『未来の記憶は蘭のなかで作られる』(星野智幸) [読書(随筆)]
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蘭菌と共生し、梅の木と共生する蘭。その花の派手で肉食系なイメージとはうらはらに、蘭は誰とでも一緒に暮らし、厳しい環境を助け合って生き延びる。(中略)
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今のせちがらく陰湿で暗い社会に暮らしながら、ともすると、私は世に対して背を向けたような姿勢になっている。そして思う。蘭になりたい。蘭として、生きたい。
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単行本p.226
『俺俺』や『夜は終わらない』といった話題作問題作を書き続けている著者による第一エッセイ集。単行本(岩波書店)出版は2014年11月です。
日本における社会状況(の悪化)、第二の故郷たるメキシコ、韓国と台湾、東日本大震災、言葉と文学、そしてサッカーについて。これまでに書かれた小説以外の文章から厳選した作品を、あえて逆時系列順に配置した第一エッセイ集です。
類似したトピックをこのように並べる(つまり読み進めるにつれて過去に遡ってゆく)ことで、世相の変化がくっきりと浮かび上がってきます。
2013年
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今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で「同じであれ」と要求するだけでなく、もっと巨大な単位で「日本人であれ」と要求してくる。「愛国心」という名の同調圧力である。「日本人」を信仰するためには、個人であることを捨てなければならない。我を張って個人であることにこだわり続けた結果、はみ出し、孤立し、攻撃のターゲットになり、自我を破壊されるぐらいなら、自分であることをやめて「日本人」に加わり、その中に溶け込んで安心を得たほうがどれほど楽なことか。
自分を捨ててでも「もう傷つきたくない」と思うほど、この社会の人たちはいっぱいいっぱいなのだと思う。
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単行本p.16
2012年
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実のところ、死にたい衝動とは、一種の依存ではないか。リストカットで死に隣接することで、かろうじて生を実感し、なんとか生き続けるのと同じだ。その依存が外(他人)に向かうと、バッシングして人が死のふちに追いつめられるのを見てかろうじて自分は生を実感し、なんとか生き続ける、という行為になる。(中略)
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私には、極言を弄する為政者でさえ、その種の依存に陥っている中毒者のように感じられる。(中略)
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私たちはもはや、バッシングなしでは生きられなくなりつつある、重度の依存症患者なのだ。
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単行本p.49
2008年
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今、私たちが住んでいるのは、普通に生きることさえ難しく、多くの人間が、特に若者が、死へ引きずられそうになるのを全力で振り切って何とか生き延びているような社会なのだ。まるで、見えない戦場に丸腰で置かれているかのよう。精神的、経済的に、うまく逃げきれない者は、次々と死んでゆく。
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単行本p.88
2007年
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私には、世論が架空の敵を作っているようにしか見えない。靖国神社自体のことは本当は重要ではなく、韓国や中国がうるさく言うからあえて参拝してやれ、という一種の嫌がらせのような空気すら感じるのである。そこには、他人を貶めることで自我を強固にしたいという、攻撃欲が含まれてはいないか。
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単行本p.108
2004年
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今の日本はナショナリズムに対して免疫がないと思う。五輪で目を逸らしているうちに無意識に蓄積された鬱屈が、いざ現実を直視させられたとき、非常に安直な形のナショナリズムとして爆発することを、私は恐れている。
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単行本p.130
2002年
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憲法ごときは解釈で意味を変更し、あとから実際の政策に合わせていけばいい、というような、言葉を無視した手法で。憲法に書かれてある文言は嘘となり、形だけの残骸でしかなくなる。言葉は、つじつまを合わせ現実を覆い隠すための見せかけへと貶められ、信用したら痛い目に遭う。言葉が信じられない世界とは、他人を信じられない世界でもある。
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単行本p.172
こうした問題意識が、どのように小説に活かされているのかをストレートに語ってくれるのも本書の魅力。例えば、『俺俺』執筆日記には、このように書かれています。
