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『ガーメント』(三島浩司) [読書(SF)]

 「タイムパラドックスについては、いままでにだれも考えつかなかったようなからくりがあるんだよ、きっと」(単行本p.54)

 戦国時代へとタイムスリップさせられた主人公は、同じ境遇の仲間たちと力を合わせて歴史を変えようとする。タイムパラドックスを引き起こすことでしか現代に戻れないというのだが・・・。『ダイナミックフィギュア』で巨大ロボットSFに新風を吹き込んだ著者が、タイムトラベルSFに持ち込んだ新機軸とは。単行本(角川書店)出版は、2013年05月です。

 さえない大学生である主人公は、あるとき大規模な時間停止現象に巻き込まれ、空中に開いた穴から美少女が落ちてくるのを目撃する。なりゆきで同居することになった彼女は、明らかにこの時代の人ではなかった。

 とまあ、「空から美少女が降ってきた」方式で始まります。ありがちな導入部だなあと思っていると、彼女は「決して扉を開かないように」と言い残して物置に閉じこもってしまう。中から響くのは、機織りの音。

 そ、そう来るか。

 もちろん物語の鉄則に従って扉を開ける主人公。その途端、彼は戦国時代へとタイムスリップしてしまうのであった。

 同じようにタイムスリップしてきた仲間と合流し、何とか現代へ戻ろうと試みる主人公。そのためには、タイムパラドックスを引き起こす必要があるというのだ。

 「ボクはいろいろ考えたんだ。ダッシュはなんでボクたちをタイムスリップさせるのかって。歴史を変えるほどのことをしないと現代に帰れない。それまでは帰ってくるな。つまり歴史を変えろっていってるわけだ」(単行本p.130)

 彼らには身に危険が迫ると自動装着される機動装甲「ヌキヒ」が与えられているが、歴史に大きく影響を与えるような重要人物にも「史実の壁」と呼ばれるバリアが張られている。このバリアを突破しなければ歴史を変えることは出来ないのだ。

 主人公たちは「信長討つべし」、「むしろ今のうちに家康殺っちゃおう」といった緻密な計画のもとに合戦に参加するが、何しろ倒さなければならない相手は、「ガトリング砲三体の一斉掃射で武田騎馬隊を薙ぎ払う信長機銃兵」やら、「巨大猿化して城の上に立ちはだかり、飛来するミサイルをウッホウッホと片手でばんばん叩き落とす秀吉」やら、何だか史実とはちょっと違う戦国武将たち。

 こうして、「身の丈10メートル近くに変身した柴田勝家とカプセル怪獣の激突」だとか、「無敵バリアを展開した信長水軍 vs 科学忍法“火の鳥”」みたいな戦国絵巻が展開することになるのですが、ここまでやっておいて「歴史を変えることの困難さ」を説かれても。

 戦国時代から現代に戻ると、こんどは美少女とのラブコメ生活に忙しい主人公。不思議なことに、どんなに歴史を変えても、戻ってくると現代には何の影響も現れていない。その背後には、驚くべきタイムパラドックスの秘密が隠されていたのだが・・・。

 さて、お待ちかね、タイムパラドックスの処理です。

 タイムトラベルSFでは、いわゆるタイムパラドックスに対して、おおよそ三つの解を用意しています。本当にパラドックスが起きてしまう、タイムトラベラーの行動はすべて歴史に折り込み済であり過去を変えることは出来ない、過去を変えるとそこから分岐したパラレルワールドが発生する、この三つです。

 ところが本作では、あるスケールの大きな設定を用いて、新しい解を作り出すことに成功しました。つまり、パラドックスは起こらず、実際に歴史を変えることが可能で、しかもパラレルワールドも時間線分岐もない、という解を。

 この設定にタイムトラベルをからめるアイデアはけっこう新鮮で、個人的にはちょっと類例を思い付きません。(しいて言うなら、ジョジョ第六部ラストとか割と近いかも)

