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『片付けない作家と西の天狗』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「他の子がいる事が救いになった。それに書くことは出来る。文章は出るし文字は読めるのだ。つまり文章というものは自分の生死をも越えるもので自分で書いているのではないところがあるからだ。文が社会と絶望した人間とを繋ぐ魂の緒だからだ。」(Kindle版No.2467)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第92回。

 母の看病、純文学論争、猫騒動、そして金毘羅。沢野千本は空を飛び、八百木千本は鼻血を出す。伊勢、八王子、雑司ヶ谷、佐倉を舞台に、東進作家の四十代を俯瞰する短篇集(あとがき含む十篇収録)を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は2004年6月、Kindle版配信は2014年7月です。


 「十三歳の時に黒い翼を見ました。(中略)それは記憶の中では、というか見た当初から人間の体についていたものと思えてならなかったのです。真っ白な大きな男の背中から生えているような。」
 (『金毘羅』より。文庫版p.175)


 「それからの私は金毘羅の影に脅かされました。ただ金毘羅というものに人知を越えた力だけが宿り、私をコントロールしに来るのだ、と感じたのです。(中略)江戸期の金毘羅の殆どが天狗であったという知識を得た後、この恐怖はまず少しだけ治まりました。」
 (『金毘羅』より。文庫版p.304)


 「頭はふらふらだし、痒いな、と思って口の周りを押えると血がつきました。鼻血でした。(中略)振り返った時に金光が見えた。(中略)そこまでが人間の記憶でした。」
 (『金毘羅』より。文庫版p.307)


『胸の上の前世』

 「彼の事を全部知っていると思った。小さい小さい、美しい美しい男だった。夢の中でだけ彼についての知識が全部蘇った。生まれる前から知っていたかのような酷い知り方であった。私の胸はどうしようもなく痛くなっていた。当然ではあった。なぜなら、小さくて美しいとは禍々しい事なのだから。」(Kindle版No.89)

 目が覚めたとき、胸の上に小さい男が乗っていることに気づく作家。小さく、美しく、呼吸のリズムに合わせて虫になったり美男になったりする男。日本神話に登場する神を思わせるその男を見た作家は、男の姿となり、「やっと会えた」「ずっと一緒にいてくれ」と思う。神との交感を生々しく描いた、後の『萌神分魂譜』を連想させる美しい短篇。


『S倉極楽図書館』

 「公園内神明神社の横でがらんどうになっている小さい祠の、床に開いた大穴が入口である。利用者はそこから「楽に」入る。私は、無論這って入る。 ひとたび館内に入れば図書はぎっしりでも本の棚は低く、天井まで低い。普通の図書館にない本にも驚かされる。動物好きだった森茉莉の本はそこにもある。」(Kindle版No.187)

 森茉莉の評伝小説『幽界森娘異聞』を執筆中の作家が、「人間の身でありながら」(Kindle版No.183)、様々な哺乳類の姿をとった利用者が集まる地下図書館に行く。ユーモラスで楽しい異類交流譚。


『素数長歌と空』

 「それで安心して今回はまあ改行しない詩っぽいものを書いているのだよ。え、でもこれのどこが一体詩ですか、詩ったらもう素数長歌でげすってさ。おー詩っぽい詩っぽい詩っぽいねえ、でも決して詩などであるものか。飛行機オチずしてわしここにオるよ。低温脱力して詩っぽい詩っぽい。(中略)知らない街に行って知らない人に会って、いい目を見てきても猫は無事だよ、でもギドウは治るのかな、うう、詩っぽい、詩っぽい。」(Kindle版No.495、501)

 『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞を受賞した沢野千本。授賞式に出席するため生まれてはじめて飛行機に乗ることになり、不安のあまり大いに取り乱す。が、まあ、そこは乗り物好きの彼女のことなので、飛んでいるうちに調子が出てくるのであった。

 「飛行機の音の中で金庫の鍵の場所と、もし私が死んだら猫達を頼むという事を言っていたら、四匹が今にも路頭に迷うようで可哀相で、涙が出てきた。その後は乗るだけでまごまごした。(中略)乗ってから大分経って自分は飛行機好きだとやっと判った。」(Kindle版No.322、333)

