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『まともな家の子供はいない』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「親はみんなおかしい。人間は家庭を持つとあんなふうに道理が通らなくなるものなのだろうか。家というものは、まともではいられなくなるほどのものなのだろうか。それとも単なる加齢による精神的な劣化現象なのだろうか」(単行本P.139)

 「気分屋で無気力な父親、そして、おそらくほとんど何も考えずに、その父親のご機嫌取りに興じる母親と、周りに合わせることだけはうまい妹、その三者と一日じゅう一緒にいなければならない。考えるだけで、その辺の壁に頭をぶつけたくなる」(単行本P.7)

 家族が堪らなくうざい中学生のセキコには、夏休みを過ごすための場所がない。14歳女子が鬱屈と怒りをぶちまける長編。単行本(筑摩書房)出版は、2011年8月です。

 夏休み。学校はなく、塾も休み。図書館の席は眠っているオヤジどもに占拠され、小遣いが少ないので喫茶店にも入れない。家には絶対いたくない。14歳のセキコは苛立っています。

 「働いてないんだよ。すぐにやめちゃうんだよ。職場の誰それがいやだとか、仕事のレベルが低いとかっていってね。母親はそれを咎めない。あたしが文句言っても、あんたには関係ないって言う。妹は見て見ぬふり。あたし以外の皆は仲いい。くそったれって思ってるのはあたし一人」(単行本p.139)

 もう体面をとりつくろっている場合じゃないはずなのに、仲良し家庭ごっこを続けている家族が嫌で嫌で、いらつく、むかつく、うざい、それで家にいられないセキコ。

 「母親は、夫と争って家の中に波風を立てるぐらいなら、自分や娘達の感情を押えつけるほうを選んでいるようだったし、父親は、母親のそういう事なかれ主義につけこんでいた。そして気まぐれに、家族サービスと称してまずい料理を作ったり、風呂を洗ったり、勝手な模様替えをしたりする」(単行本p.65)

 「父親はあの子供に似ていると思う。誰かの気を引くために部屋を散らかし、走り回り、絶え間なくいらつかせる言葉をひねり出しながら、始終媚びたような目で年かさの者たちを窺っていたあの子供」(単行本p.66)

 仕事もしないで一日中家の中でぶらぶらし、顔を合わせると、勉強してるか、ボーイフレンドは出来たか、などと絡んでくる超うざい父親から逃れるため、友達の家に行ったり、尾行ゴッコに付き合ってみたり、休学中の生徒に塾の宿題ノートを届けたり、何かと用事を作って、振り切るように毎日をしのいでいるセキコ。苦しい、つらい。

 「何か行動することによって、一日が少しでも速く過ぎ去ればいいと考えていた。家の外で動いていれば、家族と過ごす時間が減るのは確かなのだ。何かましなことをしたら、本当に少しは、少しはいいことがあるかもしれないとも思った」(単行本P.32)

 しかし、友達の家庭もどこか変。不和、不倫、離婚。いい大人が何でまともな家庭を作ることすら出来ないんだ。どこにいっても、むかつくことばかり。逃げ場はなく、逃げる自由もない、それが14歳。

 「あんな両親だとわかっていたら、わたしだって生まれてこなかった。どうして精子は、着床する子宮を選べないのか、そもそも、湧き出る陰嚢を選べないのか。生まれられたらそれでいいのか? 着床できたらそれでいいのか? その後の災難はどうでもいいのか? 浅ましい。本能なんて」(単行本p.98)

 「ふと、世の中に自分を受容するものが何もないような感覚に陥るが、それは気色悪い自己愛的な考えだと、頭を振ってやり過ごす」(単行本p.10)

 「自分はこんなことで自罰的になっているのに、あの父親にはそういう感情はないのか、そしてそれを許し続ける母親はなんなのか、さらにそんな状態を受容している妹はどういうつもりなんだ、と家族への怒りに収斂してゆく。きりがない」(単行本p.16)