 というわけで、タイムパラドックスに新機軸を持ち込んだ本格SFとして感心するもよし、時を越えた切ないラブストーリーに感動するもよし、若者たちが力を合わせて戦う戦隊ヒーローものとして盛り上がるもよし。文章や構成はけっこう癖が強く、独特のかったるさが感じられて個人的には苦手なのですが、前作『ダイナミックフィギュア』とテイストが似ているので、そちらが気に入った方なら本作も楽しめると思います。


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『短篇ベストコレクション 現代の小説2013』(日本文藝家協会、宮内悠介、三崎亜記) [読書(小説・詩)]

 2012年に小説誌に掲載された短篇から、日本文藝家協会が選んだ傑作を収録したアンソロジー。SFやホラーなどジャンル小説も含まれていますが、基本的には一般小説というか、いわゆる中間小説がメインとなっています。文庫本出版は2013年06月です。

 15篇の収録作のうち、個人的に気に入った作品について紹介します。


『四人組、大いに学習する』(高村薫)

 「ひまな人間が最先端のネット環境を手に入れたらどうなるかの見本のような事態になるのにも時間はかからず、(中略)思いつきの書き込みが本人たちの与り知らないところで増殖してゆくのだが、その拡散もスピードももはや年寄りの想像力を超えており、彼ら自身、自分たちのでっち上げた話の広がりに何度自分で驚くことになったか知れなかった」(文庫版p.229、230)

 老人しか残ってない過疎村に何の手違いか光ファイバーがひかれたことから始まる大騒動。エロサイトにはまる爺さん、韓流スターにはまる婆さん、デマ釣りステマ炎上たれ流し。でっち上げパワースポットがブームになり、高齢戦隊ジイサンジャーと暗黒星雲ミドリムシ怪人が戦い、狸や狐は美少女に化けてアイドルグループTNB48を結成。そもそも煩悩まみれの村は、さらに欲惚けフルスロットルに。

 過疎村落における高齢者のしたたかさ、えげつなさを書かせたら天下一品の著者によるネット文化狂騒曲。いやー、弾けてて、すごく面白かった。


『横領』(筒井康隆)

 「今回のこれはおれ、しかたなしに協力したけど、経験豊富なだけに、こちらへとばっちりがこないような工作は念を入れてやったつもりだ。だから絶対大丈夫なんだよ。君も安心していいんだよ」(文庫版p.269)

 会社で何やら大規模な横領に手を染めているらしい男、その上司、その愛人。高級レストランを舞台に三人が牽制しあっているとき、そこに警官が踏み込んでくる。無駄のない研ぎ澄まされたドラマと会話がわずかなページ数に結実しており、もう名人芸としかいいようのない短篇。


『妻の一割』(三崎亜記)

 「奥さんが発見されました」
 「どこで発見されたんですか?」
 「発見された場所です」
 「そうですか」(文庫版p.341)

 失くした妻が発見されたので引き取りにいったところ、謝礼として「妻の一割」が発見者に渡されたことを知る。戻ってきた「九割の妻」に、何とはなしに不満を感じる男。しかし、「残り一割」を返してもらったら、家庭は元通りになるのだろうか。不条理なことを大真面目に書いて読者を困惑させる、いかにもこの作者らしい作品。


『百匹目の火神』(宮内悠介)

 「なぜ猿たちはいっぺんに火を覚えたのか、さまざまな推測がなされた。 二度目の集団放火は、千キロ以上離れた九州と関東で同時に勃発した。このため、猿同士になんらかの交流があるのではなく、共時性(シンクロニシティ)の類いが働いているものと考えられた」(文庫版p.370)

 あるとき、一匹の猿が火をつけることを覚える。やがて放火猿はどんどん増えてゆき、百匹目の猿が火遊びを覚えた途端、全国で猿の集団が人家に火を放つ事件が続出する。パニックになった人類は右往左往して・・・。

 著名オカルトネタをベースに、ホラーあるいはパニック小説に見せかけた大真面目な文章でこっそり笑いをとるという、著者のユーモアセンスが大いに発揮された一篇。この作者の「お笑い短篇集」を出してほしいものです。


