SSブログ

『愛別外猫雑記』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「猫の世話をしただけで人外の魔境に落とされてしまった。自分の人権はなくなり、した覚えのない事で咎められ嘘をつかれ、普通のいい人の気味悪いおぞましい救いのない面を見てしまった。」(Kindle版No.1944)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第91回。

 野良猫たちの命を救うために一軒家を購入し、四匹の猫とともに千葉県S倉へ向かう作家。笙野文学の転機となった猫騒動の顛末を書いた長篇を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は2001年3月、文庫版出版は2005年12月、Kindle版配信は2014年7月です。

 「殺すかわりに書け」
 (『未闘病記----膠原病、「混合性結合組織病」の』より。単行本p.233)

 「殺してはいけないのだ。猫を愛してただの憎悪者から自分も含めた生命愛護者になり、私は救われた。が、今度はまたその猫故に「人間」憎悪に走る。しかしその憎悪実行をはばむものはまた猫に対する愛だ。」
 (『S倉迷妄通信』より。単行本p.76)

 「猫騒動で八カ月間ボロボロになって、またその後十数年掛かって、なる程これから後悔(苦労)をし続けるのだと思った。一番辛く耐えがたいのはドーラに影響が出てしまう事だ。が、あの時はそうしないではいられなかったのだ。」
 (『幽界森娘異聞』より。Kindle版No.3038)

 近所のゴミ捨て場に集まってくる野良猫たち。不妊手術を施し、数が増えないようにした上で、地域猫として保護する。ただそれだけのことが、許されない。猫の命を守ろうとする者は、猫の命を人質にされ、ひどい嫌がらせと耐えがたい罵詈雑言にさらされ、そして毒を撒かれる。

 縁が出来た野良猫たちを救うために奮闘する主人公は、猫をめぐるそんな酷薄な現実に、まともにぶつかってしまいます。

 「世の中には猫嫌い、というよりも猫嫌いという表現形を取る事でたやすく人を傷付け踏みにじるのが趣味の人、生き物を殺したり苛めたりするのを快感にする人、弱みのあるものに付け込み頭を下げさせる楽しみに中毒した者、また何であれ自分以外の存在が(たとえそれが病気の子猫でも)関心を持たれたりあわれをかけられたり食物を貰っていたりすると自分の権利を奪われたかのように思い怒り狂う人、そしてしつこく絡んで他人を傷付けその土地から追い出す支配の快楽がこたえられないという人間がいて、同時にまた千にひとつの無駄も心配もなく自分だけが頭を高くきれーいに暮らしたくてありとあらゆる自分以外の生物がただ生きているだけでも失礼先万と思い込んで被害者意識を持つ人間までも、必ず、いるものなのだった。」(Kindle版No.427)

 「「みんな」という言葉を私に会った猫嫌いはよく使った。言いまかされると違う事や嘘を言うのも実に共通だった。その中の何人かは当然、「撒く」のだった。人の猫と関係ない他の猫の被害を混ぜて語り同じ事を何回も繰り返すタイプ、固まった表情やストレスのたまっていそうな様子にもよく出くわした。」(Kindle版No.422)

 「「庭ないもんねあんたら」と「みんながあんた迷惑だって」というのが決めぜりふで腹が立つというより皮膚がかぶれる。」(Kindle版No.1267)

 いっぽう、猫好きを自称する人々は、避妊手術も去勢もしないまま無責任に猫を捨て、不幸な野良猫を増やし、知らぬ顔をしてペットショップで購入した血統書付きの子猫を可愛がっています。飽きると、野良猫の保護活動で死にそうな目にあっている人のところにわざわざ捨ててゆく。

 「ギドウ達の「元の飼い主」はただ子猫好きなのだ。高い珍しい子猫が三万でも五万でも相場より安ければ買ってしまう。東京では「贅沢品」だけは地方よりも安く手に入るのだ」(Kindle版No.331)

 「近隣には成長した純血種の捨て場になっているところさえあった、(中略)心の優しい人が世話をするとそのありさまを見て、餌位はくれるだろうなどと高価な猫に飽きて、真冬に放って行く飼い主がいくらでもいるという話だった。」(Kindle版No.1537)

 「猫好きの中に潜む残忍さを感じた。「可愛い」とは消費し、痴漢のように触り、飽きると捨てる、次々取り替えるという事に過ぎないのか。」(Kindle版No.1579)

 「無責任な猫好きと病的な猫嫌いは、私にとっては同じ存在だった。どちらも猫について種としてしか見ない。そして猫に対する当事者意識はなく猫がどうなるかという事を突き詰めて考えない。それぞれマスコミも使わないようなあさはかな言葉で物事をまとめ嘘をつき逃げようとする。無責任に増やす事と毒を撒いて殺す事は表裏一体。好きも嫌いもない。嘘つきかどうか、インチキかどうかそれだけの事だ。」(Kindle版No.332)