 「頭を抱えて搔き毟りながら、セキコは、自分の胸の底に溜まっている汚い色の粘液のようなものの名前を探す。気分の悪いもの。しっくりこないもの。どこまでもこけにされていると感じるもの」(単行本p.126)

 読んでいる読者だって、昔のことを思い出して、頭を抱えて搔き毟りたくなります。あの、きりがない、思春期の鬱屈。家族うざい、学校むかつく、みんな死ね、こんな世界ありえない、ふざけてる。吐き出したくても、どうすればいいのか分からない怒り。すべてリアルに書かれています。でも、精子にまで八つ当たりするかー。

 「金を持っていない、金を稼いでいないということの無力感を覚える。自分は母親のことを、働かない夫を切るに切れず、崩れかけの家庭を家族愛という妄想で繋ぎとめている哀れな女だと馬鹿にしているけれども、それでも絶対的にあの人のほうが上なのだ、と思う」(単行本p.80)

 働いて家族の生活費を稼いでいる母親には決して敵わない。仕事をすることでしか自由は手に入れられない。男子が中二病的空想に逃げているころ、女子はもう生きるための覚悟を迫られています。津村さんが書いてきた仕事小説の原点がここにあるようにも思えます。

 最後にセキコは母親と正面衝突するのですが、やっぱり仕事して家計を支えている大人には歯が立たず、完敗を喫することに。

 頑張れセキコ。いつか自分で金を稼いで生活できるようになる。たとえパワハラで心を病み、過労で顔色が緑になっても、自由と居場所は手に入る。そんな日がやってくるから、とにかく今をしのいで、生きてゆけ。

 併録されている短編『サバイブ』は、不倫をしている男女それぞれの娘の視点から語られる話。親の不実に、若い男(の女性に対する失礼きわまりない態度)に、怒りと屈託をつのらせる二人。

 「自分の中に溜め込まれていた悪意に、いつみは驚いた。それが、激しい感情の爆発ではなく、ほとんど垂れ流すような緩やかさで発露したことにも、いつみは自分でぞっとした」(単行本p.212)

 「長くは続かない。 沙和子は、顔を空に向けて、陽の眩しさを厭うように目をぎゅっとつむった。 いつかもう少しましになる日が来る」(単行本p.220)

 それぞれにやり場のない感情を持て余す、年齢の異なる二人の女性。怒りをぶちまけてしまう中学生のいつみ、屈託を抱えたまま先に進む覚悟を固める大人の沙和子。その心情が細やかに書かれ、最後に二人が出会う一瞬に向けて進んでゆく感動作です。


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『絵でわかるロボットのしくみ』(瀬戸文美:著、平田泰久:監修、村山宇希:イラスト) [読書(サイエンス)]

 「ロボット工学の教科書を開いてみると、その多くが座標系の定義や座標変換、運動学など三角関数を含んだベクトル・行列演算に多くのページを割いています。(中略)一方で、ロボットの工学的な側面を一切扱わず、写真を列挙して紹介するだけにとどまっている「ロボット工学の入門書」も数多く見受けられます。(中略)ロボット工学に関する書籍は2極化していて、その間には大きなギャップが存在しています」(「監修にあたって」より)

 座標系や行列演算が乱舞する専門色の強い本でもなく、かといってカタログのような娯楽本でもなく、イラストを多用しながらロボットの工学的側面を「何となく」理解させてくれるロボット工学入門書。単行本(講談社)出版は、2014年1月です。

 私事で恐縮ですが、私は大学の工学部で電子工学を専攻した者なので、機械工学の知人からはよく「半田ごてより重いものを持ったことがない連中」などと揶揄されたものです。その度に、悔しい思いと共に、ある種の羨望も感じました。

 電子やら情報やらにはどこか軽薄なイメージがあり、やっぱり工学部生なら確固とした重量を持った機械、ガシャンガシャンと重々しい音をたてたり、出来ればシューッと何やら噴き出したり、機関と動力伝達系と駆動系を持っていたり、そういう存在を創り出してこそ、というような気分が、確かにありました。要するに大学生になっても精神的にはガキだったということでしょう。