 他には、ありふれた恋愛小説だと思わせておいて、油断した読者をどんどん怪談に引きずり込んでゆく手際が見事な『岬へ』(小池真理子)、高校の吹奏楽部を舞台に、音楽に恋に全力で頑張るストレート青春小説『晴天のきらきら星』(関口尚)、幼い少年たちの友情をえがいた感動的な物語のはずなのにこの人が書くと何だか怖くて嫌な読後感が残るよ不思議だねえ『チョ松と散歩』(平山夢明)、などが気に入りました。


[収録作品]

『時の過ぎゆくままに』(井上荒野)
『私と踊って』(恩田陸)
『いつかの一歩』(角田光代)
『家族会議』(勝目梓)
『予告殺人』(草上仁)
『岬へ』(小池真理子)
『晴天のきらきら星』(関口尚)
『四人組、大いに学習する』(高村薫)
『横領』(筒井康隆)
『幸福駅二月一日』(原田マハ)
『チョ松と散歩』(平山夢明)
『妻の一割』(三崎亜記)
『百匹目の火神』(宮内悠介)
『イエスタデイズ』(村山由佳)
『最後のお便り』(森浩美)


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『日本SF短篇50 (3) 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー』 [読書(SF)]

 「日本SFを支えてきた専門誌の相次ぐ休刊は、日本SFが置かれた厳しい状況を表していた」(文庫版p.523、524)

 日本SF作家クラブ創立50周年記念として出版された日本短篇SFアンソロジー、その第3巻。文庫版(早川書房)出版は、2013年06月です。

 1年1作、各年を代表するSF短篇を選び、著者の重複なく、総計50著者による名作50作を収録する。日本SF作家クラブ創立50年周年記念のアンソロジーです。第3巻に収録されているのは、1983年から1992年までに発表された作品。

 個人的には、それまで無我夢中で「SFなら何でも」読んでいた時期が終わり、そろそろSFとの間に距離も感じるようになっていた時期に相当するため、今になって当時の作品を読み返すと、色々と複雑な思い出が去来する。そんな十篇です。


1983年
『交差点の恋人』(山田正紀)

 「“脳”(ブレイン)はたった一人しか生まれてこなかった。 “脳”は視床下部から航宙刺激ホルモン(FISH)なるものを分泌し、生理的に超光速航行を可能にしたのだ」(文庫版p.12)

 人類絶滅後の遠未来、“鏡人=狂人”(M・M)たちを乗せて背面世界を跳躍する宇宙船に事故が多発。原因を探るため、過去の人物の意識を吸い上げて電磁インパルスとして宇宙船を制御する“脳”へ送り込む計画が実施されたが・・・。

 「他人の夢(潜在意識)に入り込んでトラウマの原因を突き止めて治癒する」というありふれた話を、当時最新だった脳神経医学用語をまき散らしつつ、スタイリッシュにキメてみせた、神獣聖戦シリーズの一篇。今読んでも圧倒的に山田正紀。


1984年
『戦場の夜想曲(ノクターン)』(田中芳樹)

 「わが軍がトライテニア平原の会戦に最終的な勝利をおさめた夜、アルンヘイムは雨だった」(文庫版p.77)

 戦場で少佐が保護した一人の少女。彼女は意志の力だけで他人を殺せる超能力者だった。彼女の目的が復讐にあると気付いたとき、少佐がとった行動とは。銀英伝の著者による、いかにも大時代なドラマ。


1985年
『滅びの風』(栗本薫)

 「自分もあすからは、幽霊をみた人びとの一人となるのだと、リーは思った」(文庫版p.147)

 完璧に調整された未来都市。仕事も家族も充実した日々。それなのに、なぜか終わりのときが近づいているという予感がしてならない主人公。あの頃の「終末感」をストレートに表現した作品。実際に近づいていたのは、世界の終末やら人類滅亡やらといった大仰なものではなく、バブル経済の崩壊でしたが。


1986年
『火星甲殻団』(川又千秋)

 「奪われたものは、取りもどす----
  取りもどせないなら、それに見合う代価を支払わせる----
  それが、“赤い稲妻” ローテ・ブリッツの誓いだった」(文庫版p.183)