 「そもそも、猫に少しかかわればたちまち何も信じたくなくなってしまう事も事実だった。猫扱いがうまく、猫をすぐ手なずけられる人というのはむしろ、平気で猫を取り換えたり裏切ったりするかもとさえ私は思うようになってしまっていた。」(Kindle版No.1516)

 ほとんど誰にも頼れない主人公は、野良猫の集団のうち、まず子猫たちを保護し、里親を捜そうとします。だが信頼できる里親は簡単には見つからず、また嫌がらせや脅迫も続き、次第に肉体的にも、精神的にも、さらには経済的にも、疲弊してゆくのでした。

 「猫の愛護本に猫嫌いに苛められるとよく書いてあるが実際に自分でやってみるまでは「そんな、思い込みでしょ」と思っていた。が、絡んだり意地悪する人間は本当にいた。ひとりでいる時だけ嫌がらせに来るのだから傍目には気付かれない。」(Kindle版No.1248)

 「夜中の罵り合いや複数の人の「殺す」という言葉のあまりの物凄さに、私は眠れなかった。(中略)私は恐怖とか自意識を感じなくなっていた。そのせいでむしろ体は動いた。自分こそこんなにして出ていたら今に猫を殺すのではないかと思えて来た。」(Kindle版No.1292、1297)

 「天性人に狎れている事にまた震えが来た。このまま街路にいたらカラスが喰う前に変質者が切り裂く。 近所に脚を切られた猫が救われて飼われていた。事故かもしれないが、脚を切る例も尻尾を切る例も医者に聞いている。下半身を潰された猫をますぎさんは救った人から託されていた。」(Kindle版No.1432)

 「最初の子猫が、白血病もエイズも掛かってなかったと判った時には泣いた。汚物に浸かっていたような彼らがみるみる美しくなっても保護自体に反対する異常な連中から言われた言葉を思い出して吐いた。」(Kindle版No.306)

 「猫の医療費が思いの他掛かるという事は私を追い詰めていた。裁判沙汰に母の死、論争と続き、もう貯金は底を尽きかけていた。(中略)手術代自体は大変ではなかった。預ける費用だった。」(Kindle版No.1787、1795)

 野良猫を保護することで、飼い猫であるドーラを苦しめているという事実が、さらに主人公を責め苛みます。もう、あまりの悲愴さに読者の心ものたうちまわることに。

 「ドーラにしてみれば知らない連中が来て痛い検査をされご飯はまずくなって、飼い主は他の事に時間を取られているのだ。(中略)自分でも血の気が引くが、思い詰めている猫より生命の危い猫を優先してしまう。」(Kindle版No.2047、2051)

 「ドーラを完全に幸福にするために雑司が谷に引っ越したのに、雑司が谷を選んだせいでまた不幸にしてしまった。」(Kindle版No.354)

 「----「ドーラ、ごめん」と発語した。声が自分でもショックな程強く深刻だった。」(Kindle版No.2078)

 「もう自分の頭は壊れるとつい思った。「どーらーごーめーん、どーらごーめーん」と謝りながら何百回も繰り返した自分のその言葉に鞭うたれた。「元の猫が可哀相」と誰かに言われ「わかっとるわっ」と叫び返しそうになり胃の中に涙が流れ続けているような気持ちになった。」(Kindle版No.239)

 「ドーラの毛並みが悪くなっていて、洋食屋は今度は黒猫の苦情を管理会社に言ってきていて、「元の飼い主」はせっせとまた安い餌を撒いた。ドーラに判らぬようケージに手をついて「死にたい」と呻いた。誰に聞かせるのでもなく、死ぬという言葉は六年程前からただ癖になっていた。が、そんな時に自然に無意識に出ると自分でも怖かった。」(Kindle版No.1936)

 「多数飼育はやはり問題なのか、と少し悲しかった。帰りに神楽坂のお地蔵さんに寄った。なんというところか忘れたがそういうふうにして「総ての猫によいように」と頼む事しかもう私は出来なかった。」(Kindle版No.2092)

 親猫たち、いや「ルウルウ」と「ギドウ」と「モイラ」という盟友たちの命を守るために、彼らを連れて逃げ出すしかない、というところまで追い詰められてゆく主人公。

 「運動なら犯罪が起こり告発すれば悲しくとも前に進む。ただ私の場合は毒をもし撒かれて、ルウルウ、ギドウ、モイラという名前の友達が死んでしまったらそこで私というものもなくなってしまうという事なのである。犯罪が起こってからの取り返しが付かない。」(Kindle版No.1278)

 「ルーとモーの捕獲は、振り返ると大変過ぎた。このあたりから自分は人間ではなくなったと思う。」(Kindle版No.1646)

 「猫騒動中、「かわいそう」という言葉に何度も苛々した。避妊手術はなるほどかわいそうなのだが、育てられない子供を次々生んで子を産むから嫌だと追われ続け、雌だからと貰ってもらえない事は「かわいそう」ではないのか。」(Kindle版No.1623)