 そういうわけで、特にロボット工学にはずっと憧れていたのです。今でも、ロボコン大会の番組は熱心に観てますし、大型書店で自然科学のコーナーに行ったときは、ロボティクスの入門書など探して、ついつい立ち読みしてしまいます。

 しかし、ロボットの工学的側面の基本を分かりやすく解説してくれる本というのは、これが意外なことに、なかなかありません。本書の「はじめに」で、「ロボット工学に関する書籍は2極化している」と指摘されているのを読んで、大きく頷いたものです。

 前置きが長くなりましたが、本書は、まさにロボット工学の基本を視覚的に分かりやすく解説してくれる一冊です。専門的すぎず、しかし表面的ではない解説。数式は登場せず、すべての項目はイラストで解説されています。

 様々な、完成品としてのロボットを紹介するのではなく、「移動」「アクチュエータ」「センサ」など構成要素に分解した上で、それぞれの構成要素の基本的な考え方を解説する、というのも素晴らしい。

 全体は五つの章に分かれています。

 まず「第1章 ロボットとは」は短い導入で、既に私たちの身近にある機械の多くが定義上ロボットであることを指摘します。

 「第2章 形で見るロボット」では、ロボットの形について解説されます。まずは移動形態から。

 二脚、四脚、六脚、車輪、全方向移動車輪、クローラ、脚と車輪の組み合わせ、さらには多脚型や蛇型、ヘリ型、はばたき型、潜水など、「ロボットを移動させる」ために工夫されてきた様々な移動方式が写真とイラストで紹介されます。

 「ロボットを作る際には、そのロボットを動かす環境やロボットに行わせたい作業に応じて、どの移動形態を用いるかを決める必要があります。また、身の周りにある移動する機械や動物・生物が、どうしてその移動形態を用いているのか、理由を考えてみるのも面白いかもしれません」(単行本p.40)

 続いて、シリアルリンク、パラレルリンク、双腕など、マニピュレータ(アーム)の解説。グリッパ、なじみハンド、三本指、多指、といった具合にエンドエフェクタ(ハンド)の解説、と続きます。それらを駆動する際に使われる数学についても、ほんの少しだけ、イメージを説明してくれます。

 「「サイン・コサイン・タンジェントとか、ベクトルや行列の掛け算とか、逆行列を求めるとか、社会の何に役立つんだよ!!」と投げ出したくなったときは、どうかマニピュレータのことを思い出してあげてください」(単行本p.56)

 「第3章 ロボットの中身」では、まずは各種センサの原理が解説されます。ポジションメータ、エンコーダ、傾斜角センサ、加速度センサ、ジャイロセンサ、ソナー、赤外線測距センサ、レーザレンジファインダ、ひずみゲージ、圧電素子、6軸力覚センサ、ビジョンセンサ、ステレオビジョン、など。

 続いて、アクチュエーター(駆動系)の解説。電磁モータ、空気圧アクチュエータ、圧電アクチュエータ、形状記憶合金、など。

 そして、それらを駆使してロボットを制御するコンピュータのアルゴリズムの話へと進んでゆきます。

 「第4章 いろいろなロボット」では、それまでに解説してきた様々な部品を組み合わせて、どのような目的を達成するロボットを作るのか、という話題になります。

 人間を支援する装着型ロボット、電動アシスト、多目的生活支援ロボット、低侵襲手術支援ロボット、癒しロボット、レスキューロボット、宇宙開発ロボット、さらにはマイクロロボットやナノロボット、そして研究のために使われる生物模倣ロボットなど。

 よくある「最新ロボット紹介カタログ」的な内容に見えますが、第2章と第3章に目を通してから読むと、この環境でこういう目的を達成するために、あのパーツとこの方式を組み合わせたのかー、という具合に、ロボット設計の基本方針が「何となく」理解できたような気になるところが嬉しい。