 人間と機械が共棲している未来の火星。野盗グループに相棒を殺された機械が復讐を誓う。だがそのためには、腕のたつ男が必要だった。新たな相棒となる戦士が。

 火星をフロンティアに見立てたSF西部劇。後に長編化される断片ですが、今読んでもカッコいい。本書に収録されたのはSFマガジン掲載版で、書籍収録はこれが初めてとのこと。


1987年
『見果てぬ風』(中井紀夫)

 「不意に、テンズリの胸の中に、風が吹き込んできた。世界の果てに吹く荒々しい風であった」(文庫版p.241)

 二枚の巨大な壁にはさまれた世界。一人の男が、その壁が果てるところに吹いているという風を求めて旅に出る。だが世界は彼が思っていたよりもはるかに異様な形をしていた。はたして世界の果てに辿り着くことは出来るのだろうか。

 無限の岩盤の中に穿たれた空間、断崖絶壁の壁面にぶら下がった世界、上下に果てしなく伸びている円柱内部など、奇妙な形状をした世界を舞台としたSFや幻想小説は数多いのですが、本作の渦巻き世界は単純ながらひときわ強い印象を残します。永遠に演奏が続く音楽を扱った『山の上の交響楽』と並ぶ著者の代表作。


1988年
『黄昏郷(おうごんきょう)』(野阿梓)

 「<現実>と拮抗しうる幻想の領土ユマジュニートは、たえざる<現実>の浸透と侵略にさらされてきました」(文庫版p.311)

 集合的無意識と現実との界面(インターフェイス)に立てられた虚構都市ユマジュニートに戦乱がせまる。虚数海、万物虹化(アイリセーション)、地獄の仏たち(ヘルズ・ブッダーズ)など独特の造語が乱舞する幻想ファンタジー。あの頃の少女漫画のイメージを文章に翻訳したような作品です。


1989年
『引綱軽便鉄道』(椎名誠)

 「えー、十三時七分発の地摺り谷経由逆撫鉱泉行きは間もなく出発します。えー、この列車に乗り遅れますと、四日間は後続便がありませんので、どうぞお乗り遅れのありませんようご注意下さい」(文庫版p.318)

 何やら大異変があって人口が激減したらしい近未来。ローカル線の列車に乗った主人公は、とてつもなく変容した自然や恐ろしい幻覚を目撃する。だが、それも田舎ではいつものことだった。

 『アド・バード』や『武装島田倉庫』といった、詳しく説明されないものの何かの異変で自然界が大きく変容している奇怪な世界、通称「シーナ・ワールド」に属する短篇。幻覚シーンの迫力と旅のリアリティが素晴らしい。個人的に好み。


1990年
『ゆっくりと南へ』(草上仁)

 「スロウリイは確かに動く。しかし、ひと月にわずか一センチかそこら、南のほうに這い進むからと言って、それを『動物』と呼ぶことができるだろうか?」(文庫版p.350)

 人間が世代交代している間にも、ゆっくりゆっくり南下を続ける巨大生物スロウリイ。無理に移動させれば死んでしまうという、この奇妙な生物の一体が、たまたま高速道路の建設予定地にいたことから起きるトラブル。野生動物保護か、地域開発か。

 あからさまな寓話ですが、実は時間テーマSF。スロウリイの設定から出てくるハートウォーミングなオチが、いかにも作者らしい。決して流行を追わず、決して古びない草上さんの作品は、スロウリイに似ている気がします。


1991年
『星殺し』(谷甲州)

 「----結局、5000年かけて、ひとつの星を殺しただけか。 それから私は、殺したのではなくて心中だと思い直した。それにしても、最後がこれではいかにも情けない」(文庫版p.427)

 ある未開惑星に干渉し、ひそかに原住民の宇宙開発を推進してきた超知性体。だが、度重なる納期短縮と仕様変更により計画は迷走し、ついに始まる千年紀デスマーチ。ある開発プロジェクトリーダーの5000年かけた失敗プロセスを克明に記し、宇宙開発のロマンを根こそぎにしてしまう特定業種読者大ウケ作品。


1992年
『夢の樹が接げたなら』(森岡浩之)

 「せめて、人類が言語によって進化する日のくることを信じよう。それが人類にとって無条件にいいことなのかどうか、ぼくには判断できない」(文庫版p.514)