 「ルウルウもモイラも摘出した子宮はもう充血していて、既に発情期に入っていた。「もし入っていてもまだ細胞のレベルでしょう」とミミズのようなその器官を私に見せながらますぎさんは説明した。(中略)一秒も見逃すまいとした私は異様な人間に見えたかもしれなかった。しかし自分が何をしているかは知っておくべきだと思ったのだった。「感傷的でヒステリックな動物愛護」などと言うが、私は断種し猫の細胞を殺したのだ。」(Kindle版No.1596、1601)

 「「げっ、避妊手術きーもちわるーい、か、わ、い、そー」と男は叫び、女は男の顔色を見ていて怒りもしない。別に不倫のカップルと決めたわけではないが、もしこの女が妊娠しても中絶しても、この男は「きーもちわるいー」で済ませて妻のところに帰るのかもしれないなどと想像していた。猫好きも猫嫌いも嘘つきばっかりだ。」(Kindle版No.1979)

 「ギドウが霜のふいたコンクリートに座って私を見た時の事は忘れない。地域猫にしても里親にしても情が移れば辛い、ドーラもいる、と撫でてやらなかった時、太い前足で不器用そうに冷たいコンクリートを、母親の胸を揉む動作で彼は揉んだ。頼られても裏切るしかないかもしれない立場。----誰かが私を殺してくれれば楽なのにとふっと思った。子猫はその時はもう室内にいた。が、ギドウはゴミ捨て場にフェンスもしない管理会社が、はやばやと無駄に飾ったでかいクリスマスツリーの冷たい樽にすりすりして、石の床を揉みながら喉を鳴らし続けていた。」(Kindle版No.1581)

 痛切なまでの誠実さと思いやりに、読者は心打たれます。しかし、それはまた苛烈な憎悪にもつながるのでした。

 「憎しみを少しずつ絞り出すように、時には猫地獄の時の細かい事をいちいち思い出す。」(Kindle版No.1955)

 「結局復讐の神に私は祈った。----「神様神様私はこのままでは発狂してしまいます。どうか元の飼い主の健康運を下さい。それでドーラの縮んだ寿命の運を補填します、その他にも私がもしここのローンを払えなかった時は変な薬をそこら中に撒いてギドウの健康を害したあいつの金運を取って私にください。もしギドウが薬のせいで死ぬようならギドウを死なせずそいつの寿命を取ってギドウにくっつけて長くしてやって下さい」、無論、信じて言うわけではないのだった。が、言うだけで少しは楽になった。」(Kindle版No.263)

 「そいつはただハンスを押し退けて不幸にした。そして最終的にハンスは野良として死ぬ。タイミングを逸して、彼だけは医者に連れて行けなかった。「ハンスがもしその事ではやく死ぬようなら坊ちゃんを捨てた奴の寿命をとって、その分でハンスを助けてください」とも私はまだS倉で祈っていた。」(Kindle版No.1881)

 「別れる直前のある日、縄張り争いに負けて痩せたハンスの毛の荒れた腹が、その日たった一個の猫缶でぱんぱんに膨れて、横にはみ出し、ほっとしたふうにひょろひょろ歩きながら帰って行った姿、それは私の頭の中で凍結されたままだ。」(Kindle版No.2167)

 猫地獄のなかで「普通の人間」の実像を見た体験、ハンスを救えなかったことやドーラを苦しめたことへの後悔。それらが、憎悪と殺意を経由して、ある種の覚悟へとつながってゆきます。そして、その後に書かれる作品は、次第に凄みを増してゆくことになるのです。

 「私には判っていた。多くの人がどのようにふるまうかを、私は無痛のままでも想像出来る人間になっていたのだった。」(Kindle版No.2138)

 「ひどかった人間がスナッフビデオに売り飛ばされたり、マフィアに追われたり、私の想像した物凄い病気になって悪徳病院に監禁され、じわじわと苦しめられたり、そういう事ばかり想像し続けた。そうしていて本当に楽しくなって残酷に笑い続けながら、むしろ彼らこそが世の中に適応し資産を作って代々栄えていくのだろうとどこかで判っていた。」(Kindle版No.2154)

 「与えられた運命そのものが自分の書くべき事だという気もするのだった。猫にしても何にしてもマスコミのチープな言葉と、それしか受け付けないで夜中に化け猫のまねしか出来ない奥様など見てしまうと、自分は自分の言葉を守って作品を書けばいい一生それでいいという気持ちになった。」(Kindle版No.2105)

 「目の前の猫だけが世界になって行く。これから三十年、猫屋敷のローンを私は払って行く。」(Kindle版No.2173)

 というわけで、「自費で自分で全部やっている所が関係ない何もしない人々から思い付きで無理を言われ、変に勝手に頼られ、家に捨て猫され難儀する」(Kindle版No.1895)という猫の保護活動について、猫の里親探しについて、猫の避妊手術について、そして小さく弱い立場のものを守ることについて、自らの体験を元に、限りなく切実に、そして誠実に書かれた名作です。猫を愛する人にはつらい内容かも知れませんが、ぜひ読んで頂きたいと思います。


