『短篇小説日和 英国異色傑作選』(西崎憲:編集・翻訳) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]
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本書は1998年12月から順次刊行された『英国短篇小説の愉しみ』全三巻から評価の高かった17作品を抜粋・改稿したものに新訳3篇を加えて一巻にまとめたものである。形を変えてはいるが15年を経ての文庫化ということになる。短篇小説の名作というものは意外に読む機会を逸しがちなものなので、今回の文庫化は単純に編者としても喜ばしいし、短篇小説の一愛好家としても手軽に読める状況になったことに喜びを覚える。
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文庫版p.486
18世紀から20世紀前半に発表された英国短篇小説から選ばれた傑作選に、編者による短篇小説論を追加。文庫版(筑摩書房)出版は2013年3月です。
英国の短篇傑作選ではありますが、収録作品の大半が何らかの形でゴーストストーリー、幻想小説、怪奇小説に分類できるものなので、そちらの愛好家の方々にもお勧めです。さほど長い作品は収録されていないため、ついつい一篇また一篇と読み進めてしまう魅力があります。
いくつかお気に入りをご紹介しておきます。
『羊歯』(W.F.ハーヴィー)
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ポーター氏は平凡な人物であったが、氏によく似た数千の人間とは一線を画する事実をひとつだけ有していた。秘密がひとつあったのである。ポーター氏はキラーニー羊歯が生えている場所を知っていた。それもイングランドでである。
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文庫版p.54
珍しいシダが生えている場所を知っている。その事実が、凡庸な人生を送る引退間近のポーター氏の希望と自尊心を支えていたのだった。ところがあるとき、ポーター氏はそのシダが何者かに奪われてしまったことを発見する。余生の生きがいを根こそぎ否定された衝撃と悲しみが、私のような五十代読者の心に迫ります。
『八人の見えない日本人』(グレアム・グリーン)
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日本の紳士たちは魚を食べおえ、片言だが完璧な丁重さで、中年のウエイターにフレッシュフルーツサラダを注文していた。若い女は彼らを見た。それからわたしを見た。けれども女の眼に映っているのは未来だけだった。
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文庫版p.94
レストランで語り手が見た光景。八人の日本人がテーブルについており、その向こうに若い男女のテーブルがある。若い女は作家志望者らしく、限りなく楽観的で、周囲がまるで見えていない様子。日本人グループは何をするでもなくただ「謎の存在」として場面の中央にいるだけですが、その違和感が若い女性の視野の狭さと危なっかしさを際立たせます。
『豚の島の女王』(ジャラルド・カーシュ))
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予言はその時、成就した。ラルエットは豚の島の女王となった。彼女には三人の臣下がいた。二人の踊る小人と世界で一番醜く力の強い男。ラルエットには手はなく、足もなく、そして美しかった。
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文庫版p.111
サーカス一座が乗った船が遭難し、四名だけが「豚の島」と呼ばれる無人島に漂着した。巨人男、小人兄弟、そして手足のない女性。彼女は島の女王となり、自分に惚れている他の三名の男を支配するのだったが……。寓話めいた物語ですが、支配従属関係や嫉妬心といった人間心理の動きを短いページ数で見事に表現していて、忘れがたい印象を残します。
『羊飼いとその恋人』(エリザベス・グージ)
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そもそもミス・ギレスピーは日頃はきわめて分別に富んだ女性であり、資産を費やして何より水はけの状態も確認せずに、手にあまる家を買おうだなどと夢にも思ったことはなかった。だがあの牧歌的な羊飼いとその恋人の人形を買ってからというもの、彼女はすっかり無分別になってしまっていた。
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文庫版p.203
堅実で常識的な老婦人が骨董品店で見つけた「羊飼いとその恋人」の人形。それが気に入って衝動買いしたとき、彼女の中で何かが弾けた。いきなり列車に乗って知らない駅まで行き、そこでふと見かけた家をいきなり買ってしまったのだ。
約束も義務もすべて放って、お気に入りの小物を手に、列車を乗り過ごして知らない駅に降りる。誰もが「一度はやってみたい」と夢想する行為。大きな解放感を得ることが出来ます。ラスト一行のオチも見事。
『河の音』(ジーン・リース)
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あたしはつるつるした、きれいな、あんなふうな顔がこわい。ねずみの顔が、映画館で笑うときの笑い方がこわい。エスカレーターがこわい。人形の目がこわい。でもそういうこわさは言葉にならない。そのための言葉はまだ発明されてない。(中略)