 ちなみに「素数長歌」というのはおそらく造語で、五七、五七のパターンではなく、文字数がすべて素数(ただし最初は一文字)、かつ同じ文字数は二度と使わず単調増加させる、という超絶的な長歌形式とのこと、らしい。

 「一、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三、----素数が定型になっているそれは長歌である。という事は素数に終わりがない以上終わりのない歌だ。」(Kindle版No.365)


『五十円食堂と黒い翼』

 「神も天狗も信じてなくても行動するのが私の変な癖であった。そうだよ鳥の翼借りてきてやるのも大切だけどさ、それじゃちょっと天狗のとこ行って相談して来るよ自分の事もね、と。」(Kindle版No.545)

 蛇化した飛べない鳥から、「自分はお前と同じ系統の「黒い翼のもの」だ。だから危険な事はさせないから、頼む頼む。」(Kindle版No.514)などと、まるで身内を装って連絡してくる例の詐欺みたいな依頼を受けた作家は、天狗から翼を借りるべく、高尾山に向かう。そして、麓にある「五十円食堂」で天丼(もちろん50円ではない)を食べているとき、そこでもまた黒い翼の人々を見るのだった。むろん自分の背中にも黒い翼は生えている。


『箱のような道』

 「昼中病院にいたはずなのに、その記憶はなく、ただ気が付くと家に近い夜市の坂道を歩いていた。夜市の八百屋に私は行こうとしているのだった。その八百屋で……新芋と新蓮根と新生姜を買って、全部天麩羅にして誰かに食べさせなくてはいけないのだった。だが、その誰かが誰か、また判らなかった。自分が誰なのかももうひとつ判らない程だ。」(Kindle版No.707)

 母親の看病のため郷里の伊勢に帰っている作家。親族からよい扱いを受けず、ストレスと身体不調で現実感覚を失ってゆき、やがて夜の幻想に踏み込んでゆく。夜市の八百屋、その陳列台の上には河童がいる。そして「河童がアオウリの中からどんどん這い出して来る。」(Kindle版No.823)。


『猫々妄者と怪』

 「鼻血を出さなくては書けないラストシーンのある小説を既に三百八十枚まで書いてしまっている。 その書き上げた三百八十枚までの間、小説の主人公は正常です。しかしそこから約八十枚のラストシーンにおいて、ヒロインは鼻血を噴いてトランスをかまさなくてはならないのだった。」(Kindle版No.904)

 代表作の一つとなる『金毘羅』の執筆に取り組んでいる八百木千本。ラストシーンを書くためには、金の御幣が飛ぶのを見て、鼻血を出さねばなりません。ところが、首尾よく御幣は飛んだものの、なかなか鼻血が出ない。早く鼻血が出ますようにと、八百木は神に祈るのでした。

 「極私的な幻想のリアリティを追求する行為を私はする。ただその時には自分が発狂しているという事を自覚して書かなければならないのだ。つまり正確にいうと発狂の一歩手前、まだ常識が残っている状態をキープするのである。その上で自分を客観化出来ない程発狂した主人公を、客観的文章の力でだけただ描写する。」(Kindle版No.1005)

 自らを発狂すれすれまで追い込み、発狂した主人公を客観的文章で描写する。あまりといえばあまりの荒技に挑む八百木千本、何しろ猫々妄者だから。

 「さて、なぜうちの猫達は可愛いのか。----まず彼らは生きている限りうんこをし続ける。そこが可愛い(どうです怪奇でしょう)。」(Kindle版No.1174)

 余談ですが、猫のやることを無理やり褒めるときなど、「どうです怪奇でしょう」とひとこと付け加えるのが我が家でも流行りました。猫飼いの皆様にお勧めです。


『越乃寒梅泥棒』

 「伊勢に帰ってきてから、その店の前を何回も通る。そうする度、店と私とが何光年離れているかさえ、もう見当も付かなくなってしまった事に気付くのである。(中略)越乃寒梅泥棒の通って行った世界、それを越乃寒梅泥棒の噂として聞いた世界はもう私の回りにはない。」(Kindle版No.1505、1518)