タグ:笙野頼子
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『スエズ運河を消せ トリックで戦った男たち』(デヴィッド・フィッシャー、金原瑞人・杉田七重:翻訳) [読書(小説・詩)]

 「ようやく今、壮大なイリュージョンを作り出す機会を得たのだ! 非常に重要で、戦況さえも変えてしまうほどの大きな影響力を持つイリュージョン(中略)もしこのトリックが成功すれば、伝説の男ロンメルは装甲車をずっと前線に出せず、そのあいだに第八軍の大戦車隊がドイツ軍の地雷源を突っ切る。しかしもし失敗すれば、そのときは勇敢な何千人ものイギリス人兵士、オーストラリア人兵士、ニュージーランド人兵士、インド人兵士が地雷源で立ち往生する」(単行本p.490)

 北アフリカ戦線で連合軍が駆使した様々な偽装、カモフラージュ作戦。それらの背後には、一人のステージ・マジシャンの姿があった。彼の名はジャスパー・マスケリン、通称「戦場の魔術師」。ロンメル軍団に対しあらゆるトリックを仕掛けたマスケリンの活躍を描く伝記小説。単行本(柏書房)出版は2011年10月です。

 「人々が従来の武器を手にドイツ軍に立ち向かおうというとき、ジャスパー・マスケリンだけは、奇想天外な想いを抱いていた。彼はマジックを使ってヒトラーを倒そうと考えていたのだ」(単行本p.14)

 戦場の魔術師。といってもヤン・ウェンリーではなく、本物のステージ・マジシャンであるジャスパー・マスケリンと彼の仲間たちの活躍を生き生きと描き出した痛快な一冊です。

 第二次世界大戦当時の史実をもとにした伝記小説、歴史小説ではあるのですが、むしろハッタリと映画的脚色が惜しみなく繰り出される一大エンターティメントという印象で、その雰囲気は各章の表題をちらりと眺めるだけで伝わってくるでしょう。

  「カモフラージュ部隊、結成」
  「アレクサンドリア港を移動せよ」
  「スエズ運河を消せ」
  「折りたためる潜水艦」
  「史上最大の偽装工作」

 というわけで、由緒正しい奇術師の家系に生まれ、ステージ・マジシャンとして活躍していたジャスパー・マスケリンがイギリス軍に入隊し、北アフリカ戦線に送られて分隊リーダーとなるまでが導入部となります。

 大学教授、大工、漫画家、画家、ならず者、堅物の軍曹といった精鋭(あるいは実戦部隊から放り出された役立たず)が奇術師の元に集結。総勢七名の「カモフラージュ実験分隊」が結成されます。

 「この部隊が軍の組織図のどこに属するのかを正確に言える者はいなかった。“偽装屋”と呼ぶのはちょっと気の毒だが、“技術屋”と呼べるほどの技術はない。補給や輸送とは関係がなく、戦闘についてもほとんど知らない」(単行本p.171)

 「正規軍のなかには、ジャスパーのような人間が戦場にいるのは軍の恥だと感じている者もいた。芸人のトリックごときで、ロンメルの鼻を明かすことなどできるわけがないというのだ。そういった連中は、そもそも、なぜジャスパーが戦地勤務を許されたのかが理解できなかった」(単行本p.55)

 ジャスパーの分隊は、正式な指揮系統からさくっと外されたのです。まあ、大人の対応ですね。そして彼らに付けられたあだ名は……。

 「マジックギャング、少佐がおれたちのことをそう呼んでいた。うまいことを言ったもんだ。なんてったって響きがいい」(単行本p.122)

 「なにかにつけ馬鹿げた要請を受けることがあるだろう。だが覚えておいてほしい、もしだれかにこれはできるかときかれたら、答えは必ずイエス。細かいことはそのあとで考えればいい。わかったね、諸君?」(単行本p.109)

 いいのかそれで。

 こうして、次々と寄せられる無理難題を、すべて「イエス」で片づけてゆくカモフラージュ実験分隊、通称「マジックギャング」たち。

 「カモフラージュ実験分隊の命運は、なにもないところから四万リットルのペンキを出してみせることができるかどうかにかかっている」(単行本p.100)

 「バトルアクス作戦に軍の大きな期待がかかっていたが、まもなく本人もきかされるように、その成否は、ジャスパーが戦車をトラックに変えられるかどうかにかかっていた」(単行本p.115)

 ラクダの糞を使った塗装、トラックに偽装した戦車。マジックギャングたちは「細かいことはあとで考えればいい」方針で難題に取り組んでゆきます。上層部からの要求は次第にエスカレート。ついには「アレクサンドリア港をドイツ軍の目から隠せ」という命令が。

 「アレクサンドリア港は、かつてどんなマジシャンも立ったことがない最大のステージだ。ジャスパーはオートバイや女や箱、ときにはゾウまで消してみせたことがあったが、港を丸ごと消すというのは、まったく次元のちがう話。(中略)この難題にジャスパーの心は踊った。「ひとつやってみますか」」(単行本p.151)