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あたしはこわい。ここには何かこわいものがある、ほんとに。なんで感じないの? あなたが楽しもうと言ったあの最初の日、一杯になった水盤にぽたんと水が滴る音がした。楽しい音にも聞こえたし、こわい音にも聞こえた。あの音を聴かなかった? 背中を向けないで、寝息を立てないで、寝ないで。
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文庫版p.402、407
河の近くに宿泊した男女。女性はひたすら「こわい」と訴え、何がどうこわいのか判然としないまま追いつめられてゆく。その夜、いったい何が起きるのか。具体的な対象がない純粋恐怖を神経症的に描き、得体の知れない怖さに読者も巻き込んでゆく作品。
『輝く草地』(アンナ・カヴァン)
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草地はあらゆる方向に広がる。境界を越え、すべての命を破壊し、明るい緑の棺衣で世界のすべてを覆う。その下で生けるものはすべて滅びる。忌まわしい緑とは戦わなければならない。戦うのだ。刈って押し戻せ。刈り落とせ。日毎に、一時間ごとに。どんな代償を払おうとも。草の狂気めいた増殖を阻むにはその手段しかない。草に対してはほかに方法はない。異常な活力と忌まわしい力を持った草、致命的で、執念深く、疫病じみたこの草に対しては。草はすべてを包む。あらゆる場所を。唯一、草が世界を、ただ草のみが世界の表面を覆い尽くすその日を目指し。
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文庫版p.422
緑に輝く草地。生き生きとした美しい光景。それを見た人々は狂気に陥り、命を犠牲にしてでも草を刈り取ろうとする。その犠牲が草を育てるのだ。パラノイアが伝染し、狂気にとり憑かれてゆく語り手。強迫観念に支配された文章の迫力に思わず息を飲む怪奇幻想短篇。
[収録作品]
『後に残してきた少女』(ミュリエル・スパーク)
『ミセス・ヴォードレーの旅行』(マーティン・アームストロング)
『羊歯』(W.F.ハーヴィー)
『パール・ボタンはどんなふうにさらわれたか』(キャサリン・マンスフィールド)
『決して』(H.E.ベイツ)
『八人の見えない日本人』(グレアム・グリーン)
『豚の島の女王』(ジャラルド・カーシュ))
『看板描きと水晶の魚』(マージョリー・ボウエン)
『ピム氏と聖なるパン』(T.F.ポウイス)
『羊飼いとその恋人』(エリザベス・グージ)
『聖エウダイモンとオレンジの樹』(ヴァーノン・リー)
『小さな吹雪の国の冒険』(F.アンスティー)
『コティヨン』(L.P.ハートリー)
『告知』(ニュージェント・バーカー)
『写真』(ナイジェル・ニール)
『殺人大将』(チャールズ・ディケンズ)
『ユグナンの妻』(M.P.シール)
『花よりもはかなく』(ロバート・エイクマン)
『河の音』(ジーン・リース)
『輝く草地』(アンナ・カヴァン)
『短篇小説論考』(西崎憲)
本書は1998年12月から順次刊行された『英国短篇小説の愉しみ』全三巻から評価の高かった17作品を抜粋・改稿したものに新訳3篇を加えて一巻にまとめたものである。形を変えてはいるが15年を経ての文庫化ということになる。短篇小説の名作というものは意外に読む機会を逸しがちなものなので、今回の文庫化は単純に編者としても喜ばしいし、短篇小説の一愛好家としても手軽に読める状況になったことに喜びを覚える。
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文庫版p.486
18世紀から20世紀前半に発表された英国短篇小説から選ばれた傑作選に、編者による短篇小説論を追加。文庫版(筑摩書房)出版は2013年3月です。
英国の短篇傑作選ではありますが、収録作品の大半が何らかの形でゴーストストーリー、幻想小説、怪奇小説に分類できるものなので、そちらの愛好家の方々にもお勧めです。さほど長い作品は収録されていないため、ついつい一篇また一篇と読み進めてしまう魅力があります。
いくつかお気に入りをご紹介しておきます。
『羊歯』(W.F.ハーヴィー)
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ポーター氏は平凡な人物であったが、氏によく似た数千の人間とは一線を画する事実をひとつだけ有していた。秘密がひとつあったのである。ポーター氏はキラーニー羊歯が生えている場所を知っていた。それもイングランドでである。
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文庫版p.54
珍しいシダが生えている場所を知っている。その事実が、凡庸な人生を送る引退間近のポーター氏の希望と自尊心を支えていたのだった。ところがあるとき、ポーター氏はそのシダが何者かに奪われてしまったことを発見する。余生の生きがいを根こそぎ否定された衝撃と悲しみが、私のような五十代読者の心に迫ります。
『八人の見えない日本人』(グレアム・グリーン)
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日本の紳士たちは魚を食べおえ、片言だが完璧な丁重さで、中年のウエイターにフレッシュフルーツサラダを注文していた。若い女は彼らを見た。それからわたしを見た。けれども女の眼に映っているのは未来だけだった。
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文庫版p.94