 「第5章 ロボットのこれまでとこれから」では、ロボット工学の歴史から、今後の活躍が期待される分野を概観します。

 さて、本書はタイトルに「絵でわかる」とある通り、豊富なイラストで解説されているわけですが、ではここで、これまであえて伏せていた本書最大の特徴を申し上げることにしましょう。それは、全てのイラストが「猫」だということ。

 ロボットはすべて猫型です。部品は猫の集団です。解説者も、コメンターも、みんな猫です。なぜか。それは著者のリクエストなのだそうです。

 「イラストレータの村山宇希さんは「イラストを眺めただけでも何となくロボットがわかった気になるように」「ネコ好きだから全部ネコにしたい」という私の無茶な希望に応えて、もはや何匹登場したかもわからないほど大量のネコイラストを(しかもカラーで!)描いてくださいました。描いていただいたイラストを確認するたび、その可愛らしさに感激しておりました」(単行本p.146)

 いいのかそれで。

 というわけで、「眺めただけでも何となくロボットがわかった気になる」可愛い猫イラスト満載の、形から入るロボット工学入門書。ロボットに興味がある方、その工学的な基礎を学ぶのにちょうどいい一冊。本書を読んだ後でロボットを見ると、その背後にある「設計の基本的な考え方」が何となく解るようになります。

 「自分では何も考えず、いわれたことだけを黙々とやることを「ロボットのようだ」といったりもします。しかし、本節で見てきたように実際のロボットは、いろいろなことを考えなければ動くことすらままならないのです」(単行本p.111)

 もしかしたら、ロボットの中には猫がいっぱい詰まっていて、彼らが一所懸命に動かしているんだ、と誤解してしまうかも知れませんが、それはそれでいいなあと思う。


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『未闘病記 ----膠原病、「混合性結合組織病」の 〈後編〉』(笙野頼子)(「群像」2014年5月号掲載) [読書(小説・詩)]

 「なんだろうこれ、今まで欲しかったものの多くを手にいれているよ。ねえ書斎の猫神様、荒神様! たかがこんな事で? 私は満足してる」(群像2014年5月号p.137)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第85回。

 膠原病、混合性結合組織病MCTDだと診断されたものの、治療により次第に軽減してゆく痛み、強張り、脱力。いつどうなるか分からなくても、今このときの喜びと幸福をかみしめる。「群像」2014年5月号に掲載された、『未闘病記』その後篇です。

 心配された肺の合併症などもなく、治療が功を奏して回復してゆく著者。前篇を読んで心配していた読者も、ほっとします。完治は不可能だし、予後も分からないけれども、とりあえず助かった。本当に良かった。

 後篇で書かれるのは、症状が軽減することで、生きられること、そして今まで出来なかったことが出来るようになっていく、その喜びと幸福。

 「こんな種類の喜びを健康な人は理解するだろうか。でも難病と判ってたった一ヶ月程でまさに納得した。というか今まで自分が書いてきた幸福の一面はまさにこれだ。(中略)痛くなく、安全で、制限はあっても一応無事、それはありがたいだけではない、生きている事の本質的な良さがむき出しになっていて、なおかつ、遠い不安や遮る虚飾のない穏やかな喜びに満ちて受け止められる」(群像2014年5月号p.113)

 「「なんかさー、動作って、楽しいね」、って不可解な発言かな? この意味ご理解頂けるでしょうか。(中略)つまりそんな無尽蔵の時間をざぶざぶと泳いで、体を「端正に(よく言うよ)」動かす調和的喜びに浸りながら、細かくきっちりと何かを進行するなんて「こんなの、初めて」」(群像2014年5月号p.123)

 今まで出来なかったことが出来るようになった喜びが、ほとんど有頂天な感じで書かれています。洗濯、料理、そして外出。

 「乗り物ってすごいね、あり得ない動きで私は中空を滑っている。なのに足はバスの中で丸まっている。この景色が好きでバスが好きだ自分の家も猫もそしてしゃあしゃあというけれど自分で出した本も」(群像2014年5月号p.140)

 「あれ「ひょうすべシリーズ」の書き出し頭に湧いてきたよ、そうそう、メモとっとかないとだってこの病気の記録をするべき私」(群像2014年5月号p.127)