 これはもう嫌がらせではないか、軍上層部は無理難題を押し付けて彼らを厄介払いしたいだけではないか、と読者としては思うのですが、「俺たち期待されてる!」と舞い上がる空気読めない連中。だが、彼らは本当にやってのけます。

 「アレクサンドリア港を動かすというジャスパーのアイディアが成功したことで、かつて考えられなかったスケールでダミーを活用できることが証明された。マジックギャングが完成させた、光と影とダミー構造の運用は、戦略的に重要なターゲットを守るために、その後世界中で活用されることになる」(単行本p.171)

 こうして成果を出したジャスパーたちには、「偽の潜水艦隊でドイツ軍を攪乱せよ」「スエズ運河を消せ」「マルタ島を消せ」という具合に、次々と難題が与えられます。

 こうなると厄介払いのための嫌がらせというより、どこか面白がってる印象がありますが、まあ、砂漠でロンメル軍団と何年もにらみ合いを続けているイギリス軍指揮官の心理を考えると、それも仕方ないかも。

 「歩兵隊准将は各個掩体をなんとかしてほしいとマジックギャングに要請してきた。(中略)輸送部隊の少佐は、砂漠で大量のガソリンを隠せるいい方法がないものかときいてきた。また空軍中佐テッダーは、飛行機からパラシュートを使わないで補給物資を落とせないかと言ってきた。売店はチャリティー公演の開催を依頼してきたし、装甲軍団は可動式の地雷除去装置を考案してほしいと言い、カニンガム海軍大将は、ダミーの潜水艦隊に非常に満足して、今度は乾ドックに入っている全長二百二十メートルの戦艦のダミーを作れと言い出した」(単行本p.347)

 個性的かつ非社交的なメンバーが集まっているため最初はぎくしゃくしていたマジックギャングたちも、次第に戦友として結束を強めてゆきます。

 「どこにも収まる場所がないが、ここにいれば堅く結束する。各自が自分の得意分野で責任を負っていた。(中略)いっしょになにかを成し遂げたという誇りが彼らを結びつけていた。自らをギャングと呼ぶ野放図なアーティスト集団は、融通のきかない軍の組織に抵抗していることを楽しんでいた」(単行本p.220)

 だが、ついに分隊に戦死者が出て、精神的危機に陥るジャスパー。多くの兵士たちが命を落としている戦場で、ハリボテ戦車や紙の兵士を作っていることの虚しさ。

 だが砂漠の戦況は緊迫の度合いを増してゆき、ついに名高い「エル・アラメインの戦い」へと突入します。本国からの補給が途絶えたドイツアフリカ軍団に対して、イギリス軍が全面攻勢をかけたのです。

 このとき決定的に重要となったのが、攻撃が行われる場所とタイミングをドイツ軍の諜報部に誤解させること。そのために、イギリス軍はかつてない規模の偽装工作を必要としていました。

 「諸君には、ビリヤード板のように固く平らで、何もない平原に置かれた、十五万の兵士と千の大砲と千の戦車を隠してほしい。そしてドイツ軍には、そのことについてなにも知られてはならない」(単行本p.489)

 夜間に爆撃機のパイロットの目を欺くとか、砂漠の野営地を遠くから観察する偵察隊を騙すとか、そういった偽装とはレベルの違う本気の大規模カモフラージュ作戦。戦場での偽装は、本当に戦況を左右する力となり、歴史を動かすのか。戦場の魔術師、ジャスパーの真価が試されるときが来たのだ……。

 というわけで、あまりの痛快さに「いくら何でもこれはフィクションだろう」と思わせる一方で、実在の人物が主役となり、また歴史的事実に嘘はないため、「もしかしたら基本的なところは史実なのかも」と迷わせるという、まるで本書自体がイリュージョンめいた雰囲気をまとっています。

 いずれにせよ、「軍のあぶれ者集団が無茶な任務を次々と達成してゆき、ついに歴史的な戦いに重要な役目を果たす」という定番プロットは非常に面白く、胸踊るものがあります。偽装工作という少し外れた視点から書かれた戦争小説、冒険小説としてお勧めです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『透明マントを求めて 天狗の隠れ蓑からメタマテリアルまで』(雨宮智宏) [読書(サイエンス)]

 「クローキング----そう名付けられたこの装置には、ガラス繊維の上に細い銅線で細かな幾何学的な模様が作り込まれている。これらの模様が、メタマテリアル----以前彼らが開発した特殊な磁気特性を持つ人工物質----である」(新書版p.231)

 「メタマテリアルの“メタ”とは“超越”という意味であり、要するに日本語で言えば「超越物質」ということになる。超越といってもピンとこないかもしれないが、誘電率と透磁率を自在に操ることができるという点で、自然界に存在している物質を超越しているのである」(新書版p.206)

 「ペンドリーが考えた手法を用いれば、どのような光学的性質を持った物質であろうと作ることができるのだ。そういう意味では、「負の屈折率を持つ物質を作る」という当初の目標すら遥かに凌駕していた」(新書版p.206)