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石田徹也の絵を見た瞬間、じつは自分はずっとこの絵の中にいて、それまでいた世界が嘘だったかのような変転を味わった。そこには、これから自分が「新潮」で書こうとしている小説世界がはてしなく広がっていた。どこを見渡しても、自分、自分、自分……その息苦しさ、そのバカバカしさ。何だ、みんな同じ自分だったのか、という安堵、それに気づいた瞬間のはじけるような愉快さ、そして、そのあとに襲ってくる閉塞と窒息と絶望。
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単行本p.74
他にも代表作を取り上げ、どのような問題意識で書かれたかを具体的に教えてくれます。
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死んでも死んでも、死ねない世界。死んだところで自分を逃れられず、一から同じ苦しみが繰り返されるのであれば、誰も自殺したいとは思わないのではないか。これが、最新の長篇小説『無間道』を構想したスタートである。(中略)
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今の日本社会は、記憶を捨てることで一貫した自我も捨て、周囲の流れに応じて自分をどうにでも変えてしまうという生き方が、社会の隅々にまで行きわたっている。自ら記憶とともに自我を葬った者たちこそ、「生きてはおりますが、もう存在しません」と形容されるべきではないのか。そんな「死者」たちの中にいて、一貫した個人を保っていくことはきわめて難しい。(中略)
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『無間道』では、このような社会に生きる人間の行動を、つぶさに描こうとした。設定は幻想的かもしれないが、私はきわめてリアリスティックな小説だと思っている。
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単行本p.92、94
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四年前、ソルトレイク五輪での異様な愛国の合唱を見、ワールドカップ日韓大会の熱狂をナマで体験し、さらに横浜市長選の投票に行きながら、私は今と同じようなことを考えていた。そして『ファンタジスタ』に収められている三編の小説を書いた。
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単行本p.105
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七〇年代に成人した男たちが、今、五十歳前後に達している。私が憲三という主人公を五十代に設定したのは、以上のような理由からだ。かれらがロリコンの走りであることと、八〇年代の申し子である私の世代が宮崎勤事件・オウム真理教事件を起こしたことと、人質バッシング事件は、同じ根を持つ。その根を追求するために、私は『在日ヲロシア人の悲劇』を書いた。
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単行本p.122
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文学は言葉の政治的な力に抵抗し続ける必要がある。私がいま執筆中の『ロンリー・ハーツ・キラー』という長篇で取り組んでいるのは、日本社会に見えない形で浸透しつつある排他的な力を、小説の言葉によって無化することである。
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単行本p.168
全体的に、今の政治状況・社会状況のなかで文学に何が出来るのか何をなすべきなのかという問題について、ひたすら生真面目に語り続けている印象を受けます。身辺雑記や紀行文のような出だしの文章も、結局はここに流れ込んでゆきます。メキシコの話も、韓国の文学潮流の話も、サッカーの話題でさえ。
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私が小説を書き始めた原点は、言葉が通じなくなりつつある現在の環境の中で、もう一度言葉を成り立たせよう、それは小説でしか可能ではない、と考えたからだった。言葉が成り立つには、意味内容の伝達だけではなく、他人の言葉から、表面に顕れない願いや祈りのようなものを、想像力を振り絞って読みとるという、労力のかかる作業が必要なのだ。(中略)
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「小説を書いている場合ではない」と焦ってしまうのは、言葉の通じない環境を受け入れ、言葉と想像力を放棄し、暴力と雰囲気がすべてを決定する激流に身を委ねてしまうのと同じことだ。(中略)
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だから私は、こういうときにも、それ以前と同じように小説をじっくりと書き続けなければならないと思った。そもそも、言葉が通じる環境を作るとは、現状を根本から変える原理的な作業であり、即効性のものではないのだ。(中略)
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むろん、日本国内の、悲壮感と一体になった妙な昂揚感を毎日目の当たりにするにつけ、「間に合わなかった」という無念な思いは強くある。しかし、状況はまだ変われる余地があると思って、小説を書き続けるしかない。
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単行本p.170
