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『生命世界の非対称性 自然はなぜアンバランスが好きか』(黒田玲子) [読書(サイエンス)]

 「ものの味や香りといった些細なことから、医薬品の副作用、薬効、農薬の薬効に至るまで、キラリティーの問題がわれわれに与える影響は大きい。その原因は、マクロの世界とは対照的に、ミクロの世界では左右対称が完全に崩れていることにある。この地球上の全生物は分子のレヴェルではキラルであり、かつ同じキラリティーをもつ。」(Kindle版No.2436)

 「植物のタンパク質も、動物のタンパク質も、大腸菌の酵素のようなタンパク質も、L-アミノ酸のみから構成されている。D体、L体の違いは互いに鏡像関係にあるというだけで、一般の物理的、化学的性質は同じである。実験室でアミノ酸の合成を行えば、必ずDとLが等量できてくる。生物界が共通してL-アミノ酸のみから構成されているということは、全く驚くべきことである。」(Kindle版No.1523)

 マクロに見たとき生物の身体は概ね対称であるのに対し、分子レベルで見ると圧倒的な非対称が存在する。この非対称性はどこから生じたのか。そして、それは生命の発生とどのように関係しているのか。生物界における分子の鏡像非対称性の意味を解説した一冊を、Kindle Paperwhiteでよみました。新書版(中央公論社)出版は1992年10月、Kindle版(中央公論新社)配信は2014年7月です。

 ある分子を鏡に映した鏡像が、元の分子と異なる(重ね合わせることが出来ない)とき、これらを「光学異性体」と呼ぶ。私が高校で学んだ化学ではそういうことになっていましたが、これは古い用語で、正しくはエナンチオマー、そしてエナンチオマーがあるという性質をキラリティと呼ぶのだそうです。

 本書は、この分子のキラリティがどのような意義を持っているのかを詳しく解説するものです。

 全体は七つの章から構成されています。大雑把にいうと、奇数章が本筋、偶数章が補足情報ということになっています。

 「第一章 右の世界、左の世界」では、分子の非対称性が引き起こす興味深い現象が色々と紹介されます。例えば、鏡像関係にあるという以外は同じ構造をとるのに、香りが全く異なっている化合物、あるいは味が異なるアミノ酸。さらには。

 「パンを焼くときに用いる酵母菌(イースト)を、右手型アミノ酸と左手型アミノ酸の等量混合物に加え、酵母菌の生きやすい摂氏37度にしてやる。すると酵母はこの等量混合物の中の一方のみを代謝して二酸化炭素とアミンに変える。もう一方は、全く手づかずになっている。」(Kindle版No.109)

 「気管支拡張薬として使われるイソプロピル・ノルアドレナリンは、一方がその鏡像体の800倍も薬効が高い。(中略)抗住血吸虫剤のプラジカンテルでは、薬効は1万倍も異なる。」(Kindle版No.114)

 「サリドマイドという薬にも右手型と左手型の区別がある。このうちの一方のみが胎児に奇形を生じさせることが、動物実験によって示されている。鏡に映した物がこれほどまでに大きな違いを与えるのである。」(Kindle版No.119)

 物理的・化学的特性が同じであるはずのエナンチオマー(右手型/左手型)を、なぜ生物はこれほどまでに厳しく選択するのでしょうか。

 「第二章 対称とは、非対称とは」では、「対称性」についての数学的な基礎知識がまとめられています。対称操作と対称要素、キラルとアキラル、エナンチオマー、といった用語がここで詳しく解説されると共に、なぜ生物は分子のキラリティに対してかくも選択的に反応するのか、という前章で提起された疑問に対する重要なヒントが示されます。

 「鏡像体(エナンチオマー)の存在するものはキラル、存在しないものはアキラルとよばれる。(中略)キラルなものはキラルなものと相互作用するときに、相手のエナンチオマーによって差を生じる。アキラルなものはキラルなものと相互作用しても、エナンチオマーによる差は生じない。」(Kindle版No.562)

 エナンチオマーに対して生物が厳しい選択性を示すのは、つまり生物の身体を構成している分子がキラル、言い換えるなら鏡像非対称だからだ、ということがここで分かります。

 「第三章 対称な生物界」は、生物の身体をマクロに見た対称性について。単細胞生物や腔腸動物の一部にはエナンチオマーがある、つまり右手型の個体と左手型の個体がいる、カタツムリや巻き貝など腹足類には圧倒的に右巻きのものが多い、といった興味深い話も出てきますが、マクロに見ると動物の多くが鏡像対称(アキラル)だということが分かります。