 光を迂回させることで内部空間を光学的に消してしまうことも可能な超越物質、メタマテリアル。透明マントへの夢が実現されるまでの道のりを追った一般向けサイエンス本。新書版(ディスカヴァー・トゥエンティワン)出版は、2014年6月です。

 透明人間になれる薬、あるいは装着者を光学的に消してしまう衣服。人類の見果てぬ夢が、負の屈折率を持つメタマテリアルによる「クローキング(光学迷彩)」として実現されるまでの歴史を追った本です。

 全体は5つの章から構成されています。

 最初の「第1章 エンターティメントとしての透明マント」では、神話、ファンタジー、SFにおける透明マント、そして映画の特撮技術やステージマジックが「物を見えなくする」ためにどのようなトリックを開発してきたかが紹介されます。

 「第2章 アメリカの挑戦 ステルス機への道」では、レーダーに対して戦闘機を「透明化」する、ステルス技術の開発史が紹介されます。実はステルス技術は「米ソの意図せぬ共同開発だった」というのが面白い。

 「残された問題は、平面と平面が交わる稜線や鋭角など尖った部分の影響だったのだが、これを救ったのが、なんと敵国ソ連の科学者ピョートル・ウフィムツェフが1957年に出した“回折理論による鋭角面の電波の解析”という論文で、(中略)この論文の助けを得てレーダー断面積の解析プログラムが製作され、ステルス機の形状設計のための強力な武器となった」(新書版p.85)

 「アメリカで開発されたステルス機の技術の心臓部はソ連で提案された理論を用いている。互いに本意ではなかったかもしれないが、ステルス機は、アメリカ、ソ連両国の技術の融合とも言うべき代物なのだ」(新書版p.96)

 そして「第3章 ソ連からの提案 共産主義における科学技術」では、ソ連の科学者が考察したクローキングの基礎となる理論が登場します。

 「画期的な1本の論文がソ連国内で発表される。「負の屈折率を持つ物質の特性」と題されたその論文は、将来の透明マント研究の根幹となる部分を論じている。しかし この完成された美しい理論は、世に出るのがあまりに早すぎた。残念ながら、当時の科学技術がその論文を実証できるレベルに達していないがゆえに、全く見向きもされないという不遇の扱いを受けてしまう」(新書版p.111)

 「屈折率が負の場合、状況は全く違う。折れ曲った光は、入射してきた方向へと戻っていることが分かる(中略)透明マントには、この特殊な光の曲り方が絶対に必要となる。そして、これを研究する科学者は総じてこの特殊な光の曲がりを実現する物質を作り上げることに全力を注ぐことになり、ノーベル物理学賞の一歩手前まで迫ることになる」(新書版p.123、131)

 入射してきた方向へと光が屈折する境界面。通常の境界面とそのような特殊な境界面を組み合わせれば、入射してきた光の経路を自由に操れるのではないか。これがクローキングの出発点となります。

 「第4章 曲がった空間 リーマン、アインシュタインの贈り物」では、「曲がった空間における光の進み方」を厳密に解析できる一般相対性理論と、その数学的な基礎であるリーマン幾何学についての解説です。

 なぜリーマンやアインシュタインの理論がここで登場するのでしょうか。詳しくは次の章で解説されるのですが、何と一般相対論こそクローキングを実現するための強力なツールであることが判明したのです。

 「ペンドリーが提案したのは、まさに「ある事象を別の事象に置き換えて考える」ことだった。「曲がった空間における光の進み方」と「屈折率分布を持った物質の中の光の進み方」が、全く同じであることを見出したのである。前者は宇宙物理学、後者は工学の分野で当たり前と思われていた現象だが、それら2つが全く同じだったという衝撃的な事実を突きつけられて、科学界はどよめいた。つまり、空間の曲がり具合(計量)が分かっていれば、光にとってそれと同じ環境になる屈折率分布を簡単な式で求めることが可能だと示されたのである」(新書版p.224)

 これこそが、変換光学。この強力なツールの登場により、まず望む光の進路を設計し、それに必要な屈折率分布を求め、メタマテリアルを使ってそのような屈折率分布を実現する。それが、クローキング技術だということです。

 「リーマン、アインシュタインが残した「曲がった空間」という登山道具を持って、ベセラゴが見つけ出した「負の屈折率」という入り口から山頂を目指す。もちろん山頂には夢の透明マントが待っている。頂上からの眺めは素晴らしいに違いない」(新書版p.185)

 そして最終章「第5章 ついに完成する透明マント」では、いよいよメタマテリアル実現に向けた道のりが解説されます。

 「光にとっては本来1から変化するはずのない透磁率を変化させるような、そんな物質を作り出すことができれば、負の屈折率も夢ではないということになる。しかし、このようなことを物質レベルで行うことはほとんど不可能だ。なぜなら、どのような物質も突き詰めれば原子や分子からできあがっており、それらの磁気分極は、高速で振動する磁場に追従することができないからだ。ベセラゴが負の屈折率の概念を導入してから30年、多くの科学者たちはここで思考を停止させていた。普通の科学者ならここで諦める。しかしペンドリーは違った」(新書版p.200)