蘭菌と共生し、梅の木と共生する蘭。その花の派手で肉食系なイメージとはうらはらに、蘭は誰とでも一緒に暮らし、厳しい環境を助け合って生き延びる。(中略)
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今のせちがらく陰湿で暗い社会に暮らしながら、ともすると、私は世に対して背を向けたような姿勢になっている。そして思う。蘭になりたい。蘭として、生きたい。
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単行本p.226
『俺俺』や『夜は終わらない』といった話題作問題作を書き続けている著者による第一エッセイ集。単行本(岩波書店)出版は2014年11月です。
日本における社会状況(の悪化)、第二の故郷たるメキシコ、韓国と台湾、東日本大震災、言葉と文学、そしてサッカーについて。これまでに書かれた小説以外の文章から厳選した作品を、あえて逆時系列順に配置した第一エッセイ集です。
類似したトピックをこのように並べる(つまり読み進めるにつれて過去に遡ってゆく)ことで、世相の変化がくっきりと浮かび上がってきます。
2013年
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今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で「同じであれ」と要求するだけでなく、もっと巨大な単位で「日本人であれ」と要求してくる。「愛国心」という名の同調圧力である。「日本人」を信仰するためには、個人であることを捨てなければならない。我を張って個人であることにこだわり続けた結果、はみ出し、孤立し、攻撃のターゲットになり、自我を破壊されるぐらいなら、自分であることをやめて「日本人」に加わり、その中に溶け込んで安心を得たほうがどれほど楽なことか。
自分を捨ててでも「もう傷つきたくない」と思うほど、この社会の人たちはいっぱいいっぱいなのだと思う。
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単行本p.16
2012年
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実のところ、死にたい衝動とは、一種の依存ではないか。リストカットで死に隣接することで、かろうじて生を実感し、なんとか生き続けるのと同じだ。その依存が外(他人)に向かうと、バッシングして人が死のふちに追いつめられるのを見てかろうじて自分は生を実感し、なんとか生き続ける、という行為になる。(中略)
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私には、極言を弄する為政者でさえ、その種の依存に陥っている中毒者のように感じられる。(中略)
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私たちはもはや、バッシングなしでは生きられなくなりつつある、重度の依存症患者なのだ。
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単行本p.49
2008年
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今、私たちが住んでいるのは、普通に生きることさえ難しく、多くの人間が、特に若者が、死へ引きずられそうになるのを全力で振り切って何とか生き延びているような社会なのだ。まるで、見えない戦場に丸腰で置かれているかのよう。精神的、経済的に、うまく逃げきれない者は、次々と死んでゆく。
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単行本p.88
2007年
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私には、世論が架空の敵を作っているようにしか見えない。靖国神社自体のことは本当は重要ではなく、韓国や中国がうるさく言うからあえて参拝してやれ、という一種の嫌がらせのような空気すら感じるのである。そこには、他人を貶めることで自我を強固にしたいという、攻撃欲が含まれてはいないか。
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単行本p.108
2004年
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今の日本はナショナリズムに対して免疫がないと思う。五輪で目を逸らしているうちに無意識に蓄積された鬱屈が、いざ現実を直視させられたとき、非常に安直な形のナショナリズムとして爆発することを、私は恐れている。
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単行本p.130
2002年
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憲法ごときは解釈で意味を変更し、あとから実際の政策に合わせていけばいい、というような、言葉を無視した手法で。憲法に書かれてある文言は嘘となり、形だけの残骸でしかなくなる。言葉は、つじつまを合わせ現実を覆い隠すための見せかけへと貶められ、信用したら痛い目に遭う。言葉が信じられない世界とは、他人を信じられない世界でもある。
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単行本p.172
こうした問題意識が、どのように小説に活かされているのかをストレートに語ってくれるのも本書の魅力。例えば、『俺俺』執筆日記には、このように書かれています。