 「第四章 分子の世界」では、分子レベルでのエナンチオマーの発見、理論化と検証に関する歴史が紹介されます。

 「第五章 非対称な生物界」では、マクロに見るとおおむね対称性を保っている生物が、その身体を構成する分子のレベルでは非対称だということの意味が解説されます。

 「植物のタンパク質も、動物のタンパク質も、大腸菌の酵素のようなタンパク質も、L-アミノ酸のみから構成されている。D体、L体の違いは互いに鏡像関係にあるというだけで、一般の物理的、化学的性質は同じである。実験室でアミノ酸の合成を行えば、必ずDとLが等量できてくる。生物界が共通してL-アミノ酸のみから構成されているということは、全く驚くべきことである。」(Kindle版No.1523)

 もっとも、冷静になって考えてみると、D-アミノ酸とL-アミノ酸が混在する生物というのは存在し得ないようです。

 「D-アミノ酸の存在は、タンパク質の高次構造に大きな影響を与えるだろう。(中略)L-アミノ酸が一個でもD-アミノ酸に置換されたならば、その影響は一部分にとどまらず、タンパク質全体に行き渡るであろう。その結果、構造タンパク質ではそれほど大きな問題とならない場合もあるが、酵素の場合には活性が全く失われてしまうであろう。」(Kindle版No.1626)

 食物連鎖を通じてアミノ酸は生物から生物へと流れ循環しているわけですから、結局、全生物界がL型かD型に統一されるしかありません。L型に決まってしまった以上、もし突然変異か何かでD-アミノ酸から出来た生物が生じたとしても、消化吸収できる有機物はなく、新陳代謝も出来ず、生態系の一部になることが出来ないまま、滅びてしまうことでしょう。

 「マクロな世界の外見に反して、生命世界は非対称である。生物に関連したことにしばしばキラルな現象が観察されるのは、分子レヴェルで見てみれば地球上の全生物が、キラリティの片方のみからできているからに他ならない。」(Kindle版No.1844)

 こうして最初に指摘された問いかけには答えが出たわけですが、サイエンスでは常にそうであるように、答えはさらに深い疑問へと繋がってゆきます。なぜ、いかにして、そしていつ、キラリティの片方だけが生命の物質的基盤として選択されたのか。

 「第六章 キラルな医薬品の開発」では、医薬品や農薬など生物に作用する分子を開発するにあたってキラリティを考慮することの重要性を強調し、左右のエナンチオマーが混合している分子状態(ラセミ体、ラセミ混合物)から一方だけを取り出す技術が紹介されます。

 「キラルな医薬品、農薬がラセミ混合物として用いられる場合、半分だけに薬効のあることが多い。残り半分、つまり、もう一方のエナンチオマーには薬効がない。しかし、それだけならよいが、薬効のないエナンチオマーが薬効のある方のはたらきを抑えたり、サリドマイドのようにひどい毒性をもっていたら大ごとである。」(Kindle版No.1921)

 「生体系はキラルであり、エナンチオマーの一方でしかできていないのだから、キラルな医薬品の光学純度には十分に注意を払わなくてはならない。サリドマイド事件の悲劇を二度と繰り返さないためにも。」(Kindle版No.2031)

 「第七章 生物界はどのようにして完全に左右非対称になったのか」では、生物界の非対称性がどのようにして生じたのかを探求してゆきます。

 「現在地球上にいる全生物は、例外なくL-アミノ酸とD-リボースから成っているのである。しかし、いったいいつ頃からこのような事実が確立されたのだろうか。そして、なぜ現在のキラリティーに決まったのだろうか。この原因を探求していくと、素粒子という、非常に小さな物質の間にはたらく力や宇宙全体の対称性の問題にぶつかる。さらに、ホモキラリティーの確立は、生命の起源とは切っても切れない問題だということも明らかになってくる。」(Kindle版No.2047)

 素粒子論における「対称性の破れ」が根本原因だという説、生命の誕生にキラルな物質が関与したとする説。L型とD型の両方の生命体が発生したが生存競争でたまたまL型が生き残った説。様々な主張が紹介されます。

 結局、最初の生命がどのようにして誕生したのか、ということが確定しない限り、議論に決着がつかないということがよく分かります。逆に言うと、生命誕生を説明する理論には、大きな制約が課されることになるわけです。

 「化学進化を語るときには、どのような最初の生命形態を仮定するにせよ、ラセミ体物質からホモキラルな生命ができる過程が説明されていなくてはならない。(中略)生命の分子から生命の誕生までのギャップは大きい。この過程の解明は、生物界のホモキラリティーの説明と切っても切れない関係にある。キラリティーが生命の起源の解明の鍵を与えてくれるかもしれない」(Kindle版No.2413、2432)

 というわけで、薬効から生命誕生に至るまで、生物にとってキラリティがどれほど重要なものであるかを解説してくれる本です。本筋とは別に、数学・化学・生物学・薬学、さらには素粒子物理学に至るまで、びっくりするほど幅広い分野のトピックが盛り込まれており、どの分野に興味がある読者にとっても、楽しめる一冊だと思います。


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