 「ああそうか健康な人って気が散るものなんだ、だから小説なんか書こうとしないんだ」(群像2014年5月号p.120)

 ときどき思わず笑ってしまうような表現もまじえつつ、「健康」な状態というのがどんな感じであるかはじめて分かってきた感動が率直に語られます。その祝福に読者も温かい喜びに満たされて。

 いや、すこしだけ後ろめたい感じ、というか、自分はもとより健康なのになんでこんなに不満を溜めて生きているんだろう、その幸福に気づけなかったんだろう、という気持ちにもなります。

 そして、「死な、ない」、「なんでも/できる」うちに、教え子たちと一緒に海芝浦駅に出かける著者。あの、海芝浦駅で、海を見るのです。

 「海に出掛けます/そこは異界です」(群像2014年5月号p.133)

 「でも私、まさかこれが最後の海? 朝熊山から見た海、揺れる真珠筏、鳥羽や志摩のホテルの海、熊野の遠足の、あの時、石の浜を歩いて眠気に襲われた」(群像2014年5月号p.133)

 「モノレールに乗りたかった。毎日でも乗ってみたかった。それはユーカリが丘の山万鉄道の遊園地のように可愛い車体のもの」(群像2014年5月号p.139)

 これまでの作品を読んできた読者なら、こう、色々とフラッシュバックして鼻の奥につーんと来るようなことがさりげなく書かれていて、ずるいと思う。

 余談ですが、病気のことを知らされた論敵から「難病までも論争に利用するのではないかと思われてびびられている」(群像2014年5月号p.128)とのことで、卑しさにも限度というものがあってほしいと。

 そして、自分の人生の振り返りと受容、そして誇り高き肯定。

 「精妙な、そう決して微妙ではなく精妙な幸福、そんな幸福の中にいる状況が生の不全感から生まれて来るケース。逃れようもない不全感の中の自由、そんな時間を拾って私は生きてきた。無論、病の無い状態が良いに決まっている。しかしこの生は私の生で今までの過去にだって取り替えは利かない。自分の体はまさに自分の所有であり「関係性だけの存在」ならばこんな身体史にはなり得ないのである」(群像2014年5月号p.136)

 「自分には世の中の多くのシステムが輪郭に見えた、結果その中に入っていけなかった。でもまあ今だって前からだってその傾向はあったね。でも虚しくはない。そこでフル稼働している人々が羨ましいわけでもない。だって、それらのシステムの多くを別の角度から見る仕事を、私は今までしてきたから、ずーっと文学をやって来たからね」(群像2014年5月号p.128)

 「なんで日光が駄目で、自分自身にかぶれるかのように生きてきたのが判った今、だけど結局判らぬままに歩いて来たこの道こそ、私の文学じゃないか」(群像2014年5月号p.137)

 もちろん、これまでの作品に書かれてきた、生きにくさ、の背後に膠原病があったとしても、そのことを知らずに書いてきたとしても、それもこれも全部ひっくるめて、替えはない自分だけの人生、ただ一つ他にはない文学。

 というわけで、「直接描写のまじものの私小説」(群像2014年4月号p.82)として生身の自分を出して、その幸福を語る作品。近作では群を抜いて読みやすく、分かりやすい作品です。これまで笙野頼子さんの作品を読んだことがない方にも、あるいは昔はよく読んでたけどこのところご無沙汰でという読者にも、もちろん全部読んでるコアな愛読者にも、安心してお勧めできます。単行本化が待ち遠しい限り。

 さて、この後どのように書いてゆくのか気になりますが、静かに待ちたいと思います。でも無茶はしないで。

 「それでもまた金毘羅に戻っていくつもりでいる」(群像2014年5月号p.140)

 「で? 私小説ってなんだろうとかいちいち言わない、全部そうだよ、ふん、とか私の存在自体が私小説だものとかうそぶいておいて、私の生それ自体も持病なのかもねっ、て」(群像2014年5月号p.140)


