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『現代台湾鬼譚 海を渡った「学校の怪談」』(伊藤龍平、謝佳静) [読書(オカルト)]

 「台湾の学生たちも、日本の学生と同じように、不思議な話、恐い話を好む。そして彼ら彼女らが口にし、耳にする怪談には、数知れない鬼たちが登場する。それらの怪談は、筋だけを追うと現代日本の怪談と共通する部分が多いが、話し手・聞き手が抱く「鬼」イメージの相違という点に注目すると、また新たな問題点を提供できる」(単行本p.50)

 台湾の学校ではどのような怪談が語られているのか。トイレの花子さんは、コックリさんは、70年代オカルトは、そしてトンデモ本は。日本の怪談と似ているようで、やはり異なるところもある台湾の鬼譚に関する興味深いレポート。単行本(青弓社)出版は、2012年08月です。

 「本書の目的は、台湾の学校の怪談を紹介し、台湾の鬼伝承の現在を活写することにある。そうすることによって、日本の事例との共通点・相違点が明らかになってくるはずである」(単行本p.18)

 台南の学生たちに対する聞き取りを中心としたリサーチにより、現代台湾における「学校の怪談」を、特に対日比較という観点から明らかにしていく本です。ちなみに、中国語における「鬼」は、日本語における「幽霊」に近いイメージの言葉だということに留意して下さい。

 全体は8つの章に分かれています。

 最初の「第1章 陰陽眼の少女」は、台湾における怪談を理解するための基礎知識を紹介してくれます。例えば、「風水が悪い場所には鬼が出る」というのは、日本でいうと「心霊スポットには悪い霊が集まってくる」というような感じ。

 「陰陽眼」というのは「鬼を見る能力」のことで、日本ではまあ「霊能力」とか「霊視」とか呼ばれているもの。「八字」は道教の概念ですが、「八字が軽い(八字很軽)」と鬼を感じやすく、憑かれやすい、と云われており、日本だと「霊感体質」といったところでしょうか。鬼を見る力、というのと、鬼を感じる力、というのは区別されています。

 著者の教え子で、「姉は陰陽眼、妹は八字很軽」なんていうケースもあったそうです。視てしまう姉、とり憑かれやすい妹。まるで『もっけ』(熊倉隆敏)のようで、何となく分かる気がします。

 「塾の帰りの夜道、いつものように公園を歩いていたところ、急に周囲の街灯が赤くなった。と、向こうから青いズボンに白い服の老人が歩いてくる。すれ違いざま、老人の体は林さんの肩をすり抜けた」(単行本p.35)

 「姉は無口な人で、鬼について多くを話さない。ただ、「あ、あの人、足がない」とか「手が半分しかない」などと、陰陽眼で視た鬼の姿を断片的に口にする」(単行本p.39)

 「第一寮には「並行世界(パラレル・ワールド)」になっている部屋があるという。同じ時間、同じ部屋に二人でいても、互いの存在が見えないそうだ」(単行本p.27)

 台湾では、少なくとも台南では、鬼や奇現象との遭遇はそれほど珍しいものではなく、また非常に現実的なものだと考えられているようです。

 「台湾の「鬼」と日本の「幽霊」の相違点は、何よりも話し手・聞き手が抱くリアリティの度合いなのではないか(中略)台湾の怪談について考える際、鬼が生々しい現実感をもった存在とみなされていることは忘れないでおきたい」(単行本p.51)

 「第2章 「鬼」の絵を描いてみてください」で扱われるのは、学生たちに絵を描いてもらうことで、「鬼」の視覚的イメージ、「鬼」を特徴づける記号について探ろうという研究です。

 「整理すると、「細身の女性」で「長い黒髪」「足元が不明瞭」、そして「白い服を着ている」----これが平均的な台湾の鬼の姿である。これらの記号は、日本の幽霊にも共通するものである。一方、「長い舌」「充血して飛び出した眼」などの記号は、日本の幽霊にはあまり見られない。同じく「赤い服」という記号も、日本の幽霊にはあまり聞かない」(単行本p.60)

 鬼と幽霊のイメージ、似ているようで微妙に違いがあるようです。

 以上を基礎知識として、「第3章 学校に棲む鬼たち」では、いよいよ学校の怪談が語られます。

 「東光小学校(台南市)には「七不思議」があり、そのうちのひとつが「トイレに出る女の鬼」だという。この女鬼の名前が「花子」で、林さんも「トイレには花子がいて……」と話していた」(単行本p.80)

 他にも「ひとりでに鳴りだすピアノ」(単行本p.81)とか、学校の「七不思議」の共通性には驚かされます。しかし、同じだ、同じだ、と油断してはいけません。

 「ある女の子がトイレに行ったときに、もともと開かないトイレのドアが突然、ドンと開いた。女の子が入ると、ごみ箱のなかに血まみれの赤ちゃんの頭があって、「ママー!」と叫んだ」(単行本p.86)