 人工言語を脳にインストールすることが流行している近未来。ある研究所が開発した人工言語をインストールした被験者が失踪するという事件が相次ぐ。世界認識を決定的に変えてしまうというその異質言語の正体とは。

 言語は話者の知覚や世界認識を規定する、言語が異なる話者は異なる世界を見ている、という「サピア=ウォーフの仮説」は、学問的には否定されたものの、数多くの言語SFを生み出しました。本作もその典型的なもので、人工言語により認知の劇的な変容が生ずるというアイデアを押し進め、人類進化テーマへとつなげてゆきます。

 全体を通じて、個人的なお気に入りは、『見果てぬ風』(中井紀夫)、『星殺し』(谷甲州)、『引綱軽便鉄道』(椎名誠)です。他に、『火星甲殻団』(川又千秋)と『夢の樹が接げたなら』(森岡浩之)も楽しめました。

[収録作品]

1983年 『交差点の恋人』(山田正紀)
1984年 『戦場の夜想曲(ノクターン)』(田中芳樹)
1985年 『滅びの風』(栗本薫)
1986年 『火星甲殻団』(川又千秋)
1987年 『見果てぬ風』(中井紀夫)
1988年 『黄昏郷(おうごんきょう)』(野阿梓)
1989年 『引綱軽便鉄道』(椎名誠)
1990年 『ゆっくりと南へ』(草上仁)
1991年 『星殺し』(谷甲州)
1992年 『夢の樹が接げたなら』(森岡浩之)


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『笙野頼子窯変小説集 時ノアゲアシ取り』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「私は母を失う事がどんな事かはちゃんと知っていた。ただ、母の死の唐突さだけは、私を動かした。母の死後二年間煮えくり返る無常観の中にいた。今もそれは残っているが、ただその煮えくり返る感じが鎮まってしまうと、その無常観の中にはちゃんとワープロと猫と生活の喜びとが鎮座していた」(Kindle版No.2472)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第72回。

 文学論争、母の死。90年代後半の苦難のなかから立ちのぼっていった光輝く泡のような十篇を収録した短篇集が電子書籍化されたので、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(朝日新聞出版)出版は1999年02月、私が読んだKindle版は2013年05月に出版されました。

『時のアゲアシ取り』

 「なにしろここ何年か短編の予定と結果は、結局いつもずれた。十五枚の短編さえ「無事」には終らない。それは作品それ自体の窯変というより、環境の激変に翻弄されるのだ。時のきまぐれに支配される。安心しようとすると時がやっつけに来る。背中を蹴りあげあしを取り落とし穴を掘り、だからと言ってその事で私をあざ笑うわけではない。ただ淡々として、「やってくれる」。」(Kindle版No.182)

 沢野千本が臭いのきっついチーズを食べるシーンが印象的な表題作。「小さな」トラブルが絶えない生活、文学論争、食事、猫、仕事、そして母の死。チーズに費やすささやかな時間を手に入れるために、どれほどの苦労を重ねてきたか。感傷的になりがちな沢野に対して、ときどき作者から冷静なツッコミが入るのが妙に可笑しい。

『人形の正座』

 「ドラの正座は「お願い」と「私を見て」の正座だ。でも、なぜ「私を見て」か。----なぜ私が「ドラ以外のものに関心を持ってはならない」のか、常にドラの横に控えていて、「理想としてはドラが眠る間はずっと一緒に眠っていなくてはならない」のか。また「本もワープロも見てはならず友達も作ってはならない」のか。無論今の私にとっては、それは半ば当然とも思えるような「わが家の掟」だ」 (Kindle版No.376)

 主に愛猫ドーラとの生活をえがいた作品。猫飼いなら共感すること間違いなし。すでにドーラとの別れを「体験」してしまった読者は、この頃の一途な猫かわいがり様にも胸がつまるおもいです。

『一九九六、段差のある一日』

 「締切と締切の間で猫をかまって過ぎていく日々はただ忙しいだけで、日にちというのは単なる順序数に過ぎなかったはずだ。が、いざその五月一日になってみると、私は伊勢にいた」(Kindle版No.540)