 高価な銘酒である越乃寒梅を店頭に飾っていた酒屋に泥棒が入り、それを奪って行った。その話を東京で聞いた作家は、今や母親の看病のため郷里の伊勢に帰っている。毎日、病院へ向かうとき酒屋を見てその話を思い出すが、今や自分は異世界に迷い込んで絶望しているような心持ちで、自分が知っている事件がそこで実際に起きたということに、どうしてもリアリティが感じられないのだった。


『雑司が谷の「通り悪魔」』

 「昔の人は乱心刃傷沙汰等の時は乱心妖怪みたいなものが通って人を選び、取りついて事件を起こさせたりすると考えたらしいの。その名が「通り悪魔」。----「私のとこに来たのはその変種なのよ。乱心しかけたわ」。」(Kindle版No.1689)

 友人と食事をしているとき、彼女が「結婚」妖怪の話を始める。人にとりついて乱心させ、「私、結婚するんだわ」と確信させてしまうという恐ろしい妖怪。「通り悪魔」の一種だと彼女は言うが……。

 笙野頼子さんの作品としては珍しく、オチのある怪談。『説教師カニバットと百人の危ない美女』に出てくるやつ(最低男と結婚させると脅しをかけてくる仲人妖怪)や『東京妖怪浮遊』に登場する「すらりんぴょん」(自分を既婚者だと思い込ませてしまう偽夫妖怪)を連想させる怪異が登場します。雑司ヶ谷に住む独身女性は大変そう。


『片付けない作家と西の天狗』

 「そもそも私は片付けられないのではなくて片付けないだけだった。だけ、という程の、片付けない理由を持っていたのである。(中略)さらっと流していれば無事に済むところでついつい言葉を使ったり感情を働かせたり出陣したりする。そうすると物事は厄介になり、事件が起こり、結局私生活は猫の世話のみになり、つまりは部屋も片付かなくなってしまうのだ。」(Kindle版No.1742、1784)

 純文学論争から派生した様々な面倒事のせいで、部屋がちっとも片付かない作家、八百木千本は、十数年ぶりに高尾山に登ったせいで、天狗にとりつかれてしまいます。『五十円食堂と黒い翼』や『金毘羅』に出てくるあの黒い翼の人々とは違う、白い翼の天狗。西の天狗。

 「何かあった時に少し現れて指導してくれる或いは励ましてくれる、黒い翼の人達はそういう感じだった。が西の天狗共は天狗と言っても存在意義自体が違う。人の体をのっとってやたら働かせるのだ。」(Kindle版No.2227)

 おかげで、片付けがはかどるはかどる。家中をどんどん片付けて掃除してしまう八百木。

 「片付けのうまく出来る秘訣というものがこの世にはあると思う。 第一の秘訣はまず純文学論争をしない事だ。(中略)秘密兵器にあたるものをひとつ書いておく。天狗に手伝って貰う事だ。権現社のある山からすーっとついてきてしまうような天狗に手伝って貰う。」(Kindle版No.2065、2068)

 というわけで、天狗にとりつかれ、色々なことに片を付けちゃう作品です。


『後書き モイラの事』

 「焼き場で待っている時に生まれて初めて、ひとりでいる事が苦痛だと思った。それまではどんな時でもひとりでいたかったからだ。(中略)後悔しようにも防ぎようもなかった。それ故に考える事がなくて悲しみだけが来る。」(Kindle版No.2440、2442)

 「本当は最近近くで取れるようになったモイラの美人写真を表紙にして、この本を出すつもりでいたのだった。何も知らずつかのまの幸福に奢り、自分は貧乏だが猫的には長者だとも思っていた。猫にだけはこんなにツキのある私を見てくれといわんばかりに、猫写真も沢山入れるつもりだった。」(Kindle版No.2471)

 愛猫モイラとの別れ、その悲嘆と苦しみをつづった文章。読者も深い悲しみに打たれます。


[収録作品]

『胸の上の前世』
『S倉極楽図書館』
『素数長歌と空』
『五十円食堂と黒い翼』
『箱のような道』
『猫々妄者と怪』
『越乃寒梅泥棒』
『雑司が谷の「通り悪魔」』
『片付けない作家と西の天狗』
『後書き モイラの事』


タグ:笙野頼子
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