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『ワーカーズ・ダイジェスト』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「なんか、結局は社蓄やねんけど、ときどきはうまいこと気遣われて、あーまあいいかって思ってまう。二十代やったらそれでも、この会社でええんかとか、ステップアップしたいとかいろいろ考えたんやけど、今はもう出勤するだけで精一杯やわ」(単行本p.46)

 いろんな意味で疲れている32歳の仕事と生活を描いた長編。単行本(集英社)出版は、2011年3月です。

 「後ろ暗いことはない。何も悪いことはしていない。白状することは何もない。それでどうしてこんなに立っているのがやっとなんだ」(単行本p.14)

 「やりたいことが常に一つだけあって、それは家に帰って寝ることだった」(単行本p.96)

 仕事を覚えて、生活リズムもつかんで、部下もついて、でも面倒を押し付けられることも増えて、何かと疲労がたまってゆく。そんな32歳の一年間の生活がリアルに書かれます。

 「夜中の三時まで起きて仕事をして、それから少し寝て起きてまた別の仕事に出かけるような生活をしていたら、顔が緑色になってくるのだろうか」(単行本p.10)

「電車を降り、乗り換えの駅のホームのベンチで、何とはなしに頭を抱えて、また電車に乗る。晩飯のことばかり考えている。作るか食って帰るかいっそ食わないか。鬱になりそうだ。この程度のことで」(単行本p.115)

 デザイン事務所に勤務するかたわら個人的にライター仕事も引き受けているため猛烈に忙しい奈加子。建築会社に勤めており、会社都合で何度も転勤させられる重信。たまたま仕事の打ち合わせで出会った二人は、共にもうすぐ32歳になろうとしています。互いに対する初対面の印象は。

 「疲れている様子だった。いよいよ、三十年以上細かく積もった業を洗い流すのが難しくなってきていることを知っているような。でもそのことに、必要以上に足掻いている様子もないような」(単行本p.109)

 「すぐに同い年だろうということがわかった。なんというか、自分と同じぐらい疲労が蓄積していて、同じぐらいに賢くはなっているだろうということが、一目見てわかったのだ」(単行本p.97)

 互いに好意、というより深いところに疲れが溜まってきている者同士の共感を覚えた二人。しかし、ありがちなロマンス小説のように劇的な再会をするといったこともなく、二人はそれぞれに自分の仕事に忙殺されることに。どちらも嫌な相手に絡まれて消耗戦。

 「十二歳年上の篠塚氏は、パンフレットを作る作業のみならず、あらゆる面で奈加子に相手をさせようとしていたということに、仕事の終盤の今になって気が付く。ただのセクハラなら、まだ対処のしようもあるのだが、篠塚氏がちらつかせるのは、敬意に対する欲望だった」(単行本p.103)

 「会社にも、東京の本社にもクレームを入れて重信を煩わせた、地元の同じ学年だったらしい男。しつこい男。「意味がわからない」と言う男。(中略)自分が理解しようとしていないことを逆手にとって相手を恫喝するような人間の性格が、クリアなものであるわけがない」(単行本p.131)

 どこにでもいるなあ。ああいう手合い。

 交互に語られる二人の事情。読者も、自らの体験と重ねて、それぞれに共感を覚えます。仕事はつらい。真剣につらい。そんな困憊の日々を何とか乗り切って、とりあえず33歳になった二人。それぞれに一年を振り返って、それでも自分の人生を受け入れようとします。

 「でももういいや、と奈加子は思う。もういいや、元に戻らなくても。何でもいいや。 去年と比べて、ますます体は重くなったように感じるけれども、少しだけ落ち着いたような感触もある。良くもないけど、悪くもない。特に幸せではないけど、不幸でもない」(単行本p.147)

 「苦情を言われたり、おとなしくしているとどんどん仕事を押し付けられたり、何より毎朝の出勤が辛いけれど、けどそんなに悪くもないと思う。好きなものが食えて、そこそこいい思い出もいくつかあって、三が日に会う予定の友達もいる。そんなもの子供の時とほとんど変わらないじゃないか、と言われたらそうなのだが、それの何が悪いのだろう」(単行本p.143)