 1996年5月1日に何をしていたか、というテーマを与えられて書き始めた作品らしいのですが、4月のうちに前半を書いていたら、そこに母が悪性の線ガンのために入院したという知らせが。帰郷、病院での付き添い生活、そしてやってくる死別のとき。この時期に著者(とドーラ)に降りかかった最大の悲劇が語られます。生活に段差、作品は窯変。

『使い魔の日記』

 「私は竜神以前にこのあたりに自然発生した、土着神が半分妖怪化した蛇神の下で、言われた事を、ただ泣き泣きやっているだけだ。百三日前、都会で普通に暮らしていたところへ、いきなり下ってきた指令に逆らえずに、こうして帰ってきた」(Kindle版No.706)

 入院した母の付き添いのため、郷里に戻った「私」を待っていたのは、親戚や他人からあれこれ指示され、軽んじられ、文句も言えず、ひたすら「使い魔」として仕える日々。母を看取る苦しみ悲しみを幻想に託して書いた作品。

『壊れるところを見ていた』

 「----昔、あれには名前があったのだ。が死と同時にあれはその名と関係した一切の記憶を持って行ってしまった。そこであれはもう夢の中にしか出て来る事が出来ず、起きるとその原形も質感も消えてしまっているというきまりになった」(Kindle版No.795)

 母親との死別。その悲しみと喪失感があまりに強いため、もう母親のことを思い出すことすら出来なくなってしまった「私」。夢の中で母は今も衰弱して死に近づいている・・・。その悲哀と喪失感の静かな表現がせまりくる作品。

『夜のグローブ座』

 「母を亡くしてから、しばらくして、ソニー・ロリンズのレコードを聴く事が出来なくなっている事に気付いたのだ。豊かで明るいものや強くて温かいものが体に入ってこなくなってしまっていた」(Kindle版No.976)

 「たま」のコンサートのため新大久保グローブ座に四日連続で通った体験を書いた作品。個人的にコンテンポラリーダンスカンパニー「コンドルズ」の公演を観るためにグローブ座に通ったことがあるので、情景や雰囲気を容易にイメージすることが出来て嬉しい。

『魚の光』

 「ああっ、----「魚の光」が出てきて次第に気分が汚くなって来る時の、あの光の出方を誰かに判って欲しい。それを伝えるための、その魚の話、話、話」(Kindle版No.1253)

 魚に関する話(それも嫌な話ばかり)を誰かに向かって饒舌に語る作品。誰かというのはおそらく亡き母で、どこか激しい切迫感が漂う作品。死んだ金魚に溶けたプラスチックを注ぎ込んで奇麗なオブジェを作ろうとしたら、「金魚はぎとぎとと煮えてしまったため、装飾品ではないものが出来てしまった」(Kindle版No.1299)という話が、個人的にはツボでした。単行本の美しい表紙との対比がまた。

『蓮の下の亀』

 「考えてみれば、私は亀でんねんの、その実物を一切見た事はない。亀でんねんはもしかしたら、池の中の亀を、釣り上げたり殺したりするのではないか。とその販売機の前でふと思い付いた。或いは亀の機嫌を取って交際し結婚にこぎつけたりするゲームかもしれなかった。が、どっちにしろ、どんなゲームにしろ、亀でんねんを欲しい。 私はたまごっちは持っていない。無論そんなものはいらないのだ。亀でんねんがいい」(Kindle版No.1466)

 呪物として集めている亀グッズのことをユーモアを込めて書いた、ほっとする作品。「亀でんねん」という携帯ゲームが入ったガチャポンを(大人の金にものをいわせて)総ざらえしてでも欲しいと思ったり、UFOキャッチャーで集めた何十個かのぬいぐるみとお話していたり、意外な一面が垣間みえます。

『全ての遠足』

 「一周忌を過ぎてもまだ母は時々夢に出てくる。法事の直前にも見ていたのだ。(中略)心理学者とかのお勉強の出来る奴が分析したらきっとエッチな夢になるか母の死を望む夢か、罪悪感の夢かそういうものになるんだろうが、でもそんな事は本人にとってはどうでもいいんだ、はみ出した感情が睫毛のように、夢の中にでも落ちてきたのだろうよ」(Kindle版No.2182)