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石田徹也の絵を見た瞬間、じつは自分はずっとこの絵の中にいて、それまでいた世界が嘘だったかのような変転を味わった。そこには、これから自分が「新潮」で書こうとしている小説世界がはてしなく広がっていた。どこを見渡しても、自分、自分、自分……その息苦しさ、そのバカバカしさ。何だ、みんな同じ自分だったのか、という安堵、それに気づいた瞬間のはじけるような愉快さ、そして、そのあとに襲ってくる閉塞と窒息と絶望。
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単行本p.74
他にも代表作を取り上げ、どのような問題意識で書かれたかを具体的に教えてくれます。
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死んでも死んでも、死ねない世界。死んだところで自分を逃れられず、一から同じ苦しみが繰り返されるのであれば、誰も自殺したいとは思わないのではないか。これが、最新の長篇小説『無間道』を構想したスタートである。(中略)
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今の日本社会は、記憶を捨てることで一貫した自我も捨て、周囲の流れに応じて自分をどうにでも変えてしまうという生き方が、社会の隅々にまで行きわたっている。自ら記憶とともに自我を葬った者たちこそ、「生きてはおりますが、もう存在しません」と形容されるべきではないのか。そんな「死者」たちの中にいて、一貫した個人を保っていくことはきわめて難しい。(中略)
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『無間道』では、このような社会に生きる人間の行動を、つぶさに描こうとした。設定は幻想的かもしれないが、私はきわめてリアリスティックな小説だと思っている。
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単行本p.92、94
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四年前、ソルトレイク五輪での異様な愛国の合唱を見、ワールドカップ日韓大会の熱狂をナマで体験し、さらに横浜市長選の投票に行きながら、私は今と同じようなことを考えていた。そして『ファンタジスタ』に収められている三編の小説を書いた。
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単行本p.105
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七〇年代に成人した男たちが、今、五十歳前後に達している。私が憲三という主人公を五十代に設定したのは、以上のような理由からだ。かれらがロリコンの走りであることと、八〇年代の申し子である私の世代が宮崎勤事件・オウム真理教事件を起こしたことと、人質バッシング事件は、同じ根を持つ。その根を追求するために、私は『在日ヲロシア人の悲劇』を書いた。
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単行本p.122
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文学は言葉の政治的な力に抵抗し続ける必要がある。私がいま執筆中の『ロンリー・ハーツ・キラー』という長篇で取り組んでいるのは、日本社会に見えない形で浸透しつつある排他的な力を、小説の言葉によって無化することである。
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単行本p.168
全体的に、今の政治状況・社会状況のなかで文学に何が出来るのか何をなすべきなのかという問題について、ひたすら生真面目に語り続けている印象を受けます。身辺雑記や紀行文のような出だしの文章も、結局はここに流れ込んでゆきます。メキシコの話も、韓国の文学潮流の話も、サッカーの話題でさえ。
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私が小説を書き始めた原点は、言葉が通じなくなりつつある現在の環境の中で、もう一度言葉を成り立たせよう、それは小説でしか可能ではない、と考えたからだった。言葉が成り立つには、意味内容の伝達だけではなく、他人の言葉から、表面に顕れない願いや祈りのようなものを、想像力を振り絞って読みとるという、労力のかかる作業が必要なのだ。(中略)
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「小説を書いている場合ではない」と焦ってしまうのは、言葉の通じない環境を受け入れ、言葉と想像力を放棄し、暴力と雰囲気がすべてを決定する激流に身を委ねてしまうのと同じことだ。(中略)
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だから私は、こういうときにも、それ以前と同じように小説をじっくりと書き続けなければならないと思った。そもそも、言葉が通じる環境を作るとは、現状を根本から変える原理的な作業であり、即効性のものではないのだ。(中略)
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むろん、日本国内の、悲壮感と一体になった妙な昂揚感を毎日目の当たりにするにつけ、「間に合わなかった」という無念な思いは強くある。しかし、状況はまだ変われる余地があると思って、小説を書き続けるしかない。
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単行本p.170
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