 33歳になった二人は再会しますが、何らかの発展を予感させつつも、そこで小説は終わります。30代前半の働きぶりを淡々と描いた話ですが、細かい描写に、その切実さに、強く惹きつけられる作品です。

 併録されている短篇『オノウエさんの不在』は、オノウエさんという有能な先輩が会社から追い出されそうになっているらしい、という噂を聞きつけた後輩三人がやきもきする話。

 「新人が仕事を覚えて自分たちを脅かさないようにわざといいかげんに仕事を教えるというような醜態は晒さず、きわめて根気よく自分に付き合ってくれた。そういう在り方のせいか、学閥外でありながら支所の技術課長になるなど、まずまずの出世をしており、そのことを考えるだけで、今を堪える余力が湧いたような気がした」(単行本p.160)

 そんな仕事の出来るオノウエ先輩が、年休を取りすぎだから、みたいな言いがかりのような理由で、仕事を干されているというのです。辞職に追い込むために。

 そんな理不尽がまかり通るのか。ある者は憤慨を、ある者は希望を、またある者は諦念を持ちます。それぞれ切ないくらい真剣に。会社や仕事に対する、ぎりぎり最後の信頼を裏切らないでほしい、という気持ち。でも駄目だろうな、という諦めの気持ち。無力感。

 「「でもねおれは信じてるよ。オノウエさんの今までの働きがきちんと評価されて、会社のそういう不満が子供じみててばかみたいだって見直されること」 それはないだろう、とサカマキは言いかけてやめた。わざわざ口にすることはないと思ったのだ。こんなところで利口ぶってどうなる。シカタの希望はおそらく間違っている。けれどその希望の反対を行こうとする事実こそが、本当は間違っている」(単行本p.186)

 「なんていうか、お祈りをするような感じだった。そうしてれば、オノウエさんがそこにいてくれるんだと」(単行本p.192)

 真面目に誠実に仕事をしている者が、どうか報われてほしい。矜持とか情熱とかそういうものでさえなく、「敬虔さ」を強く感じさせる話です。思い起こせば、これまでの津村記久子さんの作品も、すべて「仕事に対する敬虔さ」のようなものを書いていたような気がしてきます。


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『現代詩文庫197 中本道代詩集』(中本道代) [読書(小説・詩)]

 「詩の一撃は、稲妻の一閃だと思ってきた。読み始め、読み進み、読み終わる、という時間的な経過の後でやっと了解されるものではないのではないか。稲妻に打たれる瞬間のためには読まなければならないとしても」(『詩の血』より)

 廃屋のなか、誰もいない場所、静かに漂っている終末の予感。おそろしさと懐かしさが同居する中本道代さんの詩集です。現代詩文庫版(思潮社)出版は、2012年8月。

 けっこう怖い作品が多くて、読んでいてぞわぞわする詩集です。例えば、こんな感じ。

 「眼球の動かない女が浮遊している/女はまた少し大きくなった/枯れ草にこもる光を/ふみちらしていく農夫/たちのぼる/堆肥のにおい/あたためられる/墓の中の骨/女のうたう単調な歌が/養豚場の動物たちを/しだいに/狂わせていく」(『春』より)

 「目がさめるとすぐに窓をのぞくのが習慣になった。このごろではもう私が起きるよほど前に夜は明けきっている。窓の外ではまたあれが増えている。私はそれを確認するために外を見る」(『緑』より)

 「窓の外ではまたあれが増えている。あれは全く音もたてずに毎日増えていく。あれの間には区別がある。色も形も少しずつ違っている。それでもあれはみな同じものだ。同質のもの、同一の欲望を持つものだ」(『緑』より)

 次第に大きくなってゆく眼球の動かない女。音もたてずに毎日増えていく、あれ。よく分からないけど、何だか無性にヤバい感じがします。何かが迫っている感じ。外では何か尋常でないことが進行しているようだ、という悪い予感。孤立しているという不安。