 母を看取ってから一年。法事と納骨のことが、映画や散歩など日々の生活にはさまるようにして、語られます。

『一九九六・丙子、段差のある一年』

 「私は生涯、ただの一度も母を喜ばせる事も満足させる事もなく母と別れた」(Kindle版No.2434)

 長篇『母の発達』の、もう一つの続篇である「短編・ある晴れた日のお母さん」を含む作品。痛切な気持ちと覚悟が、気迫に満ちた文章で書かれています。

[収録作品]

『時のアゲアシ取り』
『人形の正座』
『一九九六、段差のある一日』
『使い魔の日記』
『壊れるところを見ていた』
『夜のグローブ座』
『魚の光』
『蓮の下の亀』
『全ての遠足』
『一九九六・丙子、段差のある一年』


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『Chouf Ouchouf シュフ ウシュフ』(振付・演出:ズィメルマン エ ド・ペロ、出演:タンジール・アクロバティックグループ) [ダンス]

 2013年06月09日は、夫婦で東京芸術劇場に行って、スイスのアーティスト・ユニットとモロッコのアクロバティック集団のコラボレーションにより制作された公演を鑑賞しました。

 数年がかりで世界中をめぐり、約300回も上演された作品ですが、本日が千秋楽。各国から観客が集まっています。

 モロッコのタンジール・アクロバティックグループのメンバー総勢12名が、開演前から舞台上に揃って、思い思いに準備をしています。数名が談笑しているかと思えば、ひたすらジョギングしているメンバー、タンブリングの練習をしているメンバー、ストレッチに勤しむメンバーなど。

 出演者が投げ捨てた空のペットボトルが舞台上に巨大なゴミの山を作っていて、もう既に何時間も、もしかしたら何日間も、彼らがずっと出番を待ってここで待機し続けていることが分かります。って、まさかそんなはずはなく、既に演出は始まっているのです。

 舞台上には巨大な壁。それを前に、アクロバットが始まります。軽快なリズムに乗って、まずは人間タワー。続いて様々なタンブリング。続けざまにとんぼを切ってみせる派手な大技に観客大いに盛り上がり、拍手喝采です。

 やがて壁が分解して五本の柱となり、それが舞台上を静かに滑りながら移動を始めます。柱が通り過ぎる度に消えたり現れたりする出演者、ある者は民族楽器を演奏し、またある者は歌い、さまざまな人々の生活が断片となって舞台に現れ、また消えてゆきます。

 市場の喧騒、歌と踊りのざわめき、夕方の倦怠感、夜の静けさ。おそらくはモロッコの日常生活を切り取ったのであろう様々な小芝居に、超絶的なアクロバット、例えば、倒立姿勢から足を床につかないまま腕立て伏せ姿勢に筋力だけで移行しまたもとの状態に戻すとか、片手倒立のまま様々な動きを見せるパワームーブだとか、そんなワザが生活感あふれる場面に溶け込んでいる、その演出の自然さときたら、逆に小憎らしいほど。

 移動する中空の柱(というか、背丈の三倍ほどのサイズの巨大ロッカーとでもいうべきでしょうか)を使った様々な演出はクールで、観客を飽きさせません。例えば、柱の側面にある扉から出演者がぞろぞろと中に入ってゆく。そして扉が閉まる。どう見ても柱の中に十名の人間が入れるはずはないので、これは何かのトリックだろうと思っていると、柱が裏返って、本当に十名のメンバーがアクロバティックな姿勢でびっしり入っているのを見せたり。

 出演者のフィジカルな技量と演技力もたいしたものですが、個人的には、民族性を前面に押し出した演出とアクロバットショーの見せ物的爽快感を自然に融合させるという困難をあっさりとやってのけた「ズィメルマン エ ド・ペロ」の構成・演出に感心しました。

 数年に渡るワールドツアー最終日ということで、終演後には巨大なモロッコ国旗が広げられ、振付演出チームから出演者全員に花が配られるなどのイベントもあって、客席も大いに盛り上がりました。


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