SSブログ

『現代詩文庫197 中本道代詩集』(中本道代) [読書(小説・詩)]

 「詩の一撃は、稲妻の一閃だと思ってきた。読み始め、読み進み、読み終わる、という時間的な経過の後でやっと了解されるものではないのではないか。稲妻に打たれる瞬間のためには読まなければならないとしても」(『詩の血』より)

 廃屋のなか、誰もいない場所、静かに漂っている終末の予感。おそろしさと懐かしさが同居する中本道代さんの詩集です。現代詩文庫版(思潮社)出版は、2012年8月。

 けっこう怖い作品が多くて、読んでいてぞわぞわする詩集です。例えば、こんな感じ。

 「眼球の動かない女が浮遊している/女はまた少し大きくなった/枯れ草にこもる光を/ふみちらしていく農夫/たちのぼる/堆肥のにおい/あたためられる/墓の中の骨/女のうたう単調な歌が/養豚場の動物たちを/しだいに/狂わせていく」(『春』より)

 「目がさめるとすぐに窓をのぞくのが習慣になった。このごろではもう私が起きるよほど前に夜は明けきっている。窓の外ではまたあれが増えている。私はそれを確認するために外を見る」(『緑』より)

 「窓の外ではまたあれが増えている。あれは全く音もたてずに毎日増えていく。あれの間には区別がある。色も形も少しずつ違っている。それでもあれはみな同じものだ。同質のもの、同一の欲望を持つものだ」(『緑』より)

 次第に大きくなってゆく眼球の動かない女。音もたてずに毎日増えていく、あれ。よく分からないけど、何だか無性にヤバい感じがします。何かが迫っている感じ。外では何か尋常でないことが進行しているようだ、という悪い予感。孤立しているという不安。

 では、家の中なら、あるいは都会なら、安心なのでしょうか。

 「階段のどのドアも閉ざされていて/内側に人の気配はしない。/それでも人はいるのかもしれない。/昼下がりにはセールスマンがやって来る。/土地のパンフレットや教育絵本 避妊具などをカバンに/ 入れて一戸一戸ブザーを鳴らしながら上がって行く。/夜やあけがたサイレンが鳴りわたり長く尾を引くとどこ/ かで火事だ。/ひっそりと救急車が来て止まりだれか連れ出して行くこ/ ともある。/何だったのかを後で告げられることはない。」(『階段』より)

 「出てもいいと言われたのだけど/四方の出口は足がすくむ高さにあった/中に引き返して階段を探しても/階段らしいものは混み入っていて/どうしても下りては行けない//黒いモーニングを着た男が/あちこちに現われたかと思うと消え/私は少しずつ遅れてしまう/彼の方からひどくいやな匂いが流れてくる」(『置きみやげ』より)

 「国立府中インター近く/中央自動車道の上から/ミヤコにのぼる月が見える/厚いスモッグのレンズを通して/ぼやけて赤く/ふくれ上がって浮かぶ//ミヤコの人々の頭の上に/八月の満月は夢のように停止する」(『Winding August』より)

 部屋の中でも、人が多く住んでいるミヤコでも、やはり何かヤバいことが進行中のようです。空には赤い偽月が出現、地には黒服を着た男たちが出没。たぶん、よくないことが起きています。「何だったのかを後で告げられることはない」という一節にぞっとします。

 では、人がいなければどうでしょうか。人間とは無関係に生きている自然の景観。それならば怖くないかというと。

 「水の中の長いひも//水の中でゆれる長いひも//水の中でゆれる長いひもの群れ//水の中でゆれる長い平たいひも///あれがきらいよ」(『生物』より)

 「ヒマラヤの湖に/小さな虫が棲んで/何も考えることなく/くるりくるりと回っているだろうか」(『高地の想像』より) 

 「山頂には七匹の猫が棲んでいました/七匹の猫はいずれも真黒か白と黒のまだらで/血族であり 彼らだけで棲んでいました//山のふもとには茶店があり/板戸は閉めてありました/茶店の中で電話が鳴りましたが/だれもおりませんでした/その山には人間はおりませんでした」(『滝のある山』より)

 誰もいない、見ていない光景が、想像のなかでどんどん嫌な予感を増していくような印象を受けます。なぜそう感じるのは分からないのですが。

 どの作品を読んでも、微妙な不安を覚えます。では、ホラーかというと、そういうわけでもありません。自分の想像力が手綱を外してゆきそうな不安。思い起こしてみれば、子供の頃はいつもそうでした。よく分からないことに触れるたび、想像力が暴走してゆきそうになる、あの感覚。どこか懐かしい印象を受けるのは、そのせいかも知れません。

 想像力、予感、懐かしさ、そして廃屋。最後に、それらの特徴がよく出た作品を引用しておきます。ラスト一行に持っていくまでの手際が素晴らしい。お気に入りです。

 「坂道を下りて行くとつきあたりに廃屋がある。/ここは一年前に来たときにも廃屋だった。/小さな破れ目のある板塀や立てたけてある二台の錆びきった自転車も一年前の状態と全く同じだ。/廃屋はもう変わりようがない」

 「平たい前庭には木はなく低い草がびっしりと繁って花もつけている。/どの窓や出入り口にも板を打ちつけ完全に閉ざされているために、私は内部を見たいという欲望を強く感じる。/ほの暗く、ほこりだらけの内部を廊下や浴室、手洗い、棚などの細部までも想像している。/小さな板壁の破れ目は内側では光線が金色の固い物質のように見えるだろう」

 「私はいなくなった子供を探してここまで来たのだが、ここにはだれの姿もなくて無声映画の中でのように草がもえさかっているだけだ。/私は引き返して坂道をのぼって行く。/もうこの世界のどこにも決して子供はいないような気がする」

(『廃屋』より)


タグ:中本道代
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0