱力、この脱力が一番不可解で自分でも病とは思ってなかった。心の弱りで死にたくなるのだと思い込んでいた、いわゆる鬱ではない、ただ体の力が抜けて動きが微妙になり、あちこちぶつかり物を落とし座り込み、手から何もかも滑り落ちるそして立ちにくい、体を丸めて、何か死にたい、筋肉が熱くなり顔から血の気が引き、自分で地獄感と呼ぶしかないもの。そんな軽症で何十年、ずっと。」(単行本p.41)

 『なにもしてない』の湿疹をはじめとして、これまでの作品で書かれてきた病的な疲労感や身体不調の描写は、必ずしも「生きづらさ」や「現実の社会や制度に対する拒絶感」の文学的表現というだけでなく、おそらくは膠原病の症状だったのです。

 難病患者である、ずっとそうだった自分、というものを受け入れてそれなりに落ち着いてゆくにつれて、周囲にも目が向いてゆきます。

 「「今まで……、お仕事もして……、お世話しなくてはならない、ものもあって……、ずーっと、頑張ってこられたのですねえ」と。それは今まで言われた事のない言葉だった、だって誰が私などによく頑張ったというだろう。大地震の時、被災者まで頑張らせようとするこの国にいながら、私のように許されない褒められない、いつも笑われ疑われる甘えた人間を。」(単行本p.158)

 「有利な仕事でも出来なければ断った。飼い主不在だけで吐きつづける絶対依存猫ドーラのためもあった。が、今思えば、ドーラはそうして私の体を守ってくれたのだ。外国だってドーラが怒らなければ出掛けて異国で入院する羽目になったかもしれなかった。また寒がりのドーラは、実は冷えが大敵の病気を持つ、私の悪化を防いでくれたのだ。」(単行本p.164)

 今は亡き伴侶猫ドーラが自分をずっと守っていてくれたんだ、というこのくだりで、ぶわーっ、と涙が込み上げてきます。いや、猫飼いとして冷静に考えるとそんなはずないやんなのですが、こういう敬虔さを前にしてはもう頭を垂れるしかありません。

 敬虔さといえば、著者はこの状況で何と他の難病患者のことを思いやるのです。誤解されやすく、世間に理解されない、その苦しみを。

 「軽症難病の方々が病気を職場に隠さざるを得ないケースのその辛さを、自分が病気と知るまでは理解どころか知りもしなかった。」(単行本p.105)

 「日によって元気で誤解されるとか、例えば体調のいい日だけで判断されて誤解されるのはありがちのパターンだ。危険を抱えながら普通に生きている。人前で普通に動いていても、帰ったら虫の息というタイプもある。」(単行本p.95)

 「調子のいい時と悪い時に差のある人は「なんでもないだろう」と。あるいは元気に歩いてよく食べていても出来ない事があるのを理解されない。(中略)私にしたって陰で痛いと唸っていても、立てなくなって眠り続けてもそれをなかなか判って貰えない。」(単行本p.32)

 ステロイド投薬が効いて症状が軽減してゆき、いまだ苦痛や不安はありながらも、生きていることの幸福、制約はあれど「なんでも/できる」ことの喜びを実感してゆく著者。

 「だってどうせ明日は判らない。ならばその日楽しい事は金剛石のようだ。昨日出来た幸福の壁は未来永劫に絶対破れない、だって、もう過去になっている。(中略)毎日はちゃんと幸福になっていった、というか少しずつ不安に耐性が付いていった。」(単行本p.115)

 「ああ、元気な人って体を動かす事自体、用をする事も楽しい場合があるんだ、今まで知らなかったでも、ちょっとだけ判ったって。 授業から帰ってきてそのまま料理して、執筆を終えた途端押入れを片づける。治療前は洗濯もの一人分を干すのに二回横になって休んでいた私、なのに今「なんでも/できる」。そう、ただ単になんでもできる、と繋げて表記する事は出来ないので。 このスラッシュはステロイド、自分の節制、注意、各種制度等だ。」(単行本p.33)

 「痛くなく、安全で、制限はあっても一応無事、それはありがたいだけではない、生きている事の本質的な良さがむき出しになっていて、なおかつ、遠い不安や遮る虚飾のない穏やかな喜びに満ちて受け止められる。」(単行本p.184)

 「小康状態の幸福感には入り込んでしまう。こんな種類の喜びを健康な人は理解するだろうか。でも難病と判ってたった一カ月でまさに納得した。というか今まで自分が書いてきた幸福の一面はまさにこれだ。」(単行本p.182)

 「精妙な、そう決して微妙ではなく精妙な幸福、そんな幸福の中にいる状況が生の不全感から生まれて来るケース。逃れようもない不全感の中の自由、そんな時間を拾って私は生きてきた。無論、病の無い状態が良いに決まっている。しかしこの生は私の生で今までの過去にだって取り替えは利かない。自分の体はまさに自分の所有であり「関係性だけの存在」ならばこんな身体史にはなり得ないのである。」(単行本p.232)

 「なんだろうこれ、今まで欲しかったものの多くを手にいれているよ。ねえ書斎の猫神様、荒神様! たかがこんな事で? 私は満足してる。」(単行本p.235)

 病も含めて取り替えのきかない自分の人生、自分の文学。そして見つけることの出来たこの幸福。

 というわけで、これは何と、神々も天狗も妖怪も出てこない普通の私小説。笙野頼子さんの近作の中では、最も読みやすく親しみやすい一冊でしょう。著者の作品をはじめて読む方にも、初期の頃は読んでいたけど途中から読むのを止めたという方にも、ぜひ手にとって頂きたい作品です。

 本書を原点として、これから書かれるであろう作品も読み続けていってもらえるなら、個人的にもすごく嬉しい。

 「結局、どんなに私小説から遠い作品を書いても、どんなに身の回りの「自分の事だけ」書いても、「他者がない」と言われても私にはこの病がちの肉体があった。どう出るか判らない他者としての持病。そんな中で想像の世界にも現実にも似た、私的虚構を書いた。(中略)これからも「他者がない」と誤解される小説を平気で書いていく。身体性は私の社会性だから。」(単行本p.257、258)


タグ:笙野頼子
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