 「ある人が夜中に学校へ行った。翌日、その人は死体で見つかった。孫文の像の手で心臓を取り出されたのだそうだ」(単行本p.96)

 「揺さぶられる感じがしたから、誰かがいたずらをしていると思ってしゃがんで見たら、鎧を着た日本人の鬼がいる。その後ろに中国人の警察がいて、鬼を護送している。そのとき、ちょうど生徒はその日本人の鬼と目があって、驚いて叫んで机の上に飛び上がった。そして、その中国の警察が日本人の鬼を窓の外に護送して行くのを見た」(単行本p.121)

 日本では、せいぜい誰もいないトイレから返事がしたり、校庭にある像が夜中に動いたりするくらいなのに、台湾だとこういうことに。最後の話など、台湾の過酷な近現代史が露骨に反映されていて、ちょっと気が滅入ります。

 「第4章 鬼譚の背後にあるもの」から「第7章 植民地統治と軍人鬼譚」までは、台湾における怪談について民俗学的に考察してゆきます。道教の影響、御祓い、キョンシー、林投姐(リントウジェ)、こっくりさん、軍人怪談、などが話題として登場します。

 「第8章 海を渡った「オカルト」と「妖怪」」では、日本の大衆文化、特に「オカルトブーム」がどのように台湾に影響したのかが紹介されます。

 「超能力であり、宇宙人・UFOであり、未確認動物であり、超古代文明であり、異次元空間であり、ノストラダムスの大予言だった。それら1970年代のオカルト伝承は『ドラえもん』とともに海を渡っていったのである。なかんずく、アジア諸国の子どもたちにあたえた影響は大きかった」(単行本p.220)

 「台湾での「妖怪」の浸透度を端的に表しているのが、近年、南投県(中部に位置)に開園した「渓頭妖怪村」である。要するに「妖怪」のテーマパークなのだが、巨大な鼻高天狗のモニュメントに赤い鳥居、日本の古民家を模した店が建ち並ぶさまは、文化資源としての「日本」イメージの一角を「妖怪」が占めてきているのを示している」(単行本p.229)

 さらに、台湾におけるオカルト本事情などの話題に進むのですが、なぜかトンデモ本について思い入れがあるらしく、それまで学術的に冷静に記述していたトーンが急に変わるのがおかしい。

 「トンデモ本のトンデモ本たる条件は、書いている本人に悪意がなく、かつ大真面目だという点に尽きる。トンデモ本の著者たちは利害損得を勘定に入れず、ひたすらにロマンを追い求め、少年のような好奇心に突き動かされて(いろんな意味で)遠くへ行ってしまった人たちである」(単行本p.235)

 「トンデモ本の書き手は、畏敬の念を込めて「トンデモさん」と呼ばれる。トンデモ本は確信犯的に書けるものではない。真のトンデモさんは、当人が真剣であればあるほどトンデモの世界に陥っていく。ある種のセンスといっていい」(単行本p.237)

 なぜ、そこまで熱く語るのかよく分かりませんが、とにかく台湾でトンデモ本が生まれていることが嬉しくてたまらない様子です。

 「つまるところ、トンデモ本は、周囲に認知されることによってトンデモ本となる。(中略)オカルト伝承の多くがそうであるように、トンデモ本もまた時代の産物なのである。先に「台湾にトンデモ本が生まれたのは偶然ではない」と書いたのは、そういう理由である」(単行本p.236)

 「台湾の出版界では、すでにオカルトライターが一定の位置を占めるようになっている。(中略)彼らの書いたオカルト本を読んだ世代がまた、オカルトについて語るようになる。そのなかには、オカルトを「伝承」の視点から論じる書き手も出てくるかもしれない。その視点が生まれたら、台湾にも「と学会」的な組織ができる日も近い」(単行本p.239)

 台湾のトンデモ本は、本書で紹介されている限りでは、「UMAとは、地球に飛来した宇宙人が実験的に作って、失敗した生物である」(単行本p.234)と主張するような、トンデモ慣れした日本人から見ると、素朴というか基本というか、第一世代トンデモという感じですが、これからの発展に期待したいと思います。

 というわけで、学校の怪談を中心に、伝統的な怪異譚から都市伝説、通俗オカルトに至るまで、台湾で語られている様々な鬼譚とその背景について分かりやすく紹介してくれる楽しい一冊。日本のそれと似ていて、でも決定的な相違点もある。その距離感も面白いし、その背後にある歴史の違い、社会環境の違い、道教と神道の違い、など興味深い論点も多数含まれ、読んで色々と参考になります。


タグ:台湾
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