SSブログ

『笙野頼子窯変小説集 時ノアゲアシ取り』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「私は母を失う事がどんな事かはちゃんと知っていた。ただ、母の死の唐突さだけは、私を動かした。母の死後二年間煮えくり返る無常観の中にいた。今もそれは残っているが、ただその煮えくり返る感じが鎮まってしまうと、その無常観の中にはちゃんとワープロと猫と生活の喜びとが鎮座していた」(Kindle版No.2472)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第72回。

 文学論争、母の死。90年代後半の苦難のなかから立ちのぼっていった光輝く泡のような十篇を収録した短篇集が電子書籍化されたので、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(朝日新聞出版)出版は1999年02月、私が読んだKindle版は2013年05月に出版されました。

『時のアゲアシ取り』

 「なにしろここ何年か短編の予定と結果は、結局いつもずれた。十五枚の短編さえ「無事」には終らない。それは作品それ自体の窯変というより、環境の激変に翻弄されるのだ。時のきまぐれに支配される。安心しようとすると時がやっつけに来る。背中を蹴りあげあしを取り落とし穴を掘り、だからと言ってその事で私をあざ笑うわけではない。ただ淡々として、「やってくれる」。」(Kindle版No.182)

 沢野千本が臭いのきっついチーズを食べるシーンが印象的な表題作。「小さな」トラブルが絶えない生活、文学論争、食事、猫、仕事、そして母の死。チーズに費やすささやかな時間を手に入れるために、どれほどの苦労を重ねてきたか。感傷的になりがちな沢野に対して、ときどき作者から冷静なツッコミが入るのが妙に可笑しい。

『人形の正座』

 「ドラの正座は「お願い」と「私を見て」の正座だ。でも、なぜ「私を見て」か。----なぜ私が「ドラ以外のものに関心を持ってはならない」のか、常にドラの横に控えていて、「理想としてはドラが眠る間はずっと一緒に眠っていなくてはならない」のか。また「本もワープロも見てはならず友達も作ってはならない」のか。無論今の私にとっては、それは半ば当然とも思えるような「わが家の掟」だ」 (Kindle版No.376)

 主に愛猫ドーラとの生活をえがいた作品。猫飼いなら共感すること間違いなし。すでにドーラとの別れを「体験」してしまった読者は、この頃の一途な猫かわいがり様にも胸がつまるおもいです。

『一九九六、段差のある一日』

 「締切と締切の間で猫をかまって過ぎていく日々はただ忙しいだけで、日にちというのは単なる順序数に過ぎなかったはずだ。が、いざその五月一日になってみると、私は伊勢にいた」(Kindle版No.540)

 1996年5月1日に何をしていたか、というテーマを与えられて書き始めた作品らしいのですが、4月のうちに前半を書いていたら、そこに母が悪性の線ガンのために入院したという知らせが。帰郷、病院での付き添い生活、そしてやってくる死別のとき。この時期に著者(とドーラ)に降りかかった最大の悲劇が語られます。生活に段差、作品は窯変。

『使い魔の日記』

 「私は竜神以前にこのあたりに自然発生した、土着神が半分妖怪化した蛇神の下で、言われた事を、ただ泣き泣きやっているだけだ。百三日前、都会で普通に暮らしていたところへ、いきなり下ってきた指令に逆らえずに、こうして帰ってきた」(Kindle版No.706)

 入院した母の付き添いのため、郷里に戻った「私」を待っていたのは、親戚や他人からあれこれ指示され、軽んじられ、文句も言えず、ひたすら「使い魔」として仕える日々。母を看取る苦しみ悲しみを幻想に託して書いた作品。

『壊れるところを見ていた』

 「----昔、あれには名前があったのだ。が死と同時にあれはその名と関係した一切の記憶を持って行ってしまった。そこであれはもう夢の中にしか出て来る事が出来ず、起きるとその原形も質感も消えてしまっているというきまりになった」(Kindle版No.795)

 母親との死別。その悲しみと喪失感があまりに強いため、もう母親のことを思い出すことすら出来なくなってしまった「私」。夢の中で母は今も衰弱して死に近づいている・・・。その悲哀と喪失感の静かな表現がせまりくる作品。

『夜のグローブ座』

 「母を亡くしてから、しばらくして、ソニー・ロリンズのレコードを聴く事が出来なくなっている事に気付いたのだ。豊かで明るいものや強くて温かいものが体に入ってこなくなってしまっていた」(Kindle版No.976)

 「たま」のコンサートのため新大久保グローブ座に四日連続で通った体験を書いた作品。個人的にコンテンポラリーダンスカンパニー「コンドルズ」の公演を観るためにグローブ座に通ったことがあるので、情景や雰囲気を容易にイメージすることが出来て嬉しい。

『魚の光』

 「ああっ、----「魚の光」が出てきて次第に気分が汚くなって来る時の、あの光の出方を誰かに判って欲しい。それを伝えるための、その魚の話、話、話」(Kindle版No.1253)

 魚に関する話(それも嫌な話ばかり)を誰かに向かって饒舌に語る作品。誰かというのはおそらく亡き母で、どこか激しい切迫感が漂う作品。死んだ金魚に溶けたプラスチックを注ぎ込んで奇麗なオブジェを作ろうとしたら、「金魚はぎとぎとと煮えてしまったため、装飾品ではないものが出来てしまった」(Kindle版No.1299)という話が、個人的にはツボでした。単行本の美しい表紙との対比がまた。

『蓮の下の亀』

 「考えてみれば、私は亀でんねんの、その実物を一切見た事はない。亀でんねんはもしかしたら、池の中の亀を、釣り上げたり殺したりするのではないか。とその販売機の前でふと思い付いた。或いは亀の機嫌を取って交際し結婚にこぎつけたりするゲームかもしれなかった。が、どっちにしろ、どんなゲームにしろ、亀でんねんを欲しい。 私はたまごっちは持っていない。無論そんなものはいらないのだ。亀でんねんがいい」(Kindle版No.1466)

 呪物として集めている亀グッズのことをユーモアを込めて書いた、ほっとする作品。「亀でんねん」という携帯ゲームが入ったガチャポンを(大人の金にものをいわせて)総ざらえしてでも欲しいと思ったり、UFOキャッチャーで集めた何十個かのぬいぐるみとお話していたり、意外な一面が垣間みえます。

『全ての遠足』

 「一周忌を過ぎてもまだ母は時々夢に出てくる。法事の直前にも見ていたのだ。(中略)心理学者とかのお勉強の出来る奴が分析したらきっとエッチな夢になるか母の死を望む夢か、罪悪感の夢かそういうものになるんだろうが、でもそんな事は本人にとってはどうでもいいんだ、はみ出した感情が睫毛のように、夢の中にでも落ちてきたのだろうよ」(Kindle版No.2182)

 母を看取ってから一年。法事と納骨のことが、映画や散歩など日々の生活にはさまるようにして、語られます。

『一九九六・丙子、段差のある一年』

 「私は生涯、ただの一度も母を喜ばせる事も満足させる事もなく母と別れた」(Kindle版No.2434)

 長篇『母の発達』の、もう一つの続篇である「短編・ある晴れた日のお母さん」を含む作品。痛切な気持ちと覚悟が、気迫に満ちた文章で書かれています。

[収録作品]

『時のアゲアシ取り』
『人形の正座』
『一九九六、段差のある一日』
『使い魔の日記』
『壊れるところを見ていた』
『夜のグローブ座』
『魚の光』
『蓮の下の亀』
『全ての遠足』
『一九九六・丙子、段差のある一年』


タグ:笙野頼子
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0