 光、つまり電磁波を構成している磁場変動のスピードに追随できる磁気分極を起こせる「物質」。そんな、あり得ない難題への挑戦。

 「ある構造体を考えたときに、そのサイズが光の回折限界以下であれば、光はその構造体の詳細な形を知ることができないということになる。言い換えれば、回折限界以下の構造体は、その光にとっては原子と同じように見なせるということである。「原子自体の磁気分極を操ることは至難だが、構造体の形をうまく設計してずらりと並べれば、対象の光にとって、まるで磁気分極を起こしている原子のように見せることができるのではないか」ペンドリーはそのように考えた」(新書版p.202)

 こうして、光の回折限界よりも小さな共振回路を無数に並べることで、目標とする磁気特性を、ひいては光学特性を実現する。それが「メタマテリアル」の原理です。

 変換光学とメタマテリアル、これで必要な技術は揃いました。入射してきた光が、特定の空間領域を迂回して進むように、屈折率分布を調整する。これがクローキング、光学迷彩です。

 「ついにできあがった世界で最初の透明マントだが、実はこれにはマイクロ波にとっての、二次元での透明マントという但し書きがつく。(中略)その後、2008年に、カリフォルニア大学バークレー校の物理学者シァン・ジャン教授らは、三次元ではたらく初のクローキング装置を実現し、さらにそれに関連した赤外線と可視光線で機能するマントも作られている」(新書版p.231、232)

 「現段階では人間の大きさの物体を可視波長で透明化するのはまだまだ難しいというのが正直なところだが、さらなるブレークスルーが起きたとき、それはもはや夢ではなくなるだろう」(新書版p.233)

 実は、個人的に、クローキングといっても所詮は「隠されている背景を超小型カメラで撮影して、リアルタイムに前面にプロジェクションすることで(正面方向から見たときだけ)消えたように見せかける」といった目くらまし技術を想像していたので、負の屈折率を持つメタマテリアルによって原理的にはどの方向から見ても透明化することが出来る、というのは驚きでした。

 というわけで、軍事や犯罪の性質を大きく変えてしまうかも知れない新しいテクノロジー、メタマテリアルによるクローキング技術の現状を一般向けに紹介してくれる興奮の一冊です。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『隣人のいない部屋』(三角みづ紀) [読書(小説・詩)]

 「知らないことは おろかで幼く/うつくしい/知ることがおそろしいまま/知らない町で/さむいとふくらむから/わたしも膨張して/おきたら丸く丸くなる」
 (『浅い眠り』より)

 旅の途中で書き留められた言葉。三角みづ紀さんによる美しくもおそろしい、紀行文ならぬ紀行詩集。単行本(思潮社)出版は2013年9月です。

 「旅にでて、毎日、詩を書こうとかんがえました」
 (『あとがき』より)

 帯に「28日間の旅が刻む、28の詩と写真」とありますが、旅の途中で撮影されたモノクロ写真と、その場所で書かれたのであろう詩が、交互に掲載されています。

 「みんなそろって事務的な椅子に身をゆだね/すでに最後にむかっている/夏なんて存在しなかったように/さらさらと雪が降る/三月のしまいに/さらさらと雪が降る/永久のなか/さらさらと雪が降る/さらさらと雪をうけとめて/航空灯火が待っている」
 (『離水』より)

 2013年3月24日と記録されている、最初の詩。航空機の窓から見える滑走路の光景。さらさらと雪が降る、というなにげない言葉の繰り返しに、しびれます。

 「みんな黙ってかごを手に/つぎつぎとあつまってくる/言わなくてもわかっている/でも言ったらもっとわかる/長い間、つれそった夫婦のように/言わなくてもわかっている/でも言ったらもっとわかる/世界中にまだ出会わぬ夫が/ちらばっている/会話は減少して/雨音と尾灯/左折したら、教会」
 (『安息日』より)

 この詩もそう。繰り返しが、反復が、胸をつきます。別に技巧的でもなくむしろ凡庸な表現に思えるのに、反復と配置でいきなり新しい言葉になってしまう。詩人にはこういうことが出来るということは知っていますが、いったいどうして出来るのか想像もつきません。

 「ひどくしわがれた声で/もしかしたらいないひとかもしれない/きすをして去っていく/わたしは迷子だ//しぬことも/いきることもできずに/ひたすらに日々がながれて/迷子のまま/あたたかい光のなかに立っている/重い水と砂糖をかかえて/ようやく家に着くころ/千年がすぎている//しぬことも/いきることもできずに/ひたすらに日々がながれて/見覚えのあるドアをあけると/しわがれた声で/おかえりとあなたが/言う//もしかしたらいないひとかもしれない」
 (『ティボリ公園までの道、2』より)