 では、家の中なら、あるいは都会なら、安心なのでしょうか。

 「階段のどのドアも閉ざされていて/内側に人の気配はしない。/それでも人はいるのかもしれない。/昼下がりにはセールスマンがやって来る。/土地のパンフレットや教育絵本 避妊具などをカバンに/ 入れて一戸一戸ブザーを鳴らしながら上がって行く。/夜やあけがたサイレンが鳴りわたり長く尾を引くとどこ/ かで火事だ。/ひっそりと救急車が来て止まりだれか連れ出して行くこ/ ともある。/何だったのかを後で告げられることはない。」(『階段』より)

 「出てもいいと言われたのだけど/四方の出口は足がすくむ高さにあった/中に引き返して階段を探しても/階段らしいものは混み入っていて/どうしても下りては行けない//黒いモーニングを着た男が/あちこちに現われたかと思うと消え/私は少しずつ遅れてしまう/彼の方からひどくいやな匂いが流れてくる」(『置きみやげ』より)

 「国立府中インター近く/中央自動車道の上から/ミヤコにのぼる月が見える/厚いスモッグのレンズを通して/ぼやけて赤く/ふくれ上がって浮かぶ//ミヤコの人々の頭の上に/八月の満月は夢のように停止する」(『Winding August』より)

 部屋の中でも、人が多く住んでいるミヤコでも、やはり何かヤバいことが進行中のようです。空には赤い偽月が出現、地には黒服を着た男たちが出没。たぶん、よくないことが起きています。「何だったのかを後で告げられることはない」という一節にぞっとします。

 では、人がいなければどうでしょうか。人間とは無関係に生きている自然の景観。それならば怖くないかというと。

 「水の中の長いひも//水の中でゆれる長いひも//水の中でゆれる長いひもの群れ//水の中でゆれる長い平たいひも///あれがきらいよ」(『生物』より)

 「ヒマラヤの湖に/小さな虫が棲んで/何も考えることなく/くるりくるりと回っているだろうか」(『高地の想像』より) 

 「山頂には七匹の猫が棲んでいました/七匹の猫はいずれも真黒か白と黒のまだらで/血族であり 彼らだけで棲んでいました//山のふもとには茶店があり/板戸は閉めてありました/茶店の中で電話が鳴りましたが/だれもおりませんでした/その山には人間はおりませんでした」(『滝のある山』より)

 誰もいない、見ていない光景が、想像のなかでどんどん嫌な予感を増していくような印象を受けます。なぜそう感じるのは分からないのですが。

 どの作品を読んでも、微妙な不安を覚えます。では、ホラーかというと、そういうわけでもありません。自分の想像力が手綱を外してゆきそうな不安。思い起こしてみれば、子供の頃はいつもそうでした。よく分からないことに触れるたび、想像力が暴走してゆきそうになる、あの感覚。どこか懐かしい印象を受けるのは、そのせいかも知れません。

 想像力、予感、懐かしさ、そして廃屋。最後に、それらの特徴がよく出た作品を引用しておきます。ラスト一行に持っていくまでの手際が素晴らしい。お気に入りです。

 「坂道を下りて行くとつきあたりに廃屋がある。/ここは一年前に来たときにも廃屋だった。/小さな破れ目のある板塀や立てたけてある二台の錆びきった自転車も一年前の状態と全く同じだ。/廃屋はもう変わりようがない」

 「平たい前庭には木はなく低い草がびっしりと繁って花もつけている。/どの窓や出入り口にも板を打ちつけ完全に閉ざされているために、私は内部を見たいという欲望を強く感じる。/ほの暗く、ほこりだらけの内部を廊下や浴室、手洗い、棚などの細部までも想像している。/小さな板壁の破れ目は内側では光線が金色の固い物質のように見えるだろう」

 「私はいなくなった子供を探してここまで来たのだが、ここにはだれの姿もなくて無声映画の中でのように草がもえさかっているだけだ。/私は引き返して坂道をのぼって行く。/もうこの世界のどこにも決して子供はいないような気がする」

(『廃屋』より)


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