レストランで語り手が見た光景。八人の日本人がテーブルについており、その向こうに若い男女のテーブルがある。若い女は作家志望者らしく、限りなく楽観的で、周囲がまるで見えていない様子。日本人グループは何をするでもなくただ「謎の存在」として場面の中央にいるだけですが、その違和感が若い女性の視野の狭さと危なっかしさを際立たせます。
『豚の島の女王』(ジャラルド・カーシュ))
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予言はその時、成就した。ラルエットは豚の島の女王となった。彼女には三人の臣下がいた。二人の踊る小人と世界で一番醜く力の強い男。ラルエットには手はなく、足もなく、そして美しかった。
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文庫版p.111
サーカス一座が乗った船が遭難し、四名だけが「豚の島」と呼ばれる無人島に漂着した。巨人男、小人兄弟、そして手足のない女性。彼女は島の女王となり、自分に惚れている他の三名の男を支配するのだったが……。寓話めいた物語ですが、支配従属関係や嫉妬心といった人間心理の動きを短いページ数で見事に表現していて、忘れがたい印象を残します。
『羊飼いとその恋人』(エリザベス・グージ)
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そもそもミス・ギレスピーは日頃はきわめて分別に富んだ女性であり、資産を費やして何より水はけの状態も確認せずに、手にあまる家を買おうだなどと夢にも思ったことはなかった。だがあの牧歌的な羊飼いとその恋人の人形を買ってからというもの、彼女はすっかり無分別になってしまっていた。
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文庫版p.203
堅実で常識的な老婦人が骨董品店で見つけた「羊飼いとその恋人」の人形。それが気に入って衝動買いしたとき、彼女の中で何かが弾けた。いきなり列車に乗って知らない駅まで行き、そこでふと見かけた家をいきなり買ってしまったのだ。
約束も義務もすべて放って、お気に入りの小物を手に、列車を乗り過ごして知らない駅に降りる。誰もが「一度はやってみたい」と夢想する行為。大きな解放感を得ることが出来ます。ラスト一行のオチも見事。
『河の音』(ジーン・リース)
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あたしはつるつるした、きれいな、あんなふうな顔がこわい。ねずみの顔が、映画館で笑うときの笑い方がこわい。エスカレーターがこわい。人形の目がこわい。でもそういうこわさは言葉にならない。そのための言葉はまだ発明されてない。(中略)
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あたしはこわい。ここには何かこわいものがある、ほんとに。なんで感じないの? あなたが楽しもうと言ったあの最初の日、一杯になった水盤にぽたんと水が滴る音がした。楽しい音にも聞こえたし、こわい音にも聞こえた。あの音を聴かなかった? 背中を向けないで、寝息を立てないで、寝ないで。
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文庫版p.402、407
河の近くに宿泊した男女。女性はひたすら「こわい」と訴え、何がどうこわいのか判然としないまま追いつめられてゆく。その夜、いったい何が起きるのか。具体的な対象がない純粋恐怖を神経症的に描き、得体の知れない怖さに読者も巻き込んでゆく作品。
『輝く草地』(アンナ・カヴァン)
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草地はあらゆる方向に広がる。境界を越え、すべての命を破壊し、明るい緑の棺衣で世界のすべてを覆う。その下で生けるものはすべて滅びる。忌まわしい緑とは戦わなければならない。戦うのだ。刈って押し戻せ。刈り落とせ。日毎に、一時間ごとに。どんな代償を払おうとも。草の狂気めいた増殖を阻むにはその手段しかない。草に対してはほかに方法はない。異常な活力と忌まわしい力を持った草、致命的で、執念深く、疫病じみたこの草に対しては。草はすべてを包む。あらゆる場所を。唯一、草が世界を、ただ草のみが世界の表面を覆い尽くすその日を目指し。
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文庫版p.422
緑に輝く草地。生き生きとした美しい光景。それを見た人々は狂気に陥り、命を犠牲にしてでも草を刈り取ろうとする。その犠牲が草を育てるのだ。パラノイアが伝染し、狂気にとり憑かれてゆく語り手。強迫観念に支配された文章の迫力に思わず息を飲む怪奇幻想短篇。
[収録作品]
『後に残してきた少女』(ミュリエル・スパーク)
『ミセス・ヴォードレーの旅行』(マーティン・アームストロング)
『羊歯』(W.F.ハーヴィー)
『パール・ボタンはどんなふうにさらわれたか』(キャサリン・マンスフィールド)
『決して』(H.E.ベイツ)
『八人の見えない日本人』(グレアム・グリーン)
『豚の島の女王』(ジャラルド・カーシュ))
『看板描きと水晶の魚』(マージョリー・ボウエン)
『ピム氏と聖なるパン』(T.F.ポウイス)
『羊飼いとその恋人』(エリザベス・グージ)
『聖エウダイモンとオレンジの樹』(ヴァーノン・リー)
『小さな吹雪の国の冒険』(F.アンスティー)
『コティヨン』(L.P.ハートリー)
『告知』(ニュージェント・バーカー)
『写真』(ナイジェル・ニール)
『殺人大将』(チャールズ・ディケンズ)
『ユグナンの妻』(M.P.シール)
『花よりもはかなく』(ロバート・エイクマン)
『河の音』(ジーン・リース)
『輝く草地』(アンナ・カヴァン)
『短篇小説論考』(西崎憲)