 「昨日、うまれたばかりの/あなたが、今日/また、うまれている。//白い壁にかこまれて/けわしい顔で/うれしそうに/わたしは関与しないまま/あなたが、毎日/うまれている。/おおぜいの視線を/あつめながら/わたしは関与せずに/あなたは、明日/また、うまれている。/わたしは関与しないまま/寒空のつめたい傷の上を/西日をうけながら/歩いた。」
 (『春の嵐』より)

 ごくありふれた言葉、思い切っていうなら散文的な言葉を使って、わずか数行で人生を表現してのける、反復の凄みを感じさせる詩。すげえ。でもちょっと怖い。

 「時間を気にしながら/正しく食事をする/天気の話も/季節の話も/なるべく、したくないのだけれど/息が白い/手をつなぐ」
 (『上質な食卓』より)

 「翌朝、/白と黄色の花を買って/墓の島へ向かう/これ以上うつくしいものを/知ることはないから/悪事をはたらいた」
 (『墓の島へ』より)

 「戦争の痕がのこる町で/いま おこっている/戦争の話をする/わたしたちはごちそうを前に/戦争の話をする//トッドさんはアメリカ人だけど/日本語が とても上手/おまけにきれいな顔立ちをしている/わたしたちは戦争の話をつづけた/わたしたちは国ではなく人だ/わたしたちは戦争の話をつづける」
 (『六月十七日通り』より)

 「誕生日が/苦手だった/油断するから/苦手だと いった/いまは/そうでもないかもしれない」
 (『四月十八日の部屋』より)

 掲載されている写真は、街角や公園や波止場などの風景、教会など古い建物、道路、そしてホテルの部屋や食事など。いかにも旅のアルバムという感じなんですが、詩を読んでから写真を眺めると、そこに自分もいたような偽記憶が甦ってきます。

 ちなみに単行本のカバーを外すと手書きの原稿用紙が印刷されていて、鉛筆書きのその文字を見ていると、ぐっと臨場感が高まります。推敲する前の生原稿らしく、本文に掲載されているのとは微妙に違う表現、生原稿での訂正箇所が本文に掲載されたバージョンでは訂正前の言葉に戻されていたりして、どきどきします。巻末には各作品が書かれた日付と場所が一覧表示されており、細かいところまで気を配って丁寧に作られた詩集です。


タグ:三角みづ紀
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『睡眠 -Sleep-』(オーレリー・デュポン、佐東利穂子、勅使川原三郎、鰐川枝里、加藤梨花) [ダンス]

 2014年8月17日は夫婦で東京芸術劇場プレイハウスに行って、勅使川原三郎さんの新作公演を鑑賞しました。パリ・オペラ座エトワールのオーレリー・デュポンがゲストダンサーとして参加したことでも話題になった80分の舞台です。

 まず、舞台演出に目を奪われます。おそらくアクリル製と思われる透明素材で作られた様々なオブジェクト(沢山の板、机、椅子、壁など)が天井から吊り下げられ、それらが自在に上下移動して、舞台上から消えたり現れたりします。

 このシンプルな仕掛けが、絶妙な照明効果と相まって、舞台上に異空間を創り出す様は驚異的。光、闇、かすかに反射する透明なオブジェクトに囲まれた出演者たちは、あるときは海中(水槽内かも)、またあるときは無機質な閉塞空間、ときに光輝く美しい夢、ときに歪んだ空間の悪夢、そのなかを漂いながら、踊ります。

 前半は、手をゆらゆらと触手のようにゆらめかしたり、不意に脱力させたり、ゆるやかな動きが印象的なシーンが続きます。音楽も、静かな器楽曲にノイズを乗せたものが続き、静謐な印象です。透明オブジェクトの配置が変わるたびに舞台の印象も大きく変わってゆきます。

 そして後半になるや、音楽もアップテンポになり、次から次へと見せ場が続くことになります。ここから終幕までのサービス連打は凄い。まず鰐川枝里さんと加藤梨花さんの二人が、それまで舞台に漂っていた海底のような静かな沈滞感を吹き飛ばす勢いで、高速かつパワフルなダンスを若々しく情熱的に踊って、ぐいぐい盛り上げます。

 続いて勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが踊るのですが、音楽が何とベタなロックミュージック。ロックのリズムに乗せてがんがん踊る勅使川原さんと佐東さんというのは、個人的には初めて見たシーンですが、これがもう、抜群にかっこいい。素敵です。ここだけ何度も観たい。

 続いて、バレエ音楽に女性の悲鳴とガラスが割れる音をかぶせた不穏な音源に乗せてコメディホラー風の大仰なダンス(貞子演出が可笑しい)、そしてラストは佐東利穂子さんがゆったりしたスケールの大きなソロを踊って拍手喝采。

 ゆったりした静かな前半、激しく盛り上がる興奮の後半、どちらも忘れがたい印象が残る劇的な公演でした。勅使川原三郎さんは最初から最後まで、それこそ体力がもつのかいらぬ心配をしてしまうほど、たっぷり踊ってくれて、とても嬉しかった。

[キャスト]

構成・振付: 勅使川原三郎
出演: オーレリー・デュポン、佐東利穂子、勅使川原三郎、鰐川枝里、加藤梨花


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